第1章 11 とまりぎ荘
さて。
店を出て、渡された二枚のメモをしげしげと睨む。折り畳まれた表にはそれぞれ「春芽さんへ」「つばめへ」と書いてある。後者のつばめさんというのは二◯一号室とやらの主だろうか。とりあえず私宛ての前者を開くと、簡易的な地図だ。
書かれているのは、「図書監」、現在地である「カフェー・イヴェール」、そして目的地だと矢印で示してある「とまりぎ荘」。その間に道として線がいくつか引かれている。以上。それだけ。
分かるか、こんなんで! と言いたいのはやまやまだが、言ったところで話は進まない。
図書監からここまでの道のりはよく覚えていないが、辺りを見回すと時計塔が見えた。あれが図書監の位置だ、というところから考えてみよう。
ここがあっちということは、この道はこれだろうか。いや、あれがそっちだとしたら逆になる。とすると……。
……いや。無理がある。目印が少なすぎる。
試しに少し歩いてみたが、歩けば歩くほど分からなくなっていった。
一度図書監に戻ろう。髙拉さんを捕まえて、もっと詳しく聞き出さねば。溜め息をつきながら踵を返す。
「わぷっ」
とん、と正面からなにかにぶつかった。思わずよろける。
「す、すみません」
「いえ。こちらこそ」
見ると、ぐんと背の高い男性だった。百八十センチはゆうに超えているだろうか。その頭がするりと下へ沈み、思わず後ずさる。
「落としたよ」
髙拉さんのアバウト地図だ。ぶつかった拍子に落としたらしい。彼は足元から拾い上げたそれを私に差し出してくる。
「ありがとうございます」
「迷子?」
しゃがんだまま、男性はこちらを見上げて目を細めた。柔和なたれ目。
「さっきからそれ見て右往左往してたから。案内してあげよっか」
「え」
「とまりぎ荘だろ? 知り合いが下宿してるんだ」
骨ばった指がメモを指差す。
「どう? 初対面の色男に拐かされる危険はあるけど、賭けてみる? ちなみに俺は善人じゃないから、なにかあっても自己責任だよ」
とっくに成人済みと思しき大男が頬杖をつくようにして両頬に手を添えてにんまり笑っている。
まともじゃない男、優しい女の子、そしてまたまともじゃない男が出てきた。
「邪魔」
「へぶっ」
男ががくんと俯いた。それもそのはずだ、広い背中を後ろからぐいぐい蹴り押されているのだから、体勢的にそうなる。
現れたのは小柄な少女だった。先程の女給さんよりも、また更に小さい。光に透けて銀色のようにも見える焦茶色の髪は腰ほどまで長く、まさしくお人形さんのよう。上半身はセーラー襟にリボン姿だが、下は袴だ。袖も和服のように幅広で、小洒落た創作ファッションのように見える。
「ごめんなさい。この腐れスケコマシ、あとで躾けておくので」
「イタタ、つばめちゃん、俺こういう趣味はないんだけどな……」
ん?
ポケットに入れていたもう一枚のメモを出す。宛名は「つばめへ」。
もしかして。
「とまりぎ荘の、つばめさん?」
少女はつぶらな瞳をぱちくり瞬きして私をじっと見たあと、こくんと頷いた。
◇
少女、もといつばめさんは、男をもうひと蹴りして「あなたは仕事に行きなさい、ついてこないで」と静かな声で粛々と言い放ち、私の手を引いてさっさと歩き出した。表情も声色もあまり動かない子のようだけれど、決断力やら行動力やら理解力やらは、そのへんの大人よりよほどしっかりしているらしい。
しかし。
「……」
「……」
見てくる。
ちらちらと、ものすごく見てくる。
「兄の、お知り合いさんですか?」
「兄?」
「髙拉鶯という性根の曲がった男です」
「え、妹さん!?」
言われてみれば、彼女の丸い瞳の色は髙拉さんのそれによく似ていた。
「ええと、そうです。髙拉さんに紹介されてきました。上野春芽といいます。季節の春に、芽吹くの芽です」
つばめさんはぴたりと足を止めた。いよいよ私をじっくりと凝視しはじめた彼女から目を逸らすと、前を路面電車が通って行った。
「髙拉さん、妹さんがいらっしゃったんですね」
なんとなく気まずくて、当たり障りない話題をふる。
あの髙拉鶯に妹が居たとは。「図書監の防衛戦」には一切出てこなかった。やはりこの世界は知らないことだらけだ。
「そんなことも教えず私のところへよこしたんですか、あのアンポンタン」
アンポンタン、とすっぱり言い捨てられた髙拉さんを気の毒がってあげた方がいいのかもしれないが、内心すっきりしてしまっている。
「上野、春芽さんとおっしゃるのね」
改めて聞かれると、本当に本名を明かしてよいものかという不安が頭をもたげたが、頷く。
