第1話 専門が漢方薬学でよかった
さて、物語というものは、大抵において唐突な幕開けを好むものである。
ましてや、それが「人生の終焉」と「異世界への転生」をセットにした、歳末大安売りスペシャルご奉仕品のような事態であればなおさらだ。
蒲生凛華にとって、それは製薬会社の研究室で新型抽出機の気圧弁がぶっとんだ瞬間であった。
大学時代は常に成績トップで卒業時は総代、漢方薬学科の教授陣からは「薬草集めの狂人」と恐れられ、就職先の大手製薬会社では、最新の分子生物学と漢方薬学をチャッチャと掛け合わせ、次々に新薬を世に送り出すという、まさに歩く製薬プラントのような女であったのだ。
創薬研究に心血を注いできた彼女は、その日、生薬の有効成分を極限まで高める実験の最中であった。
「あっ、これ……アスコルビン酸の配合比率間違えたかな」
などという場違いな反省が、彼女の現世における最後の思考となった。
「あっ」と思った時には、視界は真っ白。
凜華の意識は、分子レベルにまで分解され、時空の裂け目へと吸い込まれていった。
次に彼女が意識を取り戻した時、最初に感じたのは、感動的な「神の啓示」でもなければ、愛しい人の呼ぶ声でもなかった。
凄まじいまでの「臭気」であった。
とにかく臭い。腐った食べものと人間のすえた体臭と、家畜の排泄物の匂いが混ざっている。
しょっぱなからバイオハザードの気配しかしない。
凜華は、重い瞼をこじ開けた。
視界に飛び込んできたのは、古びた木の格子。
そして、その向こう側に広がる、雑然とした街の風景。
「お、おい。目覚めたか、極上品」
ガラガラと耳障りな声がした。
見れば、そこには「これぞ悪党」という見本のような面構えの髭面の男が立っている。服装は、古代中国における下層民が着るような薄汚れた袍を纏っていた。
「……」
凜華は、冷静であった。
研究者という生き物は、未知の事象に直面した際、パニックに陥る前にまず「観察」と「分析」を行う習性がある。
まず、彼女は自分の身体を検分した。
手が小さい。指先は白く、タコ一つない。
年齢は……十代後半といったところか。栄養状態は悪くないけれど、この手足の湿疹はビタミンB群の不足……と思われる。
服は一応にも絹……? ボロボロではあるが、織りは精緻である。
次に周囲を確認した。
自分は檻の中にいる。隣には同じような年頃の少女たちが数人、魂が抜けたような顔で座り込んでいる。
外は……市場のよう。
看板の文字は漢字に似ているけれど、微妙に違う。おそらくここは日本ではない。地球ですらない可能性もある。
最後に現状を総括する。
状況から推測するに、これは所謂「異世界転生」というもののようだ。
しかも、たぶん人身売買の真っ最中。最悪すぎる。
現代日本から異世界に来てしまったみたいだけど、会社に払ってきた社会保険料等もろもろはどうなるのだろう……。
そして、気づいた。
あっ、そういや死んだんだっけ、私。
「おい、聞いてるのか! てめえ、バカになったんじゃねえだろうな」
男――人買いの元締めであろう――が、檻をバンバンと叩いた。
凜華は首を巡らせ、男を凝視した。
その瞳には、他の娘たちと違って恐怖も絶望もない。
ただ、顕微鏡を覗き込む時のような、冷徹な知的好奇心だけが宿っていた。
「……ねえ、おじさん」
「あ、ああん? なんだ、喋れるのかよ」
「あなたのその、右目の下の腫れ。それから、その黄色っぽい顔色。肝機能が相当落ちているわよ。お酒の飲み過ぎかしら、それともお腹に変な寄生虫でも飼っているの? 爪の形も匙状になっているし、鉄分欠乏性貧血も併発しているわね」
男は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「な……何をブツブツ言ってやがる」
「たぶん今のままじゃ、あと半年で動けなくなるわ。死にたくなければ、今すぐ私を解放して、薬局……ああ、この世界に薬屋があるなら、そこへ連れて行きなさい。適切な処方をしてあげるから」
男は、一瞬だけ怯んだ。
しかし、すぐに下卑た笑い声を上げた。
「ハッ! 占い師の真似事か? 惜しいなあ、お前はな、占いなんかしなくてもその顔立ちだけで『金』になるんだよ。肝だか何だか知らねえが、俺も健康より財布の方が大事なんでな」
男はそう言うと、檻に掛けられた布を乱暴にかけ直した。
「運がいいぜ、お前ら。これから行くのは、この国で一番豪勢な場所だ。食うには困らねえ『後宮』よ!」
薄闇に包まれた檻の中で、凜華はふんと鼻を鳴らした。「後宮……ね。要するに、王さまだか皇帝だかのハーレムか。悪趣味ね」
凜華は、自らの記憶の引き出しを整理し始めた。
これまでに読破した医学書、薬学論文、そして趣味で極めた東洋医学の膨大なレシピ。
それらは幸いなことに、すべて覚えている。
隣の少女が、震える声で尋ねてきた。先ほどからコホンコホンと咳をしている。
「ねえ……あなた、怖くないの? 私たち、売られるのよ……?」
凜華は飄々と答えた。
「怖がっていても、血圧が上がるだけで何の解決にもならないわよ。それより、あなたさっきから咳をしているわね。肺胞の音が少し喘鳴気味だわ。……ちょっと腕を貸して。脈を診てあげる」
「えっ……?」
凜華に腕を取られた少女は、戸惑いから顔を引きつらせた。構わず、凜華は脈を診た。
「いいから。うーん……按ずるに、あなたのそれは単なる風邪じゃないわね。ストレス性かつ免疫低下による、軽度の気管支炎……かな? あ~せめて、手元に乾姜か細辛があれば、パパッと煎じてあげられるのに。……あ、でも、この檻の隅に生えているこの苔……」
凜華は、檻の隙間に生えている奇妙な形状の地衣類を摘み取った。
それを鼻先に近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。
「……なんだろ。フェノール系の化合物に近い香りがする。もしかすると、強力な殺菌作用があるかもしれない。ちょっと成分を分離してみたいわね。でもできるのかな、この文明と文化水準で」
「ふぇのーるけい……て何?」
少女は、この異質な同室者の姿に呆気に取られた。
人買いに拉致され、行き先は出口のない後宮。
常人ならば泣き叫び、神霊にでも祈る場面である。
しかし、凜華は違った。
彼女は泣きも喚きもせず、冷静に思考をめぐらす。
後宮だろうが、異世界だろうが、人間が生きている限りはどこであっても「病」はあり、「薬」の需要はある。
衛生観念が中世レベルなら、なおさら自分の出番かもしれない。
要するに大胆不敵、異常なまでに楽観的な性格であった。
彼女の頭の中には、すでにこれから行く後宮を舞台にした「創薬プロジェクト」の構想が立ち上がりつつあった。
せっかくだから、この世界の薬草、採って採って乱獲しまくって、片っ端から試させてもらおうかな……なんて呑気なことを考えている。
かくして、一人の薬学・創薬オタクが、後宮という名の巨大な治験場へと送り込まれることになった。
それが、後にこの帝国の歴史を、そして皇帝の家庭事情を激変させることになるとは、まだ誰も――当の凜華さえも――知る由がなかった。
ガタゴトと馬車が揺れる。
凜華は、その揺れを「遠心分離機の代わりにはならないわね」とあさっての方向に評価しながら、掛け布の隙間から見える異世界の空を見上げた。
物語は、まだ始まったばかりである。




