第1章 01 てのひらの上に、世界がひとつ、ある。
てのひらの上に、世界がひとつ、ある。
◇
まずは熱、次に風。間髪を入れず襲ってくる轟音と地鳴り。立ち込める煙の中、それらすべてが今目の前で起きた爆発によるものだと理解するより早く、駒は駆け出していた。
「鶯くん!」
そう発した直後、駒は激しく噎せた。砂塵をはらんだ煙を吸い、焼き切られそうなほどの痺れが喉に走る。
それでも。
「鶯くん、出てきて! 返事をしなさい!」
たったそれだけを叫ぶ間にも繰り返し咳き込み、痺れるような痛みとともに涙が滲む。
この搭京の街のシンボルである時計塔は、あと数分もすれば崩れ落ちるだろう。この場にいる誰もがそれを疑う余地もないほどの激しい炎。
その渦中へ、駒は迷わず飛び込んだ。
――許さない。絶対に許さない。あの男は、この先にあるものがハッピー・エンドだと信じて疑わない。なんて大馬鹿野郎だ。
口元にあてた袖口を濡らしているのが涙なのか涎なのか汗なのか、駒にはもう分からない。だが、そんなことはどうでもよかった。
髙拉鶯を連れ戻す。
――あんたひとりが居なくなるだけで、あたしのハッピー・エンドは破綻する。ぶん殴ってでも、それを分からせてやる。
その意地ともとれる意志だけが、駒の両足を前へ前へと突き動かしていた。
その意地ともとれる意志だけが、駒の両足を前へ前へと突き動かしていた。
その意地ともとれる――
◇
だめだ。目が滑る。
枕もとを探ってつまみ上げた栞を、本の間に差し込んだ。その手で今度はスマホを持ち上げる。壁掛け時計を見上げる気力もない。時刻はまだ夜の九時半過ぎ。それなのに、身体中が生温かい水の底へ沈んでいくような、どうしようもないほどの重い眠気。
三十一もあったはずの三月は、日ごと春めいてゆく気配も味わえないまま嵐のような忙しさに揉まれているうちに流れ流れていった。今日はもう三月三十日。それもあと残り二時間と少し。夜が明ければ、私の社会人二年生としての最後の一日となる月曜日だ。
急遽産休が前倒しになった中堅ポジションの先輩の抜けた穴は大きく、かといって五月には研修を終えた新入社員が配属されてくるうちの部署に、それ以上の人員補充があるわけもなく。
舞い込んでくる仕事をさばいているうちに月曜が終わり、トラブルの後始末で火曜が終わり、火曜のしわ寄せを片づけていたら水曜が終わり、どうにか持ち直したところで木曜が終わり、一息つく暇もなく金曜が終わる。泥のように眠るだけで土曜が消えてゆき、かろうじて回復した体力で洗濯、掃除、買い物、料理の作り置き等々をしたら、もう私の休日はろくに残っていない。そんな生活が四週間。
ここで眠ったら、あっという間にまた月曜日の朝が来る。嫌だ。私の日曜日をまだ終わらせはしない。せめてこの小説を最後まで読み切ることができれば、少しは健康で文化的な最低限度の生活らしい達成感を得られる。物語はクライマックス。一番面白いラストシーンに向かって展開が加速してきているのが分かる。分かるはずなのに、分からない。一分一秒、一行一文字ごとに分からなくなっていく。誰がどこに居て、なにを話していて、なにを考えているのか。そういった表面的な情報も、そしてその奥深くに眠る、もっと深い機微も。なにもかもが重い瞼の向こうに遠のいていく。
今日は寝落ちする前に栞を挟めただけ少しはましだ、と開き直ることにした。適度なあきらめと雑な自己肯定、これなくして社会人は務まらない。
起き上がる気力はもう残っていない。ほぼ閉じつつある瞼を上げないまま手探りでベッドサイドのライトを消し、なけなしの意識を完全に手放した。
明日の朝、忘れずにこの本を通勤鞄に入れられますように。今朝の私はまさしくそれをすっぽかし、通勤電車の中で無為な時間を過ごすはめになったのだから。あれほどもったいないものはない。本が一冊あるだけで、人生の無駄遣いとも言うべき通勤時間を豊かな旅へと変えることができるのに。
てのひらの上に、世界がひとつ、ある。
それが、私にとっての本を読むよろこびだ。
◇
『図書監の防衛戦』
著者:新川巧造
出版年月:二〇二四年二月
ページ数:四三七ページ
あらすじ:
「搭京国立図書監」――帝都・塔京の地下に存在する、国内最大級の図書管理施設。明和維新以降、日本では数多の書籍が発行され、図書監の管理下に置かれていた。
新人司書として働く青年・髙拉鶯はある日、都内で発生した立てこもり事件に巻き込まれる。
そこに現れた先輩司書・小込駒が口にした「図書監の本来の仕事」とは――。
新川巧造が送る、珠玉のレトロ・ミステリー・サスペンス!
