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ワーホリ後宮薬師は変人皇帝に溺愛されたくない   作者: kiyoaki


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第2話 後宮を丸洗いするぞ

 さて、華々しき「後宮」という響きに、世の殿方や夢見がちな乙女たちが抱くイメージとはいかなるものか。

 極彩色の絹を纏った美女たちが、香を焚き、歌を詠み、皇帝の寵愛を巡って研を競う――。

 なるほど、それは一つの真実であろう。

 だが凜華という名の、異世界からやってきた「創薬オタク」の眼を通せば、その景色は一変する。

 彼女にとって、そこは「煌びやかな楽園」ではなかった。

 ただの「巨大な雑菌の培養皿」であったのだ。


「……ありえないわ。正気の沙汰じゃない」


 後宮の北東の端、下働きの宮女たちが押し込められる「洗滌局(せんじょうきょく)

 ――要するに洗濯場兼雑用係の詰め所に放り込まれた凜華は、その場に立ち尽くしていた。


 案内した宦官(去勢された役人である。凜華に言わせれば『ホルモンバランスの崩壊した男たち』)は、彼女の絶望的な表情を見て、鼻で笑った。

「なんだ、新入り。ここが不服か? 出世したければ、まずはここで埃にまみれて働くこった」

「不服とか、そういう情緒的な話をしているんじゃないのよ。この環境、公衆衛生学的に見て、死人が出ていないのが奇跡だと言っているの」


 凜華は、煤けた壁の隅を指さした。

「見て。あの黒カビのコロニー。あれ、下手をすればアスペルギルス属の真菌よ。胞子が舞い放題だし。それから、この水桶。なぜ食器を洗う場所と、泥のついた靴を洗う場所が三十センチしか離れていないの? 交差汚染って言葉、この世界の辞書にはないのかしら」

「コウサ……オセン? 何をわけのわからぬことを。さあ、さっさと着替えろ。今日からお前は、後宮中の布物を洗うんだ」


 宦官は面倒そうに言い残して去っていった。

 残されたのは、制服らしき綿衣に着替えた凜華と、彼女と同様に売られた数人の少女たち。

 そして、山積みにされた悪臭を放つ大量の洗濯物であった。

 少女たちは、不安からシクシクと泣き始めた。

「私たち、一生ここから出られないのね……」

 だが、凜華は違った。

 彼女の瞳には絶望ではなく、ある種の「使命感」……研究職特有の「実験器具が汚れているのは我慢できない」というこだわりと、清潔な環境を作るという決意がみなぎっていた。

「いいわ。やってやろうじゃない。まずはこの不潔な『培養皿』を滅菌するところから」

 凜華は、詰め所を飛び出した。

 彼女が向かったのは、洗濯場ではなく、その隣にある厨房のゴミ捨て場、もとい「灰捨て場」であった。


「おい、新入り! 何をしている。洗濯場はこっちだぞ」

 背後で古参の宮女が怒鳴っているが、凜華は無視した。

 彼女は、竈から掻き出されたばかりの「木灰」を、桶一杯に詰め込んで戻ってきた。

「ねえ、あなた。何をするつもりなの……?」

 泣いていた少女の一人が、不思議そうに尋ねる。

 凜華は、灰に水を注ぎ、かき混ぜながら言った。

「いい? 汚れを落とすには、化学の力が一番なのよ。木灰を水に溶かせば、炭酸カリウムが溶け出して、強いアルカリ性の溶液ができる。これが皮脂汚れを鹸化(けんか)し、タンパク質を分解する。つまり、天然成分の洗剤になるわけ」

