【ミステリー小説】懊悩の謎
【一九七九年 某日】
ある日、父が死んだと聞かされた。事故だったらしい。
父の会社の人間だろうか、スーツを着た男たちが、連日家に来た。
母は――喜んでいた。どうして?
母は、新たに男を作って出ていってしまった。
寂寥感の漂うこの家に残された私は、ただ独りで、ぽつんと立ち尽くしている。
どうして――。
【一九九九年 七月二十四日】
関東某所はその日、その夏一番の真夏日との予報だった。
七海東華は、切り立った石段を、汗だくになりながら上っていた。私は比叡山の修行僧か何かか、と愚痴が思わずついて出る。
夏といえば、色々思い浮かべるものがある。海水浴にプール、花火に祭り、軒先で風鈴の音を聞きつつ食べるアイス(これは東華にとっては特に重要だった)。夏の催事は数え上げると枚挙に暇がない。各々が思い描く夏の娯楽に身を投じる。夏とは、滾る活気と儚い一瞬の輝きを掛け合わせたような、なんだか相反する空気感が同居している季節でもある。
私にもそんな夏があった、と東華は遠い目をして回想する。それに比べてなんだろう、この季節感ゼロの光景は。目の前にある階段は上れど上れど終わる気配がない。それでも振り返ってみると、目の回るような高さまで上ってきているのだから不思議なものだ。
ぱんぱんに張った腿に無理やり力を入れ、東華は階段を上る。この急勾配の古びた階段は、所々崩れかけていて、足場が危うい。今日はうだるような真夏日で、日向と影の色の対比が濃かった。じりじりと熱線に焼かれ、汗が顎を伝ってしたたり落ちる。これだけ上って、まだ半分も過ぎていないのだから驚きだ。
念のため断っておくが、東華は修行僧でもなければ、霊験あらたかな寺社仏閣を巡っているわけでもない。向かった先にあるのはただの一軒家だ。この先に住むとある人物に、日用品及び手紙類を届けるため、彼女は必死に階段を上り続けているのだった。
世間の皆様が夏を謳歌している最中に、私は一人黙々と階段を上っているなんて……。一度邪念が頭によぎると、次から次へと愚痴か出てくる。何が良くてこんな僻地に住んでいるのか。もはや嫌がらせめいている。東華はまだ担当になって日が浅いが、歴代の編集者はこんなところに足繁く通い詰めていたのか。入社早々この人の担当になったのも、この石段の過酷さを新入社員に擦り付けるためだったんじゃ。
いや、本当は分かっている。彼は確かに少々アクが強いし、著書も少しマニアックすぎるきらいはあるが、彼はきちんと締め切りを守るし、催促するまでもなく次々筆をとってくれる、比較的手のかからない作家だった。一年目でこの作家を持たされたのはそういう縁だろう。しかし、それとこれとは話が別だ。
「あー……アイス食べたい……」
熱に朦朧としながら、東華は思わずひとりごちた。
石段は永遠かと思われるほど長かった。最後の数段を気合を入れて上りきると、ふぅー、と思わず長い溜息が出た。
目の前には古色蒼然とした日本家屋がある。その引き戸を叩き、東華は中に向かって呼びかけた。
「セーーーンセェ! 頼まれてた日用品、持ってきましたよー!」
応答はない。変だなあ、と東華は首をかしげる。彼は滅多な事では外出しないはず。どこかに行っているとは思えない。
家の中はしんと静まり返っている。「入りますよー」と再度声をかけ、上がり框で靴を脱ぐも、やはり返事はない。
「センセー? どこにいるんですかー?」
薄暗い家の中を見回しても、人の動く気配はない。
家の中に冷房はないが、風が吹き抜ける構造になっているせいが、日向で階段を上っているよりは幾分か涼しかった。すっと汗が冷えていく感覚がする。それでもなお噴きだして止まない汗をぬぐいつつ、東華は彼の姿を探した。
すると、奥まった場所にある一部屋から、一筋の光が洩れていることに気がついた。襖を開けると、むわっとした熱気が頬にまとわりついた。その先に見えた光景に、東華は思わず「ひっ」と声を上げた。
部屋の中には、壁じゅうを覆う本棚と、ワープロの乗った文机がひとつ。散らばった本や原稿用紙の中に、一人、男がうつ伏せに倒れていた。鶯色の作務衣を着た男だ。投げ出された腕には太い血管が這っている。
それこそが、東華の探していた人物――永犬丸奏の姿に違いなかった。
「センセイ、どうしたんですか!?」
東華は慌てて永犬丸の傍にしゃがみこんだ。揺り起こそうと身体に触れた時、その身体がひどく熱を持っていることに気がつく。
この部屋は窓を封じているから、風が通らないのだ。熱中症だろうか――。こういうときは、とりあえずお水? それとも、身体を冷やす方が先? 東華が半ばパニックになっていると、永犬丸が意識を取り戻した。
「む……その声は東華クンか。いや、実はね……」
よっこいしょ、と大儀そうに寝返りをうち、永犬丸は東華を見上げた。
「逆立ちして腕立て伏せをすると、頭に血が上るだろう?」
「は?」
「しかも扇風機が壊れているから、この通り、室内は非常に暑い! そんなわけで、あまりの暑さから気を失ってしまったのだよ!」
逆立ちをして腕立て伏せ?
東華は開いた口が塞がらなかった。この人のトレーニング好きは常軌を逸しているが、それどころの話ではない。
ひとまず意識は明瞭そうだ。心配して損した、と東華はがっくりと脱力した。
そんな東華を知ってか知らずか、「やはりトレーニングをするなら木陰ですべきだな」などと永犬丸はぶつぶつ呟いている。
「あ、大丈夫そうですね。じゃ、私はこれで失礼しますね」
東華はスカートを払って立ち上がった。部屋の入口に向かい、にっこりと微笑む。
「荷物は玄関に置いてあります。あとは野垂れ死ぬなりなんなりお好きにどうぞ」
「酷いなあ。まあ、待ちたまえよ。先日、興味深い研究について読んだんだ。東華クンはウェイクフルレストって知ってるかい?」
なんだ、藪から棒に。東華はひとまず「いえ」と首を横に振った。「それがどうかしたんですか?」
そう尋ねると、永犬丸は立て板に水と言わんばかりに話し始めた。
ウェイクフルレストというのは、起きた状態のまま休むことらしい。睡眠が記憶の定着に欠かせないというのは定石だが、このウェイクフルレストも効果があると言われている。スコットランドにあるエディンバラ大学のミカエラ・デュワー氏の研究では、短編集を読んだ後にウェイクフルレストを実施した(この場合、暗い部屋で静かに目をつぶり休んでいた)グループは、実施しなかったグループに比べ、読んだ内容についてより記憶していたという。
また、一週間後、再度同じように被験者たちへ短編集についての仔細を問うたところ、やはりウェイクフルレストを実施したグループよりも詳細を記憶していたという。
「要は、適度な休憩を適切に取るべきなんだな」
「はあ……」
これで終わりかと思ったら、永犬丸の口は止まることなく動き続けた。
「で、これを実施しようとした時、じゃあどう休むか? なんだが、坐禅などどうだろうかと思ったのだよ」
こちらも科学的根拠があるらしい。坐禅をするとセロトニンが分泌されるという研究は、日本の生物学者・有田秀穂らの研究によって明らかになっている。セロトニンは通常、朝に太陽を浴びることで合成を開始するが、これはこころのバランスを整えるのに一役買っている神経伝達物質だ。先ほどのウェイクフルレストと組み合わせて行うことで、記憶の定着を促すとともに、心の間年次面ともすることができる。まさに一石二鳥の効果が得られるのでは。云々。
「というわけで、東華くん、私と一緒に坐禅をしないか」
「遠慮しときます」東華は即答した。
先ほどの千日回峰行に加えて坐禅とは、いよいよ修行僧ではないか。
「……まあまあ、せっかく来たんだしさ。ほ、ほら、茶でも入れるから少しゆっくりしていきたまえよ」
センセイと違って、私は他にも仕事を抱えている身なんですけど――。
「そ、そうだ。それに、ほら、先日、友人から獅子家の栗羊羹をいただいたんだ。良かったら食べていくといい――」
「センセイ、本当はただ寂しかっただけですよね? ただ話し相手が欲しかっただけですよね?」
永犬丸はきまり悪そうに黙りこんだ。図星をつかれたらしい。
作家という人種は往々にしてそういうところがある。基本的には己と黙々と向き合うだけの孤独な仕事だ。人恋しさをこじらせたあまり、人が訪ねてくるなり知識をマシンガンのように浴びせてくる。特に永犬丸はその典型だった。そういうコミュニケーションしか知らないのだろう、と東華は思っている。
すっかりしゅんとしてしまった永犬丸を見て、東華は同情する気持ちになった。ほんの少しだけなら、付き合ってあげようか。それに、獅子家の羊羹とは――。
「はあ。少しだけですよ! ――まったく人付き合い下手すぎますよ、センセイ」
うぐっ、と声を洩らして、永犬丸はますます身体を縮めた。
「……でも、東華クンも食べものにつられちゃって、ちょろいじゃあないか」
「ではその羊羹はいただいてもう帰りますね。さような――」
「嘘ですすいません少しでいいので滞在していってください」
永犬丸は東華の足に情けなく縋りついた。
そんなこんなで少しの間、永犬丸邸に滞在することになった。客間に出ると、縁側から通ってきた夏の夕風が、東華の髪を爽やかに撫でた。縁側からは青々と茂った草花と松林が見渡せる。先ほどは暑苦しさを掻き立てるものでしかなかった蝉しぐれも、こうして聞くとなかなか乙なものだ。
その涼しい風の吹き抜ける縁側の近く、座卓について手紙類を眺めていた永犬丸は、うんざりしたように呟いた。
「――人類は資源を無駄に使いまくっている。そうは思わないか」
「……なんですか、急に」
「ほら、見たまえよ」
永犬丸は不満げに手紙の束を広げ、そのうちのいくつかを指さした。豊胸手術のチラシ、最新コスメのセール情報、裏地が磁石になっていて処分に困る水道業者のステッカーもどき。
「前者についてはマーケティングの対象を明らかに間違っているし、後者に至っては、こんなものに無駄にお金をかけてどうするというのだ!」
「そんなくだらないことに不平を言っていないで、さっさと手紙の仕分けをしてくださいよ……」
「何を言うか! 東華クンがこの豊胸手術の勧誘員だったとして、道行く三十路で筋肉質の男性に“貴方、豊胸手術に興味はございませんか?”などと勧誘しないだろう!」
少し想像して、東華はあからさまに嫌な顔をした。
「当たり前ですよ、気持ち悪いこと言わないでください」
永犬丸は「そうだろう!」と勢いづいて身を乗り出す。「表札に私の姓名が書いてあるというのに、こんなチラシを入れる奴は、何も考えていない愚か者なのだ!」
はいはい、わかりましたから、と永犬丸を宥めながら、東華は(そうは言っても……)と心中で呟いた。永犬丸奏、という名前は一見して性別が分からない。最初見た時は、どこからどこまでが苗字なのかすら判然としなかった。ややこしい分、チラシを入れられるのも仕方ない気はする。
永犬丸はいつの間にか手紙の分類を終え、ゴミの山から必要そうなものを抜き出し、縁側にどっかりと座り込んでいた。その一つの封を破り、手紙を開いた彼は、文面を読むなり「む? おお、これは!」と声をあげた。
「どうかしたんですか?」
「海坊主から手紙が来ているぞ!」
海坊主というのは、永犬丸の数少ない友人の一人、海洋学者の鱈場という人物である。東華は話でしか聞いたことがないが、なんでも永犬丸奏に負けず劣らずの変人らしい、という噂だ。永犬丸曰く、「深海魚に心を奪われた度し難く物好き」な人物なのだそうである。
「なになに……“青森近辺ニテ、ニュウドウカジカ、無傷ノ状態デ引キ上ガル。現地ヘ急グ”だそうだよ!」
「ニュウドウカジカ……? なんですかそれ」
「海外では“ブロブフィッシュ”と呼ばれている、どせいさんみたいな深海魚だよ。いや、水中にいる時はどせいさんに似てはいないのか。これが不名誉なことに、世界一醜い生物として知られている。というか、醜いと言われているのは深海から引き上げた姿であって、しかも、そのせいで皮膚が剥がれてしまった状態のものだ。そんな姿を醜いだとか言うのは、なんだか不公平だと思うんだよねえ。まあ、ブロブフィッシュからしてみれば、人間がどう思おうが知ったことではないだろうけどね。しかし、どうやって無傷で引き上げたんだろうね。そこは興味深い」
「いや全然わからないですよ……」
ひとしきり話したことで満足してしまった永犬丸は、釈然としない東華の反応などどこ吹く風で、再び手紙を覗き込んだ。
「おや?」
「まだなにかあるんですか?」
「うむ。彼もまあ、変なことを打診したもんだな。私は暇だし行くとして――」
何やらぶつぶつ呟いた永犬丸は、不意に顔を上げて、東華に目を合わせた。
「東華クン、タダ飯食べたい?」
「タダで食える飯ほどありがたいものはないですよ」
「ほほう。ちなみに、東華クンはワインとかいけるクチ?」
「私の“クチ”は、ほぼ何でもいける“クチ”ですよ」
上手いこと言うじゃないか、と永犬丸は感心した。「じゃ、決まりだな」と頷いた永犬丸は、東華に向かって怪しげな笑みを作った。
「来週、八月の頭に出発するから準備しといてね。三泊四日だから」
「え、どこ行くんですか?」
「九州」
「……遠っ」
関東をほとんど出たことがない東華にとっては、足を踏み入れたこともない地だった。これは出張手当は出るんだろうか、などと悠長に考えているうちに、永犬丸の姿はいつの間にかなくなっていて、東華の九州行きはあっという間に決まってしまった。
【一九九九年 八月一日】
東京から九州までは新幹線で5時間ほどかかる。朝一番の東京発・博多行きののぞみにのった東華と永犬丸は、座席に並んで座りながら、駅弁を食べたり本を読んだりと、各々暇を潰していた。永犬丸は人付き合いの下手なところがある――何せ一方的に喋るか無言かの二択なのだ――が、その分、沈黙を気詰まりに思わなくていいということは楽だった。
二人の行先は「上上津役」と呼ばれるところにあった。これを東華は「うえうえつやく」と読み、永犬丸にめっぽうからかわれた。「センセイはこの辺の出身だから読めるんですよ、チートですチート」と東華はふくれっ面をしていたが、駅弁のおいしさとのぞみの早さに感動すると、どうでもよさそうに機嫌を直していた。
東華が忙しそうに一喜一憂している間、永犬丸は静かに本を読んでいた。背表紙には「鉄橋剛 鉄橋工業創設者の波乱万丈の人生」とある。これから尋ねる英鉄館は、その鉄橋剛氏の別荘にあたる。
そうこうしているうちに小倉駅についた。新幹線から降りると、東華はこわばった身体をうーんと伸ばした。さすがは九州だけあって、関東とは日差しの強さが違う。
ここからは、英鉄館から迎えの車がくるらしかった。待ち合わせにまでは一時間ほどある。「暑いし、喫茶店にでも入ろうか」との永犬丸の提案に、東華は前のめりにのっかった。
「……で」
「うん?」
「なんでうどん屋なんですか!?」
座敷席に座りながら、東華は永犬丸に吠えかかった。
「喫茶店もうどん屋も大して変わらんだろう」と永犬丸は暴論を振りかざす。
「全然違いますよ!」
「まあまあ。北九州に寄ったら“資さんうどん”を食うのがツウってもんなんだよ。ちなみに私のおススメはごぼ天うどんだ」
呆れかえって言葉もなかった東華だが、メニューを差し出されるなり、「もう、センセイは本当にしょうがないんだから」と若干機嫌を直した。
「あ、カツ丼も頼んでいいですか?」
「カツ丼もうまいんだよなあ。……え、そんなに食べるの?」
今度は永犬丸が呆然とする番だった。そんな永犬丸など目もくれず、カウンターのおでん鍋を目に留めた東華は、「センセイ、私おでんとってきますね」と席を立ち、ますます永犬丸を唖然とさせた。
――というか、この子さっき、『小腹が空いた』と言って駅弁も食べていなかったか?
