第1章 07 おれは、あなたのことをよく知っていますよ
私が寝ていたのは図書監の宿直室だったらしい。そう説明しながら廊下を歩いていく髙拉さんは、終始にこにこと上機嫌であった。
見上げると、作り物のようにきれいな肌、人懐っこく細められた若葉色の瞳、陽光をこまやかに反射する色素の薄い毛先。朝の白い光が差し込む中で見ると、彼もまた人間の生々しさのようなものが極めて希薄であることに気がつく。
ここは私の生きてきた場所と地続きの世界ではないのだと、改めて突きつけられた気分だ。
ここの世界の人間は、こういう風にできている。そして私も、そこに馴染むように作り変えられている。
とはいえ、冷水による洗顔で肌は突っ張っているし、髪も手櫛で撫で付けただけだからごわごわしている。
「制服、とてもお似合いですよ」
そんな私の苦慮をつゆ知らず、なにを褒めているのだ、この男は。しかし、真正面から反論する元気もない。
「これ制服なんですか?」
当たり障りのない質問をしながら自分の身体を見下ろす。言われてみれば、ワンピースは髙拉さんのジャケットやパンツと同じ色だ。
「はい。おれたちはどこからどう見ても夜勤明けの司書の二人組です。さあ、私は難関の司書試験を突破した才女に違いありませんと、胸を張って歩いてくださいね」
「? はあ……」
司書が夜勤? そういえば宿直室もあるが、一体なぜ? 二十四時間営業? そんな描写あったっけ? それに、なぜ私に司書のふりなどさせるのだろう? ……と色々思いつつも、面倒なので口には出さない。とにかく私は、脳も身体も心もすっかり疲弊しきっていた。
とぼとぼと歩いている間に、開けた場所に辿り着いた。大豪邸のように絢爛豪華とまではいかないが、ちょっとした音楽ホールのロビーくらいの広さはある。丁寧な彫り細工が施された扉。天井にはささやかなシャンデリア。私たちは板張りの廊下を進んできたが、出入口から真正面に伸びる階段には、深紅の絨毯が敷かれている。
髙拉さんはきょろきょろと左右を見まわし、こちらを振り向いて笑った。初対面での冷たい印象が強過ぎて、好意的な態度を取られるたびに薄ら寒いものを感じてしまう。いけないいけない。本の中の彼はだいたいこんな感じで朗らかだった、ような気がする。もう少しくらいクールだったような気もしないでもないが、あれだ、多分「オフで会うの初めてですけど、ネットで話してたときと印象違いますね」現象だ。そうに違いない。かぶりを振って余計な思考を飛ばし、扉の前で手招きする髙拉さんに大人しく近づいていく。
彼は両扉の片側をゆっくりと開けながら、いたずらっぽく笑った口元に人差し指を添えた。
「誰も居ないうちに外へ出ちゃいましょう。開館時間はまだまだ先ですから、通用口より正面から出る方がかんたんですよ」
……なんか、さっきから妙にコソコソしてないか?
楽しそうな髙拉さんに怪訝な顔をしてしまいつつも、促されるまま外へ出る。
「わ……」
ここは見知った世界ではないのだと、がつんと後頭部を殴られるような衝撃。そう突きつけられるのはもう幾度目かも分からないが、それでも目の前に広がる光景はまた私の心臓を揺さぶった。
街の色が違う。
アスファルトではなく砂の道。建物の壁は煉瓦や木製ばかり。車の通らない往来を、スリーピースにパナマハット姿の男性や袴姿の女の子たちが歩いていく。
「行きましょう、タマゴ・サンドヰッチが売り切れてしまいます」
「う、わっ」
右手にひやりとしたものが触れる。髙拉さんに手を引かれているのだと理解する頃には、玄関前の数段ほどの階段を下り終えていた。
たしか今日は四月一日だと言っていたはず。決して寒くはないが、朝だからか風が少しだけ冷たい。
歩きながら、握られた手を見下ろす。
この世界観の中で、若い男女が手なんか繋いでいていいのだろうか。しかし咎めるような視線は特に感じない。「まあ、なんてはしたない!」なんて囁き声のひとつでも飛んでくれば離すきっかけになるのに。そういえば「図書監の防衛戦」にはそういった描写はなかったな、と肩を落とす。明治や大正のロマン風味な味がする時代設定でああっただが、よく考えればむしろ女性進出がかなり進んでいる世界観だった。色々と私の物差しでは測らない方がよさそうだ。
