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第1章 13 胃液といっしょに口からまろび出そう……

 あれからつばめはてきぱきと必要最低限のものを揃え、八時半前には私を送り出してくれた。

 ローファー。白いシャツ。肩紐とポケットがついたロングスカートのような袴と、幅広の襟がついた薄手のトンビコートは、いずれもカラスのように真っ黒だ。そして革製のからし色のリュック。他に必要になるようなものはこの中に入れてある、とつばめは言っていた。そして「あなたの今晩からの宿はここです」と鍵をひとつ。二〇六、と書かれた葉っぱのかたちの金属ストラップがついていた。

 行くべき場所と、帰れる場所がある。たったそれだけのことで、鼻の奥がつんとした。

 とまりぎ荘を出て、空を見上げる。図書監へ行くだけなら迷いようがない。なにせ目印がどこからでも見える。見渡す限り建物の多くは二階建てか、どんなに高くても四階建て。だからこそ、東京タワーほどの高さはあるであろう時計塔は、それだけがぽつんと寂しそうに目立っていた。この街はまるで一本だけろうそくを立てたホールケーキみたいだ。

 十分足らずで、ろうそくの足元に辿り着いた。黒っぽい服装の男女がぞろぞろと正面入り口に吸い込まれていく。馴染みのあるリクルートスーツ風も居ればセーラー襟も居るし、私と似たようなコートを着た人もちらほら居る。

 髙拉さんとこそこそ抜け出たばかりの両扉は開け放たれ、チャコールグレーの制服を着た数人が案内をしているようだった。街で一番目立つ場所で働く人々が物珍しいのか、周囲には見物客の人だまりがいくつかできている。

 堂々と。動揺を見せるな。静かに。落ち着いて。先に入っていく人と同じようにすればいい。

 短い階段を上り、目が合った図書監員へ会釈をする。

「ようこそ。正面階段から四階へどうぞ」

 はい、と答えた声は少し裏返ったが、すぐ後ろから来た声の方がよほど上ずっていて、「そんなに緊張しないで」などと言われていた。

 赤い絨毯に導かれるまま階段を上る。踊り場から左右にそれて、振り返るようなかたちでまた上る。二階はフロア全体がひらけた一室になっているようで、ずらりと並ぶ本棚、机、椅子。この階は利用者向けの閲覧室のようだ。地元で一番大きかった図書館を彷彿とさせる。また更に上った三階も、同じような景色だった。


     ◇


 窓の外は、街中に蜂蜜を溶かしてゆくような夕暮れであった。図書監の周囲の建物は、その多くが二階建てだ。この搭の三階へ来ると、それだけで景色がひらける。遮蔽物もなく突き進んでくる風が、鶯の髪を激しく混ぜた。こうも吹きすさばれると静かに黄昏ることもできない。しかし、窓を閉める気力も、鶯にはなかった。手近な椅子に崩れるように座り込む。

「人を殴ったのは初めてだったか?」

 見上げると、五十反田(いそたんだ)だった。

「ついでに殴られたのも」

「髙拉は男兄弟が居ないだろう」

「お察しの通り。つられておれまでかわいい女の子みたいに育てられましたよ」

「それにしては随分性根が曲がったな」

「多少性根を曲げるのが、髙拉家の女の処世術なのでしょう。例外は居ましたけどね」

 ごん、と鈍い音がした。卓上に瓶。

「閲覧室は飲食禁止では?」

「今は閉館時間だ」

 規律というものから一歩も足を踏み外さず生きている五十反田にしては、雑な理屈だった。

「いただきます」

「ああ」

「なんですか、これは」

「サイダーだ」

「味は?」

「よもぎだ」

 また妙なものを! そう喉まで出かかったが、鶯はなにも言わなかった。朴念仁の上司がなにを思って瓶を二本握ってここまで追ってきたのか想像できないほど、鶯は恩愛に疎くはなかった。

 未だひりひり痛む手に、冷たい瓶が沁みた。


     ◇


 少し息を切らせながら四階へ。上り終えた瞬間ずんと太腿が重くなり、私は思わず足を止めた。

 今度は建物のかたち――つまりは円形――に沿って、周囲をぐるりと囲うように曲線状に廊下が伸びていた。外側の壁は、壁というよりほぼすべてが窓になっている。反対に内側の壁にある扉はぽつぽつと間遠だ。ここにもまた数人チャコールグレーの人影が散り、奥へ奥へと人を流していく。

 堂々と。動揺を見せるな。静かに。落ち着いて。先に入っていく人と同じようにすればいい。

 繰り返し言い聞かせる。私はただの新人司書。ここに居る誰しもとなにも変わらない。少しだけ足を止めて、こっそりと深呼吸をする。

「あでっ」

 どん、と背中に衝撃。振り返ると、階段の数段分下に居る人影がおでこを撫でていた。階段を上がってすぐのところで足を止めてしまったせいで、上ってきたひとにぶつかられてしまったようだ。

「す、すみませんっ」

「いえ、こちらこそすみません、こんなところに突っ立っちゃってて」

 人影がおでこから手を離した。

 短いふわふわの癖っ毛。やさしげな眦。水の中で鈴を転がしたような、派手ではないけれど爽やかな色のある声。階段を上り終えても、目線の高さが私とあまり変わらない。幅広のスタンドカラーの奥に垣間見えた白い首にある喉仏で、ようやく性別が分かった。一見リクルートスーツのような出で立ちだが、上着はセーラー襟で、黒地に銀のラインが刺繍されている。

「き、緊張するし、こんな高いところまで階段を上ったことなんてないし、もう僕死にそうで、ああ日頃の不摂生への自戒と憧れの司書になれる高揚と僕に務まるのかという不安が混ざり混ざって胃液といっしょに口からまろび出そう……」

 と言いつつ、本当に青ざめた顔で口に手を当てはじめた。

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