むむ、と考え込んでいた永犬丸は、東華が山盛りのおでんを皿に盛ってきたのを見て、考えるのをやめた。
数十分後。資さんうどん(とカツ丼とおでん)を堪能した二人は、少し食休みをした後で、そろそろ時間になるからと店を出ようとした。すると、「あの、センセイ……」と東華がもじもじしながら永犬丸を見上げた。
「なんだ、食べ過ぎて動けないということなら置いて行くぞ」
「……あの、ぼたもちをお持ち帰りで頼んでもいいですか」
「まだ食べるのか」
この子の胃袋は一体何でできているんだと、不可解を通り越して楽しくなってきた永犬丸だった。
「いやー、美味しかったですねえ、資さんうどん! 私、ファンになっちゃいました!」
うっとりした心地で東華は言った。
この辺のソウルフードだからな、と頷きながら、永犬丸は腕時計を見た。そろそろ待ち合わせの時間だ。「おや、急がなくては。のんびり歩いている場合ではないぞ」と東華を急かすと、東華は「ああ」と思い出したかのように言った。
「そういえば、なんたらいう方のパーティーへ、海坊主さんの代理で向かうのが本来の目的でしたね」
改めて駅前に向かおうとした二人は、背後から「失礼」と呼び止められ、同時に振り返った。
「もしや、鱈場様の代理という小説家の方ですかな?」
そこに立っていたのは、この炎天下にもかかわらず、燕尾服を着込んだ老紳士だった。灰色の髪をオールバックに撫でつけ、片眼鏡をつけた出で立ちは、いかにも執事然としている。
聞いてみると、彼――陣原は、本当に執事だったので、東華は驚いた。執事なんて職業は、物語の中でしか見聞きしたことがない。それが実在していること、しかも絵に描いたような執事が登場してきてくれたことに、東華は感動していた。
「それにしても、よく私たちだってわかりましたね」
東華が陣原に問うと、「お二方とも、お伺いしていたとおりの装いでしたので、すぐにわかりましたよ」と、陣原は柔和な笑みを浮かべた。
確かに、永犬丸のような服装――作務衣に下駄、背中には柳行李――なんて格好は、今時そうお目にかかるものではない。こちらもこちらで奇特な小説家を絵に描いたような格好なのだった。自分の感覚が麻痺していたことを実感しつつ、東華たちは陣原の運転してきた車に乗った。左ハンドルだ、と東華は再び子どものように感動した。
それから、どのくらい車に揺られただろうか。山道を随分と走った先に、その館はあった。
車から降りるなり、東華は「ほええ」と思わず声を洩らした。
鉄橋氏の別荘は、東華が想像していたよりもずっと豪勢な“お屋敷”だった。
塀に囲まれた高い門をくぐり、緑あふれる見事な庭園を抜けると、荘厳な洋館が現れる。
白くて太い柱に囲まれた玄関。レンガ造りの壁と、白く縁取られた出窓。屋根は見上げるほど高い。個人の住宅の規模では滅多に見ることのない三階建てだ。
ふと、そこに、洋風なこの館に似つかわしくない風鈴を目に留めた。水流と金魚があしらわれた風鈴は、短冊が風に揺れ、涼しい音を奏でている。永犬丸もそれに気づいたらしく、「おや、風鈴ですか。趣がありますねえ」と陣原に話しかけた。
「鉄橋氏のお孫様にあたる茜お嬢様が飾られたのです」
なんでも、「この洋館には似合わないかもしれないけど、気に入ってるから飾っちゃった」のだそうである。
「素敵な音色を奏でていて、歓迎されているようですね」
永犬丸がしみじみと呟くと、「それはそれは、何よりでございます」と陣原も目を細めた。
「ささ、館内へどうぞ。ようこそ、英鉄館へ――」
大きなドアを開いた先には、これまた広々とした空間が広がっていた。
外観もホテルのようだったが、広間もまたホテルのラウンジのように洒落ていた。深い赤色のくの字型のソファに、傍に置かれた低いテーブル、大きなテレビ。ほわぁ、と口を空けながらあたりを見渡す。そんな東華を微笑ましげに眺めていた陣原は、「パーティーまではまだ時間がありますので、どうぞご自由におくつろぎください」と館内の案内図を渡してくれた。
「おや、私たちの部屋は二階のようだな」
「ですね。荷物だけ先に置いてきてしまいましょう」
うむ、と頷いた永犬丸は、館内の見取り図を眺めつつ、「む」と呟いた。何かが気になった様子だ。
「どうしました?」
「見たまえ、東華クン。窓のない部屋があるぞ」
見取り図を覗き込むと、確かに三階に二つ、窓のない部屋がある。
「ああ、そこは、もとは旦那様の書庫だったのです」と、陣原が横から説明してくれる。なんでも、日が焼けて本がだめになることがないよう、窓を潰して作ってあったらしい。数年前から鉄橋氏がパーティーを開くようになったので、それに際して客室に改造したのだという。
お金持ちのやることは大胆だなあ、と半ば感嘆しつつ、東華は永犬丸に促されて二階の部屋へと向かった。広々とした客室はちゃんと二人用に整えられてあった。窓からは鉄橋氏ご自慢らしい庭園が見渡せる。
こんなに素晴らしい景色が見れないなんて、あの部屋に当たった人――確か、「古賀」「三ヶ森」と名前があった――は気の毒だなあ、と思わずにはいられない東華だった。
再び広間に下りると、パーティーの準備が着々と進んでいるところだった。親しげに言葉を交わしている面々はそれぞれが顔見知りらしく、しかも東華や永犬丸とは一回りも二回りも離れた年輩の男たちばかりだった。東華が若干の気後れを隠せないでいると、「おやおや、見かけない顔ですねえ」と、そのうちの一人に呼び止められた。
「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
そう尋ねてきたのは、髪を七三に分けた、生真面目そうな眼鏡の男だった。態度は丁寧だが、値踏みするような視線は隠しきれていない。
「人に名前を尋ねる時は、自分から!」
永犬丸の言葉と態度に、男は明らかにむっとした顔をして、名乗った。
「私は鉄橋工業の専務、金山沢三と申します」
「ほほう! 金山沢山だなんて、洒落てますねえ」
「せ、センセイ! 失礼ですよ!」
失礼には失礼で返すのが永犬丸流だが、これにはさすがに東華も口を挟んだ。何せ相手はあの鉄橋工業のお偉いさんなのだ。金山は引きつった笑みを浮かべている。東華は焦って頭を下げた。
「すみません、こちらのセンセイ、常識というものを持ち合わせていないもので……。あ、私は蔵馬出版で編集をしております、七海東華と申します」
東華が名刺を差し出すと、「ちなみに私はこういうものだ!」と永犬丸も元気よく名刺を差し出した。名刺なんて持っていたのか、と驚く東華の傍らで、「ええと、“ながいぬまる、そう”とおっしゃるのでしょうか?」と金山が眉を寄せる。
「……“えいのまる、かなで”です。全然違います」
「こ、これは失礼……」
金山は再び顔を引きつらせた。焦ったように眼鏡を直す所作を見るに、この人は案外気の小さい人なのかもしれない、と東華は思う。
その時、「なんだなんだ、よく見る顔に初めて見る顔じゃないか!」と、金山の後ろから大きな声が聞こえた。グレイヘアに白髪の一束混じった頭髪と、優しげだが威厳のある顔つきは、広間にいる男たちよりさらに一回りは年輩に見える。祖父と同世代くらいだろうか、と考えて、東華ははたと気づいた。するとこの人が、もしや――
「私は、こういうものだ!」
それが誰なのかなど全く頓着していない様子で、永犬丸は再び名刺を突きつけた。金山と東華はそろってぎょっとした。
「“えいのまる、かなで”でよろしいのですかな?」
「ほほう! なかなかやるじゃないか爺さん! 気に入ったぞ!」
「こ、こら!」と割って入ったのは金山だった。永犬丸の不遜な態度を見ていられなかったのだろう。「この方は鉄橋工業の創始者であられる鉄橋剛様ですよ!」と、早口でまくしたてる。一方の永犬丸はどこ吹く風といった顔をしている。
「金山くん」と鉄橋氏は金山に視線を合わせた。「君の、私を敬ってくれる気持ちはありがたいのだが、私は既に引退した身なんだ。今ではただの老いぼれだよ」
「しかしですね……」
「君の話というのは、後でちゃんと聞くよ。それより、こちらは儂が招待した客人だ。少し、席を空けてくれると助かるよ」
「か、かしこまりました……」
金山はしぶしぶといった様子で頷き、もとの輪の中――鉄橋工業の重役たちなのだろう――の中に戻っていった。
「いやあ、先程は失礼した。金山くんは、貴殿の名前を読み間違えたようですな」
鉄橋氏は言い、人の好さそうな笑みを浮かべた。
「よくあることです」と永犬丸も笑みを返す。
「立ち話もなんです、そこに座ってくだされ」とソファを勧められ、永犬丸は迷わず、東華は少し迷いつつ腰を下ろした。ソファはふかふかとしていて、よく沈んだ。
「鉄橋さんは、よくセンセイの名前をすんなりお読みになりましたね」
“かみこうじゃく”と同じく、“えいのまる”もなかなか難読だと思うのだが――。
思わず尋ねた東華に、鉄橋氏は満足そうに頷く。
「儂はこの辺の出身ですからな。それに、」
何か言いかけた鉄橋を遮って、「ちなみにこの鉄の胃袋を持つレディは七海東華クンです」と永犬丸がこちらに手を向けた。
「ちょ、やめてくださいよセンセイ、そんな紹介――」
「はっはっは、これはこれは。改めまして、儂は鉄橋剛と申します」
「あ、これはどうもご丁寧に……蔵馬出版で編集をしております、七海です」
東華が頭を下げ直すと、「蔵馬出版! やはりそうであったか!」と、鉄橋氏は前のめりになった。
「こちらの七海さんが蔵馬出版の編集ということは、貴殿は“あの”永犬丸先生で間違いございませんな?」
「いかにも!」
ま、まさか――。
驚愕する東華に、「先生の御著は拝読しております」と鉄橋氏が慇懃に頭を下げた。
「儂は特に“筋肉老師シリーズ”が好きでしてなあ」
鉄橋氏、まさかの永犬丸と同類だった――!? 話の展開に追いつけない東華を置いてけぼりにしながら、鉄橋氏は“筋肉老師シリーズ”の良さを語り始めた。なんでも、老師と年が近いというのもあり、筋肉老師シリーズは鉄橋氏のトレーニングのモチベーションの源だという。
「それに、先生のシリーズでは珍しく、カリステニクスに焦点を当てていることもあって、入りやすかった。老師の幼少時代――つまりは初心者編ですな――から始めて、なんと齢七十を超えてもブランシェができる身体を維持しておりますわい」
「なんと!」これには永犬丸も驚嘆した。「それは素晴らしい! 努力の賜物を、文字通り身体で“体現”しておられるのですね」
鉄橋氏は同志を見つけたのがよほど嬉しいらしく、筋肉老師シリーズとの思い出を詳らかに語りだした。その様子は、東華が訪ねてくるなり「どれこれという本で読んだんだけども」と知識を披露し出す永犬丸の姿と重なった。この人も同類に飢えているのだ。
曰く。鉄橋氏が永犬丸の著書と出会ったのは、六十を過ぎた頃だったそうだ。その頃を鉄橋氏は人生に倦んでいた。孫の茜以外は、自分自身ではなく、自分の肩書きや地位や金につられて集まって来る者どもばかり。しかし、鉄橋氏はそんなものに意味を見いだしていなかった。会社の創設者としてそれなりの経験を積んできたが、そんな自分に、まだできることはあるだろうか? そう、常々思っていたある日のこと。三年ほど前、鉄橋氏は、会社の休憩スペースで腹を抱えて本を読んでいる社員を見つけた。
「それが――センセイの“筋肉老師シリーズ”だったと?」
「まさにその通りです」鉄橋氏は力強く頷き、続けた。
