第4話 とりあえず皇帝を倒しておこう<下>
凜華は、ずんずんと景雲に歩み寄り、顔を覗き込んだ。
「……あなた、ひどい顔ね」
「ひどい?」
自分の面貌は称賛されこそすれ、中傷されたことはない。
ひどいなんていう、ひどいことを言われたことのない景雲は仰天した。
「眼瞼結膜は充血してるし、瞳孔の反応も鈍い。顔の片側だけに汗をかいている……。あなた、夜は眠れてないんじゃない?」
夜どころか、朝も昼もいつだって眠れない。
「それは当たっている、が……」
「ただの不眠じゃなさそう。頭が痛まない?」
「痛い」
景雲は、そこは素直に認めた。
「群発頭痛かな? 別名、自殺頭痛。想像を絶する痛みが、決まった時間に来ているんじゃ?」
景雲は、息を呑んだ。脳内を、熱く焼けた錐で抉り回されるようなあの痛みを、この女は見抜いたのだ。
にしても、馴れ馴れしすぎやしないか。
彼はパッと顔を離した。
「お前のような下女に何がわかる」
「わかるわよ。私はやくざい……じゃなくて薬師だもの。今のあなたは重篤な頭痛持ち、慢性的な不眠症患者ってところ」
「無礼な……! 私を誰だと思っている!」
「皇帝陛下でしょう? 龍の刺繍を見ればわかるわよ。でも、私にとって患者に貴賎はないわ。痛みで頭が割れたくなければ、私の言うことを聞きなさい」
景雲は、怒るのを忘れて呆然とした。
この女、皇帝を一体なんだと思っているのか。
「……いい? あなたの鼻腔から、この薬を吸わせるわ。これは漢方の『酸棗仁』に似た薬湯をベースにして、神経を鎮める揮発性成分を濃縮したものよ。漢方と抽出技術の結晶、名付けて『凜華式・速攻スリープ薬油』」
「そんな怪しげなものを、私が吸うと思う――」
景雲が言いかけた瞬間、凜華は自作の噴霧器(細い竹筒を加工したもの)を、皇帝の鼻先に突きつけた。
「吸え!」
「ええっ……?」
患者の了承を得ない医療行為はただの暴行であるが、そんなことは気にしない。
シュッと甘く、それでいて鼻にツンと抜ける不思議な香りが、景雲の肺を満たした。
同時に、凜華は景雲の背後に回り込み、彼のうなじの付け根にあるツボ「安眠」と「天柱」を親指で強く押した。
「ぐ……ああぁっ? な、何を……!」
「黙って。脳への血流をコントロールしているの。深呼吸して、三、二、一……」
「やめろ、私に触るな……」
景雲は、拒絶の言葉を吐こうとした。
だが、その言葉が口から出る前に、奇妙な変化が訪れた。
脳の奥で、暴れ狂っていた痛みが、ふっと熱を失ったのである。
視界を覆っていた赤い霧が晴れ、代わりに深く涼やかな静寂が、全身に染み渡っていく。
「……あ……れ?」
膝の力が抜けた。
景雲の身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
凜華は、それを支えるでもなく、冷静に自分の作業机を指さした。
「そこ、掃除したばかりだから綺麗よ。横になるといいわ」
「お前……これ、は……」
景雲は、さらに何か言いかけたが、まぶたが鉄の扉のように重い。
数年ぶりに訪れた、抗い難いほどの「眠気」。
彼は、凜華の足元に転がるようにして、泥のように深い眠りへと落ちていった。
――数時間後。
冷たい床の上(と言っても、凜華が磨き上げたのでピカピカである)で、皇帝・景雲は目を覚ました。
「私は何を……どうして? 夢か?」
身体が軽い。頭を支配していた、あの不快な重圧が完全に消失している。
起き上がると、目の前には、細い竹筒や小瓶を振り回している凜華の背中があった。
景雲に気がつくと、振り返って言った。
「起きた? ちょうど三時間くらいね。レム睡眠とノンレム睡眠の一サイクル。いいかんじじゃない?」
「何がいいかんじなのだ、何が。お前の話はさっぱりわからん」
わけがわからないまま景雲は、自分の手を凝視した。震えていない。視界もクリアだ。世界が、鮮明に見える。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
凜華の肩を掴むと、彼女を自分の方へ向かせた。
「……お前」
「何よ。お礼したいなら、物品の方がいいわ。とりあえず市場で手に入る薬草一式が欲しいな」
だが、景雲が口にしたのは、そんな世俗的な要求への回答ではなかった。
彼は、血色の戻った顔になんとも形容し難い、ゾッとするほどの妖艶な笑みを浮かべた。
「お前は……天が私に遣わした薬、珍奇な妙薬だ」
「……はい? 頭でも打ったの?」
「決めたぞ。お前を正式に後宮に納める。なんなら今からでも枕席に侍れ」
不眠が解消して元気になった途端、景雲は夜の方も頑張れるような気がした。
下心があってというよりは、単純に目の前の娘に褒美を与えようと考えたのである。
「えっ、嫌です」
凜華は、一秒の迷いもなく即答した。
は? と景雲は気の抜けた声を出した。彼の辞書に「拒否」などという文字はなかった。
「……嫌? それはどういう意味だ」
「否。拒否。断る。言葉は大体同じと思ってたけど違うの?」
「なぜだ。ここは後宮だぞ。私の庭であり、お前はここの下女だろう」
「下女だけど、私は薬師だし、研究者なの。病気は治してあげるけれど、夜のお相手はしません。……さあ、起きたら帰った帰った。次のロットの蒸留が始まるんだから」
皇帝に向かって「帰れ」と言い放ち、再び背を向ける。
景雲は、一瞬だけ呆気に取られたが、すぐに腹の底から突き上げるような笑い声を上げた。
「ハハハ! 面白い! 実に面白い! 鬱屈した眠りから覚めたら、こんなに痛快な気分になるとはな」
彼は、凜華の細い腰を後ろから強引に抱きしめた。
凜華はヒイッと叫び、バタバタと暴れた。
「ひゃっ? 何すんの。ちょっと、離しなさいよ、このバカ皇帝!」
「断る。お前が私の病を治したのだ。ならば、お前が責任を取れ」
「何の責任よ」
「決めたぞ。お前が拒めば拒むほど、私はお前を追い詰めてやる。お前のその生意気な唇が、薬の名前ではなく、夜ごと私を求めるまでな」
「……最悪だわ。患者が意味不明な『躁状態』に移行しちゃったじゃない」
凜華は、天を仰いだ。
薬学の天才・凜華と、躁状態に移行したかもしれない皇帝・景雲。
二人の、薬学と愛憎が入り乱れる「じれったい日々」の火蓋が、盛大に切って落とされたのである。