◇
忘れてきた。
てのひらサイズの「世界」をひとつ、ベッドサイドに置き去りにしてきたのだと気づいたのは、電車に乗った十数秒後のことだった。二日連続でやってしまった。
手持無沙汰にスマホでSNSやニュースサイトを開いてみても、文章は頭に入ってこない。私が今欲しているのはあの物語の続きだけなのだと脳に訴えられている。
満員電車の窓際。スマホをポケットに仕舞いたかったけれど、ぎゅうぎゅうに詰まってきたサラリーマンに圧迫された腕は動かせない。
差し込む朝日はうららかで、このまま職場の最寄り駅を過ぎて三駅となりの植物園にでも行けたらいいのにと、小心者にはできもしない空想で、とろとろと時間と溶かしてゆく。
◇
「あでっ」
自分の声で目を覚まして、それから後頭部に受けた衝撃に気がついた。十四時前の社員食堂はがらんとしていて、いやに声が響く。
「おサボり眠り姫、お昼休みはとっくのとうに終わってましてよ?」
「……時間差でもらったの。昼過ぎまでばたばたしてたから。あんたこそ、なにしてんの」
「俺は挨拶回りから帰ってきたところ。付き合いで入った店の飯が少なくてさ、成長期の大地姫には足りませんの」
そう言って大宮は食券機の前で財布を開いた。
大宮大地。この会社の同期だ。高校から大学まで、クラスが一緒だったり必修科目が一緒だったり、部活は別だったりゼミは別だったり、付かず離れずで生きてきた微妙なポジションにいる男。
「二十四歳は成長期じゃないでしょ」
「金曜に二十五になるんで。よろしく」
「はいはい」
「四月生まれは不遇なんだぞ。俺の誕生日を知ってるやつは一人たりとも逃がさんからな」
「毎年毎年、同じこと言わなくても分かってるって」
曰く、進級やら進学やら異動やらで「はじめまして」が多くなる年度始めが誕生日だと、なかなか祝ってもらえないらしい。誕生日を教え合うほど親しくなる頃にはもうとっくにその日は過ぎている、という理屈だ。
とはいえ、就職した今は毎年大きく周囲の顔触れが変わるわけではない。それでも執拗に祝え祝えとせびってくる胆力が、営業マンとして功績を残している所以だろう。
「プレゼントもう買った?」
「ううん」
「じゃあ、作った?」
「なんでそうなる。今日買いに行こうと思ってたの。四越で北海道物産展が始まるみたいだから」
「あらまあ、ステキ。楽しみにしてますわ」
ぴいぴいと鳴る券売機から食券とお釣りを取った大宮がつかつかと注文口へ歩いていく。私は浅く残っていた眠気を手繰り寄せ、しばしまどろむ。
大宮は私のそばには座らないだろう。瞼を下ろした私に音が届かない場所で、一口一口よく噛んで食べるにちがいない。大宮のそういう交流の引き算が、私には居心地がよかった。
◇
鶯が地下の図書監から出ると、先月までその真上にあったはずの時計塔の代わりに、夕暮れの広い空が広がっていた。ジャムを溶かした紅茶のような色。姉がよく飲んでいたそれを、鶯はそっと思い起こしていた。
新たな塔の建設は来週から始まる。嘗てあったものよりも更に高く、まるであの空を覆い尽くさんと聳え立つ大樹のようなものになるという噂だ。
「あいてっ」
背面から頭を小突かれ、鶯はつんのめった。
「なにするんですか。駒さんはすぐ暴力をふるう。おれは怪我人ですよ」
「だから入院しているあいだはきちんと優しくしたじゃない」
駒は手にしていた本でもう一度鶯の後頭部をはたいた。
「司書とは思えない蛮行だ。おれはともかく、せめて本は大事にしてください」
鶯は、正しいのは自分だと確信しながらも、駒にはうまいこと言いくるめられるにちがいないと思っていた。
が、駒はじっと遠くを見ている。
「これはね、あの事件の犯人が居た世界の本よ」