あまりにもその社員が笑い転げているので、無理を言ってその場で本を貸してもらい、“筋肉老師シリーズ”を読み始めた鉄橋氏は、衝撃を受けた。脳に稲妻が走ったかのような心地だったという。それ以降、永犬丸が本を出すたびに、発売日には本屋の開店と同時に新刊を手に取る、といった生活をしているらしい。
「先生の作品に出会ってから、毎日が楽しくてしょうがない。儂は救われたんじゃよ。ありがとう」
言って、鉄橋氏は永犬丸の手を握り、深々と頭を下げた。
自分の担当した本が人の人生を変えた――その実感が、東華には眩しかった。感激しながら、返す言葉を探していた時。
「貴様ぁ!」という怒号に、広間中が静まり返った。
東華は弾かれたように声のした方を向いた。見ると、髭面の男が、部下らしき若い社員を怒鳴りつけているところだった。
「あれほど忘れるなと念を押したのに、なぜ言われたことができんのだ! ええい、役立たずめ!」
あろうことか、髭面の男は部下の顔を平手で殴った。
「申し訳ございません……」
「グズグズしておらんで、さっさと本社に戻れ!」
「か、かしこまりました……」
そう言うなり、若い社員は広間を横切り、玄関から表へ出てしまった。その顔に涙が浮かんでいたことに、東華は気がついて、胸が痛んだ。編集部にも確かに厳しい人はいるが、あれほど威圧的な上司はいない……。
「なんじゃ遠賀、なんの騒ぎじゃ」
鉄橋氏はぐっと表情を引き締め、ソファから立ち上がった。「おや、これは鉄橋さん」と言った髭面の男――遠賀と呼ばれていた――の表情は、見るからに緩んでいた。
そのまま鉄橋氏は遠賀の方へと行ってしまった。残された東華はまだ衝撃が冷めやらず、「びっくりしましたねえ」と永犬丸の方を見た。
「そう?」
「ええ……なんでセンセイ驚いてないんですか……急に大声出されたらびっくりしちゃうもんですよ」
「そうかねえ」と永犬丸は飄々としている。
少しして、鉄橋氏が二人のもとに帰って来た。
「いやはや、七海どのには申し訳ないことをしましたな」
「いえいえ、そんな、鉄橋さんが頭を下げる必要なんて……」
「先のは儂の会社の者でしてな……教育がなっておらなんだ」
がっくりと肩を落とす鉄橋氏。その後ろから、陣原が顔を出し、「パーティーの準備が整いました」と腰を折った。
「そうじゃ。せっかくだから、七海どのも永犬丸先生も、料理を楽しんではいかがかな」
「じゃ……いただきます……」
そのまま三人は、テーブルにずらりと並べられた料理の前に移動した。前菜からメインディッシュからデザートまで、種々様々な料理がバイキング形式に並べられている。東華は料理を端から順番に取りに行った。出版社のパーティーではどうしても接待が多くなるから、こういう立食形式のパーティーで堂々と料理を食べられるのは嬉しい。
東華が両手に皿を抱えて戻ってくると、鉄橋氏は永犬丸と並んで酒を飲みながら、どこかうかない表情を浮かべていた。
「どうしました?」
思わず話しかける。
「……儂が取締役を退いてからというもの、どうもよくない噂ばかり耳にしましてな」
「よくない噂……?」
もぐもぐとカプレーゼを頬張りながら、東華は鉄橋氏を仰いだ。
「ええ。――儂は確かに富を成しました。しかし、それはあくまでもただの結果であって、目的としていたわけではない。儂は、ただひたすらに、人のため、一心不乱に頑張っていただけなのです」
「――元は、親御さんに楽をさせてやりたい、というところから始まったんですよね」
ワインを飲んでいた永犬丸が、口を挟んだ。
「そうです。よくご存じでしたな」
「ここへ来るまでに、鉄橋翁の自伝を拝読しました」
「ははあ、それでですか」鉄橋氏は嬉しそうに目を細めた。
「そうです、元は儂の両親に、親孝行してやりたいと思ったのが始まりだったんです――」
鉄橋氏の語るところによれば、彼は金銭的にかなり苦労して育ったらしかった。そんな中一念発起して、働きながら大学に進み、ついには会社を設立。世のため人のためをモットーに会社を大きくしていった鉄橋氏のモチベーションは、それこそ両親を箱根の温泉に連れて行ってやりたいというような、小さな願いからだった。しかし、鉄橋氏が定年を迎え、取締役としての会社の第一線から退いた途端、会社の方針はがらりと変わってしまった。今の鉄橋工業は、富を成すこと、金を得ることが目的となっている。それを「現在の鉄橋工業は腐ってしまった」と、氏は強い言葉で避難した。
「おっと、辛気臭くなってしまいましたな。申し訳ない」
「いえいえ、そんな」頬いっぱいに料理を詰め込んだまま、東華は慌てて首を振った。
「美味しい料理が食べられて、私はそれだけで満足ですよ」
「はは。それはよかった。この集まりは――人とのつながりを改めて感じてほしい、そう願って開催しておるものです。鱈場氏が来れなかったのは残念ですが、永犬丸さんと七海さんとお会いすることができて、儂はとても嬉しく思っておりますわい。数日間という短い間ですが、楽しんでくだされ」
そう言うと、鉄橋氏は何か話があるらしく、奥で集まって話している重役たちの方へと足を向けてしまった。
「……鉄橋さんって、なんだか不思議な方ですねえ」
ローストビーフを三枚一気に詰め込みながら、東華はしみじみと呟いた。
「そう?」
「なんだか、とても偉い人なのに、“偉い人”って感じを見せないというか……。温かで人間味あふれる、と言いますか。それに、流石にトレーニングしているだけあって、とても矍鑠としていましたね」
「そうだねえ。歳を重ねて元気で人生を楽しむ、そして、そのための努力は一切惜しまない。これほど素晴らしいことはないね」
「私、なんだか元気を分けてもらっちゃった気がします。――センセイのファンというのには驚きましたけど」
会社の元取締役として気苦労の絶えない老人。自分とはまるでつながりのなかった人が、自分の関わった本を手に取って、支えにしてくれている。その実感を東華は料理と一緒に噛みしめていた。
「しかしまあ、東華クンのように鉄橋翁を見ている人は珍しいんだろうね」
ほら見て見なよ、と永犬丸は広間の奥に視線をやった。その先には、重役たち――その中には、金山や、遠賀と呼ばれた人もいた――に取り囲まれ、おだてられ、困ったような笑みを浮かべている鉄橋氏がいた。
「私たちにとっては元気な好々爺だけど、彼の持つ財産に目が眩んだ人の方が多いんだろうねえ」
「そう……なんですかね。なんだか、悲しいですね」
料理も心なしか涙の味がする気がする。そんな風に言葉を交わしていた時。「全くねえ」という声が、背後から割って入った。東華はもぐもぐと動かしていた口を思わず止めた。
「あんな風に媚び売ったところで、おじいちゃんの財産が手に入るわけでもないのにね」
振り返ると、黄色のワンピースに身を包んだ、若い女が立っていた。大ぶりな真珠のネックレスと、耳元にはトルコ石のイヤリング。見るからにゴージャスだが、それが下品にならずまとまっている。きれいな人だ、と東華は思わず見とれた。
女は鉄橋茜と名乗った。鉄橋氏に孫がいるという話は聞いていたが、この人か、と東華は合点した。確かに、育ちが良さそうな雰囲気を帯びている。
「あ、はじめまして、茜さん。私は七海東華といいます。こっちの人は、永犬丸奏という変な小説家です」
「変な、は余計だぞ」
二人のやりとりに、茜は目を細めて「うふふ」と笑った。
「はじめまして、東華ちゃん。永犬丸くん――実は、貴方のことはおじいちゃんから散々聞かされてるのよ。だから、初めて会ったのに、なんだか初めてじゃないみたい」
「そうですか? 私は“はじめまして”感がすごいですけどねえ」
「もう! なんでセンセイはそう斜に構えてるんですか!」
これに永犬丸は「傾いて行くのが私の信条だからだ!」と元気よく答えた。どうやら酒が回ってきているらしい。
「私のことは現代に甦った傾奇者と呼んでくれて構わないぞ。カブキ・フェニックスだ」
「歌舞伎は現役バリバリですよ……」
気分を害したかと思って茜の方を見たが、彼女は「あははは」と腹を抱えて笑っていたので、東華はひとまずほっとした。
「ねえ、二人はさ、おじいちゃん目当てでここに来たんじゃないの?」
「私たちは、鱈場さんっていう海洋学者の代理で来たんです。なのでその、鉄橋さんとは、ええと――」
「タダ飯食いに来ました」
東華の言葉を探す努力は、永犬丸の一言で一瞬で無に帰した。
「せ、センセイ! そういうことは、オブラートに包んでくださいよ!」
「ボンタンアメを食らうが如く、飯を食いに来ました」
「何言ってるんですか! 確かにボンタンアメはオブラートに包まれてますけど!」
「オブラートといえば、東華クン、知ってるかい? 薬の嚥下を補助するのに一役買うゼリーが去年開発されたっていう――」
「そういう蘊蓄は今はいいですから! 話を逸らさないでくださいよ!」
「あはははは! やっぱりあなたたち、面白いわねえ」
茜はなおもご機嫌そうで、東華は「ええ?」と思わず口に出した。この先生の一挙一動がこの人の気分を愉快にさせるらしい。
「だって、ほら」
茜は人だかりを指差した。
髭面の男が遠賀。その脇でしきりに頭を下げているのが金山。ワインを片手に饒舌に鉄橋氏におもねっているのが黒崎。その横で静かにたたずんでいるのが、黒崎の秘書だという、古賀――彼女だけは若い女性だった――。一人一人を忌々しそうに指しながら、茜は言う。
「永犬丸が言ってたように、ここに集まってるのはほとんど“ああいうやつ”ばかりなのよ。ほとんどは財産目当て――といっても、あの三人は、おじいちゃんを会社経営から締め出そうと躍起になってるみたいだけどね。おじいちゃん、取締役を退いた今でも何かと頼りにされちゃってるみたいだし」
なるほど、一見鉄橋氏を持ち上げているように見えているあの男たちも、腹の内は黒いのか――そう考えると、鉄橋氏がいっそう不憫に思えた。あの男たちが、お客様第一ではなく利益第一の――鉄橋氏の言葉を借りれば、“腐っている”――現在の鉄橋工業を作り上げてしまったのだ。
「まあ、おじいちゃんにはいつも通り、そういうハイエナが群がってるな……と思いながら部屋を見渡すと、なんだかおもしろそうな二人組――あなたたちを見つけたってわけ」
周りに目もくれず、ひたすらに料理を口に運ぶ様子を見て、何しにここまで来ているんだろうって思わず笑っちゃったわよ――と茜は言う。
「そんなに食べてたっけ?」
永犬丸に訊かれた東華は、「さあ」と首をかしげた。「私は三キロくらいしか食べてないですよ」
「キログラム単位なのか?」
「あはは! ほらね、もう、何この会話。まるで別世界に来たみたいだわ」
東華は不可解だった。今日は話をすることに夢中で、まだそんなに食べれていないのに、そんなに言うほどだろうか、と。
「別世界なのは東華クンの胃袋だけですよ」
「乙女に向かって失礼ですね、センセイ」
ふふ、と茜は再び微笑ましそうにして、「そういえば」と切り出した。
「パーティーが始まる前にさ、おじいちゃんと少し話し込んでたでしょ?」
「ああ」と永犬丸も顔をほころばせる。「御年七十を超えてブランシェができるとか。素晴らしいですよねえ」
「おじいちゃん、すごく楽しそうにしてたの。あんな顔を見たの久々だったわ。だからね、面倒化もしれないけど、おじいちゃんのこと、少しは相手にしてあげてね」
