第2話 お嬢様と俺の常識が通用しない日々
「貴方、は……?」
フィオナと名乗った少女は、まだ俺を警戒しているようだった。そりゃそうだ、見知らぬ男が森の奥でいきなり現れて、魔物を素手で倒した(と彼女には見えた)んだから。彼女の視線が、俺の普段着(転移時の服装)に、そして手元に視線を落としている。夕闇が迫り、森の空気がひんやりとしてくる。
「あー……俺は佐藤健太です。森の中で迷ってて、そしたらこの辺りが騒がしかったんで……」
俺は言葉を選びながら説明した。あまりに現実離れした状況に、冷静を保つのがやっとだ。会社での疲弊とは、全く異なる種類の疲弊が襲いかかってくる。
「佐藤……? 聞き覚えのない姓ですね。貴方様は、一体どちらの貴族の方ですか? それとも、森の奥に隠棲する古の魔法使い、あるいは聖職者様でしょうか?」
フィオナは真っ直ぐな瞳で俺を見つめてくる。彼女の問いには、純粋な好奇心と、かすかな期待が込められているようだった。
「え? いえ、俺は貴族じゃないです。ただの……一般人です」
途中で言い淀んだ。「会社員です」なんて言っても通じないだろうし、何よりこの状況で「俺、異世界から来たんです!」なんて言ったら、頭のおかしい奴だと思われるのがオチだ。
「……何かの事情で身分を隠されているのですね。あの魔物を一瞬で無力化する手並み……ただの隠遁者ではないと見ました。貴方様は、一体どのような流派の魔法を操られるのですか?」
フィオナは俺の言葉を都合よく解釈し、勝手に納得した顔をしている。彼女の瞳は、まるで謎めいた物語の登場人物を見るかのように輝いていた。
「えっと……魔法じゃなくて、これは、その……」
俺は咄嗟に言葉に詰まった。ELSのスキルだなんて説明できるわけがない。
「……貴方様ほどの御方が、ご自身の奥義を軽々しく語らぬのは当然。失礼いたしました」
フィオナは深々と頭を下げた。彼女の金色の髪が、夕日にきらめく。いや、別に奥義とかじゃないし! ただのクソゲーの生活スキルだし! 俺の内心の叫びは、またも虚しく森に吸い込まれていった。
その後、フィオナはここが自分の実家が所有する別荘の近くで、魔術の訓練中に魔物に遭遇したのだと教えてくれた。彼女は魔力切れを起こしており、護衛の騎士も魔物の索敵中に離れてしまっていたらしい。
「ここ、実は私の家が所有する別荘なんです。この森は魔術修行にはうってつけの場所でして、我がリリアン家では、一人前と認められる年齢になったら、高位の魔法を習得するためにここで一定期間修行するのが慣習なんです。ですが……」
フィオナは言葉を濁し、別荘の方を振り返った。俺の視線の先にあるのは、どう見ても廃墟寸前の別荘だ。壁には穴が開き、屋根は崩れかけ、庭は草木が生い茂り、完全に魔物の巣と化している。獣の鳴き声さえ聞こえてくる。
「ご覧の有様で……長年使われていないせいか、老朽化も進んでしまって。使用人も多くは連れてきておらず、修繕もままならない状態で……」
彼女は困ったように眉を下げた。
そして、健太に懇願してきた。
「健太様ほどの御方ならば、この別荘を建て直すことも容易でしょう。どうか、暫しこの私と共に滞在していただけませんか? 私が貴方様の生活を、全てにおいてサポートさせていただきます。このままでは、父上に叱られてしまいますし……」
彼女は真剣な眼差しでそう言った。夕日の名残が彼女の横顔を赤く染めている。
「あの……サポートって、具体的に何を……?」
恐る恐る尋ねてみた。
「ええ! 私の優秀な護衛騎士ライアもいますし、お食事の準備も、お召し物の手配も、全て滞りなく……!」
フィオナは自信満々に胸を張った。だが、俺は知っている。こんなボロ屋でまともな生活ができるはずがない。彼女が助けを求めているのは、俺の『超絶料理』や『完璧清掃』といった生活スキルの方だ。
「……分かりました。では、お言葉に甘えさせていただきます」
俺は半ば諦め、半ば好奇心で、彼女の誘いを受けることにした。
元の世界に戻るあてもない、それならこの異世界で少しでも快適に過ごしたい。そのためには、この世界でひとまず落ち着ける場所が必要だ。会社での疲弊した日々を思えば、少なくとも、退屈な仕事に追われる日常よりはマシかもしれない。
夕闇が完全に村を包む頃、フィオナが送った使いの鳥が功を奏したのだろう、別荘の入り口に、一人の女性騎士が駆け込んできた。引き締まった体躯に、黒く短く刈り込んだ髪。鋭い瞳が、こちらをじっと見つめている。フィオナの護衛騎士、ライアだった。その容姿は、健太より少し年上に見えるが、それでも20代半ばといったところだろうか。彼女の腰には、見るからに重厚な長剣が収められている。
