第1章 08 味方
「……ふ」
空気が、弾ける。
「ふふ」
張り詰めた空気が、ぷつりと弾ける。
「っは、あはは!」
冷たく張り詰めた空気をぷつりと弾けさせた笑い声は、少しずつ膨らんでいった。
「ああ、まったく、気持ちいいくらい綺麗にひっかかりましたね!」
「……え?」
「冗談ですよ、冗談! そんなこの世の終わりみたいな顔しないでください」
「は」
じょうだん。ジョウダン。冗談。その響きが頭の中でぐるぐる回り、少しずつその言葉の意味がはっきりとしていく。
「安心してください。この世界の倫理観から見ても、あなたは実に気持ちのいいほど清廉潔白なご婦人です。もう少し狡猾になってもいいくらいですよ」
「……だ、騙したの!?」
「からかった、と言ってください。あんまり必死に無実を主張するものだから、つい」
やられた。なんなんだこの男は。思わず力が抜けかけた足に、ぐっと力を入れる。
昨日から振り回されてばかりいる。私だって一冊分はこの男のことを知っているはずなのに、なにを考えているのかさっぱり分からない。
「言ったでしょう、おれは、あなたのことをよく知っているって。あなたの誠実さを、あなたと同じくらい分かっています。あなたの世界でも、こちらの世界でも、あなたほど無害なお人を指差して笑える人間は居てはならない」
囁くように呟いて、穏やかに目を細める。しかし警戒心を解くことはできず、じとりと睨むと、髙拉さんはお決まりのにっこり百点スマイル。
「おれは味方ですよ」
「どうでしょうね」
「そうむくれないで。おれはあなたのファンなんですから」
ふあん、とやや「あ」を強めに発音された単語。胸の内に居心地の悪いさざなみが立つ。
彼は私のことを知っている。私が知っている彼のことよりも、もっと多く、深く。それもそのはずだ、私が知っている彼は一年間の一冊分、彼が知っている私は十七年の十七冊分。こんなの不平等ではないか。
そんな私の不満もどこ吹く風で、髙拉さんはひとりでなにか考え込むように細い指を顎に当てた。
「しかし妙ですねえ。春芽さんの言う通り、図書渡りがみんな罪深い方々であるならば、どうして人畜無害なあなたも図書渡りとしてここに居るのでしょう」
そんなの私が知りたい。
「そんなの私が知りたい、と思いますよね」
簡単に見透かされる。やりづらい。
「おれにも分かりません。なので、この話は一旦やめましょう。大事なのは目の前の事実だけだ」
「事実、って?」
「春芽さんはもとの世界に戻れるまでの間、ここで生きていかなければならない、という現実のことです」
確かに、どうしようもない事実だ。地に足のついた現実だ。もとの世界に戻る方法が分かっていても、それが一朝一夕で叶うとは限らない。髙拉さんは「一年」などと恐ろしい期間を挙げていた。信じたくはないが、最悪の事態として想定はしておかなければならないのだろう。
どこで寝泊まりをすればいいのか。どうやって食べていけばいいのか。ここは言葉こそ通じるが、ツテもアテもない異世界だ。心細さと恐ろしさが、足元からじわじわとせり上がってくる。
「長い話になりそうですから、まずは腹ごしらえしましょう。回る頭も回りませんよ」
深く俯きかけた斜め下の世界で、私の手が持ち上げられていく。それにつられて、視線も上がる。胸元の高さで繋がれた手。髙拉さんの手は、やはり冷たい。本当に同じ人間なのか、これは現実なのか、疑ってしまいそうになるくらいに。
◇
私の手を引いて歩いていく間、髙拉さんは「いつかこの世界も庶民が車を持てるようになるんですかね、あなたの世界みたいに」とか、「甘いものがお好きでしょう、あの店のミルクセーキは評判なんですよ、昼過ぎからしか開かない店ですが」とか、取り留めのない話だけをぽろぽろと続けた。
それから五分ほど歩いただろうか。髙拉さんは足を止めてこちらを振り向いた。
「着きましたよ」
ひまわりだ。まず、そう思った。
目の覚めるような華やかな黄色の煉瓦で組み上げられた壁。窓や扉には大ぶりの水玉のような幾何学模様のステンドグラス。モスグリーンとクリームのストライプ柄のオーニングテント。クラシカルな色合いの街の中で一際鮮やかな存在感。
「さあ、中へ」
私の手から離れていった髙拉さんの手が扉を手前に開くと、ころころと涼しげにドアベルが鳴った。
先に中へ、と促され、花柄の玄関マットを踏みしめながら店内へと足を踏み入れる。
「まあ」
小鳥の鳴き声。のような、女の子の声。
「いらっしゃいませ。ようこそ、カフェー・イヴェールへ」
笑顔のかたちに丸く膨らんだ頬。ふわふわとした焦げ茶色のショートボブ。白百合柄の着物。黄色い水玉柄の半襟。ぱりっとした白いフリルエプロン。かわいらしいウェイトレスは私にちょこんと頭を下げて、それから視線を私の後ろへと投げかけた。
「鶯さんの身体を借りていたずらなさっているのは一体どちらの妖さんかしら」
「やだな。おれは純然たるただの髙拉鶯ですよ」
「あらあら大変、ただの鶯さんが朝からご婦人を連れておいでなすったわ。お赤飯でも炊こうかしら」
「炊き上がるのを待ってはいられませんよ。タマゴ・サンドヰッチは残っていますか?」
「ちょうどおふたりさま分。向こうの窓際へどうぞ」
私より頭半分ほど低い背丈の彼女が、手のひらで席を指し示す。見たところ二十歳にも満たない。にこにこしている髙拉さんに同じ湿度の笑顔を返す彼女は、声質は幼く甘いのに、話し方は私よりうんと大人びて落ち着いている。
店内の壁はやさしいクリーム色で、たくさんの絵がずらりと並んでいた。テーブルの数は十と少しくらいだろうか。一席ごとのスペースがかなりゆったりと設けてある。奥の方では、六人ほどの人影がなにか話し込んでいるようだ。片隅には階段があり、二階へ続いているらしい。
渋い臙脂色の革張りのソファが向かい合ったボックス席は、座るときしきしと鳴った。
「……あの。ここ、妖とか、ふつうに居る感じなんですか」
「ええ。先程の方は化け狐ですしね」
「えっ!」
「あれっ。なんでしたっけ、『図書監の防衛戦』? には、描かれていなかったのですか?」
「そ、そんなの、全然」
「なあんてね、居ませんよ。あの方も人間です。かんたんに引っ掛かりすぎですよ、あはは」
なんなんだこの男は、本当に。