第7話 皇帝の寝室で反復横跳びするぞ<上>
さて、世の中には「眼福で目が潰れる」「光栄のあまり気絶する」という表現があるが、それはあくまで、旧封建社会上の常識と価値観を身に着けた人々の話である。
当代随一の権力者たる皇帝・景雲の召し出しを一蹴した凜華であったが、残念ながらこの世界の権力構造は個人の意志を無慈悲に踏みにじる。
凜華の両脇を抱え、文字通り「荷物」のように運んでいくのは宦官たちである。
「離してよ。蒸留するには火加減が大事なのに。薬液が全部蒸発したらどうするのよ!」
「知りませんよ。あなたさまを連れていかねば、こちらが火炙りにされて蒸発してしまう!」
絶叫する凜華に、李元が怒鳴り返す。
凜華は、なおもああだこうだと喚いて足で踏ん張ろうとする。
「こら、暴れないでください」
「帰してくれるなら暴れないよ」
「帰すわけがありますか。陛下のご命令ですぞ」
宦官の一人が、李元に振り返った。
「李中官、口に布を詰めたままの方がよかったのでは?」
李元は苦々しい顔で答えた。
「いや、窒息したら大ごとであるしな。今から御寝に侍るのだ。手荒な真似はするな。……それに今後のこともある」
李元の頭に、千が一、万が一の可能性が駆け巡る。
女の運命がどう転ぶのかわからないのが、後宮というところ。
元々、景雲は変わったところの多い主人。
身分も気にせず召し出すからには、凜華に並々ならぬ興味を持っているのは確かである。
もし凜華が皇帝に気に入られて寵姫にでもなれば、彼女は絶大な権力を持つことになる。
ここで下手に恨みを買って、後日「ねぇ~陛下。李元はムカつくから処刑して~」などとねだられでもしたら、万事休すである。
洒落ではなく、普通に死ぬ。むしろ凜華に恩を売るくらいの立ち回りをしなければ、などと考えている。
「まあ、見てくれは悪くないが……突出しているわけでもない。陛下も酔狂なことよ」
と、李元は暴れる凜華を見ながら独り言ちた。
確かに凜華の容貌は優れている。市井では、美女の評判を得るだろう。
が、元々、後宮の女は婢、下女に至るまで、若く見目のよい者が選別されて入ってくる。人材の仲買人も後宮が一番高く売れるので、美人が入荷すると真っ先に連れてくる。
外見至上主義が幅を効かせる魔窟なので、凜華程度の顔の女なら掃いて捨てるほどいた。
この程度であれば平凡な方よ、やはり一番美しいのは陛下。あれが女人であられたなら……と表には絶対出せない妄想をしてしまう李元であった。
喚きながら運ばれる凜華を、女官や小間使いの童女たちが遠巻きに見ている。
下女が引き立てられてゆくのは、別に珍しくない光景だった。
この女は、何らかの罪を犯し、これから罰を受けるのだろう。
にしては一団の行く先が、後宮の中心なのが気になったが……。
凜華は運ばれた先は、後宮の中央、皇帝の寝所がある「長楽殿」である。
御寝に侍る女は、この長楽殿に呼ばれて皇帝に仕えることになる。
景雲は自分の元へ連れてくるよう命じたが、一度後宮に納められた女は生涯外へは出られぬ運命。
外廷の清心殿へ連れていくわけにはいかない。とりあえず長楽殿に運んで、皇帝のお出ましを乞うしかない。
凜華は長楽殿の奥まった一室、皇帝の寝所に放り込まれた。
そこは、金銀と豪華な家具で飾り立てられた絢爛な空間……であったが、部屋に一歩入った瞬間、鼻がツンとした。
部屋の四隅には、黄金の香炉が設置されている。
ゆらゆらと白い煙が立ち込めており、部屋の奥が見通せないほどである。元々密閉度の高い部屋なのに、香を焚きすぎている。
凜華は、何度も盛大なくしゃみをした。
「何これ、換気悪すぎ。この部屋の二酸化炭素濃度はどうなってんのかしら。基準値を越えてそう」
肌に食い込んでは見栄えが悪いということで、腕を縛っていた縄がほどかれた。
逃げられないように、出入り口の前には宦官が立ち、蟻も逃さぬ構えである。
凜華は立ち上がるなり、鼻をつまんで窓を指差した。
「もうっ、なんなのここは。今すぐ窓を全開にして。あと、その香炉も片付けて。皇帝が眠れないのは、この劣悪な空気環境のせいじゃないの?」
今度は何を言い出すのかと、李元は気色ばんだ。
「なんと無礼な。ご寝所ならではこそ、最上の香を焚いておるのですぞ」
「だからそれがよくないんだってば。お香が頭痛の原因になってるって」
「いいえ、違います。あなたさまの言うことは聞けません。いいですか。陛下がいらしたら、一切逆らわずご意向に従うのです。元より、ここに長居をすることはありません。小半時(三十分)もすれば部屋に戻れます」
部下の宦官がえっと素っ頓狂な声をあげ、そっと耳打ちしてくる。
「小半時はさすがに短すぎるのでは? それでは陛下がまるで……」
李元は、慌てて言い直した。
「ま、まあ……房事であるから半時(一時間)はかかるでしょう。どちらにせよ、ここで夜を明かすことはありません」
後宮のしきたりとして、皇帝の御寝に侍った女が皇帝と共に朝を迎えることはない。
皇帝と同衾し、一緒に眠ることが許されるのは正妻である皇后だけだった。皇后以外の妃嬪、その他は夜伽が終わると、即刻自分の住まいに戻らなくてはならない。
現在、後宮に皇后は置かれていない。
これまでがそうであったように、凜華もことが済み次第、とっとと追い出されることだろう。
「恥じらうくらいならまだ可愛げがありますが、抵抗などは無駄の極みですぞ。ここでは一事が万事、諦めが肝心なのです。陛下にご満足いただけるよう、誠心誠意努めるのが御身のためです」
凜華は李元の説教にも、どこ吹く風である。
「そんなことはいいから、窓を開けてちょうだい。煙たくて仕方ないし。私の喉までおかしくなるじゃない」
「……あなたさまは喉以前に頭がおかしいのか。人の話を聞きなされ!」
「やだ。窓! 換気!」
「やかましい!」
二人が窓を開けろ開けないで言い争っていると、表が急に騒がしくなった。
「よい。そやつの言うとおり窓を開けよ」
低く、不機嫌を塗り固めたような声がして、開け放たれた扉から男が入って来た。景雲だった。
李元を含め、宦官たちはその場に慌てて跪いた。
景雲は、凜華に鋭い眼光を向けた。
皇帝を前にしても臆さず、突っ立ったままである。
相変わらず、敬意のけの字も感じられないのは業腹だが、寝所の香りなどは些末なことだった。
「窓を開けろ。香炉も下げろ。この女の言う通りにしてやれ」
宦官たちは困惑しながらも窓を開けた。
夜の冷たい風が流れ込み、澱んだ空気を一気に押し流した。
景雲は、醒めた笑みを浮かべた。
「多少寒くなってもよい。どうせすぐに温まる」
「……」
凜華は思わず身を固くした。
ゆらりと近づいてくる男は、実に優美でみやびやかで、そして不穏な気配がした。
「お前たちは下がれ。外から錠を降ろせ。私が呼ぶまでここへは近づくな」
はっ、と一同は礼をし、香炉を持ってそそくさと外へ出て行った。
皇帝のお楽しみを邪魔しては、どんな咎めを受けるかわからない。触らぬ神……もとい上司に祟りなし、である。