「フィオナ様! ご無事でなによりです! 遅れてしまい、申し訳ありません!」
ライアはフィオナに駆け寄ると、安堵したように息を吐いた。そして、その視線が、まるで警戒対象を見定めるかのように俺へと向けられる。その眼光は鋭く、まるで獲物を狙う猛禽類のような視線だ。
「ライア、この方が健太様です。私を魔物の群れから救ってくださったのですよ」
フィオナが誇らしげに紹介するが、ライアの警戒は解けない。むしろ、その瞳の奥には、「何者だ?」という疑念の色が濃く浮かんでいた。彼女は剣の柄にそっと手を添えている。
「健太様、遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます」
フィオナは居住まいを正すと、はにかむように言った。
「お腹が空きましたでしょう? 今、すぐに夕食の準備をいたしますね!」
彼女はそう言うと、張り切って焚き火の場所へ向かい、近くにあった肉の塊を勢いよく火にくべた。
俺が驚いたのは、フィオナの調理法とそれによってできた料理だった。彼女が持ってきたのは、焚き火にくべただけの真っ黒焦げの肉塊。焦げた匂いが鼻をつく。
「これ、どうやって食べるんですか……?」
思わず聞いてしまった。
「え? 熱いので、冷めてからそのまま……」
フィオナは心底不思議そうな顔をしている。その肉塊は、どう見ても炭だ。
「お嬢様、それは流石に……」
ライアも顔をしかめる。彼女も、食事は用意されるのが当たり前だったのだろう。その表情には、若干の困惑と、諦めが滲んでいる。
俺は思わず頭を抱えた。
「いや、俺が作ります。ちょっと待っててください」
俺はELSで培った『超絶料理 Lv.MAX』のスキルを起動した。
別荘の周りで手早く採集した適当な野草と、フィオナが持っていた謎の肉塊。それをナイフで手早く捌き、異世界の香辛料と組み合わせ、焚火で調理する。まるで熟練の料理人のように自然と手が動いていく。ジュウジュウと肉が焼ける香ばしい音と、食欲をそそる芳醇な香りが別荘中に広がり、フィオナとライアの視線が、俺の手元に釘付けになった。夕闇の中、炎の揺らめきが、俺の手元を幻想的に照らし出す。
あっという間に、ジューシーなローストミートと、彩り豊かなサラダ、そして香ばしいスープが出来上がった。スープの湯気からは、食欲をそそる香りが漂う。
フィオナは、その完成品を見て、まるで魔法でも見ているかのように目を丸くした。
「な……な、なんてことでしょう! 無造作に転がっていた草木が、これほどまでに芳しい香りを放つ食材に……! そして、この肉は、焦げ付くどころか、こんなにも美しい焼き色が……!」
彼女の瞳は感動に潤んでいた。
「ええっと、ただちゃんと下処理して、火を通しただけですけど。というかテレビ番組のナレーション張りに丁寧に説明してる…」
俺の言葉は、フィオナの耳には届いていないようだった。
「やはり健太様は、高位の生命魔法の使い手……! 食材の力を最大限に引き出す、その御技、まさに神業!」
フィオナがそう結論付ける。
ライアは、健太が差し出した料理をじっと見ていた。剣を構える時と同じくらい真剣な眼差しで、湯気を立てる皿を観察する。普段は任務優先で食事はただの栄養補給だったが、目の前の料理からは、これまでの人生で嗅いだことのない、奥深く、そして温かい香りが漂っている。恐る恐る一口食べると、彼女の瞳がわずかに見開かれた。肉は柔らかく、香辛料が絶妙に絡み合い、口の中に広がる旨味に、思わず目を閉じてしまう。普段の任務で溜まった疲労が、この一口で溶けていくかのようだった。
(な、なんだこの味は……! こんなものが、この世に存在したのか……!)
ライアの脳裏に、かつて任務で訪れ、物は試しと入ってみた王都の高級料理店の食事がよぎるが、それすら霞むほどの衝撃だった。彼女は無言で、しかし素早く、皿の上の料理を平らげた。
「おいしかったですか?」
健太が尋ねると、ライアは慌てて口元を拭い、いつもの仏頂面に戻る。
「……任務遂行のためのエネルギー補給として、十分であった。感謝する」
健太は苦笑した。彼女の態度も、フィオナとはまた違う意味でわかりやすい。
俺は早くも、この異世界で俺の常識が全く通用しないことを悟り始めていた。
ちらりと視線を別荘に向けると、夕闇にその荒れた姿がくっきりと浮かび上がっている。崩れかけた屋根、剥がれ落ちた壁、雑草の生い茂る庭……。
(あれを『生活品錬成』や『完璧清掃』でどこまで元に戻せるのか……明日はきっと、途方もない作業になるだろうな……)
だが、その心には、健太が社会人になって抱えてきた「消耗する未来」への絶望ではない、異世界の生活への少しの期待があった。