この言葉に、永犬丸は「もちろんです!」と前のめりに答えた。「筋肉を愛する者は全て等しく友人なのです」
「ふふ、その言葉を聞いたら、きっと喜ぶわ。ありがとう」
茜は満足そうに言い、ひとまずおじいちゃんを助けてあげなきゃ、と二人の前を後にした。
午後七時。パーティーが一段落し、料理も――七割がたは東華の胃袋に消え――残り少なになった頃。東華と永犬丸、茜の三人は、ソファで美酒を楽しみながら、歓談に耽っていた。
「ふふ、永犬丸くんったら変な人ねえ」
「ほら、やっぱりセンセイは変ですよ」
「そうなのかねえ。チキンナゲットを頼んだ時、ソースはいりませんって断るの、珍しいのかねえ……」
楽しそうな女性陣に対し、永犬丸だけが顔を曇らせていた。
「そうだ、注文を受ける際に、“ソースはバーベキュー、マスタード、または自然本来の味からお選びください”って言えば、私のようなソースいらない派が増えるのではないか?」
「センセイ、もうちょっとネーミングセンス頑張りましょうよ……」
その時、三人の会話に、「こんばんは、茜さん」と突然冷や水が被せられた。
茜に声をかけてきたのは、若い男だった。若いとはいっても、ここにいる年輩の男性陣の中では、という意味で、歳はもう四十を超えていると思われる。派手な柄のスーツの胸元から、よく日に焼けた肌と、ネックレスがのぞいていた。髪は金色に近い色まで脱色されており、目元の眼鏡には薄く色が入っている。
「……こんばんは、三ヶ森さん」
茜の声色は、先程までの明るさが嘘のように冷たい。彼の姿を目に留めた瞬間、茜の表情が硬く強張ったことに、東華は気づいていた。
「何か、ご用かしら」
「ははぁ、相変わらずツレないですねえ。大したご用ではないのですよ。ただ、二人でワインでもご一緒できたらな、と思ったまででして」
「あなた、眼鏡を新調したほうがよろしくてよ。私がこのお二方と談笑しているのが見えていないようですので」
茜が強く三ヶ森を睨むが、三ヶ森はまったく動じない。
「おや失敬。こういう、洗練されていない人間っていうのは、僕の視界に入らないんだ。不純物だからね」
突然繰り広げられた修羅場に、永犬丸が「誰? 知ってるかい、東華クン」と耳元でささやいてきた。東華も小声で答える。三ヶ森明人。半年くらい前までよくテレビに出ていた、ベンチャー企業の社長だった。テレビを普段から見ていない永犬丸は、「うむ、知らん」と興味なさそうに呟いた。
「さあ、君たち不純物はどきたまえよ」三ヶ森が二人を押しやろうとする。「これから僕と茜さん二人で今後について語り合いたいんだ」
「そうですか」と、永犬丸はあっさり立ち上がる。「そんなに言うならしょうがないねえ、行こうか、東華クン」
「え、いいんですか、センセイ?」
「いいのさいいのさ。私たちは不純物だからな。つまりはゴミだよ」
どうしたんだ、急に自分のことを卑下しだしたりして……?
東華は納得がいかなかった。失礼に倍の失礼で返すセンセイらしくもない。この腹立つ態度を取る御仁に、いつもみたいに、何か一言くらい言ってくれてもいいじゃないか。
顔をしかめる東華の脇で、茜はしっかり永犬丸の意図を察していた。
「――ちなみに、そこの永犬丸くんと東華ちゃんは、おじいちゃんのお気に入りよ。おじいちゃんもゴミがお気に入りなんて、焼きが回ったわねえ」
途端、三ヶ森の顔色が変わった。
「いやあ、三ヶ森さん、私は貴方に非常に感謝している!」永犬丸は三ヶ森の手をとり、にこやかな笑みを作った。「自分がゴミであることに今まで気づかなかったなんて、指摘されるまでまったく思いもしなかった。さっそく、鉄橋翁に自分がゴミであったことを報告しに参らねば――」
まっすぐ鉄橋氏のもとに歩いて行こうとする永犬丸を、三ヶ森は慌てて呼び止めた。
「お、おい! ちょっと待て! さっきのは言葉の綾ってやつで――」
「あら、そうでしたか」
永犬丸が大げさに肩をすくめる。気まずい沈黙と茜の剣呑な目線に耐え兼ねたか、三ヶ森は舌打ちをし、どこかに去ってしまった。
彼がすごすごと去っていくなり、茜は腹を抱えて笑い転げていた。
「さっきの、サイコーだったわ! 三ヶ森の青ざめっぷりったら、もう」
「あの、失礼かもしれませんが……三ヶ森さんと何か?」
迷ったが、東華は訊かずにはいられなかった。茜は「ええ、あったわ」と少し皮肉な笑みを浮かべる。
半年前――茜と三ヶ森は、一度食事に出かけたことがあった、という。
「その時に、週刊誌の記者に写真を撮られてね。しかも場所が――あまりよくなかった」
「半年前……あ、もしかして、ニュースで見たことあるかもしれません」
「そう、東華ちゃんが見たニュースはたぶん、この時のこと。三ヶ森は――わざわざホテル街のレストランを指定しておいて、自分で週刊誌の記者に居場所を知らせていたのよ」
既成事実を作りたかったのね、と茜は忌々しげに言う。
「週刊誌はあることないこと書き散らすしで、大変だったわ。ちょうど――もしかしたらこれも計算だったのかもしれないけれど――おじいちゃんが海外へ行っていた時期でね。邪魔が入らないうちに、事を進めておこうって魂胆だったのかもね」
「はあ……そんなことがあったんですね。三ヶ森さんがそんなことする人だなんて、テレビで見てた印象とは違いますね」
テレビで見る三ヶ森は、弁舌爽やかな若い実業家というイメージだった。少なくともこんな姑息なことをするようなイメージではなかったが……それだけに、業界から干されたのかもしれない、と東華は思う。
センセイはどう思いますか――と永犬丸を振り返ったところで、東華は言葉を失った。永犬丸は椅子に座ったまま、いつの間にかうとうとと船をこいでいた。
「……すみません、センセイはいつもこうなんです」
「うふふ。むしろ、気楽でとってもいいわ」
茜の表情は、先程の打ち解けたものに戻っていた。茜と話し込んでいる間に、いつの間にか夜は更け始めていた。茜は親しげに「おやすみなさい」の挨拶をして、広間から自室へと上がっていった。
「ほら、センセイ、行きますよ」
東華は永犬丸を揺り起こそうとしたが、永犬丸は「んん……ラスト一レップ……」とよくわからない寝言を言うばかりだった。
部屋に戻ると、東華はようやく肩の力が抜けたような気がした。何度見ても豪華な部屋だ。ベッド、二人掛けのテーブルと椅子。置かれている家具はシンプルながら、どれも上等なものだと一目で分かる。各部屋に風呂やトイレも設えられているのだから立派なものだ。ベッドも綺麗に整えられているし、本当にホテルみたいだ、と思う。
お風呂にでも入ろうか、とひらめいたところで、東華はふと思い至る。
「……覗かないでくださいよ」
「覗かんよ」
永犬丸は手元の本に目を落としながら、興味なさげに言った。
「それに、浴室や脱衣所には鍵付きのドアがあったろう。着替えやらなんやらはそこですればいい」
「――絶対ですよ? 絶対覗いちゃ駄目ですよ?」
「……東華クン、ダチ〇ウ倶楽部って知ってる?」
「急になんですか、知っていますよ」
「人は“押すなよ? 絶対に押すなよ?”と言われると、押してしまうものなのだ」
永犬丸はぱたんと本を閉じ、なおきょとんとしている東華に説明した。これは脊髄反射であって、自分の意思とは関係なく怒ってしまう反応である。熱いヤカンを触って、“あ、このヤカンは熱いぞ。手を離さないと火傷してしまう! よし、手を離そう!”という思考をするまでもなく手を離すのと同じ原理だ。
「つまり、私が風呂場に野生のスライムよろしく現れたとしても、それは脊髄反射であってだな――」
東華は永犬丸をベッドに縛り付けてから風呂に入ることを決意した。
*
その日の深夜。三ヶ森はいくら飲んでも酒が飲み足りない気分だった。せっかく誘ってやったのに、茜のあの態度はなんだ。あの永犬丸とかいう野郎も気に食わない。俺の顔を潰しやがって。
窓がない部屋はただでさえ圧迫感があり、早々に床にはいっても、なかなか睡魔がやってこない。部屋で飲む酒でも拝借しようかと、ふと思い立って広間まで降りた彼は、そこで胡乱な人だかりを見た。金山、黒崎、遠賀――現在の鉄橋工業の重鎮たち。黒崎の傍にいる存在感の薄い女は、確か古賀といったか。
深夜の密会という奴か。そもそも、今回もよからぬことを企んでいそうな奴等だった。三ヶ森が見ないふりをして通り過ぎようとしたところで、大柄な髭面の男――遠賀が、目ざとく三ヶ森を見つけ、群れからはみ出てわざわざ話しかけてきた。
「はっはっは、先程は散々だったな。えぇ? 三ヶ森くん」
遠賀は酒が回っていて、いかにも上機嫌といった様子だ。それが三ヶ森の神経を逆撫でた。
「おっと、そう怖い顔をするなよ」
「……俺に関わるのは、もうよしてくれないか。あんたといると碌なことがない」
「そんな態度をとっていいのかねえ? 二十年前の買い物は、高くついたろう。まさか、お前が――」
「黙れっ!!」
三ヶ森は咄嗟に、テーブルに置かれていたワイングラスを遠賀に向けて投げつけた。グラスの割れる音。頭から酒をかぶった遠賀は、不快そうに眉をひそめた。
「――そのことは口外しない約束だろう」
「それがあの時助けてやった恩人に対する態度か?」
「知ったことか!」
三ヶ森は大股でその場を立ち去った。背中に粘っこく貼りつく遠賀の視線を振り払うように。三階まで上る途中、部屋で飲むための酒を忘れてきたことに気がついたが、今更取りに戻る気はなかった。
「……遠賀さん、何を三ヶ森さんと揉めていたんです?」
突然席を立ったと思ったら、髭から酒を滴らせて帰って来た遠賀に、金山は恐る恐る話しかけた。名目上の立場は金山が専務、遠賀が副社長であったが、実質会社の――そして今回の件の――指揮をとっているのは遠賀だ。歳も十歳近く離れているし、金山は遠賀に対してどこか敬遠する気持ちを持っていた。
「ふん、躾がなってなかっただけだ」遠賀は不機嫌そうに言い、それからにやりと唇をゆがめた。「改めて調教し直さないといかんな」
黒崎も追従するように下卑た笑みを浮かべている。金山はひとり居たたまれない気持ちになりながら、うつむいていた。
先程の三ヶ森の件といい、どうも今年は、不穏な空気が漂っている気がしてならない。そんな金山の懸念を見てとったのか、「何を暗い顔をしている」と遠賀は厳しい口調で言った。
「今さら引き下がれるとでも思っているのか? ――ワシらは二十年前のあの時から一心同体、そうだろう?」
「それは……そうですが……」金山は伏せた目を上げ、伺うように遠賀を見た。「本当に、あの計画を実行するおつもりで?」
「この期に及んで何を言う。もう進むしかないのだ。さて、明日にそなえて君もしっかり休むようにな。ワシは部屋に戻る」
遠賀は金山の肩を強く叩くと、「全く、あいつのせいでスーツが台無しだ」とぶつぶつ呟きながら、広間を後にしてしまった。
存在感のある遠賀が去ってしまうと、広間はひどくがらんとして見えた。緊張のせいだろうか、黒崎は古賀の肩に手を回しながら黙々と酒を煽るのみで、誰も言葉を発しない。
重くたれこめた沈黙の中で、金山は葛藤していた。
確かに、約束された見返りは大きかった。それに、個人個人で行う内容にも、犯罪性はない。あくまで、偶然に偶然が――不幸な偶然が――降りかかるだけなのだ。しかし――
やはりあの時、なりふり構わず止めるべきだったのだろう。今更悔やんでも取り返しがつかないことはわかっているが、金山はそう思わずにはいられなかった。自分はあらゆる意味で弱く、流されてしまった。そして、この有様だ。だが――鉄橋氏を裏切ることなど、私にはできない……。
