第1章 15 きみたちの人生を描く物語の最も新しいページ
「監長ッ!」駒の慟哭は、ちぎれんばかりだった。「戻ってください!」
しかし瑠璃嗚は戻らない。ざっくりと刈り上げたうなじに指を入れ、その上にかぶさるように影を落とす白銀のショート・カットを風に散らした。
「きみが、この橙光の都・搭京で命のはなびらを散らす、いたずらな黒南風――ジャック・ザ・リッパーかい?」
保谷はナイフの切っ先を揺らした。それは威嚇か、震えか。いずれにせよ婦女の喉元に深く触れ、赤い粒がしとりと浮かんだ。
しかし瑠璃嗚は動じない。むしろ一歩、一歩、肩章のフリンジの揺れる双肩で風を切りながら、長い脚を前へ進めてゆく。
「来るな。来るなよ。おい」
「声がふるえているぞ。ぼうや」
「来るなって、言っているだろうッ!」
ナイフが――瑠璃嗚に向けられた。
それは、婦女の喉から離れたことを意味する。
「ペンは、剣よりも強く」
瑠璃嗚の一歩は大きい。ぐんと懐に潜り込み、沈めた身体を捻りながら右脚を蹴り上げた。玉のようにつややかに磨かれた純白のブーツの先がとらえたのは、保谷の肘。
「あがッ……てめェ……!」
腕じゅうに走った痺れに、ナイフは宙を舞い、あっけなく床の上を滑った。保谷は勇んで瑠璃嗚に掴みかかる。
「ステゴロは、ナイフより強く」
瑠璃嗚は保谷の手首をぐっと握ると、その手のひらを指先が上へ来るように押し開き、保谷の胴体へ向かうように、斜め前へと体重をかけた。皮膚が裂けるような痛みに保谷は膝から崩れ落ち、まるでそうするのが自然の摂理であるかのように、うつ伏せに倒れ込む。
しかし瑠璃嗚は止まらない。保谷の背中に馬乗りになり、両腕を彼自身の背中に回す。そしてその腕に己の太腿をあて、グンと押し上げた。
「ぼくは、きみよりも強い」
慟哭。先刻の駒のそれより、悲痛な。
生気を失った保谷は、取調室でするすると言葉を吐いた。
「先生が言ったんだ。十人殺せば帰れるって」
「また『先生』ですよ」
警察署を出ると、暁の気配も薄れ、すっかり朝らしくみずみずしい空が広がっていた。朝陽はすべてを祝福するかのように照り映え、それが駒にはたまらなくもどかしく思えた。今は、そんな気分ではなかった。
「監長、やはりその『先生』とかいうものの足取りを……」
「おっと。いけないよ、小込くん」
瑠璃嗚は駒の唇にそっと人差し指をあてた。
「それは司書の仕事ではない。それに、まどろっこしいことはきらいでね。ぼくはミステリは読むが、推理しながらは読まないのさ。ただ、そこに在り、そこに生き、そこに死に、そこで滅びるもののあはれを慈しむだけ」
「……ああ。そうですか」
――これだからきらいなんだ、この人のことが。
「それより、哀れな髙拉くんの見舞いに行ってあげよう。手土産に花を贈ろうか。カサブランカなんてどうだろう」
「知りませんよ。好きにしてください」
駒は大股で病院の方へと歩き出した。後ろからついてくる愉快気な笑い声が、ひどく不愉快だった。
◇
「また緊張してきちゃった」
懐中時計の蓋を指で撫でながら、比恵木くんが肩をすくめた。
「僕、ここの監長を生で見るの、初めてなんだよね」
「私も」
私と比恵木くんとでは「生で見る」の意味合いは違う気もするけれど。
「あの監長に熱をあげているひとって、ご婦人が多いようで、実は僕たちくらいの世代の男子にも人気だって知ってた?」
「ああ、分からないでもないかな。憧れてるとか、そういう?」
隣人はそうそう、と頷く。
搭京国立図書監の監長、緒々束瑠璃嗚。「図書監の防衛戦」の作中では「鈴蘭のような美貌」を持つと言われている。涼しげな眼差し、すっと通った鼻筋、薄い唇、白銀の髪、高い背と長い脚、無駄なく引き締まった肉体とロングコートを颯爽と翻す身のこなし。そのいずれもが、作中ではっきりと描写されている。恐らく誰よりも容姿について言及されている存在だ。大仰で芝居じみた言動に駒はいつもげんなりとしていたが、その一方で多くの女性から黄色い声を一身に浴びる存在でもある。かくいう私も、読み進めながらその登場を心のどこかでいつも待ちわびていた。多少きざな方が実はときめいてしまうという女心だ。
ビーッ……。
講堂の中に、突如開演ブザーのような音が低く鳴り響いた。演劇ホール然としたこの場所にはふさわしいが、入職式という催し事にはあまり似つかわしくない音。思わず比恵木くんと目を見合わせたが、互いに特になにを言うでもなく、どちらからともなく壇上を覆い隠す幕へと視線を向けた。
入職式が始まる。そしてきっと、緒々束瑠璃嗚が出てくる。
期待と緊張。
するすると焦らすように、幕が上がっていく。
――あれ?
「誰も居ない……」
どこかから、そんな声が聞こえた。
まっさらなステージ。ものも、ひとも、その上に存在しない。
ふ、と灯りが消えた。行燈も、シャンデリアも。薄暗くなった講堂内にざわめきが広がっていく。
「ぼくはここだ」
声。
すべてを軽やかにねじ伏せるような自信と存在感で結い上げたような、声。
光。
背後から白い光が強く差し込んだ。振り返ると、出入口の扉が開け放たれている。人間の輪郭がひとつ。それは逆光にかすみ、私は目を細めた。
その人影のそばから「きゃあ」と短く黄色い声があがる。
「おはよう。いい朝だね、ひな鳥たち」
一歩、一歩、歩いてくる。
「きみたちは今日、新たな司書としてここに産まれた。きみたちの人生を描く物語の最も新しいページには、今日この日が描かれる」
一歩、一歩、今ここに流れる時間の粒ひとつひとつの余韻を味わうように、歩いてくる。
「ぼくの愛する図書監がきみたちの物語の舞台になること、そしてぼくが君たちひとりひとりの物語の舞台装置となれる可能性を秘めていること。これほどにうれしいことはない」
一歩、一歩、ひとりひとりの顔をゆっくりと見つめながら、歩いてくる。
「願わくは、きみたちの物語が一ページでも多く、豊かに鮮やかに彩られてゆかんことを。これをもって、きみたちへの言祝ぎとしよう」
一歩、一歩、一歩……私の目の前を通り過ぎて、壇上へと上がっていく。
涼しげな眼差し、すっと通った鼻筋、薄い唇、白銀の髪、高い背と長い脚、無駄なく引き締まった肉体とロングコートを颯爽と翻す身のこなし。
「ようこそ。搭京国立図書監へ」
そのすべてを備えた初老過ぎの女性は、胸に手を当て、そっと頭を下げた。