懇願
海って急に怖くなりますよね。。
この話は、まだ誰にもしたことが無い。
もう20年以上前になる。
当時小学5年生だった私は、家から自転車で20分程度の所にある学習塾に通っていた。
特別勉強に熱心だったわけでもないが、塾は好きだった。
帰りに友達と自転車で世間話をするのが、楽しかったからだ。
帰り道にはいくつかコースがあったが、夏は海岸沿いのサイクリングロードを好んで使用していた。
海岸と言っても北陸のそれは湘南あたりとは随分印象が違う。普段はとても寂しい海だ。
夏になれば夜でも花火をする家族連れや、遊びに来ている若者は増えはするが、それでも人口密度は高くない。
「遠くで花火している人がいる」というのが分かる程度。その加減が快適だった。
海の家なんかも海水浴場に一つ二つある程度だ。
そして、それらはメディアで特集される店のような洒落たものではない。
名前からして「海の家」ではなく「浜茶屋」と呼ばれており、老人が一人で店番をしているような営業形態。焼きそばやフランクフルトのような食事の提供も無い。缶、瓶の飲み物とスナック菓子、浮き輪や水中眼鏡等のグッズを売っており、飲食店よりも駄菓子屋にイメージが近かった。
そもそも、この地域の海水浴客は地元民が圧倒的に多い。みな徒歩圏内から公園にいく感覚で気軽に海に行き、気軽に帰る。飲み物以外の必要なものは全て家から持ってくるのが当たり前なので、浜茶屋はお世辞にも流行ってはいなかった。
実際、その年の前に一つの浜茶屋が廃業した。
一番の理由は店主高齢の為とのことだが、後継でやりたがる人もいないような経営状況だとも言える。
廃業しても、建物自体は手付かずの空き家になっており、塾の帰りに私たちは忍び込んで、持ち込んだジュースを飲みながら世間話をするのが定番になっていた。
当時の私たちにとってはラッキーとしか思っていなかったが、解体する費用がなかったり、引き取り手がいなかったりという事情なのではと、今なら思う。
さて、いつも一緒に帰る友達は私を含めて5人いたのだが、その日は風邪だのなんだので私と彩の二人だった。
「なんだよ。みんな休みか。つまんねーな」
そう言いつつ、私はワクワクしていた。当時、彩のことが気になっていたからだ。
先ほどは「友達と帰るのが楽しみ」と言ったが、正確には「友達の中にいる彩と帰るのが楽しみ」である。
「そだね」
彩はそこに関しては否定をしなかった。
(なんだよ、自分と二人じゃツマんないのか)
私は自分で話を振ったくせに、軽く傷ついたことをよく覚えている。
しかし、その後は普通に楽しく会話をしながら海岸線まで来た。
そこで私は緊張しながら、そして、それをなるべく悟られないように言った。
「どうする?浜茶屋寄ってく?」
私は彩と二人で浜茶屋のベンチに並んで座り、話がしたくてたまらなかった。でも、努めて自分はどっちでもいいというトーンで言ったつもりだ。
「うん。行こう。風が気持ちいいし」
「だね。涼しくていい風」
内心、「ひゃっはー!」と声を上げたい気分だが、風のせいにして同意した。
そして、自動販売機の横に自転車を止め、小遣いでコーラを買った。彩はスプライト。
二人は砂浜を降りて、浜茶屋を覗き込んだ。
幸い誰もいなそうだ。
廃屋となった浜茶屋は、板の間があり、四方と中央に柱があり、トタンの屋根が乗っかっているだけという簡素な作りなので、人がいるかいないかは一目でわかる。
今思えば、学生がたまり場にするのにちょうどいい場所なのだが、不思議と先客がいたことは一度もなかった。
自分と彩は、店頭のベンチに座り缶ジュースを開けた。
「スプライト好きだね」
「美味しいじゃん」
「コーラの方が全然旨いよ」
「眠れなくなるし」
「そうなんだ。オレもう、そんな時期過ぎたよ。むしろコーラ飲んだ方が眠れるね。もうやばいかもね。完全にカフェイン中毒だよ」
小学5年生なりに必死に恰好つけたアピールがこれだった。当時は本当にそれがカッコいいと思っていたんだからしょうがない。
「へぇ凄いね」
彩はそれだけ言った。しょうもないアピールを、肯定も否定もせずさらりと流せる彩の方が、よっぽど大人だった。
その時、強風が二人に吹き付けた。
「うぇ!ペッペッ!砂が口に入った」
おどけるために大げさなリアクションを取りはしたが、実際にかなりの量の砂を噛んでしまい、吐き出すのにしばらく時間がかかった。
廃業した浜茶屋の水道は当然止められている為、せっかくのコーラを口を濯ぐ為に少なからず使ってしまった、
ようやく少し落ち着てベンチに座ろうとすると、彩は遠くの海を見て立っていた。
「どうしたの?」
彩は答えなかった。
「どうし・・」
「見て」
もう一度声をかけようとした時、彩は海を指して言った。
「全然波が無い」
