第1章 10 そこでひとつ提案です
レモネードを一口煽って、髙拉さんはグラスを置いた手をこちらに伸ばしてきた。あっと思う頃にはもう、結露で濡れた指が私のこめかみに触れている。
「いいですか」
私の頭を抱えて、耳元で声を潜める。
「あなたは図書渡りです」
この世界で、異質な存在。
髙拉さんはそれだけ囁くと、あっさりと私から離れていった。
「その出自は黙っておくほうが賢明でしょう」
子供に言い聞かせるように薄く半月を描いた唇に、私のこめかみに触れたばかりの人差し指を添える。
知られてはならないこと。だから髙拉さんは「図書渡り」という単語を周りに聞かれないようにしたのだ。そう理解して、頭が冴えてきた。
私が図書渡りだと知られたら、あらぬ嫌疑をかけられる恐れがある。髙拉さんが私を人畜無害だと信じてくれたのは、私をよく知っていたからだ。万人がそうとは限らない。
「帰るまでの間、誰にも気取られず、ここで生活していく。それが、今あなたのすべきことです」
若葉色の目に射抜かれる。生唾を飲み下す音が、自分の身体の中から鼓膜に響く。
「そこでひとつ提案です」
ぱっと声のトーンを上げて、髙拉さんはほがらかに笑った。今度は人差し指をぴんと立てる。
「図書監の司書として働きませんか?」
きれいな笑顔を崩さない髙拉さんを見つめる。
なにを考えているんだ、このひとは。
「ちょうど今日は四月一日です。多くの新たな司書たちが図書監で働きはじめる門出の日ですよ。春芽さんはとても運がいい。その中に紛れ込んでしまいましょう。あなたひとりでフラフラしていたら、ボロが出ないとも限りません。司書になってくれれば、おれが近くに居ますから、いくらでもうまくごまかしてあげられます。それに、なにかしている方が時間が過ぎるのが早いですしね。春芽さんは本がなければ三連休だって持て余してしまうようなお人なんですから。さあ、今のうちにあなたの『設定』を固めておきましょう。あなたは正直すぎるので、嘘は最低限にしましょう。お名前は偽らずにそのままで大丈夫ですよ、あなたの本の読者はとてもとても少ないんです。名前だけであなたの正体に気づくひとはそうそう居ません。さて、ここからは虚偽なので、よく聞いて、よく覚えてくださいね。いいですか。あなたは遠く九州の問屋で働いていた。そこが経営不振で一斉に首切りをすることになり、あなたは率先してその職を離れ、単身で搭京へと移住した。学のある才女であるあなたは、どこででもやっていける自信があった」
「あの、私そんな才女じゃないですけど……嘘は最低限がいいって、さっき……」
「ああ失礼、あなたご自身の自己評価はそうでしたね。では、あなたが問屋を一番に辞めたのは、家庭のためにそう簡単に職を失えない仲間たちを想ってのことだった、ということにしましょう。すべては優しさゆえです」
そう言い切られましても、同じ状況に陥ったとして、同じように行動できる自信はまったくないのだが。髙拉さんは私の儚いツッコミを置き去りにして、ただ就職でなんとなく上京しただけの私の過去を異世界ナイズドさせていく。
「幼少期から本が好きだったあなたは塔京で司書を志望し、短期間の勉強で気持ち良く合格。今日から晴れて国立図書監の新人司書としての新しい人生を歩みます」
「そうですね、一か月間だけね……」
怒涛のマシンガントークに食傷気味でげんなりしながら、とろとろと考える。私立の大学をそれなりの成績で卒業して、それなりの会社に就職しただけの私の人生を読んでいるはずなのに、彼はどうしてこう私を美化しまくっているのだ。この世界で司書になるための試験の内容も知らないのに、あっさり合格、だなんて。
「……ちょっと待って。司書になるっていったって、私、試験も手続きもなにもしていませんよ」
「ご安心ください。手は打ってあります。もう新人司書の名簿一覧に『上野春芽』の名は並んでいます。今頃監長がそれを眺めている頃合いでしょう。あのひとはどんな必要書類だって当日の朝にならないとろくに目を通さない」
「……手は打ってある、って言いました?」
「はい」
「もう既に?」
「もう既に」
揺るぎない百点スマイル。というか、百点のテストを見せにきた小学生スマイル。めまいがしてきた。なにもかも先回りして決め打ちされているではないか。しかも不正ではないか。とは思いつつ、私にとっても最も都合のいい環境を作ってもらえているのは事実だ。
一か月の辛抱だ。ここまで付き合ってくれているのだから、こちらも最後まで付き合うのが筋ではないか。
「さあ、そうと決まれば、もう時間がありません。九時には図書監の第一閲覧室に集合ですからね。今日だけはおひとりで乗り切ってください。おれは通常業務があるので、新人向けの集まりには顔を出せません」
「えっ」
「ご安心ください、四月中はずっと日勤なので、明日からはご一緒できますよ。ああ、もう七時半だ。春芽さん、あなたはこの住所に行って、二◯一号室を訪ねて、てきとうな服を借りてきてください。本来その制服は今日の午後に配られるものなんです。採寸のうえ丈や身幅が丁度いいものが配られますから、ご安心を。おれは監長たちが出てくる前に、一度図書監に戻ります」
この人は一度話し出すと、こちらが相槌を挟む隙すらろくに与えない。ペーパーナプキンになにか走り書きをしながら話し終えたかと思うと、あれよあれよという間に会計を済ませ、私の「ごちそうさまでした」を聞き終えるが早いか、書き終えたばかりのメモを二枚押し付けてすたすたと歩いていった。
嵐が去ったレジ前で呆然と立ち尽くす。
「ああ、おもしろい」
会計をしてくれたのは、あの出迎えてくれた女給さんだった。古い西洋映画にでも出てきそうなワープロ機に似たレジに見慣れない紙幣をしまいながら、くすくすと笑っている。
「あんなに楽しそうにおしゃべりしてる鶯さんは初めて見た。一体なんのお話をしてらっしゃったのか気になるわ」
「そ、それは……」
「あら、ごめんなさい、言わなくてもいいのよ。あなた、図書監の司書さん?」
「……ええと……そうですね、新人ですが」
どう答えるか迷ったが、この制服を着ている以上、それ以外にはなにも言えまい。
「たいへんなお仕事だけど、無理なさらないでね。疲れたらいつでもいらして。ねえ、甘いものはお好き?」
彼女はフリルエプロンを揺らして、背後の棚からなにかを取り出しながら振り向いた。反射的に頷くとなにか差し出され、思わず両手を出す。
小さな茶色い紙袋。
「お試しで作ったお菓子なの。我ながら上出来よ」
「ときちゃーん」
「はぁい、ただいま」
ぱたぱたと去っていこうとする女給さんを「あの」と引き止める。
「ありがとうございます」
彼女は穏やかに笑ったあと、不敵なウインクを見せた。かわいらしい仕草のようでいて、人生で起こる一通りのことはすべてこなした後のような余裕も漂っている。不思議なひとだ。
私が手放しで頼っていいような人は居ないとしても、ちゃんと、いい人は居る。それだけで安心できた。