「わたしは髙拉つばめです。どうか、つばめと呼んでください」
そうはにかんで、彼女は線路の上を横切るようにしてまた歩き出した。手を引かれて、私もついていく。
すれ違う人々は、私からしても見慣れているようなスーツ姿や着物姿もあれば、フードつきの甚平を着た少年やロングの外套を羽織った女の子など、珍しい服装も混ざっている。
街の景色もやはり不思議だ。黒い煉瓦の軒先にオレンジ色の提灯がずらりと下がっていたり、路地の奥を覗き込むと「ダンゴ」と書かれたネオンらしき看板が出ていたり。
「着きました。ここがとまりぎ荘です」
これはまた、なんともかわいらしい。
横長の二階建てで、茶色い煉瓦の壁に白い窓枠が等間隔に並んでいる。それぞれの窓からは鉢植えやレースのカーテンが覗く。
「それ、わたし宛てでしょう。くださいな」
小さな両手を差し出され、そこに髙拉さんからのメモを乗せた。「相変わらず、きちゃない字」としかめ面で読んでいる。つぶらな瞳が上へ下へ。
「……オタンコナス」
小声でぽつり。
「ゆきずりのご婦人を拐かしてきただなんて。でも、あなたもあなたです。婚約者に先立たれ頼るあてがないからって、あんな畜生に釣られてしまうなんて、身を滅ぼします。一刻も早く然るべき機関へ参りましょう。仕事や住む場所を斡旋してもらえるはずです」
「あの、ち、ちょっと待って、それ貸してくださいっ」
渡したばかりのメモを返してもらい、走り書きされた文字列を読んでいく。いかにも明治大正らしい古風な書き口だったらどうしようかと一瞬思ったが、現代とさほど変わらない、漢字とひらがな交じりの縦書きだった。
――つばめへ
――夜の往来で愁然とした面持ちの天女に巡り合いました。聞けば婚約者を亡くし職も失くし路頭に迷い、世を儚んで身投げをしにゆく道中であると。これを見捨ててはおけまい。図書監の司書として働けるよう取り計らいました。つばめは彼女に当面の衣類や身支度品などを貸しておやり。
なんだこれ。
「また嘘ばっかり……」
「あの畜生、とうとうわたしにまで嘘をつくようになったのね。舌引っこ抜いてやる」
無表情のまま立て板に水で暴言が出てくる。
「それでは、あなたは本当はどこのどなた?」
――しまった。
なんだこのサムいドラマのような謎設定は、そもそも九州から上京云々の話から若干内容が変わっているではないか、なにが「嘘は最低限」だ、などと憤っている場合ではなかった。私は素性を伏せなければならない身。どんなに悪趣味な内容でも、髙拉さんが私の身の安全のためにでっちあげてくれた設定だ。安易に否定してはならなかったのだ。
どうしよう。自分の浅はかさを恨みながら、必死で頭を回す。
「あの、怪しいものではなくて、人畜無害な一般人で、その、勤め先が立ち行かなくなって搭京まで来たのは本当でして」ここで胸が痛んだが怯んではならない。「嘘というのは婚約者うんぬんのくだりで……」
「ふふ」
俯いていた私の耳に、くすぐるような声。
「かわいらしいお人」
「……え?」
「冗談はさておき。さ、こちらへいらして。朝の散歩の後は紅茶を淹れてますの、あなたにもご馳走します」
呆気に取られる私を置いて、つばめは外階段をたんたんと上っていく。慌てて追いかけると、彼女は二階の一室の前で扉を開けて手招きをした。
「そちらに座って待ってて」
促されるまま中へ入り、レースがついたかわいらしい座布団の上へ腰を落ち着ける。八畳ほどのワンルームだ。畳の上にはちゃぶ台と、ぎっしりと本が詰め込まれた本棚、こぢんまりとした白いドレッサー。つばめが立っている玄関横の台所はオレンジ色のタイル張りで、ガスコンロのようなものあり、明治や大正というよりは昭和を思わせる面持ちだ。
しばらくそわそわしていると、お盆を持ったつばめが斜め前に膝をついた。苺柄のティーカップがソーサー付きで差し出される。
色々と聞きたいことはあるが、少女に柔和な笑顔でお茶を出されて口をつけないわけにもいかない。少し吹き冷ましてから一口。
「……おいしい」
紅茶って、こんなにほっとするものだっただろうか。差し入れでペットボトル入りの甘い紅茶をもらうことは時折あったが、こうしてカップに入ったストレートティーを飲むのはいつぶりだろう。なんだか目の覚める思いだった。
「ね、春芽さん」
ほぐれた心に、つばめのやわらかな声が沁みる。
「あなた、図書渡りでしょう」
――えっ。
心臓がすとんと矢で射抜かれ、冷たい地面に転がされた。