「ケンカ……? タンパク……?」

「要するに、ただの水で洗うより百倍綺麗になるってこと。それから、和美(かずみ)君――ああ、こっちの世界にはいないけど、私の元彼で外科医やってるのがいてね」

「モトカレ? ゲカイ?」

「彼が言っていたわ。『不潔な環境に住まう不潔な奴は殺人犯と同じ』ってね。今の私たちは、病原菌という名の暗殺者に包囲されているのと一緒よ」

 凜華は、灰汁(あく)の上澄み液を手に取り、それを床や壁、そして洗濯桶にぶちまけ始めた。


 そこからの凜華の働きは、まさに「疾風」であった。

 彼女は、厨房からくすねてきた古い布を、即席の雑巾に仕立てた。

 腰を落とし、現代の日本の部活動における「雑巾がけ」を彷彿とさせる猛スピードで、廊下を、床を拭いて拭いて拭きまくる。磨き上げる。

「ちょっとあんた! 何をしてるのよ!」

 宮女たちが飛んできて、床を掃除する凜華を止めようとするが、やめろと言われてやめる女ではない。

「うるさいわね、どいて! そこ、バイオフィルムが形成されているわよ! ヌメりは細菌の温床なの! 全部除去しないと」

「ば、ばいお?」

 凜華の叫びは、この世界の住人にとって理解不能な呪文か狂人のたわ言であった。

「こ、この娘……狂っているのか?」

 と、みなは顔を見合わせてドン引きした。

 しかし、床磨きの効果は素晴らしかった。

 彼女が通り過ぎた後には、長年の煤と油で黒ずんでいた床が、驚くほど鮮やかな木の節を見せ始めたのである。


 さらに、彼女は洗濯物の処理にも革命を起こした。

 ただ水で叩き洗いするだけの宮女たちを尻目に、凜華は「熱湯消毒」を導入した。

 大きな釜に湯を沸かし、そこに灰汁の洗剤を投入。

 汚れた布を次々に放り込み、煮洗いを始めたのである。

「熱い! こんなことしたら、布が傷むわよ!」

「傷むのが先か、あんたが病気になるのが先か賭けてみる? 衣類の汚れの中にはね、ダニやノミの卵、それに病原性の真菌が潜んでいるの。煮沸こそが、この時代における最強の消毒!」


 凜華は、もうもうと立ち込める湯気の中に顔を突っ込み、「うおおおお!」と特に意味のない奇声をあげながら、棒で洗濯物をかき回した。

 その姿は、元エリート研究員というよりは、地獄の釜を管理する狂った鬼のようであったが、その顔はこれ以上なく活き活きとしていた。


 ――数時間後。

 そこは、かつての「汚物の掃き溜め」のような洗滌局ではなくなっていた。

 床は磨き上げられて光を反射し、カビの匂いが消え、代わりに熱湯と灰汁がもたらす清潔な香りが漂っていた。

 山積みにされていた洗濯物は、真っ白に洗い上げられて干されている。

「……すご……い。服ってこんなに白かったのね」

 少女たちが、風にはためく衣類を呆然と見つめる。


 そこへ、先ほどの宦官が様子を見に戻ってきた。

「おい、サボってないだろうな……。って、なんだこれは。ま、眩しい! 何をどうしたら床がこんなに光るんだ」

「清掃と消毒、そして若干の化学反応の結果です」

 凜華は汗を拭いながら、不敵に微笑んだ。

 その手は、アルカリの作用で少し赤くなっていたが、気にする素振りもない。

 むしろ、頭の中で「次は尿素を抽出して、ハンドクリームを作ろう」などと、さらなる化学実験の計画を立てていた。


 宦官が、警戒と感心が混ざったような目で凜華を見る。

「お前……ただの宮女じゃないな?」

「よくぞ聞いてくれました。私はね、清潔好きな……えっと、なんだろ」

「なんなんだ」

「あ~まあいうなれば……薬師みたいなもんです」

 医師免許は持ってないけどね、と凜華は内心呟く。

「薬師? 女が薬師……?」

「私の故郷では、女性も薬師になれるんですよ」

「信じられん。産婆ならともかく女が薬師……」

 宦官は茫然とした。

「さて、環境は整ったわ。次は……ここの食事と水質をチェックさせてもらおうかな。この分だと栄養失調と食中毒の予備軍が大勢いそう」

「おい。何勝手なことを言ってるんだ。お前の仕事は洗濯だと言っただろう」

 凜華は腰に両手を当てると、胸を張って仁王立ちした。

「ええ、洗濯ですよぉ! この汚れまくった『後宮』そのものを丸洗いしてあげるわ」

 豪快に言い放つ凜華の背後で、奇跡が起きた。

 まるで門出を祝福するように、雲の切れ間から一条の光が差し込み、彼女を明るく照らし出したのである。

 これから始まる「ぶっとび薬師」による後宮大改革の、輝かしい幕開けのようでもあった。


 だが、この時、凜華はまだ知らなかった。

 彼女が引き起こしたこの「消毒騒動」の噂が、超然の美貌と、それを台無しにする奇人変人ぶりで知られた男の耳に届こうとしていることを。

 その男こそ、この国の主にして、皇帝の景雲(けいうん)であった。


「ほう、面白い女がいるものだ」

 外廷の奥深くで、書類を放り出した皇帝が冷ややかに笑う。顔は不健康に青白く、目は充血して赤い。

「私の庭を荒らす……ではなく、勝手に掃除する無礼者か。また珍妙なのが入って来たな」


 運命の歯車が、石鹸の泡と共に、勢いよく回り始めたのである。


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