第1章 04 図書渡り
舞台は日本、帝都・塔京。東ではなく、タワーの塔と書く。
時代は「明和時代」。著者の言う通り、主に明治から昭和初期にかけてのレトロ文化のいいとこ取りをしたご都合主義な世界観だというのが、この和暦からもうかがえる。
塔京には「時計塔」と呼ばれるシンボルがある。モデルは東京タワーのようにも思えるが、表紙に描かれていた塔は赤ではなく燻ったような金色で、エッフェル塔に近い印象だった。爆発火災の末に倒壊したが、それは最終章での出来事だ。うっかり序盤に話してしまわないよう気をつけないと。
その時計塔の中身こそが「搭京国立図書監」だ。カンの字は大きな建物を意味する方の「館」ではなく、監獄の「監」と書く。利用者の受付場所や閲覧室は塔の下層、つまり地上階にあり、地下には途方もないくらい大きな書庫。それは広い広い螺旋階段のかたちをしていて、壁じゅうに並んだ本棚にぎっしりとあらゆる本が詰め込まれている。作中でも確かにそう描写されていたが、実際に目の当たりにすると、私の想像をはるかに超える迫力だった。
しかし、それほどの規模でないと、日に日に増える一方の書籍たちは収まりきらないのだろう。「明和維新」という、作中には「終戦」くらい情報しか出ていない時代の境目を機に到来した空前の小説ブームで、国民の娯楽といえば物語を読むことと書くことになっていた。国立の図書管理施設は全国にいくつかあるとも書かれていたはずだが、関東近隣のものはすべて搭京国立図書監に集まるらしい。この世界では、あらゆる書籍はすべて一般流通前に管轄地区の図書監に一冊提出しなければならないようになっている。
そこに勤める司書の主な役目は、数多の書籍たちを管理し、貧富を問わず国民への貸出や案内を行うこと。
青森の少女から拙いひらがなで綴られた貸出依頼の手紙が届く話は、涙と鼻水で何度読むのを中断したか分からない。すげなく断ろうとした監長に毅然と立ち向かい、たった一人で青森まで本を届けに行く駒のなんと凛々しいことか……いや、ここまで熱く語る必要はない。余計な感想はいらないと怒られる気がする。
物語は、主人公・髙拉鶯が「搭京国立図書監」に勤めて、丸一年が経過する四月一日――の前日、三月三十一日を描いたプロローグから始まる。
新人司書として、貸し出しの受付や書籍の管理、図書案内など、一年かけてあらゆる業務の基礎を身に着けた鶯が四月から正規配属されるのは「保全課」。
明日からはついに保全課として働ける。学生時代からそれを志していた鶯は、研修期間最終日の仕事を終えた帰途で寄ったカフェーで、立てこもり事件に巻き込まれた。
取り乱した様子の犯人は女給の喉にナイフを突きつけ、こう繰り返す。
ここはどこだ。家に帰してくれ。
そこに、鶯とお揃いの制服を着た女性がやってくる。それが、この物語のヒロイン・小込駒だ。
駒はあっという間に犯人を取り押さえ、警察――ではなく、図書監へ連行した。
『図書渡り』
駒は、犯人をそう呼んだ。
彼らは図書を渡ってくる。
書籍に綴られた物語の登場人物が、肉体と意思を持って、この世界に現れるというのだ。
そして、彼らがもともと居た世界には、鶯や駒たちが生きている世界を描いた書籍があるのだという。
「図書監の仕事は、本の管理とか貸出とか……それももちろん大事なんだけど、それは表向きのもの。あたしたちは、それを支える裏方よ。こちらへ来てしまった図書渡りをきちんと見張って、守って、加害者にも被害者にもさせず、もとの世界へ返す。それが、あたしの仕事。明日から始まる、あんたの仕事」
「分かっています。だから、おれは保全課を志望したんです」
日が暮れた図書監の片隅で、鶯は駒を強く見据える。
保全課とは、図書の保全ではなく、図書渡りたちの、帝都の住民たちの、ひいては「この世界そのもの」の保全が仕事だったのだ。
◇
それから鶯は、駒や他の司書達に保全課の仕事を教わりながら、たくさんの図書渡りたちと触れ合っていく。悩んで、憤って、間違えて、成長していく。そして、駒との信頼関係を深めていく。
それを説明しなければ。時系列順で、ゆっくりと。
「まず、あの小説はあなたがこの図書監に入って一年が経つところから始まって……」
「止めてください」
「えっ」
まだなにも話していない。しかし、彼は既に険しい顔をしていた。
「一年というと、具体的な日付などは?」
「序章は三月の三十一日でした」
年度の末尾だ。物語の内容も相まって印象的だったから、はっきり覚えている。
「その日の出来事までは聞きましょう」
促されるまま、序章のあらましを話した。彼がカフェーで立てこもり事件に巻き込まれ、駒と保全課の仕事について話すシーンまで。
「これが序章。三月三十一日の一日分だけです」
その先は第一章が四月、第二章が五月……といったぐあいに、一章ごとに一か月進んでゆき、第十二章まである構成だ。