鶯は息を呑んだ。
「あいつはこの本から出てきたの」
笑うでも泣くでもない駒の横顔。
「どうするんですか、それ」
「どうもこうもないわよ。読むに決まってるじゃない。そのために借りてきたんだから」
「でも、駒さんの目は……」
「いいの」
刺すように鋭い駒の声に、鶯はとっさに押し黙った。
「今、チャラにした。これで鶯くんの頭を引っ叩いたら、すっきりしちゃった」
チャラにした、って。すっきりした、って。
駒の手の中に、駒の左目を奪った男が生きてきた世界がある。それなのに。
それなのに、なんて――強く、美しいひとだろう。
「もう帰るんでしょう。途中までご一緒しますよ」
「あら、ありがと」
口を開けて笑う駒の隣に並び、鶯は歩き出した。
「あれからずっと、あたしの左にしか立たないね」
「深い意味はないですよ」
「そう」
駒の笑い声は、雑踏の中にくっきりと浮かび上がり、鶯の耳をくすぐる。
「もう桜が咲いてる」
溶けて消えてゆきそうなほど小さなつぶやき。
ふたりが出会ってから、一年が経とうとしていた。
◇
深い息が自然と漏れ出た。ページを開いたまま、すっかり冷めてしまった白湯を飲み干す。
ベッドに寝転がって読むから寝落ちするのだと反省して座椅子に座って読んでみたが、これが見事にうまくいった。今日は仕事帰りに大宮への宣言通り寄り道をしたから、きっと横になって読んでいたら早い段階でオチていたはず。日々の疲労のあまり読むペースが落ちてしまっていたが、ようやく読み終えることができた。
残り数ページはあとがきと解説だろう。出先であれば、物語への過度な没入感から脱するために続けて目を通すようにしている。学生時代、読後特有の夢見心地でぼんやりと物語を反芻しながら歩いていたせいで階段から転げ落ちたのが、未だにトラウマなのだ。
けれど今日はもう寝るばかりだ。これはまた後日読もう。お気に入りの若葉色のブックカバーを外し、未読の本に付け替えてから通勤鞄の中に入れる。明日から社会人も三年目。少しでも明るく始められるようにと、筆致の軽いコメディテイストのものを選んだ。
一か月ぶりにあらわになった「図書監の防衛戦」の表紙。街のシンボルである時計塔と、満月が描かれている。人物は描かれておらず、中にも挿絵もない。そして漫画やアニメ、ドラマといったメディアミックスもまだされていない。が、それはまだこれが新作だからだ。話題になっているし、実際とても面白かった。そのうち何らかの動きはあるはず。登場人物達の姿や風景を自分の想像だけで自由に描けるのは今のうちだ。
――時計塔の地下、広い広い螺旋階段。もちろん窓なんてひとつもなく、壁じゅうに並んだ本棚にぎっしりとあらゆる本が詰め込まれている。真ん中の吹き抜けの横幅は五十メートルはあろうか。最下層までは霞むほど遠く、近年導入された昇降機に泣いて喜んだ司書も多かったという。駒がその扉を手動で開け閉めする描写がさりげなく挟まれ、そのささやかなレトロ感を思うだけで胸がきゅうっとなる。
このまま余韻に浸りながら眠ろう。
きちんと電気を消して眠るのは久しぶりだな、と思いながら毛布をかぶった。これもそろそろ暑くなってきた。週末、もっと薄手のブランケットを出そう。ああ、それにしても、いい本に出合えた。勝気ながらも時折かわいらしい一面も見せる駒。そして、人当たりが良い世渡り上手だが、駒に負けじと食らいついてく根性もある鶯。どちらも自分がこれと決めた信念を貫こうとする強さがあって、だからこそぶつかることも多くて、でもそんな中で少しずつ互いを信頼していって――
遠くへ押しやっていたはずの眠気が、途端に私の両足を掴み、とろりとした夢の中へとずるずる引きずっていった。