金山は黒崎の大きないびきで我に返った。見ると、静かに座っている古賀の横で、黒崎が酔い潰れてソファで寝入ってしまっていた。
金山は一つ溜息をつき、「黒崎さん」と彼を揺り起こした。
「休むならお部屋にちゃんと戻った方がいいですよ」
「ん……ああ。すまないが、手を貸していただけないか」
金山は黒崎の腕を取り、自分の肩に回した。相当飲んでいたからか、足元が覚束ない様子だ。「私のスーツに吐かないでくださいよ」と言ったそばから黒崎が吐いた。吐瀉物の降りかかった自分の肩を見つめながら、金山は再び大きな溜息をついた。
【一九九九年 八月二日】
翌朝、東華が気持ちよく目を覚ますと、永犬丸はすでに起きており、窓辺の椅子に座って本を読んでいるところだった。
小鳥のさえずりが清々しい。
「もう七時半だぞ。既に本を三冊読み終えてしまったよ」
「一体何時に起きたんですか。いや、それよりも、どうやって縄抜けしたんですか」
「四時半。ちなみに縄は普通にぶち破った」
東華は開いた口が塞がらなかった。
「禅僧か何かですか、センセイは……」
思わずそう言うと、「禅僧は縄をぶち破ったりはせんだろう」と淡々と返される。
「起床時間の話ですよ!」
まったく、このセンセイといると本当に調子が狂う。朝一番ですでに疲れたような気がしながら、東華は再び枕に顔をうずめた。それにしても、イイとこのベッドはふかふかで気持ちがいい。何せシモンズのベッドなのだ。このベッドだけで十何万とするのだろう。そう考えると、睡魔の力がよりいっそう強大になっている気がしてくる。
「睡魔に負けたら朝食抜きになるぞ。三十分後には朝食だ。顔洗って準備しなさい」
「ふぁ~い……んん……あと五分……」
健やかな寝息を聞きながら、永犬丸は「全く……」とひとつ息をついた。
「まあ、気持ちはわからんでもないがな。都会の喧騒から離れ、樹々に囲まれた館にて静謐なるひとときを過ごす――か。風流じゃないか」
「……詩人ですねえ、センセイ」
「起きていたのか」
「はい。それはもう、バッチリと聞いちゃいました」
東華はむくりと起き上がり、口止め料にどら焼き三つを要求した。
昨日の立食パーティーも豪華だったが、英鉄館は朝食までも洗練されていた。焼きたての温かいバターロール、滑らかなスクランブルエッグに、カリカリに焼かれたベーコン、新鮮な野菜のサラダ。コーヒーも豆から煎じるこだわりようで、香りが高い。東華が朝食をもりもりと口に運び、陣原からお勧めされたパンのお代わりを喜んで受け取ったところで、館の主である鉄橋氏が「さて」と口火を切った。
「館内にこもっていては、身体を動かしたくなるでしょう。儂のジムに興味のある方はいませんかな?」
「ほほう! それは興味深いですな」と真っ先に食いついたのは、言わずもがな、永犬丸だ。
そうして朝食後、彼らは鉄橋氏特注のジムを見学する運びとなった。永犬丸は「おお! イヴァンコのバーベルにアレコルのエリプティカルまである! それに――」などと呪文のような言葉を発しながら興奮していた。それに対し鉄橋氏もまた、呪文のような言葉で応じていた。
鉄橋氏の取り巻きたちも何名がついてきたが、一同、永犬丸と鉄橋氏の呪文のやりとりにぽかんと口を開けているばかりだった。
なお東華は、その呪文についてある程度理解しており、悲しいかな、自分も“そっち側”の人間であると思わざるを得なかった。
*
招待客たちがジムを後にした後、朝一番のトレーニングにでも励もうと思っていた鉄橋氏は、「鉄橋さん、少しよろしいでしょうか」という若い女の声に、驚いて背後を振り返った。
確か――古賀という社員だった。中途採用で入って来たばかりの社員だが、鉄橋氏は自社の社員の顔を忘れたことはない。
「どうしたね?」
「実は先日、鉄橋さんの自伝を拝読いたしまして」
鉄橋氏は感心しながら頷いた。自社の社員に読んでもらえるとは、ありがたいことだ。
古賀はそれから、社交辞令じみた賛辞の言葉をひととおり述べ、「ひとつ、気になったことがあるのですが」と切り出した。そちらが本題なのだろうということは、言われるまでもなくわかった。
「……二十年前の事故、だね」
古賀は神妙な面持ちで頷いた。
「私は当時、まだ中学に入ったばかりでした。なので、当時の報道についてはほとんど覚えていません。――いえ、もしかしたら、報道なんてされていないのかもしれません。図書館で過去の新聞記事について調べてみましたが、その件について言及されているものは皆無でした。この場で聞くのは大変無礼かと存じております。しかし――当時、何があったのでしょうか?」
古賀はまっすぐな瞳で鉄橋氏に尋ねた。
鉄橋氏はしばらく黙りこくっていた。確かに、あの自伝では、二十年前の事故のことだけが、妙に煮え切らない筆致になってしまっていた。今でもやりきれない気持ち、当時のことを悔いている気持ちが、無意識のうちに滲んでしまっていたのだろう。
鉄橋氏は、ジムの中に他に人がいないことを確認した。他の者たちは、すでに本館へ戻っていったようだ。そして再び古賀に向き直り、重々しげに語り始めた。
「彼の名は――福間と言った」
*
ジムの見学が終わった後、東華と永犬丸は茜に誘われ、庭のベンチの上でくつろいでいた。日差しは関東よりも強いが、蒸すような暑さはなく、木陰にいると夏風が心地いい。
気を利かせた陣原が、冷やした麦茶を持ってきてくれた。そのピッチャーをありがたく受け取りながら、そういえば、と東華はふと気になった。
「センセイが筋トレを遠慮するなんて、珍しいですね」
麦茶を一息に飲み干した永犬丸は、きーんとする頭を抑えているところだった。
「いやあ、前回のトレーニングから少し間が空いてしまったからね。どこの部位を攻めようか、決めかねたんだよ」
「そんな、ハラミにしようかハツにしようかみたいな悩み方してたんですか?」
「なんで牛の部位に例えるんだ。もうお腹が空いたのか?」
東華は侮りの気配を感じ、さっと表情を曇らせた。
「女心の分からないセンセイに、ひとついいことを教えて差し上げますよ。――女子にとって、デザートと焼肉は、別腹なのです!」
「あ、あの、東華ちゃん。それは女心と言うのかしら……?」
思わず尋ねた茜に、東華は「えっ!?」と目を見開いた。「茜さん、焼肉は本腹ですか?」
「なんだその本腹というのは」と永犬丸。
「女子の胃腸は都合のいいものを好きなだけ詰め込めるようになってるんですよ」
「びっくり人間もびっくりの機能だな」
永犬丸は興味深そうに東華の腹のあたりを眺めた。
「しかし、ハツを鍛えるというのはいいな。よし、今日は大胸筋を鍛えようかな。ベンチプレスから始めるとしよう」
「センセイ、ベンチプレス好きですよねえ」
「うむ。万人におススメしたいトレーニングの一つだ」
永犬丸の力説によれば、こうだ――
ベンチプレスはまず、高負荷の重量が扱えるというのが利点だが、それよりもっと大事なこととして、“筋トレをしてやったぞ!”感がすごくあるということが挙げられる。これは、達成感を得ることで、次のトレーニングへのモチベーションになる。ビッグ・スリーの仲間でもあるデッドリフトやスクワットも高重量を扱うがゆえか、好きな人は多いだろう。云々。
「まあ、ある程度トレーニングをしておくと、そのうち“フフフ、私は今、筋肉を鍛えているぞ!”と、どの部位のトレーニングをやっていても思うようになってしまうのだがね」
イキイキと話す永犬丸を、東華は「病気ですね」と一蹴した。「褒め言葉だな」と永犬丸は気にする様子もない。
「そう思えるのはセンセイ――と全国の筋トレ好きの皆さんだけですよ」
「とか言いつつ東華クンだってトレーニングしているじゃあないか。まあ、東華クンは私のように筋肥大が目的ではないが」
痛い所を突かれた東華は、「……センセイ、早く行かないと昼食の時間になっちゃいますよ?」と露骨に話を逸らした。
「おっと、そうだったな。では、私はちょっとジムに行ってくるよ」
永犬丸はベンチから立ち上がると、心持ち駆け足でジムの方へと向かって行った。その後姿を見送りながら、茜は「うふふ」と笑みをこぼした。
「東華ちゃんも、おじいちゃんや永犬丸くんと同じ側の人間なのね」
「わ、私は、いや、両足突っ込んでいる程度ですよ!」
「あはは、それはもう十分に、どっぷりと浸かっているんじゃない? でも――私と一緒ね」
きょとんとする東華の隣に、茜はゆっくりと腰掛けた。
「私もね、永犬丸くんの本を読んで――最初は半ば強制的に読まされたんだけど――トレーニング、始めたのよ」
永犬丸の影響が鉄橋氏ばかりでなく、まさか茜にも及んでいるとは思いもしなかった東華は、目をますます丸くした。だが――そう言われてみると、茜は均整のとれた体つきをしている。
「まあ、トレーニングは健康にも美容にもいいですからね」
だから茜さんはこんなに綺麗なんですね、と言うと、茜は「やだ、もう」と笑いながら東華の肩を叩いた。
「そんなこと言って、東華ちゃんのソレも、ヒップリフトあたりの賜物でしょう?」
「……えへへ、分かります?」
「もう、そんな嬉しそうな顔しないの。ちなみに、私はココがお気に入りなの」
言って、茜はそっと服の裾をまくった。
思わず引き付けられた服の裾の中――腹筋の横のあたりは、斜めにすっと線が入っている。お腹周りの筋肉を出すのは大変なのに、よく鍛えられている。
「ほええ、腹斜筋ですか、綺麗なラインを描いていますね」
東華が感嘆すると、茜も「うふふ、ありがと」と嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、東華ちゃん」
「なんですか?」
「私たちも病気よね」
茜のその言葉には頷くしかなく、「ですよねえ、あはは」と声を上げて笑う東華だった。
*
薄暗いジムの中、古賀は鉄橋氏が語る二十年前の話を、ぐっと手を握りながら聞いていた。
あの事故の犠牲者――福間誠司は、話し下手だったが、素直で、非常に勤勉な男だったという。彼はごく真面目で、常に自分の技術によって商品の質を高めることに執心し、顧客に喜んでもらおうという姿勢を隠さなかった。そして、彼にはそうすることができるだけの技術があった。そんな彼の姿勢は鉄橋氏の企業理念と合致するところがあり、鉄橋氏は福間に何かと目をかけていた。
そんなある朝のこと。鉄橋氏は突然、福間誠司が死んでいるという電話を受けた。急いで工場に向かうと、彼は確かに息絶えていた。鉄橋氏は頭が真っ白になった。それまでに人の死というものは何度となく目にしてきたが、福間の死は別だった。なぜ彼が死んでいるのか、全くわからなかったからだ。鉄橋氏はショックに打ちひしがれて、ただ呆然とその場に突っ立っていた。
そこにやってきたのが、遠賀だった。遠賀は、この件は私に任せてください、と言った。
「ぼうっとしていた儂は、たぶん頷いたのだと思う。儂は――弱かったんだ。何が起こったのか正しく認識せず、逃げた。遠賀に後のことは任せて、とんずらだよ」
そう自嘲気味に言う鉄橋氏の顔は、いつもよりもいっそう老け込んで見えた。
遠賀が去ってからしばらくして、警察が来て、鉄橋氏は事情聴取を受けた。しかし、古賀の記憶と調査の通り、報道は一切されなかった。警察は事故と判断したようだったが、それすら握り込まれてしまったのだろう、と鉄橋氏は言う。それが単なる事故であれ、会社にとっての不祥事であることは、間違いがなかった。遠賀は、経営に不利となったものを――それが事物であれ人であれ――躊躇なく切り捨てることができる、そういう男だった。