正面から小さな溜め息。
「これ以上はなにも聞けないな」
半分は独り言、半分は私への言葉、といったボリュームの声が耳をくすぐった。
「今は、四月一日になったばかりの午前零時過ぎです」
コトン。鉛筆をノートの上に置くだけの音すら、よく響く。
「……この先のことは黙っておきます」
「黙っておくだけでは不十分です。余計な手出しもしないように」
「未来を変えるな、ってことですね」
それがとても重大なタブーであることくらい、「物語」というものに触れてきた人間ならば、なんとなく想像はつく。あえて逆らうのが正義になることもあるが、掲げる大義もないのにバカをやったところで、ろくな目にあわないだろう。
神妙に頷いてみせると、彼は改めて鉛筆を握り直した。紙もまた一枚捲って、次のまっさらな一枚へ。
「では、あなたのことも聞きましょう」
私にとっては、大事なのはここからだ。
私も「図書渡り」になってしまったのだから。
多少知っている物語の中とはいえ、ここには家族も友人も居ない、つまり頼るあてがない。そのうえここは「レトロ」がリアルの世界だ。スマホがないどころか固定の電話機すら高級品。電車が通っているのはごく僅かな区間のみ。エアコンのない環境で私は一年も生きてゆけるのか。作中にはろくな甘味が出てこなかったが、私の生活必需品とも言うべきチョコレートはこの街にどの程度普及しているのだろう。くだらないが重要な不安が次々に思い浮かぶ。ただ生活するだけでも、順応するのに苦労することが目に見えている。
早く帰りたい。帰らなきゃ。
焦りに近い覚悟が、むしろ私を妙に落ち着かせていた。
手掛かりになるようなことは片っ端から話そう。旅の恥は搔き捨てだ、中学生の時にブログで使っていたハンドルネームだろうが、学生時代の元カレに振られたときの向こうの言い分だろうが、なんでも聞くがいい。
「あなたの名前は」
「上野春芽です」
「……」
「……」
「……」
「……上野動物園とかの上野……って、ここにも動物園というか、上野ってあるんでしょうか。ええと、上下の上に野原の野、季節の春に芽吹くの芽です」
「……」
「……あの……」
動かない。
髙拉鶯は、微動だにしない。
聞こえてますかどうしたんですか、と肩でも揺すろうかと迷い始めるほどの沈黙の末、紙の上に落とされていた視線が、ゆっくりと、ゆっくりと、上がってきた。
呆然、と表現するほかない。
もとより丸いのにより一層丸く大きくなった若葉色の瞳。ぽかんと小さく開いた口。
その口が、僅かに動いた。なにか声を発したらしいが、か細くかすれていて聞こえない。
「え?」
「うえの、はるめ?」
「ああ、はい。上野春芽です」
「うそだ」
「はい?」
「うそだ、そんな」
今度は立ち上がり、椅子ごと後ずさりしはじめる。
明らかに様子がおかしい。まずは落ち着いてもらわないと。きちんとした調査を行って、少しでも早くもとの世界に帰してもらわなければ困る。
「あの……髙拉さん?」
なにか動揺していると思しき人間への対処法として、消防士だった父から教わったこと。
とにかく、相手の名前を呼ぶ。
相手に「今ここで生きている自分」という存在の認識をさせて、地に足をつけさせること。そして、「間違いなくあなたに話しかけているのです」と理解してもらうこと。名前を呼ぶとそれがいっぺんにできるのだ、と父は言っていた。仕事中にも役立っていた知識なのだろう。
心の中ではずっと「鶯」と呼んでいたが、さすがにそれは憚られたので、当たり障りなく名字に敬称をつけてみた。
少しは平常心を取り戻してくれるだろうか、と見上げる位置にある顔を覗く――ガタン。
消えた。
違う。立っていたはずの彼が、椅子をひっくり返しながらへたり込んだのだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
慌てて毛布を放り投げて駆け寄り、膝をついて彼の肩に手を置く。
「うわっ……だっ!」
逃げようとしたらしき髙拉さんが、机の角に頭をしたたかに打った。
そうか、彼からすれば私は今「怪しい図書渡り」だ。正体の分からない不審者。恐ろしいに決まっている。不用意に近づくのはよくなかった。距離を取って、謝って、誤解をとかねば。
まずは離れよう、と床に手をついて腰を上げかける。
が、できなかった。
その手になにかが触れている。あたたかい。見下ろすと、手の上に手。つまり、私の手の上に、目の前の青年の手。
「あの……」
「会いたかった」
「……はい?」
「ずっと、あなたに会いたかった」
トーンの上がった甘い声。たっぷり水分を纏って、ランプの光をこれでもかと反射する瞳。明らかに血の巡りが増した頬。
やっぱり夢かもしれない。
こんなメチャクチャで頭の悪い展開、現実なわけがない。