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最終話 二人のしあわせ

 王都の貴族街を歩けば、その空気は以前とは明らかに違っていた。どこからか、柔らかな花のアロマが香り、石畳の小道には埃一つ見当たらない。

 すれ違う貴婦人たちのドレスは、かつてないほどしなやかで、その表情にはどこか満ち足りた色が浮かんでいる。健太がリリアン伯爵家にもたらした「地味なチート」は、いつの間にか小さな波紋となり、王都全体に広がり始めていた。


 リリアン伯爵家のサロンでは、健太が錬成した光を放つアロマディフューザーが、もはや珍品ではなかった。「健太式の香炉は、もうお試しになりました?」「あの健太様の、洗浄用薬剤は本当に素晴らしいわ」社交界では、そんな会話が当たり前のように交わされている。貴族たちは、健太が生み出す品々の品質の高さ、そしてそれがもたらす『快適さ』に魅了され、自らの屋敷にも取り入れようと躍起になっていた。


 健太が作った高品質で快適な品々は、瞬く間に『目指すべき基準』となった。既存の職人や商人は、健太の品を研究し、模倣し、さらには独自の改良を加えていった。

 健太の『完璧清掃』のノウハウもまた、王都に大きな影響を与えていた。彼がメイドたちに教えた効率的な掃除術や、道具のアイデアは、瞬く間に清掃業者や他の屋敷のメイドたちの間で共有された。王都全体の衛生環境は格段に向上し、街を歩けば以前にはなかった清々しさを感じさせるほどだ。小さな変化が大きなうねりとなって社会を動かしていた。

 貴族たちはもはやノウハウを隠し合うのではなく、健太の技術を手本に「より良いもの」を目指して、情報を交換し始めるようになっていた。


 王都のパン屋の軒先からは、以前にも増して香ばしい匂いが漂うようになった。健太が、リリアン伯爵家の庭で余った残飯を肥料として再利用したり、土壌改良のために腐葉土を作ったりするのを、庭師や領地の農民が見よう見まねで取り入れた結果だ。栄養豊かな土壌は、より実りの多い小麦を育み、それが王都の食卓に、より質の高いパンを届けるようになっていた。


 健太自身は、そうした大きな変化に全く気づいていない。「へぇ、最近王都の街が綺麗になったな」「このパン、前より美味しい気がする」と、あくまで日常の小さな変化として捉えているだけだ。彼は今日も、フィオナのために新しいお菓子を試作したり、庭の手入れをしたりと、変わらぬ日々を送っている。




 健太への婿入り打診は、もう来なくなった。フィオナの猛攻とリリアン家が「健太様を他家に出すつもりはない」という姿勢を貫いたことで、貴族社会も諦めモードに入ったのだ。

 フィオナは、健太が自分のそばにいることが当たり前になったことに心底満足していた。彼女は健太の能力と、彼の隣を独占し、日々快適で幸せな生活を享受している。朝、目覚めれば健太が淹れてくれる、好みの温度に整えられた香り高いハーブティーが待っている。日中の書斎には、健太が調整した、光が柔らかく目に優しいランプが灯り、夜は、健太が錬成した肌触りの良い寝具に包まれて眠りにつく。そして何より、健太が作る料理やお菓子は、この世界のどんな一流シェフのそれよりも、フィオナの舌を魅了し続けていた。


 ある日の午後、健太が庭の手入れをしていると、フィオナがそっと隣に寄り添った。陽光にきらめく髪が、健太の肩に触れる。フィオナは健太の服の裾を掴み、ふわりと寄りかかった。

「健太様、わたくし、これで十分満足ですわ。健太様がいてくださるだけで、わたくしの世界はこんなにも満たされているのですもの」

 フィオナは健太を見上げ、幸せそうに微笑んだ。その碧眼は、まるで宝石のように輝いている。

 健太は、フィオナの頭を優しく撫でた。「ん? そうか? フィオナ様が元気なら、俺も嬉しいけどな」

 健太の指が、フィオナの柔らかな髪を梳く。フィオナは、その手の温かさに、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。

「俺も、こうしてフィオナ様の役に立てるのが一番落ち着くし、この屋敷でのんびりできるのが一番だよ。毎日、美味しいもの食って、綺麗にして、のんびりできる。こんなんでいいんだよな」

 健太は心底安堵したように、そう呟いた。フィオナは健太の言葉に、思わず笑みがこぼれた。彼は相変わらずフィオナの恋愛感情には気づいていない。それでも、フィオナには確かな幸福があり、健太の穏やかな表情にもまた、偽りのない安らぎがあった。言葉を交わさずとも通じ合うような、二人の間に漂う心地よい空気。それは、いくつもある幸福の形の一つに違いない。



 遥か彼方の、光り輝く空間の中心に、健太を召喚した女神が座していた。彼女の手には、柔らかな光を放つ一冊の書物が収まっている。その表紙には、『地味チートとお嬢様の物語』と記されていた。


 女神は、静かに書物を閉じると、満足げな微笑みを浮かべた。その表情は、遥か遠い異世界を慈しむかのように穏やかだ。彼女の目の奥には、健太がもたらした変化の映像が、鮮やかに浮かび上がっては消えていく。埃一つないサロン、活気づく鍛冶屋、香ばしい匂いが漂うパン屋の軒先、そして、健太の隣で心から笑うフィオナの姿……。


「ふふ、実に面白い物語だったわね」

 彼女は書物を膝に置き、そっと目を閉じた。

「彼がもたらしたのは、大いなる革命ではない。ただ、ほんの少しの日常の改善と日々の喜び。それが、あそこまで世界を彩るとは……。そして、あのお嬢様との出会いも、私の予想をはるかに超えて、物語を豊かにしてくれたわ」


 女神は、再び目を開け、空中に浮かぶ無数の光の粒に視線を移す。それは、これから紡がれる、あるいは既に紡がれつつある、無数の世界(物語)の断片のようだ。


 彼女は、新しい書物を手に取る仕草を見せ、楽しげに呟く。

「さて、次の物語も、どんな驚きをもたらしてくれるかしら」


 リリアン伯爵家の庭に、穏やかな午後の光が降り注ぐ。フィオナが健太の隣で掴んで幸せそうに微笑む。健太は、そんなフィオナの頭を優しく撫でる。健太が変化を促した「変わらない日常」の風景には、確かな幸福が満ちていた。

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