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図書監の渡り鳥  作者: 多部タイナ
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第1章 05 『東風の片隅』

「ええと、とにかく一回落ち着きましょう。ほら、深呼吸」

 ついさっきは私がそう促される側だったはずなのだが。

「そう……ですね、落ち着かないと。すみません、取り乱して」

 そう言って、髙拉さんはへらっと笑う。これが私のイメージしていた本来の髙拉鶯らしくはあるが、つい先ほどまでのあの冷たさからはあまりにも乖離していて、いったいなにが現実でなにが物語なのか、もはや判断ができない。考えても恐らく答えは出ないのだと諦めてかぶりを振っている合間に、彼は肩を上下させながら深呼吸をしはじめた。……はずなのだが。

 大きく吸った瞬間、咽せた。

 背中をさすろうか、しかし先ほども妙な反応だったし触るのはやはりやめようか、としばらく逡巡している間に、呼吸が落ち着いてくる。

「大丈夫ですか?」

「すみません……いい香りがして」

「……はあ……そうですか」

 一体なんの香りだ。この部屋になにかいい香りがするような要素はない気がするが。

「あっ!」

 今度は勢いよく立ち上がった。なんなんだ。

「少し待っていてください!」

 言うが早いか、どたばたと出ていった。もう鍵もへったくれもない、扉すら半開きの状態で。


     ◇


 戻ってきた髙拉さんは盆の上に湯呑をふたつ乗せて戻ってきた。飲み物を持ってきてくれたらしい。

 白くくゆる湯気を挟んで、また二人で向かい合って座る。湯呑が増えただけで他は先程と同じ構図のはずなのに、随分空気が違う。

 沈黙。

 髙拉さんはそわそわと視線を彷徨わせたり、じっとこちらを見てきたり、また視線を外したり。私は視線の気配だけをうっすらと感じつつ、ひたすら冷や汗をかきながら机の角を睨む。

 いや。黙っていたってしょうがない。そうだ、私のことを話して、私の世界が描かれた本を探さないと。とにかく今はそれが最も重要な目的のはず。

 まずは出された飲み物を一口飲んで、それから話そう。そっと湯呑を手に取り、口に含む。

 あれっ。

 想像とは違った味に、思わず湯呑の中を覗き込む。が、光源が小さなランプひとつきりの薄暗い室内、しかも湯呑も真っ白ではないとなると、液体の色はよく分からない。

 改めて口に含む。

 やっぱり。白湯だ。

 怪しい図書渡りにお茶なんてもてなしはしないのか。いや、それならただの水でいいはず。あえて温めた白湯である意味が分からない。寒そうにしていたからだろうか。

 考えても仕方がない。諦めてもう一口飲む。私はもともと夏場は水、冬場は白湯ばかりを飲む生活をしていたから、この方が落ち着く。都合がいいと言えば都合がいい。

「あの」

「はいっ」

 声が明るい。表情もまるでヒーローショーを見にきた子供のようだ。いけない、ペースを乱されるな。私は早く帰りたいんだ。

「私の本を」

「はい、すべて読んでいます」

「……え?」

「『東風(こち)片隅(かたすみ)』は、おれがなによりも愛する物語です。おれにとっての憧れのすべてがそこにあります」

「…………え?」

 深く深く首を傾げすぎて、視界が大きく傾く。

 こちのかたすみ、ってなんだ。

「ああ、失礼。きちんとご説明します」

 気恥ずかしそうにはにかんだ髙拉さんが居住まいを正す。

「こちらの世界にある、あなたの世界を描いた、あなたが出てくる本。それがなんなのか、おれはもう知っています。それが『東風の片隅』です。とても美しい題名です。春に吹く東からの風が街のあちこちを巡る、その片隅に、あなたが居る。だからあなたの世界の「東京」は、搭ではなく東と書くのでしょうか。その舞台は今の明和の世から百年は先だろうと推測しています。月へ行くでも、海底へ潜るでもない。まさにおれたちが生きているこの国の延長線上に、夢のような光景が広がっている。これに勝る革新的なSF作品はありません。その主人公が、あなたです。一巻目にはあなたが七歳のころの一年間が描かれています。あなたが『小学校』、おれたちで言うところの尋常に通いはじめた年です。とてもお転婆なお嬢さんでしたね。受像機(テレビ)に体当たりをしてその中に入ろうとしていたことを覚えていますか? 当時のおれは驚きました。作中に受像機(テレビ)が出てきたときから、おれが試してみたくて仕方がなかったことを、あなたがやってくれたのですから。夢のある発明品ですよね。過去の出来事や遠くの出来事を、そっくりそのまま再現した景色が見られるのでしょう? その中に入ってみたいと思うのは自然なことです。一巻を初めて読んだときのおれは五歳でしたが、いつかそんなものがこの世界にもできるのだろうかと、今でも空想するんですよ。『東風の片隅』にはそんな発明品がたくさん出てくるんです。たとえば昇降機(エレベーター)とか。図書監に勤めて初めて本物に乗ったときはとても興奮しました。おれにとってはまだまだ珍しいものだというのに、あなたの世界では百貨店(デパート)の中に三つも並んでいる。そのうえ、あなたが住んでいる大型集合住宅(マンション)にも設置してある、そしてあなたは当たり前のような顔をして毎日使う! 物語の中では、さまざまな発明品について、深くは言及されません。とてもあっさりと流されます。でも、それがまた心躍るんです。この本の中の世界ではそれが『あって当たり前のもの』なのだと思うと、その未来がこの今と地続きの現実なのではと思えるのです。『東風の片隅』はそんな驚きと興奮の連続です。年に一冊、新作が出て、そのたびにあなたはひとつ歳を重ねていく。その中で、発明品もどんどん進化していく。あなたも、どんどん成長していく。今は十七巻まで出ています。失礼、ご婦人にご年齢をお尋ねするのは忍びないのですが、今のあなたはおいくつでしょう?」

