第1章 09 レモネードを二杯
内心ハラハラしながらメニュー表を開いたが、私でも分かるような品名ばかりが並んでいた。縦書きでつらつら列挙されている傍にはいくつかの料理の挿絵も入っている。
「おれのおすすめはタマゴ・サンドヰッチですが、ハヤシライスなんかも評判だそうですよ」
髙拉さんは「俺はもう頼むものは決まっていますから」と私にメニュー表を差し出したきり、頬杖をついて私を眺めている。落ち着かない。
「……あの」
「はい」
「私、お金、持ってないんですけど」
ずるずると言い出せずにいたことを恐る恐る口にする。
「知ってますよ。不本意でしょうが、ここはおれに花を持たせてください。おれは後日請求なんてみっともないまね、しませんから」
ちくしょう、やはり知られている。
大学時代、律儀で勤勉な男と付き合っていた。私を「男を立てる女」で居させるのがうまくて、たとえば映画を見に行けば映画やポップコーン代は彼の支払いで、鑑賞後のコーヒー代は私持ち、ドライブに行けばレンタカー代を出すのは彼、サービスエリアで買うソフトクリーム代は私。「申し訳ない」と思わせ過ぎない塩梅がなんとも絶妙だった。
彼と別れるとき、一冊のノートを差し出された。中は家計簿のような書式で、日付とともに映画代三千円、飲食費千四百円……と連ねてあった。
彼は神妙な顔つきでこう言った。
俺が俺の映画代や飲食費だけ支払って、春芽も春芽の分だけを支払っていた場合の金額を割り出したんだ。実際に払った差額から考えると、春芽が俺に二万八千六百円返してくれれば丁度ぴったりになる。
唖然としたが言い合うのもばかばかしくて一万円札を三枚置いて去ろうとしたら「ちょっと待って」と引き止められ、千円札一枚と百円玉四枚を差し出された。帰りに寄ったコンビニで、すべて募金箱に突っ込んだ。
そんなアホみたいな過去を知られている相手が、目の前でのんきに笑っている。こんなに借りを作りたくない人間もそう居ない。しかし、腹が減っては戦ができないのも事実だ。
「……タマゴサンドと、ホットのカフェオレを、お願いします」
くそ、この百点スマイルがトラウマになりそうだ。
◇
タマゴサンドは実際すこぶるおいしかった。六枚切りほどの厚みの食パンに、それよりも分厚く、それでいてやわらかく焼かれた甘くて黄色い玉子焼き。塗られているマヨネーズはごま風味で香ばしい。カフェオレは苦みにクセがなくて後味がすっきりしている。
同じくタマゴサンドと、飲み物にはアイスコーヒーを頼んでいた髙拉さんは、食べている間は「おいしいでしょう」と言ったきりなにも喋らなかったが、ほどなくして空になった皿を下げにきたウェイトレス――いや、女給と言った方がいいのか――に、「レモネードを二杯ください」と言った。話はここからだ、ということか。
「お好きでしょう、食後の炭酸。レモン風味もなかなか悪くありませんよ」
まったくもってやりづらい。
運ばれてきたレモネードのグラスに少し口をつけてから、髙拉さんは声を潜めて語りだした。
「あなたがもとの世界に戻るには、あなたが出てきた本を、あなた自身が読む必要があります」
奥のお客さんはなにかの議論に白熱しているらしく、彼の内緒話をうまく隠してくれている。しかし、うっかり気を抜くと私まで聞き取り損ねそうだ。
「ここでひとつ厄介なのが、あなたが出てきた本それそのものでなければならない、ということです。おれが個人的に持っている『東風の片隅』では帰れません」
「だから、あの地下の蔵書から探し出さないといけない、ってことですか?」
「そうです。昨晩のうちに探せるだけは探しましたが、思ったよりもしっちゃかめっちゃかになっていまして」
髙拉さんは人差し指でグラスの結露を掬った。爪の上で、窓外からの光を受けてちらちらと輝く。
「うちの図書監は週に一度、管轄地域内で刊行されるすべての書籍の初版が一冊ずつ納入されてきます。ざっと千冊はありますね」
「せ……」
声が詰まった。髙拉さんは指先の雫をはじきながら、なんてことない声色で続ける。
「関東のみでなく奥羽も管轄なので、搭京は他より数が多いんです」
「おうう?」
「ああ、失礼。最近は東北と呼ぶ方の方が多いようですね」
「それなら分かります。青森とか、岩手とか?」
「そうです。その一帯も含めた広い範囲から一斉に集まった本が最下層に山積みされていて、さあ明日はこれを整理するぞ、といった折に、あなたがこちらへやってきた、というわけです」
「……すみません」
突き落とした方の本棚にも、それなりの冊数が入っていたはず。数多くの書籍たちに妙な折り目や傷みが残ったらと思うと、読書好きとしては胸が痛い。
それに。
「一年か……」
「一年?」
「見つかるまで、それくらいかかりそうなんですよね?」
髙拉さんは持ち上げかけていたグラスをことんと置いた。しばらく瞬きをして「ああ」と笑い出す。
「それは、あなたが出てきたのがどの本なのか皆目見当もつかない状態で探したら最低でもそれくらいかかるだろう、という話です。でもおれは、探すべき本の題名も装丁も知っている。一冊一冊、中身をあらためる必要がないんです。片付けさえ終われば、すぐ見つかりますよ」
「ほ、本当ですかっ」
「ただし、整理も並行して行いますので、一か月は見ておいてください。それから春芽さんが読み終えるまでの時間もかかりますが、必ずしも全巻読む必要はありません。あなたのご年齢を鑑みると、最新刊の一冊が『当たり』のはずです」
身体中から力が抜けた。ソファに深く体重を預け、肺の奥底から息をつく。
「安心しましたか?」
「そりゃもう……よかった……よかったぁ」
一年以上と一か月とでは雲泥の差だ。帰り方がはっきり分かっていて、なおかつ帰れる時期も遠くないとなれば、そう深刻に構えなくてもいいだろう。むしろ旅行気分で楽しんでみてもいいのではなかろうか。そんな期待も膨らみはじめる。
このお店、「カフェー・イヴェール」といっただろうか。こんなにも爽やかな夏の花を思わせる店なのに店名は「冬」だなんて、その捻ったセンスがなんだか洒落ている。女給さんの服もかわいかった。帰るまでの間、ここでお手伝いをさせてもらえたりしないだろうか。大学時代はずっとレストランチェーンのホールで働いていたから、多少の勘はある。外の街並みも、窓越しに改めて見るとレトロでかわいらしい。色硝子越しだから、なおさらロマンチックだ。どこもアンティークショップのような佇まいで、ごちゃごちゃしたコンビニやドラッグストアが並ぶ駅前などとは比べ物にならないくらい洗練されている。散歩するだけでもきっと楽し――
「春芽さん」
トリップしかけていた頭が、ぎゅんと呼び戻された。
「ようやく笑顔が見られておれも嬉しいのですが、つまらない現実の話は、まだ終わっていませんよ」
にこり、百点スマイル。