第1章 12 まずは、今日一日
こんなにもかんたんに見透かされるなんて。やはり髙拉さんを信じて安易に本名を名乗ったのがまずかったのではなかろうか。ハルメなんて響きはそうそう聞かない。もっと同姓同名がいくらでもいるような偽名を名乗るべきだった。いや、そんなことはもうどうでもいい。バレたんだ。バレているんだ、この子には。誤魔化す? それとも、認めたうえで清廉潔白な人間であると主張する? そうだ、私を知っているということは私の物語の読者だ、私がいかに地味な人生を送ってきたかも知っているはず。髙拉さんは、私の極めて無害な生き様は、この世界の倫理観においてもそうであると言った。だったら後ろ暗いことはなにもないはず。
――その言葉を、信じていいのか?
私の知る「髙拉鶯」は、ひとを貶めるような悪人ではなかった。しかし、たった一冊で他人のなにが分かるというのだろう。彼を「私にとって無害な善人である」と断定する判断材料としては、あまりにも心許ない。
逆もそうだ。一冊が十七冊になろうと変わらない。彼女が私の物語を十七冊読み込んでいたところで、私をどういう人間だと感じるていかなんて分からない。仮に「ただの本の中の登場人物」としては好ましく思ってもらえていたとしても、犯罪者という前提を持つ「図書渡り」であるというただ一点で手のひらを返されない保証がどこにある?
「ごめんなさい。そんな顔なさらないで」
雨粒がひとつ滑るような、小さな声。
「わたし、あなたをどこへも付き出したりしません。わたしは味方です。あなたのファンですもの」
味方。「あ」が強めの発音。つい先程も聞いたような、ふたつの単語。
「本当は兄から昨夜のうちに委細聞いておりました。親類とはいえ丑三つ時に乙女を訪ねる無法者ぶりに呆れはしましたけれど、一刻も早く知らせねばといって」
へ、と気の抜けた音が口からまろび出た。つばめは卓上に置いていた「つばめへ」のペーパーナプキンを指で叩く。
「この頭の悪い筋書きも、あなたと、ついでにわたしもからかいたくて書いたのでしょうね。私も、あなたの困り顔が見てみたくて、うっかり乗ってしまいました。猛省します」
どう反応すべきか迷っている間に、つばめは深く頭を下げ、そして上げ、私の手をそろりと掬った。この子の手は、少しあたたかい。
「わたしも、あなたの出てくる物語を愛読しているんです。というより、私と兄くらいしか読んでおりません」
「そう、だったんですか?」
「あれほど素晴らしい物語を、わたしはほかに知りません」つばめははにかむ。「夢のようなサイエンス・フィクションです。地面の中に空間を作るだなんて、この世界では図書監が下へ下へと掘り進めるくらいのことしかできていないのに、そちらの世界では縦横無尽に地下に大穴を開けて電車を走らせているのでしょう? とても考えられません。けれど、それが当たり前のものとして、ごく自然に描かれている。その中であなたもまた、地に足をつけて生きている。とても愛しい物語です」
サイエンス・フィクション――いわゆるSF。私にとってこの世界が「異世界ファンタジー」であるのと同様に、彼女や髙拉さんにとっては、私の世界は「近未来SF」なのだ。
「春芽さんからすれば、こちらは不便でしょう。困ることもたくさんあるはず。それを見越して、兄は私に声を掛けたんだと思います。女同士でしか言えないこともありますからね。あなたを独り占めせずわたしにも協力を仰いだことだけは褒めてあげられます」
彼女の言うとおりだ。生活のひとつひとつに躓く中で、男である髙拉さんにはとても言えないようなことは少なくない。この世界の衣類、主に下着は一体どんなものがあるのだろう。それに予定通りなら来週には生理が来る。
伏せてしまっていた目を、少しだけ上向ける。それだけで彼女の顔が見える。それくらい小さな、きっとまだ二十歳にも満たないような女の子。若葉色の瞳。あたたかな手。
信じてみようと、素直にそう思えた。
「……でも、あの男ったら、わたしが妹で、あなたのことをよく知っている味方であることは話していないだなんて。不出来です。不親切です。ついでにふしだらです」
ふしだら、はちょっと違うような。
「あれの話はもうよしましょう。九時には図書監へ行かなければならないのでしょう。はやく支度をしないと。そうだ、なにか朝食代わりになるようなものを探してきます」
「いえ、私はもう食べたので大丈夫ですよ」
「それは良かった。じゃあ、私だけなにかつまんでおこうかな」
「あ、それなら」
傍らに置いていた紙袋をあけてみる。甘く香ばしい香り。ふっくらとした大きなカップケーキがふたつ。生地に混ぜ込まれている大粒のかけらたちは――チョコレートだ。
泣きたくなるような、深い安堵。この世界にもチョコレートがあって、そしてあの人がポンと渡してくれたということはある程度は手軽に手に入るものなのだという、ただそれだけのことで、胸が詰まるほど嬉しい。きっと、目の前に居るこの少女と髙拉さんを信じてみようと決めたことも、それを助長していた。
「もしかして、時和さん?」
気がつくと、つばめもじっとカップケーキを見つめていた。トキワという響きにピンとこず首を傾げる。
「『カフェー・イヴェール』という店に行きませんでしたか?」
「ああ!」
あの女給さんのお名前はトキワさんというのか。
「かわいらしくて、やさしい方でした」
つばめにひとつ手渡して、私も包み紙をはがす。朝食後でも、甘いものは別腹だ。
しっとりとやわらかで軽い舌触り。どんな砂糖にもクリームにも餡子にもない、身体中がとろりとほぐされていくような、それでいて頭の真ん中をきゅうっと絞られるような背徳感。
まずは、今日一日。
お腹の底に、気合と覚悟を据わらせる。