第1章 14 途方もなく広く繊細で色濃い世界
「どこか休める場所を探しましょう」
まずは近くの図書監員に声を掛けようと周囲を見回す。
「すみません、この方が……」
「失礼、少し下がって」
最初に目が合った男性がつかつかと歩み寄ってきた。数歩下がると、彼はあいた隙間に身体を滑り込ませる。今にも倒れそうな青年の、真正面。
バチン!
「ひゃっ!」
ゴムを弾いたような大きな音。
目の前で勢いよく柏手を打たれ、青年は目を白黒させたのち、しゃっきりと背筋を伸ばした。
「隼ちゃん」
「今日からは『五十反田さん』だ。吐き気は失せたか?」
「あはは、おかげさまで」
青年は照れ臭そうに声を低める。
シュン。そしてイソタンダ。
この世界で二人目の、私が知る名前だった。
五十反田隼。搭京国立図書監の、保全課の課長。つまり髙拉鶯と小込駒の直属の上司だ。元警察官ということもあり、規律に厳しく、己に厳しく、他人に厳しく、しかしそれは優しさの裏返し――という、絵に描いたような「理想の上司」。
今朝の軟派男ほどではないが背が高い。というより、肩幅ががっしりしているおかげで身体全体が大きく見えるような印象がある。私の勝手な想像での「五十反田隼」はもう少し細身だったが、「いいえ彼こそが五十反田隼です」と言われても納得がいく。むしろこれくらい厚みのある体躯を持っている姿の方がしっくりきた。
五十反田隼は嘆息し、細い瞳をするりとこちらに向けた。
「この男がまた似たような症状を出したら、同じように目の前で手を叩いてやってくれ。それで目を覚ます」
「いやあ、お恥ずかしい」
「入職式の会場は最奥の大講堂だ。五分前までには着席するように」
「はーい」
青年の間延びした返事につられそうになりながらも、歯切れよく「はい」と答える。
「じゃ、行こっか」
さきほどまでの薄暗い表情はどこへやら、青年は柔和な笑みを浮かべて歩き出した。足取りもしっかりしている。
「僕は比恵木寿近、専門学校のあと司書試験に二度落っこちたから、二十二歳だよ。冷え冷え涼しい、みたいな語感の名前のやつが居たなあ、って感じで覚えてね。きみは?」
きた。
動揺を気取られないよう、喉に力を込める。どうか、震えるな。
「上野春芽。よろしくね」
「うん、よろしく。図書監の四階なんて、いやあ、わくわくするなあ。『関係者以外立ち入るべからず』の柵の先だよ、とうとう来たんだって感じだ」
――越えた。
安堵で目がくらみそうだ。
本名を言えた。どうやら正体はバレていない。二十四歳で新人司書というのが珍しいのかそうでないのか分からず年齢はしれっと言わずにおいたが、深追いされない。
いける。やれる。ごまかせる。大丈夫。
「さっきの方とは、お知り合い?」
気持ちに余裕が出てきたので、クールダウンも兼ねて疑問を投げかけてみた。ヒエノキスズチカという名前は「図書監の防衛戦」には出てこなかったはずだが、彼は主要人物である五十反田隼と親しげだった。
階段の先、廊下にも延々と赤い絨毯が続く。足音は吸い込まれて響かない。
「幼馴染なんだ。今は姉ちゃんの旦那さんでもあるかな」
「そっ……うなんだ」
旦那さん?
聞き流せない単語に、せっかく落ち着きはじめていた心臓がまた動揺でぐらぐら揺れはじめた。
実は新人司書の中に幼馴染が居た――それくらいなら、まだ分かる。しかし、既婚者であることすら、あの物語の中にはかけらも描かれていなかった。
「一冊の本」という世界の、なんと狭いことか。その中には、ほんのわずかな一部分しか映っていない。
……いや、違う。逆だ。この世界は、広いのだ。途方もなく広く、繊細で、色濃い。一冊の本にはとうてい描ききれないくらいに。
私が元いた世界も、そうであるように。
私はこの世界のことを、本当になにも知らない。当たり前だ。二十四年間生きてきた世界のことだって、ろくに知らないのに。毎朝通勤電車で乗り合わせるサラリーマンの名前も知らない。よく行っていた本屋で働いている女の子が先月急に髪を切っていた理由も知らない。オフィスで斜め後ろに座っている先輩に何人子供が居るのかも知らない。
知らないことのひとつひとつに、いちいち驚くのはもうやめだ。隣の彼だって、きっと足繁く通っていたであろうこの図書監の四階より上がどうなっているかなんて、知らなかったのだから。
「うわーっ……」
比恵木くんの惚けたようなため息。
階段からちょうど円の反対側まで来ただろうか。一際大きな両開きの扉が開け放たれた状態で、新人司書たちを待ち構えていた。
中に入ると、半円型のホール。一見すると小ぎれいな市民ホールのような印象だが、座席はすべてファブリックソファで、覗き込むと日本画風のタッチで描かれた鳥と花の刺繍がじっくりと施されている。光源は、足元にずらりと並んだ行燈と、頭上のシャンデリアの二種類。和洋折衷のセンスがやや斜め上だ。三階までの印象があくまでも「レトロな図書館」風だったからこそ、この「特定の誰かが特殊ななにかにこだわらないと絶対にこうはならない」といった作りに圧倒される。本当に「関係者以外立ち入るべからず」の場所なのだろうか。こんなにも一般客を招いて歌劇なりなんなりをやっていそうなのに。
座席は半分近く埋まってきているが、後方に人が集中していた。大学の講義室と同じだと思うと、ここに居る全員に妙に親近感が湧く。
「ねえ、前の方に座らない?」
そう誘われて、素直に頷けた。私ひとりならなんとなく中央辺りに腰を落ち着けていたが、この不思議な空間が纏う臨場感のようなものが少しでも強く感じられるのなら、それはとても楽しいのではないかと思えた。