警察の下した結論は、残業で疲れ、集中力を欠いてしまった結果の事故だとのことだった。しかし、鉄橋氏は納得がいかなかった。福間が事故を起こすような男だとは思えなかったからだ。彼は安全管理を過剰なほど万全に行う男だった。付き合いで酒を飲むことすらない真面目な男だ。それが、事故? 何かがおかしい、引っかかる。そう考えだすと、どうも違和感があった。
死亡推定時刻は午後九時から十一時の間。しかし福間は、――その時代には珍しく――残業をしない男だった。彼は仕事を終えると、自宅で家族と過ごす時間や、本を読んで勉強をする時間に余暇を当てていた。その福間が、どういう訳だか工場に残っていた。これがまずおかしい。
その上、工場と本社の立地は別だ。本社の人間が工場へ向かうことはめったにない。ではなぜ、そこに遠賀がいたのか。遠賀は福間の死に驚いた様子もなく、処理を請け負った。人が死んでいるのに、“警察へ連絡”ではなく、“この件は私に任せて”なんて言葉が、普通、出てくるものなのだろうか。
疑念にかられた鉄橋氏は、確証がなかったにもかかわらず、遠賀を問い詰めた。彼はあっさり何があったのかを吐いた。遠賀は、鉄橋工業の製品に含まれる銀の含有率を、意図的に少なく改竄していたのだ。そして余剰分を、黒崎と金山とで別のルートへ横流しして利益を得ていた。
それに気づいたのが福間だった。仕事熱心だった彼は、その微細な違和感を見過ごせなかったのだろう。そして――
そこまで言って、鉄橋氏は言いよどんだ。
「そう……ですか」
古賀はうつむきながら、そう言うのがやっとだった。
「辛いことを思い出させてしまい、申し訳ございません」
「いや、構わないよ」
鉄橋氏は微笑み、ジムの窓から遠くを眺めた。
「ただ、一つ約束する。彼、福間誠司くんの理念だけは忘れずに、儂の胸中にある、と」
そこで今一度古賀に向き合った鉄橋氏は、古賀の表情が暗く沈んでいるのを目に留めた。頬には涙が伝っている。
「――君、泣いているのかね?」
古賀は小さく「え?」と呟いた。どうやら自覚していなかったらしい。
そこで、鉄橋氏ははたと気がついた。「君は――」
永犬丸はジムの窓の下に座り込みながら、そっと二人の話を聞いていた。鉄橋氏のジムを借りようと思って来てみたら、なんだか入りにくい雰囲気だったので、やましいことなど何一つないのに、思わず隠れてしまったのだった。結果として、盗み聞きめいたことになってしまった。
――しかし、あの三人は、なんだか訳アリみたいだな……。
永犬丸は顎の下に手をやり、ふむ、と考え込んだ。
*
その日の夕飯は、いやに静かだった。各々の食器が打ち合わさる音以外は、東華が陣原にお代わりを頼む声と、陣原の「かしこまりました」という返事だけが、食堂に響いていた。
「いやはや、皆さんお行儀がよろしいですな」
沈黙を破ったのは、遠賀だった。「どういう意味でしょうか」と、茜がそれに応える。
「なに、黙々と食を進めるのは、ワシの趣味じゃないんですよ。――そこで、ひとつ面白い話をして差し上げようかと」
「それが本当に面白いのであれば、お聞かせいただきたいものですね」
茜の声音には、警戒と、ある種の棘があった。それを察した遠賀は、「ふん」と鼻を鳴らした。
「茜さん、あんたにとっては、特に興味深いお話だと思いますよ」
「それは、どういう――?」
「そこにいる、三ヶ森くんについての話だからですよ」
突然話題に上がった三ヶ森は、がたんと椅子を鳴らして立ち上がった。
「おい! なぜあんたが俺についての話をするんだ! そんなものは必要ない!」
血相を変えて怒鳴る三ヶ森に、一同は唖然とした。ただひとり、遠賀だけが、不敵な笑みをたたえたままだった。
「あれは、二十年ほど前だったかねえ。そこの彼は、」
「止めろ!!」
「少女を買ったのですよ」
辺りは水を打ったように静まり返った。
さすがの東華も、食事の手が止まっていた。
視線が三ヶ森と遠賀に集中する。三ヶ森はわなわなと手を震わせていたが、遠賀は挑発するように続けた。
「ふふふ、イケメン起業家として知られる彼が、裏では金にものを言わせて少女を買っていたなんて、笑えるだろう! ははははは!」
三ヶ森の手が強くテーブルを叩いた。
「ふざけるなよ!」
「ふざけてなどおらんよ。ただワシは本当のことを語っているだけじゃあないか」
遠賀の言うことは、東華には趣味の悪い冗談だとしか思えなかった。この三ヶ森が思いがけず汚い手を使うことは、先日の茜の話で確認済みだが、それにしたって酷い――。けれど、話だけ聞けば半信半疑のこの話を、三ヶ森はその態度で事実だと認めてしまっていた。
各々が目を伏せて黙り込んでいた時、「……やる」という三ヶ森の声が、東華の耳に届いた。
「……殺してやる。貴様だけは、……必ず殺してやる――」
三ヶ森はそのまま食堂を乱暴に出て行った。遠賀が「ふん、何を怒っているのか」と言ったきり、再び重い沈黙が訪れた。その日の夕食は、三ヶ森が去った後、誰も一切口を開かず、ひどく陰鬱とした空気が漂うこととなった。
*
重苦しい雰囲気の夕飯が終わった後。金山は鉄橋氏から別室に呼び出された。前々から、話がある、ということは打診していたが、今になってようやく話す機会が訪れたのだった。
鉄橋氏は金山の話を深刻そうな顔で聞いていた。薄々感づいていたのだろう、驚いた様子はなかった。
「……そうか。遠賀くんと、黒崎くんが……」
そう言ったきり、「君はもう戻ってよろしい」と部屋を追い出されてしまった。鉄橋氏の部屋を後にしながら、金山はこんなことしかできない己のふがいなさを噛みしめていた。
広間ではいつものように密会が繰り広げられていた。ソファには古賀の背中に堂々と手を回している黒崎。その傍らで、遠賀が浴びるように酒を飲んでいる。
「全く、三ヶ森のあの態度は何なんだ!」
「遠賀さん――飲みすぎですよ」
金山が諫める声など聞き入れられるはずもなかった。
「これが飲まずにやっていられるか! あの若造め、舐めた態度を取りおって……何が“殺してやる”だ。嘯いたところで何もせんくせに、大口を叩きおってからに」
酒が入った遠賀は厄介だ。その上、完全に出来上がってしまっている。これは相手をするのに骨が折れると、金山は密かに渋面を作った。
「まあまあ、そうカッカしなくてもいいじゃないですか」
気分よさげに飲んでいた黒崎が、遠賀をますます煽るようなことを言うので、金山はひやひやしていた。
「黒崎くん! 君まで何を言いだすか! あんな若造に馬鹿にされたワシの気持ちが――」
「三ヶ森くんは、小物――遠賀さん、あなたの玩具でしょう。それなら、玩具が壊れただけのことです。違いますか?」
「ま、まあ……」これには遠賀も言いよどんだ。「確かに彼は小物だが――」
「遠賀さん、そんな小物なんて放っておきましょう。私たちが狙う獲物は――あの鉄橋剛氏その人なんですから。三ヶ森くんなんて、比べ物になりませんよ」
「……ふん」
うまくやりこめられた遠賀は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「黒崎くん、君の立てた計画は本当に抜かりがないのだろうね?」
「もちろんです。私がこれまでに立てた戦略はすべて成功しているじゃないですか」
「戦略、ねえ。奸計と言った方がいいんじゃないのか」
遠賀が意地悪く尋ねると、「人によってはそうと言うかもしれませんね」と、黒崎はあっさり認めた。
「解釈の仕方なんて人それぞれですからね。私は他人が何と言おうが気にしません。私が欲しいのは、ただ一つ、圧倒的な権力のみ。それには――氏が邪魔なだけです」
「君の野望に比べたら、ワシなんかは只の俗物だな。ワシは金さえ得られればそれでいい。君はそれを約束した。だから君についていっている。二十年前もそうだった。――君はどうなんだ、金山くん?」
突然水を向けられた金山は、「え? 私ですか?」と動揺をあらわにした。どう答えるべきか悩んだが、気づくと「どうなのでしょう」という言葉が口をついて出ていた。
「どうなのでしょう、とは何だ。はっきりしないな」
遠賀の刺すような視線に射すくめられる。金山は迷ったが、結局、思うところを正直に口に出すことにした。
「……私には、黒崎さんのような野望もなければ、遠賀さんのようにお金が欲しいといった欲も、考えてみると持ち合わせていないのです。しいて言うなら、お二方はカリスマ性があるといいますか、そのオーラにあてられてしまったといいますか。――要するに、私は只の金魚のフンなのです」
「なるほどねえ。まあ、そういうのが周りにいると、何かと役には立つがね」
遠賀の言葉は、どこまでが真意なのか、金山には測りかねた。
「――おや、もうこんな時間か」黒崎は空気を読まず立ち上がった。「私は部屋に戻るとしようかな。古賀くん、悪いが、ニ十分後にワインを部屋まで持ってきてくれないか」
「かしこまりました」と古賀は無表情に頭を下げる。そのまま二人は広間を後にし、だだっ広い空間には――金山にとっては不幸なことに――金山と遠賀だけが取り残された。
私も失礼いたします、といつ言おうか。タイミングを測っていたところで、「しかし、あの古賀とかいう女は無口でつまらんな」と遠賀が言ったので、話の中座は困難になった。
「あの女、一度も会話に参加してこないじゃないか」
「仕事ぶりは真面目で有能なようですけどね」
金山は無意識に古賀を弁護した。
「今年度入社してきたばかりなのに、黒崎さんも身の回りのことはほとんど彼女に任せているようですし」
「ふん。上の者に媚びへつらうのも仕事のうちじゃないのかね。ワシなんかキャバクラに行けばあっという間に大モテだぞ」
会社とキャバクラを一緒にするのはどうかと思うが……。
金山の引きつった笑いを見て、「なんだ、不服でもあるのか」と遠賀は凄んだ。
「いえ、そういう訳ではありませんが」と、金山は慌てて取り繕い、追従の笑みを浮かべた。その笑みが嘘であることくらい、遠賀はとうに見抜いていた。
「会社もワシにとってはキャバクラみたいなものだ。この地位まで上り詰めたのだぞ、ちやほやされてなんぼだろう。しかし――あの二人は邪魔だ」
「黒崎さんと古賀さんですか?」
「アホウ、黒崎と鉄橋に決まっているだろうが。あの二人さえ消えてしまえば、金と権力のどちらも手に入るのだぞ? そうしたらワシがナンバーワンだ」
遠賀はほくそ笑んだ。絶対的な権力を握ることができた暁には、これまで卑しいものを見るかのような目線をよこしてきた女性社員も、まるで蔑むかのように自分を見てきた古賀も、自分の前に跪くことになるだろう。それは、愉快な想像だった。
愉快にあてられた遠賀は、次の酒を飲もうとして、その一歩を踏み外しそうになった。どうやら酒が進みすぎたらしい。
「おい、金山くん、ちと肩を貸したまえ。急にひどい眠気が――」
「かしこまりました……」
先日も黒崎に肩を貸したことを思い出しつつ、金山は遠賀に従った。大柄な彼を部屋に運ぶのはなかなかに重労働だった。足元の覚束ない遠賀を支え、屋敷の長い階段を上りながら、金山は冷え冷えとした懸念が胸中に広がるのを感じていた。
――私は、とんでもない思惑の渦中にいるのかもしれない。
