第10話 お妃さまからプレゼント(毒)が来たんだけど<一>
さて、情報の伝達速度というものは、時として光速をも凌駕する。
特に高い塀に囲まれ、娯楽に飢えた数千人の女たちがひしめき合う後宮という閉鎖空間においては、朝方に起きた「ちょっとした事件」が、昼下がりには「神聖なる建国神話の本伝だか外伝」へと変貌を遂げているなどザラにある。
凜華は本人が知らぬ間に、一躍時の人となっていた。
「聞いた? あの洗濯場の新入りが目から怪しい光を放って陛下を眠らせたらしいわ」
「私の聞いた話じゃ、巨大な土鍋で皇帝陛下を煮込んで、若返りの出汁を取ったとか……」
「いやいや、異国のいかがわしい踊りを踊って陛下をたぶらかし、催淫剤入りの茶を呑ませて一晩中その精を搾りたてまつったとか……」
尾ひれどころか、背びれや胸びれまでついた噂が後宮じゅうを飛び交う中、凜華は朝方になってようやく皇帝の寝所を出ることができた。
自室に戻れないので、仕方なく景雲の寝台の近くに蹲って眠った。
夜明けごろ、景雲が目を覚ますやいなや、彼が寝ぼけているうちに
「起きた? じゃあ帰るからね。下がってオッケー? あ~オッケーね。わかった。じゃ!」
とまくし立て、目にも止まらぬ速さで部屋を飛び出したのだった。ついでに余った茶葉や酸棗仁、龍眼肉の入った包みもかっぱらった。
景雲が身を起こした時には、凜華の姿は消えていた。
夜が明けたら明けたで、診察だの朝餉だのと理由をつけて伺候させようと思っていた彼は「……は?」と呟き、開け放たれた扉をぼんやりと眺めたのだった。
凜華が洗滌局の住居房へ戻ってくると、自室の前には寿寿が立っていた。
彼女は凜華の姿を認めると駆け寄って来た。
「ああ、凜華さん。無事だったのね。よかったあ!」
昨夜、凜華が拉致されてからは、恐ろしさのあまりろくに眠れなかった寿寿である。
てっきり仕置きを受ける懲罰房へ連れていかれたのかと思いきや、なぜか皇帝が起居する寝宮、長楽殿へ行ったようで……さらに目撃者の話だと皇帝の寝所に放り込まれたらしい。
そして、昨夜は皇帝陛下のお渡りがあった。
長楽殿の周囲は華やぎ、夜遅くまで騒がしかったようだ。
つまり……これは、あれがそういうことになったわけで……。
経緯は謎ながら、凜華は皇帝のお手がついたことになる。
入ったばかりの洗濯女が皇帝に見初められ寵愛を受けるとは、後宮ドリームもいいところである。
はしたないかも……と思いつつも、寿寿は尋ねずにはいられなかった。
「凜華さん、その……身体は大丈夫なの?」
「ん、なんともないよ。疲れはしたけど」
「だって夜のお召しだったんでしょ。初めての時は……その……とても痛いって聞くし」
「別に痛いことはなかったよ。縛られた腕が痺れたくらい?」
「そうなの? 皇帝陛下はお優しかった?」
うーんと唸り、凜華は首を横に振った。
「お世辞にも優しい人ではないわね。不眠症による躁鬱の影響もありそうだけど、気性は激しい方だと思う。結局、一晩中留められちゃったし。おかげでこっちが寝不足……」
ふわあ……と凜華は大あくびをした。
寿寿は顔を真っ赤にした。
「き、気性の激しい陛下に一晩中……? 寝かせてもらえなかったんだ……」
皇帝は龍の化身。深淵より出でて天に昇る。
そりゃあ、夜のあれこれも凡百の凡夫とは違うだろうが、初夜としてはちょっと過酷すぎやしないだろうか……。
凜華は昨夜のことを思い出しながら、ぼやいた。
「ほんと寝顔は無垢そのものに美しいのにね」
「ええっ? 初めての夜なのに、陛下は寝顔をお見せになったの? し、親密すぎる……」