私がなんとなく持っている史実上の過去のイメージは、そもそも多くないけれど、僅かな情報さえもきっと通用しない。頼れるのは、たった一回読んだだけの、たった一冊きりの、あの小説だけ。
途方もない心細さに俯きながら数百メートルほど歩いて角を曲がったところで、隣からくつくつと笑い声が膨らんだ。
「ふふ、あはは、かんたんに出られちゃった! ほんとうにザルだなあ、監長は司書を信用し過ぎだ!」
彼が笑う度に、繋がれた手が震える。
私はしばらくそれをぽかんと見つめてしまっていたのだが、じわじわとその真意に気がつきはじめた。
そうだ。私は本来、こんなにも簡単に図書監を出ていい人間ではないはずなのだ。少なくとも、私が知る限りでの、この世界では。
「あの……今更なんですけど、私のこと、こんなにさらっと外に出しちゃってもよかったんですか?」
「うん、よくはないですね」
「やっぱり!」
一晩眠りはしたけれど、やはりまだまともに頭が回っていない。こんなことにも考えが至らないなんて。
『図書監の防衛戦』に出てきた図書渡りたちを、思い出せる限り思い出していく。殺人鬼、詐欺師、バスジャック犯に爆弾魔――誰も彼も、元居た世界で罪を犯し、そしてこちらの世界でも同じ罪を犯そうとしていた犯罪者たちだった。となると、私もそう疑われるのは自然ではないか。髙拉さんの最初の頃の態度からも、それが窺える。ころっと手のひらを返されたから気づくのが遅れてしまった。
あの図書渡りたちは最終的に図書監の地下、書物庫となっている螺旋階段の周囲を囲うように巡らされた収容施設に収監されていたはず。だから「図書監」というのだ。
「気づくのが遅いですよ。おれはあなたを連れ出したかったので黙ってましたけど。あーあ、ばれちゃった。朝食を諦めて引き返さないと」
「あの、でも、私、犯罪者とかじゃないです、神様にでも何にでも誓えます!」
まったくの無実なのに犯罪者扱いなんてされてたまるものか。足を止めて、夢中で捲し立てる。
「図書渡りってみんな、殺人とか詐欺とか……だから地下に収監されるんでしょう、でも私はなんにもしてません、これまでもこれからも!」
言い終えて肩で息をする自分に、こんなに必死でなにかを話したのは生まれてはじめてだ、と考える。当たり前だ。人畜無害で影の薄い、何事にも当たり障りのない人間として生きてきたのだ。大きな事件を起こしたことも、自由を失う危機に瀕したこともない。
髙拉さんを見上げる。その目は大きく見開かれていた。瞼から今にもこぼれ落ちそうなほどに。
まだなにか言うべきだろうか、信じてもらうに足るなにかを。そう考えはじめたころ、髙拉さんは小さく息をついて、視線を落とした。なにか、考えている。私の処遇だろうか。
「あの……」
「そうです。図書渡りは一人残らず罪深い方々です」
「いえ、私は……!」
「信じますよ。あなたは嘘をついていないって。言ったでしょう、おれはあなたの物語を愛読しているんです」
柔和な笑顔。良かった。分かってもらえた。
そう浮上しかけた心が、髙拉さんの目に見据えられ、沈んだ。冷たく、鋭い。
「でもね。あなたの世界の倫理観と、こちらの世界の倫理観、それがまったく同じだとは限らないんですよね」
胸につっかえた恐怖が、声にならない声になって漏れ出る。するりと人肌から離れた右手に、朝の風が吹きつける。
「おれ、『東風の片隅』を読んでいて、心底驚いたことがあるんですよ。煙草が合法なんでしょう。あの毒物はこちらでは大昔から禁止されています。なのに、それを堂々と吸って歩く男とすれ違っても、あなたは眉をひそめるだけだった」
紡がれる言葉の真意が掴めず、内容が右から左へ抜けていく。ただ背中に寒気だけがくすぶって、消えない。
「まあ、あなた自身は吸ったことはないご様子でしたが。それでも、仮にあなたが今ここで『私の世界では合法でした』と言って懐から煙草を出して火をつけたら、ここに居る誰もがあなたを犯罪者だと断じます。死の煙を撒く凶徒だと」
ちらりと往来を窺う。学帽を被った男の子二人組。きれいな着物を着た老婦人。砂煙を上げて通り過ぎていく馬車。見慣れない世界。
「おれは、あなたのことをよく知っていますよ。これまでの人生で、あなたがなにをしながら生きてきたのか」
――そしてそれが、この世界の物差しで測ると、どうなるのか。
温度のない笑顔に、呼吸が止まる。