この計画を知らされた当初からわかりきっていたことだったが、それでも、改めてそう感じざるを得なかった。
永遠とも思える道のりの末、どうにか遠賀の部屋までたどり着いた。遠賀はベッドに倒れ込むなり、「着替えなくていいのですか?」という金山の声など耳に入らず、すぐに大きないびきをかき始めた。金山は何度目かわからない溜息をつき、ふと時計を見上げた。十二時十五分。中途半端な時間だったが、寝つけそうにもない。
陣原がまだ起きていたら、気持ちを落ち着けるためにハーブティーでも入れてもらおうと、金山は階下に向かった。館はすっかり寝静まっている。常夜灯の心もとない灯りだけがついている館内は、昼間よりもどことなく不気味に感じられた。
キッチンに電気がともっているのを見て、金山は人知れずほっとした。中には陣原がいて、食材の山を前に包丁を動かしていた。
陣原は仕事中にもかかわらず、金山を快く出迎えた。ハーブティーが欲しいという金山に、カモミールティーを用意するだけでなく、「金山様、顔色がすぐれないようですが?」と気遣いまで忘れない。
胸の内を当てられたようで、金山はひそかに動揺した。だが、他言をするような人間には見えないし、この人を前に取り繕う必要もないだろうと思い、気づくと日ごろのストレスを陣原にぶちまけてしまっていた。陣原は嫌な顔ひとつせず、「金山様も気苦労が絶えないのですね」と、ほどよく他人行儀な相槌を打っていた。
そうこうしているうちに、ハーブティーも飲み頃になった。茜が寝る前に常飲しているというカモミールティーは、なるほど、甘くいい香りがした。気持ちが安らぐというのもわかる。一口飲むと、胃の中がじんわりと温まっていく感覚がした。心なしか、肩のこわばりもほどけたかのようだった。
美味しそうにカモミールティーを飲む金山を見て、陣原がふっと表情をほころばせた。
「余談にはなりますが、カモミールの花言葉は“逆境に耐える”、“苦境の中の力”というものがございます。少しでも、金山様のお力になれれば」
「ほう、それは知りませんでしたね」
金山は素直に感嘆した。今の自分にピッタリ符合する言葉だ、と思った。
「そういう、陣原さんがしてくれるような、ささやかな心遣いが心に沁みます」
「そう言っていただけて、何よりでございます」
陣原は優しげに微笑み、残ったハーブティーをもう一つのカップに注いだ。
「では――ハーブティーですが――乾杯いたしましょう」
きん、とカップの触れ合う音が、キッチンにかすかに響いた。
【一九九九年 八月三日】
その日は、酷い雨だった。
十二時ごろから振り出した雨は、時間が経つごとに勢いを増し、屋敷の窓を強く叩いた。その日九州地方は記録的大雨になる見込みで、この二、三日はこの雨脚が続くということだった。
――雨の日は、なんだか憂鬱だ。
気分が沈んでいるだけでなく、東華はどことなく胸騒ぎがしていた。その予感は、朝食にひとつ空席があったことで、見事に的中した。あの髭面の大男、遠賀の姿が見えないのだった。
金山の話によれば、遠賀は昨晩かなり遅くまで酒を飲んでいたらしい。「フラフラになっていましたし、おそらくまだ寝ているのではないでしょうか」と金山は言った。なんでも、昨日金山が遠賀を部屋に連れて行った後、すぐにベッドに倒れ込んで寝入ってしまっていたという。
「……そのまま一生起きてこない方がいいんじゃねーかな」
不穏なことを言った三ヶ森を、「口を慎みなさい」と鉄橋氏が一括した。三ヶ森はなりふり構わない様子で、「五月蠅いな」と食って掛かった。「こんな雨でもなけりゃ、こんなところとっととお暇していますよ」
――そういえばこの人、昨日遠賀さんに“殺してやる”って……。
東華はますます胸の内に暗雲が立ち込めるのを感じた。
結局、その懸念は杞憂には終わらなかった。遠賀は昼食にも顔を出さなかったのである。さすがの東華も食事が――常人並みにしか――進まなかった。そんな彼女を見かねて、鉄橋氏と茜が東華たちを食後のお茶に誘った。そこでもやはり東華は浮かない顔をしていて、鉄橋氏と茜とを心配させた。
「遠賀さん、どうされたんでしょう……」
酔い潰れて寝ているだけなら、こんな遅くまで起きてこないものだろうか。気になって、陣原お手製のスイーツもそれほど喉を通らない。
「さあねえ」と永犬丸はいつものマイペースぶりで、のんびりとお茶を口にしている。
「二人とも――ごめんなさいね」
茜が唐突に謝ったので、東華は「え? 何がですか?」と顔を上げた。
「茜が謝る必要はない。儂の責任じゃ」
東華はますます訳がわからない。ぽかんとする彼女に、鉄橋氏は申し開くように告げた。
「どうも、ここに集まった者たちは反りが合わんようで。険悪なムードが漂っておるでしょう。永犬丸先生も七海どのも、居心地が悪かろう。これもパーティーの主催者である儂の責任。誠に申し訳ない」
「い、いや、そんな気にしないでください。私たちは大丈夫ですから」
「そうですとも」永犬丸も続いた。「何せ私たち二人は、元々タダ飯食べに来ただけですから。美味しい料理が出るだけで大満足ですよ」
「センセイ……いやもういいです……」
東華は諦めた。
「先生があまり人付き合いを好まないというのは聞いておりましたが……ははあ、鱈場どのですな?」
鉄橋氏は何かにピンと来たらしい。永犬丸は「はい」と頷き、香りのいいお茶を一口すすった。
「彼からの手紙にはこうありました――“どうせろくなものを食べていないのだろう? 氏の館に赴いて、豪勢な食事を楽しんできてはどうだ。もちろんタダだから安心したまえ”と」
「はっはっは、鱈場どのも相変わらず、直球ですな。そこが好感が持てる所以ですわい」
「人間、素直でいられた方が気が楽ですからね」
「それも、そうですな」
鉄橋氏が頷いた時、だった。
突然、「うわあああああ」という絶叫が、屋敷中に響き渡った。
今の声は――金山だ。
「上からだな、行こう」
永犬丸の声に続いて、東華たちはそろって駆けだした。
二階、遠賀の部屋の前では、金山が腰を抜かしているところだった。その先に広がる光景を見て、東華は「ひっ」と細い悲鳴をあげた。
遠賀は苦悶の形相を浮かべていた。白目をむいて、口の端には泡がこびりついている。綺麗に整えられたベッドに横たわりながら、遠賀は事切れていた――。
一同が青ざめる中、一人冷静だった永犬丸が、遠賀の死を確認した。
「一旦、食堂に皆さん集まりましょう」
その言葉に反対する者はいなかった。
そうして食堂に、遠賀を除く全員が集められた。警察に連絡をしましょう、と永犬丸は提案したが、それはすぐに叶いそうもなかった。鉄橋氏の意向で、この館には電話が引かれていなかったのである。
「な、なんだって!? じゃあ、どうやって警察に連絡を取るんだ!?」
狼狽える金山を宥め、真っ先に名乗りを上げたのは、執事の陣原だった。電話で連絡をとることができないのならば、直接車に乗って最寄りの警察署まで行こうというのである。
これは永犬丸が止めようとした。何せ外は土砂降りの雨だ。この山奥にある館では、どこかで土砂災害が発生している可能性もある。危険は否定できなかった。
「しかし――このまま立ち往生もできませんでしょう」
その言葉もまた、否定ができなかった。
ここは陣原の好意にすがるしかない。「分かりました。お気をつけて」と永犬丸が頭を下げたとき、「お……俺も連れて行け!」と吠えた男がいた。三ヶ森だ。
「しかし――」
「五月蠅い! そこの執事がちゃんと警察まで行くなんて保証がどこにある!?」
「それは貴方だって同じじゃない!」
茜の指摘になおさらムキになったように、三ヶ森は「五月蠅い五月蠅い!」と喚き散らした。
「俺を連れて行かないというなら、お前ら全員――」
「――了解いたしました」陣原が三ヶ森の言葉を遮った。「三ヶ森様、道中は危険が伴うかと思われますが、それでもよろしければ――」
「分かりゃあいいんだよ、さっさと行くぞ」
三ヶ森は陣原を引っ立てるように屋敷を出てしまった。雨にけぶる景色の向こうで、二人が車に乗り込むのが見えた。
車の音が遠ざかっていく。豪雨でぼやけた視界に映るテールランプは、残された者たちの、どこか不安な心情を表していたようだった。
「遠賀さんは、なぜお亡くなりになったのでしょう……?」
食堂に重く沈黙が垂れ込める中、茜がおずおずと口火を切った。
何しろ、人ひとりの命が失われるという非常事態である。経験したことのない緊張感が、館中に満ちていた。
「分かりません」ときっぱり言い切ったのは永犬丸だった。
「外傷はなさそうですし、おそらく毒物でしょう。しかし、いま私たちが考えるべきことは、警察が到着するまで私たちが何をすべきか、です」
だが、外は生憎の悪天だ。警察が到着するのは、早くても明日以降になるだろう。何をすべきか、などと大それたことを言ったが、今の彼らにできることはないに等しい。
「現状、私たちにできることといえば、普段と変わりなく過ごすことくらいでしょう」
永犬丸の言葉に、「そ、そんな!」と金山が身を乗り出した。
「こんな状況で普段通りにしろ、と? 無茶な!」
「落ち着きなさい、金山くん」鉄橋氏が金山の身体を抑えた。
「永犬丸先生の言うことはもっともだ。なまじ外に出たところで、川の氾濫に飲み込まれるか、崖崩れの下敷きになるのがオチだろう」
つまりは、あの二人が無事に警察のもとへ辿り着くことを祈るしかないわけだ。彼らは待つことしかできない。渋々現状を飲み込んだ金山は、「そんな……」とがっくり肩を落とした。
そうして各々が解散となった。どうしたらいいのかわからなかった東華は、ひとまず永犬丸に続いて食堂を後にした。二階への階段を上った永犬丸は、まっすぐ自室に向かうと思いきや、逆方向に歩き出した。「ちょ、センセイ、どこ行くんですか?」と尋ねると、「遠賀さんの部屋」と当然のように返される。
「だ、駄目ですよ! 現場は保存しておかないと――」
「なあに、さっき少し入ったんだ。再度入ろうと大して変わらんよ。それに、一応確認しておきたい」
「……何をですか?」
「彼は、自殺したのか、殺されたか、をね」
そう言って、永犬丸は静かに部屋のドアを開けた。
現場は凄惨な様子がそのままに残されていた。東華は遠賀の遺体から目を逸らしつつ、永犬丸の顔を伺った。部屋を観察しているようだが、何を考えているのかは読み取れない。
「先生は、遠賀さんが自殺したと?」
「いや、おそらく殺されたんだろう。遠賀さんに自殺する理由があるとは思えないし、わざわざ鉄橋翁の館で自殺するのは不自然すぎる。そもそも――金山さんの話が本当だったとして――遠賀さんは“かなり遅くまで飲まれていた”そうだから、少なくとも昨日の深夜までは生きていたことになる。そうなると、我々の中にアリバイのある人間はいないのだよ」
「……じゃあ、私たちの中に犯人が?」
「そう思いたくはないがね。だから、遠賀氏が自殺した、という可能性を一応確認しておきたいのさ。万に一つということもあるかもしれないからね」
それから永犬丸は黙々と部屋を改めた。東華も気が進まないながらに、精一杯部屋を観察してみようとした。パーティーの代理出席と聞いた時はうきうきが止まらなかったのに、一体どうしてこうなったんだろう。そんな気持ちが胸から離れてくれなかった。
*
永犬丸が遠賀の部屋にいた頃、黒崎は広間で煙草を吸っていた。
――遠賀の奴め、飼い犬に手を噛まれたか?