「そだね」
私は反射的に答えた。
実際は全然ということはない。浜辺を見ると寄せては返す波がある。
ただ、確かに穏やかな海ではあった。
突然、彩は私の方を向いて、じっと目を見た。
こんなにハッキリ目を合わせたのは初めてだったので、心臓の鼓動がヤバいぐらいだったが、目を反らせない何かがあった。
そんな私の動揺を知ってか知らずか、彩は無邪気に言った。
「ボート乗ろうよ!」
「ボート?持ってきてないよ」
私はゴムボートを想像していた。
「そこにあるじゃん」
彩が指さしたのは、浜辺に並べて置いてある手漕ぎのローボートだった。
「いやいや、勝手に使っちゃマズイでしょ」
「大丈夫だよ」
「見つかったら怒られるよ」
「怖いの?」
「怖くは無いけど・・・」
当時の小学5年生男子にとっての『怖いの?』という言葉、それも女子から言われる言葉は、恐ろしいほどの強制力がある言葉だった。それゆえ私は必死に理由を探した。
「オレはいいけどさ、いつも先生に怒られてるから。でもお前は色々まずいんじゃない?」
やっと振り絞った理由がそれだった。彩は家柄も良く、優等生だったからだ。
「ごめん、冗談」
彩は私をじっと見て微笑んで言った。
「なんだよ」
その顔が近かったので、私はドキリとした。
「あのボート、ウチのなんだ。お父さんのなの」
「えっ?」
「だから怒られないよ」
彩の笑顔には有無を言わさない凄みがあった。
私は、彩の家のボートだというのは十中八九嘘だろうと気づいていた。しかし、それをここで覆す根拠もない。実際、彩の家はボートを所有していてもおかしくない富裕層だ。
何よりそこまで言われて及び腰なら「怖い」ということになってしまう。私は逃げ場を失ってしまった。
(まぁいいか。怒られたら「彩が自分の家のボートだと言ったのを信じた」と言えばいい)
そんな卑怯な算段を立てて私は答えた。
「なんだ。そんならいいよ」
今思えば、この辺りから彩はハッキリとおかしかった。
二人乗りの手漕ぎのローボートとはいえ、小学生にはかなりの重量だ。押すにしても砂浜の抵抗はかなり強い。それを苦もなく海岸まで押して行ってしまった。
そして、手慣れた様子で浮かべると海岸に靴を脱ぎ捨て、濡れるのも構わず海に入り、ボートに乗り込んだ。
「おいでよ」
完全に後手に回った私は、へっぴり腰でボートに乗り込んだ。
「うわっ」
乗った瞬間ボートは揺れる。
必死に体勢を立て直す私を見て彩はクスクス笑った。
笑いながらもスイスイと漕いでいく。
「漕ぐの変わるよ」
一息ついた所で私は言った。
「いい。漕ぎたいの。漕がせて」
上手い言葉が返せず、私はうんとだけ言った。
女の子に漕いで貰って、自分はちょこんと座っているだけというのが、なんとも居心地悪かった。
今のご時世にそんなことを堂々と言ったら差別的と問題になる所だが、当時の田舎の子供はまだ「男はこうあるべき」という風潮が根強かったのだ。
「気持ちいいね」
彩は言った。
「そうだね」
口ではそう答えたものの、海面は黒く、潮風は生臭く、陸の明かりは遠く、とてもそんな気分にはなれなかった。
その後もあまり会話が続かなかった。
私は「漕ぐの上手いね」「よく漕ぐの?」等の薄い質問を投げかけてみた。それに対して彩は「そうだね」程度の返事をし、どんどん進んでいく。
遊覧というよりは、どこかを目指しているようだった。
そして、私はだいたい行き先が分かってしまい、嫌な予感がした。
「どこ行くの?」
たまらず聞いてみた。
「外海行こうよ」
やはり。
この海水浴場はある程度まで行くとテトラポットで遮られている。しかし、この辺は1ヵ所だけ外海に出られるテトラポットの切れ目があり、彩はまっすぐそこを目指していた。
「怖いの?」
「全然。行きたいと思ってた!」
「良かった」
私の回答が強がりなのは言うまでもない。
テトラポッドの切れ目からは、潮が集中して流れ込む。
ボートは一瞬ふわっと持ち上がって落ちた。
「うわっ」
私はつい情けない声をあげ、ボートの端をしっかりと掴んだ。
「アハハハ怖い?怖い?」
そんな私を見て彩は高笑いをした。
「・・・大丈夫」
私は強がる気力が無くなり始めていた。
外海に出た。
と、同時に波が強くなった。
シーソーのようにボートが上下動を繰り返す。
私は、ボートの端を掴む手を弛めることが出来なかった。
「フフフフフ怖い?怖い?」
私は答えることが出来なかった。
気がつけばテトラポッドが遠くにうっすら見えるようになっていた。それ以外は、どこを見渡しても黒い空と黒い海しかない。
そして海の深さは検討もつかない。
私は海育ちなので、足がつない程度では恐怖を感じない。立ち泳ぎで休みながら2、3キロは泳ぐ自信がある。しかし周囲の海は別物に見えた。