「えっ、あ、二十四歳、です」

 しん、と静まり返った。

 もとより静かな部屋であったはずなのだが、突然吹き荒れた嵐のようなマシンガントークの荒波がぱたりとやむと、その静寂なさざなみに、余韻めいた耳鳴りがした。

「二十四歳」葉から雫が滑り落ちるような、小さな声だった。「あなたの方が、物語より少し先を生きている」

 物語より、少し先。

 では次巻が出るまでは、ここ最近の話はしない方がいい。彼にとっての「ネタバレ」になってしまう。なんて、くだらないことを考える。

「あなたが知っている私は、いくつだったんですか?」

「最新作では二十三歳の一年間が描かれていました」

 若葉色の瞳がこちらを見据える。

 私の存在そのものが、言わば彼にとっての「好きなシリーズ小説の次巻」なのであろう。こんな妙な顔をするのも頷ける。

――ということは、私が()()に来ることも、描かれるのだろうか?

 ふいに、髙拉さんはにこりと笑った。

「おれの知るあなたのことは、気兼ねなくお話しできそうですね。おれ、あなたの学生時代の話が大好きなんです。八巻は先月も読み返しました。十四歳の頃の話になりますね。気安く言い寄って身体に触れてきた同輩の男に、あなたが毅然と言い返すところが特に凛々しく美しく……『我が憤怒の左腕(エルガー・アルム)に触れるな! ああッ、覚醒(めざ)めるッ、ボクの中の《ブリュンヒルド》が! はやくボクから離れ」

「わーーー! あーっ! あーっ!」

 今すぐ机をひっくり返して壁に頭突きしたい気持ちだけはどうにか堪えながら、これくらいは許せと大声で喚く。喚く喚く喚く。これが喚かずにいられるか、思い出の引き出しの最奥にある「思い出すな」エリアにしまっておいたはずのものを赤の他人に楽しそうに引きずり出されて、正気でいられるやつがいるものか。 

「どうなさったのですか?」

「どうなさるもこうなさるもない! もういい! お、覚えてるから話さなくていい!」

「ああ! 失礼、ご本人にあえて語るのは野暮でしたね」

 野暮でしたねえ、じゃない。なぜこんなにも爽やかに笑っていられるのだ。他人の思い出だったとしても恥ずかしくて聞いていられないような話のはずなのに。

 私も私だ。なにが「手掛かりになるようなことは片っ端から話そう。旅の恥は搔き捨てだ、中学生の時にブログで使っていたハンドルネームでも去年元カレに振られたときの向こうの言い分でも、なんでも聞くがいい」だ。中二病エピソードひとつで肌という肌を搔きむしって川の中にでも身投げしたいくらい恥ずかしい。

 ……待てよ。そうだ。なぜ私はこんな話を聞かされているんだ。本来の目的は、私がもとの世界に帰るために必要な本を探すこと。それならだいぶ冒頭に出てきた情報ではないか。

――こちらの世界にある、あなたの世界を描いた、あなたが出てくる本。それがなんなのか、おれはもう知っています。それが『東風の片隅』です。

 それだけで良かったのではなかろうか。

 人生で一番の大きなため息が出る。身体中から吐き出したような深さ、長さ、そして脱力感。

「ご不快でなければ、春芽さんとお呼びしても?」

「はい、どうぞ……」

「春芽さん、春芽さん。妙な気分ですね、ずっと愛読していた物語の中のひとがここに居て、名前まで呼んでいる。心の中では別の呼び方をしていたのですが、おれにとってのあなたは今、目の前に居るあなたですから、そう気安くは呼べません」

「はあ、そうですか……」

「ついでと言ってはなんですが、あとひとつだけ、お願いをしても?」

「はい、なんでしょう……」

「もう一度、おれの名前を呼んでみてもらえませんか」

 なまえ、なまえ。遠くへ飛んでいた思考能力を引っ張り戻す。

「えーと……髙拉さん」

「もう一度」

「髙拉さん」

「もう一度」

「髙拉さん」

 目の前でほころんだ、のんきな笑顔。なんだか、色々なものがばかばかしくなってきた。とにかく疲れた。とにかく眠い。

「すみません、しばらく寝かせてください、おやすみなさい」

 毛布を背中に羽織り、机に突っ伏した。身体のすべてが重力に引き寄せられ、包み込まれていくような入眠感覚。私は彼の返事を待たず、どろりとした夢の中へとするする落ちていった。

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