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ワーホリ後宮薬師は変人皇帝に溺愛されたくない   作者: kiyoaki
第二部

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第120話 聖アントニウスの火と皇后の黒い粉<七>

 絃楠も床下を覗き込んだ。

「ここは、もしや食料貯蔵庫だったのでしょうか」

「麦や粟をわざわざ床下には入れないと思う。ここで麦角菌を栽培していたんじゃないかな。ちょっと信じがたいけど」

 自然発生したものではない。誰かが、この猛毒の菌核を意図的に集めて床下に置いたとしか思えない。


 絃楠はぎょっとして凜華を見た。

「栽培? こんなものをわざわざ?」

「そう、毒なんだけどね」

 そこで、凜華は麦角菌の恐るべき特徴を思い出した。

「……まさか」

「どうしたのです」凜華につられたように、絃楠の顔も険しくなる、

「聞いた時は半信半疑だったけど。趙皇后が餓死させられたっていうのは本当なのかも」

 凜華の脳内には、冷宮に幽閉され絶望の中で死んでいったとされる趙皇后の悲惨な生活ぶりが浮かんだ。

 彼女に与えられる食事は、おそらくは家畜の餌にもならない粗悪な麦や粟だった。中には腐ったものもあったかもしれない。食べたら当然身体を壊す。通常であれば見向きもせず捨てるものだが、そんなものを食べざるをえないほどに追い詰められていたとしたら……。

 その劣悪な環境が、恐るべき猛毒を誕生させる。


「麦角菌に含まれるエルゴタミンには、強烈な食欲減退効果があるの。運び込まれた穀物にカビが生えて……最初は偶然だったんだろうけど、趙皇后は麦角菌の効果に気づいてしまった。このカビを食べればお腹が空かないし、気分がよくなると」

「気分がよくなるとは……?」

「麦角菌は麻薬にもなる。皇后は飢餓の苦しみを紛らわせるために、麦や粟の穂を湿度の高いところに移して麦角菌を栽培するようになった。自らこの毒を摂取して、空腹を麻痺させていたのよ」


 麦角菌に含まれるリゼルグ酸誘導体は、違法薬物であり精神疾患の薬としても研究が進んでいるLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)の原料でもある。リゼルグ酸誘導体は、摂取した者に多幸感に満ちた幻覚を見せる。

 趙皇后は麦角菌を自ら口にし、息絶えるその瞬間まで「美食にあふれた豪華な饗宴」の幻覚に溺れたのかもしれなかった。


「崩れた外壁の奥に、この粉が隠してあった。なぜそんなところに置いたのかはわからないけど……」

 絃楠は少しの間考え、それから恐る恐る言った。

「いずれ何かに使うつもりだったのでしょうか。例えば、自分をここに閉じ込めた者たちへの復讐のため……とか」

「どうだろうね。もう末期は麦角中毒で廃人だっただろうし。飢餓と狂気と手足が腐る苦しみで、正常な思考なんてできなかったと思う。特に意味もなく塀に粉を詰めていてもおかしくはないよ」

 目的があって粉を溜め込んだとしても、皇后に使う機会は訪れなかった。彼女は孤独と狂乱の中で世を去った。

 残されたのは、石壁の中に詰め込まれた麦角の塊だけ。

 それが二十年以上経ってから、毒として拡散してしまったのだ。


 凜華は大きく息を吐いた。

「名門貴族の生まれで皇后にまでなったのに……最後は麦角菌まで口にして餓死。腐った麦や粟なんて見たこともなかっただろうにね」

「本当に……むごいことです」

 絃楠は沈鬱な表情で俯いた。

 趙皇后を廃し、死に追いやったのは他ならぬ先帝であり、先帝は彼の主人でもある。

「ですが、驚きはありません。先帝陛下はそういうお方でした」

「趙皇后に食事を与えず、虐待するよう命じたのも先帝なのかな」

「それはわかりませんが……」

 かつて冷宮で起きた飢餓と地獄のような日々。想像するだけで気分が悪くなりそうだが……。

 凜華は悪い気を振り払うように、すっくと立ち上がった。

「寿寿を連れて来なくてよかった。あの子は人一倍怖がりだから……こんなのを見たら寿命が縮んでしまう。先春殿の事件もだいぶ堪えていたもの」

「はい、そう思います。寿寿さんには(こく)すぎる」絃楠が同意する。

 床下の黒い塊は、まるでそれ自体が意思を持つ生き物のように鈍い光を放っている。


「とにかくこれは処分しなくちゃ」

 凜華は毒物を処理するため、薬箱から麻布を取り出して広げた。

 床下から黒い麦角の塊をすべて取り出すと布で包んだ。

 二人は庭に出て、外壁に溜まっていた黒い粉も回収し、これも布で厳重に包み込んだ。

「よし、撤収よ。こんな胞子だらけのところに長居したら、私たちの肺まで汚染されてしまうわ」

 包みを持つと、二人は冷宮の外へ出た。


 凜華は外で待機していた宦官たちに、深い穴を掘るよう命じた。

 宦官たちは、言われた通りにせっせと穴を掘った。

 絃楠が穴の底に、麦角菌の塊をドサリと落とす。

 現代であれば、穀物に麦角菌が発生した場合は高温で焼却処分になるのだが……。

「本当は、八百度以上の超高温焼却炉で灰にするのが一番なんだけどね。中途半端な熱で燃やしたら、煙に乗ってまた毒の粉が拡散しちゃうし」

 では燃やさずに処分するにはどうしたらいいのか。

 凜華が用意させたのは、大量の「生石灰」と「水」であった。

 穴の底の麦角菌に白い生石灰がたっぷりと振りかけられ、その上から大量の水が注ぎ込まれる。

 次の瞬間、シュウウウウッという凄まじい沸騰音とともに、猛烈な白煙と高熱が噴き上がった。

 生石灰が水と反応して消石灰(水酸化カルシウム)へと変化する際の「水和熱」である。その温度は摂氏百度を優に超え、さらに生成された強アルカリが麦角菌の強力な毒素を破壊する。

 土を被せられて埋められた穴を見下ろし、凜華はホッと息をついた。

「これにて、消毒・殺菌の完了よ」

 こうして、急性アルカロイド中毒の原因であった麦角菌は完全に処分され、冷宮の門は再び厳重に閉鎖された。もうあの不気味な「月の女神の宴」が開かれることはないだろう。

 だが、すべてがすっきりと解決したわけではない。

 凜華の脳裏には、誰かが冷宮の内部にいた痕跡が小さなトゲのように引っかかっていた。


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