例えるなら、海全体が意思をもった巨大な生物で、落ちたら最後、引きずり込まれて消化されてしまうような印象だ。
「ちょっと沖に行き過ぎじゃない?そろそろ戻ろう」
「ハハハハハ怖いの?」
「怖くはないけど、時間も時間だし」
そう口にした瞬間冷や汗が出た。いったい今何時なんだろう?当時私は時計を持っていなかったが、感覚的には随分遅くなった気がする。
今から帰っても、間違いなく両親が心配する時間だ。
「へぇー怖いんだ?」
「怖いよ!もう帰ろう!」
私はようやく開き直った。
「そう。私達も怖かったの」
そこでようやく私は、目の前いるのが彩ではないと気がついた。
「私達?」
聞き返した時、彩の隣にもう一人男の子がいた。
「そうだよ」
男の子が喋った。
「っ!」
私は声にならない悲鳴を上げた。
「あの時も流されてね。帰れなくなったの」
隣から声がした。
自分の隣に女の子が座っている。
「そして、ボートが転覆してね」
彩に着いている誰かが言った。
「泳いでも泳いでもボートは流されてさ」
男の子が言った。
「みんなもバラバラに流されて」
私の隣の女の子が言った。
「誰も見つけてくれなかったな」
と彩に憑いた誰か。
「・・帰してよ」
私はなんとか一言絞り出した。
「えーっ!もっと遊ぼうよ!」
「寂しかったんだよ。他に誰もいないし」
「海しかないし」
少年少女らしきモノ達が私を囲んでまくしたてる。
ボートは規則的に揺れている。
テトラポッドは更に遠くなった。
「ッ、ヒッ、ック、帰して、ッ、ください」
嗚咽まじりで頼みこんだ。恐怖で完全に心が屈服した私は、言葉遣いも目上の人に対するそれになっていた。
「泣ーかした!泣ーかした!」
少年少女らしきモノ達は囃し立てる。
「帰ったら、ヒック、みなさんを、捜索するように、ヒック、大人に、伝えますから」
見つけて貰えなかった無念の霊達かと思い、それにすり寄って助けて貰おうと考えた。
「いいよ。もう魚に食べられてるし」
「今更探しても何も出て来ないよ」
「ねー」
彼らはケタケタ笑う。
「僕は、ヒック、どうしたら、ヒック、いいですか?」
「ここから飛びこんでよ」
「嫌、です。ヒック」
「なんで?」
「死んじゃう、から」
「死にたくないの?」
「はい」
「私達も死んでるよ」
「それは、ヒック、お気の毒に、思います」
「じゃあ、飛んで」
「無理、です、ヒック」
「つまんない。じゃあ、私飛び込むね」
彩に憑いたモノが立ち上がろうとした。
「ダメです!わーーーーん!」
私は泣き叫んで彩の脚にしがみついた。
「ダメです。彩はダメです。ごめんなさい。彩はダメです。ごめんなさい。うぁっ、うーー、彩はダメです」
「じゃあ、キミ飛び込んでよ」
「僕もダメです!」
「じゃあ、この子」
「彩はもっとダメです!」
「えーっ、どっちかやってよ」
「どっちもヤダよー!」
私は叫んだ。
一瞬、霊達のざわめきが止んだように感じた。
「みなさんは、ヒック、かわいそうだと、思うけど、自分が嫌だったことは、ヒック、人にしちゃいけないんです!僕も、彩も、帰りたいんです!お願いします!お願いします!」
大海原に子供一人、出来ることは懇願しかなかった。だから出来ることを必死にやった。
「お願いします!お願いします!」
彩の脚を離さないよう、必死にしがみつきながら懇願した。
「お願いします!お願いします!」
すると彩の手が私の頭を撫でた。
「ごめんね。本当に、ただ遊びたかっただけなの」
それからどう帰ったのかは、よく分からない。
自分がボートを漕いだ気もするし、彩が漕いだような気もする。3人にボートを押して貰ったような気もする。
帰り道、彩と話したような気もするし、黙って自転車に乗っていた気もする。
ただ、家に帰った時、思ったより時間は遅くなっておらず、ほっとしたことは覚えている。
そして、みっともなく泣き叫んだ姿を、彩に見られてしまったことを思い出し、悶々と眠れなかったことも。
ただ、幸いなことに翌日彩と話しても、どうも憑かれている間の記憶が曖昧なようだった。だから、私はこの体験を封印することにした。
以来、この話は誰にも話したことが無い・・・はずだった。
しかし、今日、家に帰ったら息子が興奮して駆け寄って来た。
「パパ!幽霊に会ったことあるの?!」
「何だ?突然に?」
「海で幽霊に会ったことあるって!」
私は後から着いてきた妻を見た。
「怖い話してって煩いからさ。学校で流行ってるんだって」
「・・・」
状況がよく飲み込めない。
「幽霊やっつけたの?」
「いや・・・やっつけてはないな。お話しただけかな」
妻がどう話しているのだろう?それが気がかりだ。
「そう。すっごく怖かったけど、しっかりお話して、ママを守ってくれたの。格好良かったよ」
記憶が・・・あるだと・・・?!