これはとんでもないことになったかも……と寿寿は震えた。
凜華はすでに皇帝の想い者。いずれは妃になるかもしれない身。自分なぞが、気軽に口を利いてよいものだろうか。
ふと辺りを見渡すと、どの部屋も扉が薄く開き、同僚の下女たちが顔を覗かせている。
皇帝のお召しを受けて朝帰りした凜華をじろじろと見、ひと言も聞き漏らすまいと聞き耳を立てていた。
もちろん誤解にあふれるこの会話は、光ファイバーも真っ青な速さで広まってしまった。
当然のことながら、凜華のことは後宮に住まう景雲の妃たちの耳にも届いた。
「なんとしたこと。よりにもよって、陛下は卑しい洗濯女ごときにお情けをかけられたのか」
扇を持つ手をわなわなと震わせ、怒り心頭なのは先春殿に住まう梅妃である。
梅は「百花の魁」であり、真っ先に春を告げる花であることから、この殿舎に住まう妃は梅妃と呼ばれる。
現在の梅妃は、名門貴族である蕭家の出身で、名前を三娘という。貴族の姫であっても、親や保護者が名付けに関心がないと数字で呼ばれてしまうのだった。
梅妃は入宮して六年、景雲の妃の中では古参の方である。
景雲より二つ年上で、美女のインフレが激しすぎる後宮においても、上位に入る美貌の持ち主であった。
しかし、今現在の彼女の顔色はすぐれず、白磁の肌も灰色にくすんで見える。
景雲も朴念仁ではないので後宮で夜を過ごすこともあるが、特に寵愛している妃はいなかった。
彼は常に恬淡として冷たく、女たちに胸襟を開くこともなかった。
というか、自分の妃が一体何人いるのかも把握していない。基本的に興味がないのである。
これまで懐妊した者はおらず、子供もいないため、妃たちは張り合いようがない状態にあった。
きっと陛下は女人がお好きではないのだ、それに私は歳上なのだし……と梅妃は自身を慰め、悶々とした日々を送っていた。
そこに降って涌いたボウフラのような……いや、突然隕石のように落下してきて、後宮の秩序を破壊せんとする洗濯女の出現である。
梅妃の耳に届くころには、凜華は
「意味不明な異国の言葉を操り、すでに男を知っている自称薬師のアバズレが、陛下の前で全裸になって卑猥な踊りを踊って誘惑し、あやしげな媚薬を飲ませて陛下を昂ぶらせ、一晩中乱行の限りを尽くして共に朝を迎えた挙句、夜伽の褒美をねだって薬師房の薬を下賜された」
というとんでもない悪女になっていた。
梅妃は、ああと大仰に嘆き、悔しそうに唇を噛みしめた。
「かの者は、言葉すら不自由な異郷の女というではないか。しかも非処子。それだけでも大変な不敬であるのに、陛下をたぶらかしたてまつり……あまつさえ同衾まで許されるとは前代未聞じゃ。これは妖しげな術を用いて陛下を惑わしたに相違ない。あれは魔性の女。魔女じゃ!」
何より許せないのは、凜華が皇帝の寝所で夜を明かしたことだった。
これが皇后であるなら「まあ、皇后だからしゃーない」で終わるが、まさか下女が許されるとは……凜華のあまりの愛されぶりに、熱い嫉妬を禁じえない。
名門出身の自分でも、一度として許されたことはないのに……と思うと、屈辱のあまり奈落の底へ落ちてゆくようだった。
「……許せぬ。下女風情が、陛下を占めるなど断じて許されぬ」
涙目になり、興奮に声を上擦らせる梅妃に、腹心の侍女が囁く。
「梅妃さま、私に妙案がございます。出どころを隠し、その下女に高価な物品を賜りませ」
「物品を? なぜじゃ?」
「なんといってもかの者は下賤の出。高価なものには、喜んで飛びつくに違いありません……。そこに……」
こうして先春殿では、密かに悪だくみが進行することになったのだった。




