第1章 02 どうせこれは夢だから
――暗い。
目の前に出したはずの手のひらの輪郭すらも見えないほど、暗い。
思えば私は、昔から小さな明かりをつけたまま眠っていた。実家に居た頃は豆電球をひとつ灯していたし、今も光量が調節できるベッドサイドのランプをうっすらと光らせながら眠る。停電が起きても昔は両親がすぐにろうそくをつけてくれたし、今はスマホがある。それに、どちらかといえば都会に分類される街でしか生きたことがないから、どんな真夜中でも外を歩けばどこかの家の明かり、街頭、二十四時間営業のコンビニやファストフード店。
ほんとうの真っ暗闇など、知らずに生きてきた。
暗闇に目が慣れる、とはよく聞く文言だが、一向にその気配はない。いつまで経っても重くひんやりとした黒さだけが広がっている。そっと瞼に触れてみて、やはり閉じていない、と何度確認したことか。
妙な夢だ。ここ数日は電気をつけたまま寝落ちしてばかりで久しぶりにきちんと電気を消して寝たから、こんな妙な夢を見ているのだろう。とはいえ薄い明かりは残していたはずだが。
かれこれ体感で数時間はここに居る。へたに動く勇気もなく大人しくじっとしていたのだけれど、さすがに退屈だ。気を紛らわすことができるものが、なにもない。
どうせこれは夢だから、なにが起こったところで、さして問題はないはず。
ゆっくりと腰を上げて、歩いてみることにした。まずは両手を前に出してみる。障害物がなければ、このまままっすぐ――行けない。
ある。目の前に、壁のようなものがある。ちょうど両肘を伸ばしきったところで、手のひらが乾いた板に触れた。木製だろうか、木目のようなざらつきを感じる。
どうせこれは夢だから、なにが起こったところで、さして問題はないはず。
ふ、と軽やかに浮上してきた好奇心。
両腕に力を込めて、前方に押してみた。
動く。
かなりの重みは感じるのに、面白いくらいするすると滑っていく。こんなに鮮明な夢を見るのは初めてだったが、この都合の良さと整合性のなさには確かな明晰夢らしさがあった。このまま進めば、きっと明るいところに出られるはず。そう思う根拠はないが、根拠などなくとも、思い描いた結果は理屈とは無関係に目の前にあらわれるに違いない。それが夢というものだ。
ゴッ、と音を立てて、両手で触れていたはずのそれの感触が下へと滑って離れていった。その瞬間、熱が瞼を覆う。これは光だ。ほらね、明るいところへ出られた。瞬き。瞬き。少しずつ光に目が慣れる。落ちる。落ちる。……落ちる?
前へ踏み出していた左足はまっすぐ下へおろしたはずなのに、一向に床に触れない。ものの輪郭をようやくとらえはじめた視界。足元を見下ろすと、遠く遠く、木箱のようなものが落ちていく光景。それは途中バランスを失ったようにぐるりと縦に半回転し、中から飛び出してきた赤や緑や青のなにかが質量を持って宙を舞う。あれは本だ。あの木箱は本棚だった。私は背面からそれを押していたのだ。その本棚が落ちていく。私の身体も、重力へ吸い込まれていく。それらを悟る、長い長い一瞬。
落ちる夢って、どんな意味があるんだろう。落ちた後に衝撃で目が覚めるはず。そうしたら夢占いのサイトでも見てみよう。浮遊感が足元から全身へと広がっていく。もしかしたら、落ちる夢というより、死ぬ夢、ということになるのかもしれない――
ガクン。
浮遊感が消えた。
かろうじて文字通り地に足がついていた右足を支点に、体重がぐんと後ろへ傾く。傾かされる。
やわらかいような、かたいような、生ぬるい感触が後頭部から背中にかけて広がった。腰から下は硬くて冷たい。
「大丈夫ですか」
人だ。
見上げると、上下が逆さまになった人の顔。この生ぬるさは人肌か。下半身が床に触れているということは、落ちていない。どうして私は人の顔を逆さまに見上げているのだろうと考え、これはどうも後ろから座ったまま抱きかかえられているのだと理解する。見たことのない顔。知らない人。そんな情報のパーツひとつひとつを拾い、組み合わせ、それからようやく私は悲鳴をあげた。
知らない場所。知らない人。しかも、若い男。
振り向きざまの悲鳴もそこそこに、私は男の両脚の間から抜け出して立ち上がった。が、すぐに尻もちをついた。向かい合うかたちになった男が、私の腕をがっちり掴んだのだ。その身体は軍服めいた制服を纏っていて、恐怖がいや増す。
「動かないでください」
「いや、あの、わたし、すみません、ごめんなさい、許してください!」
「暴れないで。落ちますよ」
落ちますよ。
すうっと頭のてっぺんから爪先へ冷水を注がれたように、身体中を蝕んでいた高熱の動揺が鎮まった。その反面、冷静な混乱がじわじわと湧き上がってくる。
奈落の底へと落ちていくのかと思うほどの高さがある、知らない場所。私の腕を掴んで床の上へ引っ張り戻した、知らない人。
ここはどこで、この人は誰だ。
私は初めて見た明晰夢を、完全に持て余していた。
「このまま後ろに下がれば、あなたは落ちてしまいます。高さはさきほど見たでしょう。それと、ここは外からだろうが内からだろうが鍵がないと扉を開けられません。そして、私はあなたに今ここで危害を加えるつもりは一切ありません。逃げることはできないし、逃げる理由もありませんね。ここから動かず、まずはゆっくりと深呼吸してください。それを約束するなら、この手を放します」
少し鼻にかかったような、独特の響きのある声だ。ひとつひとつ言い聞かせるようにゆっくりと話されると、余計にその声の甘さと泰然とした話し口の落差を感じる。
頷くと、体温が離れていった。厳しい視線を感じる。瞳だけをよく見るときれいな若葉色で丸く愛らしげなかたちをしているが、視線は鋭く、細い眉は厳しく吊り上がっている。大人しく深呼吸をしてみせた方がよさそうだ。二度、三度、と繰り返すと、男は立ち上がった。その髪は根本はチョコレート色で、毛先に向かって灰色になるグラデーション。かたちは多少洒落っ気があるくらいのただのショートカットだが、この色は現実ではそうそうお目にかかれない。
「まずは地上へ上がりましょう」
「地上へって……ここ、地下なんですか?」
先ほど見下ろした記憶は既に曖昧になりかけているが、それでも螺旋の数はゆうに三十階分はあっただろう。地下三十階だなんて聞いたこともない。実際に造ることが可能な数字なのかどうかも分からない。今日の夢は規模がめちゃくちゃだ。
「まだ気づいていないんですね」
男に差し伸べられた手を、短い逡巡の末に掴む。引っ張り上げられた私の肩越しに、男は私の背後を指差した。それにつられて振り返る。
左右に伸びる細い通路。腰のあたりまでの高さの柵は、私の目の前の部分にだけ無い。もともとそうだったから本棚が落ちたのか、本棚を落としたから手すりも壊れたのか。
そして。
広い広い螺旋階段。もちろん窓なんてひとつもなく、壁じゅうに並んだ本棚にぎっしりとあらゆる本が詰め込まれている。真ん中の吹き抜けの横幅は五十メートルはあろうか。最下層までは霞むほど遠い。
「ここは帝都・塔京にある『搭京国立図書監』です。あなたはそれを知っているはずですよ」
ていと・とうきょうの、こくりつとしょかん。
それが「帝都・搭京」の「国立図書監」と書くのだと、確かに私は知っていた。