第3話 とりあえず皇帝を倒しておこう<上>
さて、この国の主、皇帝・景雲について語らねばなるまい。
外廷の中心、黄金色の瓦が燦然と輝く「清心殿」では、一人の男が死ぬほど不機嫌な面持ちで玉座に腰かけていた。
天子、龍の化身、万物の主――。
そんな仰々しい肩書きを背負わされている彼は、本来ならば当代随一の美男子として、国じゅうの女を「もぉ、無理ィ……尊すぎてマジ尊死する」などとのたまわせながら卒倒させてしまう、歩く女殺し的な存在であった。
大理石から切り出したような白く冴えた面貌、切れ長の涼やかな瞳、彫刻のような鼻梁と唇、贅肉など一片もついていないしなやかな肢体。
その美貌と総身は「天上の星が地に落ちた」と謳われるほどである。だが今、その星はひどい隈を目の下に作り、偏頭痛という名の暗雲に覆われている。
原因は、シンプルかつ深刻な不眠である。
三日三晩、一睡もできないのは当たり前。
酷い時は一週間もの間、眠れないこともある。
眠れぬ夜、彼は何をするか。
月の下で奇声をあげながら猛烈に剣を振り回し、あるいは深夜の廊下を延々と徘徊しては、不運にも出くわした官吏に「『何も考えるな』と言われて、本当に何も考えなかったとしたら『何も考えない』という決断を下したのは誰なのだ? 答えよ」
と哲学的な難問を突きつけては震え上がらせる。
端的に言って、すこぶる迷惑な上司であった。
今日も今日とて、景雲は血走った眼で玉座に座り、こめかみを押さえていた。
「……頭が痛い。割れるように痛い。いっそこの頭蓋骨を叩き割って、中の脳味噌を冷水で洗ってこねてやりたいくらいだ」
廷臣たちは口を揃えて「大気の気の乱れ」「龍神さまのお怒り」「祈祷ですじゃ」などと適当なことを抜かすが、景雲に言わせればそんなものは糞食らえである。
「陛下、これを」
太医(宮廷医師)がうやうやしく差し出したのは、朱色の盆に乗った「酸棗仁湯」。
不眠には効くはずの薬だが、景雲の過敏になった神経には、その独特の生薬臭すらも「不快な暴力」にしか感じられない。
「……いらぬ。その泥水のような薬、二度と余の視界に入れるな」
景雲は、震えながら平伏する太医を冷たく一瞥した。
「陛下、どうか……。これをお飲みにならねば、政務に障ります」
「黙れ。頭が割れるようだ。この世のすべての音が、余の脳を針で刺しに来る。……退屈だ。死ぬほど退屈で、死ぬほど痛い」
廷臣たちは、逆鱗に触れては命をなくすとばかりに、なすすべもなくかしこまるばかりである。
そこへ、宦官が報告に現れた。
「陛下。例の、洗滌局に現れた『掃除の鬼』の件ですが……」
「ああ、あの床を鏡のように磨き上げ、後宮中のカビを絶滅させようとしているという、妙な女か」
「はい。今度は何やら異臭のする煙をモクモクと立てて、奇妙な『水』を抽出しているとかで……」
景雲は、わずかに眉を動かした。
「面白い。その女、もしや毒薬でも作っているのではないか。もしそうなら、私に飲ませろ。それで永遠の安息に浸れるのであれば重畳」
「へ、陛下。ご乱心なさいますな!」
こうしてその夜、眠れぬ皇帝・景雲は、護衛も連れずに(伴うのが面倒だったからだが)ふらりと洗滌局へ向かったのである。
――一方、その頃。
凜華は、昼間は掃除や洗濯等で働き、夜は後宮内を歩き回って薬草の採取にせいを出していた。
といっても、彼女が動き回れるのは洗滌局の周囲と隣接する薄暗い林や沼地くらいのものだったが。狭い範囲であっても、薬にできそうな草花や苔はそれなりにとれた。
彼女の手にかかれば、そこらへんに生えている雑草も立派な薬へと昇華する。下女たちの間では、凜華は「洗濯場の薬師さま」として密かに崇められる存在になりつつあった。
彼女の野望は薬草の煮出しだけにとどまらない。
「……生薬を煮出すだけじゃ、薬理効果の限界がある。精油を取り出すための蒸留装置が欲しいところだわ」
凜華は、水蒸気蒸留法で精油を作ることにした。
まず後宮のごみ置き場から、青銅製の古壺や細い銅管を回収した。
薬液を入れた古壺の上部を粘土で目貼りし、隙間から銅管を差し込む。
古壺を竈の火で熱する。銅管の先は水桶をくぐらせる。
熱された薬液の蒸気が銅管を通り、水で冷却されて蒸留水となる。
「よし、これで簡易式の蒸留器の完成。あとは……あの芳しい『薫衣草』……ラベンダーに似たあの子を使えば」
彼女が作ろうとしているのは、単なる飲み薬ではない。
嗅覚から神経系を鎮静化させる「芳香療法」で使う精油であった。
――夜。
凜華は、宮女たちが住まう住居房の一室で、調理用の竈の上に組んだ即席の蒸留装置を凝視していた。
「……よし、温度管理はおおむね良好。抽出されるエッセンシャルオイル、すなわち精油成分がうまくとれれば……」
彼女が作っているのは、ラベンダーに似た芳香を持つ薫衣草と、鎮静作用のある数種類の草根木皮をブレンドしたハイブリッド鎮静薬である。
「よし、抽出完了。純度九十パーセント以上の精油ね。これにエタノール……強めの蒸留酒を混ぜれば、即席のアロマコロンの出来上がり」
凜華は、精油に蒸留酒を混ぜると満足げに小瓶を振った。
その時、背後でパキリ、と乾いた枝の折れる音がした。
部屋に誰か入って来た。
「貴様。何をしている」
低く、玲瓏な声。
凜華が振り返ると、豪華絢爛な龍の刺繍が入った長袍を纏った、この世のものとは思えないほど美しい男が立っていた。
景雲である。
通常、後宮の女ならここで腰を抜かして平伏する。
だが、凜華は蒸留器の火加減を調整しながら、男をチラリと一瞥しただけであった。
「……あ。患者さん?」
それが凜華の第一声だった。
「患者……だと?」
景雲は不遜な態度に、呆気に取られた。
「ええ、そうよ。あなた以外に誰がいるの。ほら、もっとこっちに来て顔を見せて。そこに立って」
「……な、なんだと?」
景雲は面食らった。
皇帝である自分に対して「そこに立て」と言い放つ女など、世界のどこを探してもいない……はずだった。