それにしてもあいつらは馬鹿なのか。黒崎は不機嫌そうに紫煙を吐いた。一昨日と、昨日の騒動、そして今日の三ヶ森のあの言動。彼が怪しいのは一目瞭然だった。疑ってくださいと言っているようなものだ。それなのに、なぜ三ヶ森を逃したのか。
強引な手段――それこそ暴力を用いてでも、彼を捕縛しておくべきだったとしか思えない。そこまで考えて、いや、と黒崎は思い至る。三ヶ森は錯乱状態にあった。刺激したら何をしでかすか分かったものではなかった――。
全く、どう対処するのが正解だったのか。
黒崎はフィルターぎりぎりまで灰になった一本を灰皿でもみ消し、次の一本に手を伸ばした。傍に座っていた古賀が、すかさず彼の咥えた煙草にライターを差し出した。
金山は自室で一人途方に暮れていた。この館に来てからどうも嫌な空気を感じてはいたが、まさかあんな形で顕現するとは思いもしなかった。私たちはこれからどうなるのだろう。警察が来たら、真っ先に疑われるのは、遠賀と最後まで一緒にいた私なのではないか――一度そう浮かんでしまうと、不安がこびりついて離れなかった。
――妻と娘は、今頃どうしているだろうか。
確か今日は、プールに行くと言っていたはずだ。東京は晴れているといいのだが。金山は雨が打ち付ける窓に目をやり、深く溜息をついた。
*
「東華クンは、苦しい時――例えば咳き込んだ時――、じっとしていられるかい? それも身動きせずに、だ」
永犬丸は腕組みをしながら、険しい目つきで遠賀の遺体を眺めていた。
「それは――流石に無理じゃないでしょうか。動きを最小限にとどめようとしても、どうしても身体が動いてしまうと思います」
「そうだよねえ。だとしたら――やはりおかしいんだな」
「何がですか?」
永犬丸は「見てみなよ」とベッドの方に目配せをした。
「ベッドに皺ひとつないじゃないか。まるで、彼を乗せた後、ベッドを整えたみたいだ」
そう言われると、確かに妙だった。
永犬丸は死体の傍にしゃがみ込み、しげしげと遠賀の死体を検分し始めた。
「自殺と判断するのは、やはり厳しいだろうね。――ん? なんだ、この口の中の膜みたいなものは……」
「何をしてるんですか?」
「ひゃっ」
突然外から聞こえてきた声に、東華は飛びのいた。おずおずと後ろを振り返ると、地味な装いの女が立っている。
「やあ、古賀さんでしたっけ」
永犬丸はさして驚いた様子もなく振り返った。
「あの……他の皆様もお二方を探していますよ」
「ああ、それはご心配をおかけしました。戻ろうか、東華クン」
「は、はい……」
東華はやっとのことで返事をした。止まりかけた心臓は、遅れを取り戻すかのように、まだバクバクとうるさく脈打っていた。
食堂に戻った二人は、足を踏み入れるなり、金山に「君たちは何をしていたんだ!? 遠賀さんの部屋にいたというじゃないか!」と詰問された。
「遠賀さんが自殺したのか、殺されたのかを確認していました」
さらりと答える永犬丸に、「そ、そんなものは警察に任せればいいだろう!」と金山は食って掛かる。永犬丸は落ち着いた声音で答えた。
「警察がいつ来るかわかりませんから。時間が無駄に経たないうちに、現場の状態を確認しておきたかったのです。なお状況から言って、自殺の線は限りなくゼロですね」
「三ヶ森だな」
黒崎が唐突に口を挟んだ。
「三ヶ森がやったに違いないよ。そうなると、あの執事も殺して逃げたって可能性も……」
ぶつぶつと言いながら考え込む黒崎。金山は物騒な単語にびくりと肩を強張らせた。
「く、黒崎さん、どうしたんですか?」
「覚えていないのか? 昨日、遠賀が三ヶ森の秘密を、わざわざ全員の前で暴露していたろう。しかも彼は、己を失うまで怒りに震え、遠賀に向かって“殺してやる”とまで言っているんだぞ」
確かにそうだ、と東華は思い出す。昨日の夕食――あの、剣呑な雰囲気。
「三ヶ森は自尊心が異様に高い男だ。あんな風に辱められて、それこそ殺意を抱くまでに遠賀を恨んだに違いない――」
黒崎の言うことはもっともだった。今現在、一番疑わしいのは、遠賀と因縁があった上、逃げるように館を後にしてしまった三ヶ森だ。
今頃彼はどうしているのだろう――。東華は窓の外に目を向けた。豪雨はいっこうに止む兆しを見せず、激しく窓を叩き続けていた。
*
三ヶ森は陣原の運転する車に揺られながら、フロントガラスを上っていく雨粒を、はやる気持ちで眺めていた。ワイパーはほとんど意味をなさず、拭ったそばから新しい水滴が窓を濡らす。視界が悪い上に、この山道だ。車の速度計は、さっきから三十キロから四十キロの間をうろうろしている。
「……おそらく、後二時間ほどで最寄りの警察署へ着くと思います」
黙ってハンドルを握っていた陣原が、ちらりと三ヶ森を窺い見た。
「そうか、館を出てどのくらい走ったのかな」
「そうですね……大体、一時間弱、ってところかと」
「なるほどね。じゃあ、万が一誰かが追ってきていたとしても、かなり離しているわけか」
「……三ヶ森さ――」
言い切る前に、陣原は殴られ、頭をガラスに強打した。咄嗟にブレーキを踏んだおかげで、幸い事故には至らず、車はけたたましい音を立てながら止まった。
三ヶ森は乱暴に助手席の外へと躍り出た。強い風雨が瞬く間に服を重くする。脱力している陣原を運転席から引きずり下ろし、車の外に放り捨てる。
「俺は……まだ見放されていないようだな……」
こめかみから血を流している陣原を見下ろしながら、彼はぽつりと呟いた。
「あんたにゃ恨みはないが……車はもらうぜ。じゃあな」
そう言い捨てられ、車の音が遠ざかっていくのを、陣原はおぼろげな意識の中で聞いた。
「三ヶ森……さん……」
渾身の力をこめて立ち上がる。よろよろと車を追いかけようとするが、テールランプの光は無情にも小さくなっていくばかりだった。陣原はそのまま倒れ込み、今度こそ意識を手放した。
自室に戻った黒崎は、クソッ、と上着を椅子の背に放り投げた。
まさか三ヶ森が遠賀を殺すなんて。想定外も想定外の事態だった。遠賀を殺した理由は、間違いなくあの少女の件だ。元はと言えば遠賀が夕食の時余計なことを言わなければ……いや、そもそも三ヶ森がそんな性癖を持っているのが悪い――か。
一人、悶々と考え込みながら、黒崎は落ち着きなく胸ポケットから煙草を取り出した。こんな時に限って、ライターが空回りして、うまく火がつかない。ますます苛立ちを煽られた黒崎は、火がつくなり煙を強く吸い込んだ。
三ヶ森は私を恨むのだろうか。黒崎の内にある懸念は、もっぱらそのことだった。自分まで三ヶ森の手にかかるのはたまったもんじゃない。
あの件――三ヶ森があの少女と出会ったこと――は偶然ではなく、遠賀によって仕組まれていたことだった。あの時の一番の問題は、あの少女だったのだ。そこへ遠賀がいい案があると言って、抜擢されたのが三ヶ森だった。いや――犠牲となったのが三ヶ森だった、か。
「三ヶ森は……どこまで知っているのだ」
独り言を、紫煙と一緒に吐き出す。なんにせよ、彼がここにいないのは安心だった。自分の身の安全を案ずる必要もなくなる。
その時、黒崎は自室のドアが叩かれるのを聞いた。誰だ、こんな夜更けに――
【四日目 一九九九年 八月四日】
朝食の時間、食堂は今まで以上に空席が目立った。
「警察は……来ますでしょうか」
古賀が心配そうに言った。その隣もまた空席だった。しきりに横を確認している。その席は、確か――
考えて、東華はぞわりと悪寒を感じた。抜けたのは、昨日の時点で、遠賀、三ヶ森、陣原の三人だ。なのに、なぜ空席が四つある?
この違和感に気づいているのは、東華だけではなかった。「あの……」と口を開いた金山は、「どうしました、金山さん?」と永犬丸に訊かれ、「いえ……」と言いにくそうに切り出した。
「皆さんもお気づきだとは思いますが……。その、口にしてしまうと、それが現実となってしまうような気がして……」
「言いたいことは分かります。確認しましょう――黒崎さんの無事を」
「……はい」
金山は力なく頷いた。
しかし、彼らの懸念はまたしても懸念で終わらなかった。またしても無惨な死体がひとつ転がっていた。
ただ寝ているだけなのでは――という微かな希望も、永犬丸が脈を取り、黙って首を横に振ったことで、潰えてしまった。
「く……黒崎さんが……? そうなると、三ヶ森さんではないのか……?」
狼狽える金山を、茜が不審そうに覗き込んでいた。
その時、呼び鈴が鳴った。二階に下り、玄関扉を開けると、制服を着た体躯のいい警官が、玄関口に立っていた。
「到着が遅れて申し訳ございません。北九州市警察部刑事第一課穴生と申します」
穴生と名乗った警官は、永犬丸を顔を見るなり、一瞬怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうされました?」
茜が尋ねる。
「あ……いや。……人が死んでいる、と聞きましたが」
「はい……」茜は頷き、ちらと背後に目をやった。「ですが、実はもう一人、同じようにして死んでいるのです」
「なんですって?」穴生は目の色を変えた。「あの執事から聞いた時は一人だけだったはずだが――ともかく、確認いたします」
「え? あの……三ヶ森さんは?」
「三ヶ森?」
穴生は全く知らないという様子だった。一同は顔を見合わせ、にわかにざわついた。
「執事の陣原と一緒ではなかったのでしょうか……? そういえば、陣原の姿が見えませんが……」
「あの執事は頭に怪我を負っていましたので、病院で手当てを受けています。通報をしたのは、彼を道すがらに拾った男性――彼の名は三ヶ森ではありません――でした。その執事は、ここで人が亡くなっているということを彼に告げて、気を失ったようです」
「そんな……じゃあ、陣原は車に乗っていなかったのですか?」
穴生の話によれば、陣原はあの悪天の中、山道を歩いていたという。
三ヶ森は陣原に怪我を負わせ、車から追いやり、車を奪って逃走したものらしい。
「何やら訳ありのようですね。詳しいことは、検死が済んでからお伺いいたしましょう」
穴生は目を合わせ合う彼らを一瞥し、屋敷の中へと足を踏み入れた。
地下室にて。穴生と向かい合った永犬丸は、苛立たしげに頬杖をつき、その強面を眺めていた。
「おいおいおい、ゴリラに人間の言葉は通じないと思うのだが?」
「五月蠅ぇよ。テメェは一応容疑者のうちの一人なんだぞ。黙って取り調べられろ」
「ほらみろ! やはりゴリラに人間の言葉は通じないのだ。黙っていちゃなにも喋れないだろうが」
穴生は舌打ちをした。相変わらず、いちいち癪に障る奴だ。
「いいから何が起きたのか喋れよ。このままじゃ三ヶ森とかいう野郎か――鉄橋氏が犯人ってことになるぜ」
「……何を言ってるんだ? 鉄橋翁が犯人って、頭湧いてるのか?」
永犬丸が眉をひそめると、「まあいいから聞けよ」と穴生は続けた。
「三ヶ森とかいう奴が怪しいのは確かなんだがな。こいつに、黒崎の件が可能だったかというと、ちと無理がある」
なるほど、と永犬丸は合点した。もちろん、夜中にこっそりと帰ってきて、屋敷になんらかの方法で忍び込み、黒崎を殺害してまた出て行った、ということも可能性としては考えられる。だが、屋敷中の誰一人にも気づかれず、正面のドアから――あるいは窓から――出入りしたというのは無理がある。それなら車の音や、濡れた足跡で誰かは気づきそうなものだ。
「しかし、ではなぜ鉄橋翁が疑われなければならんのだ」
「動機だよ」
「余計分からんよ」
「金山が吐いたんだがな、どうやら、遠賀、黒崎、金山の三人は、鉄橋氏を事故に見せかけて殺害しようと企てていたらしい」
「なんだって!」
永犬丸は身を乗り出した。
「筋書きはこうだ。遠賀たち三人が自分を殺そうとしていることに気づいた鉄橋氏は、殺されるくらいなら先に手を打ってしまおうと、遠賀と黒崎を殺した――」
「金山さんが残ってるじゃないか。なぜ彼は殺されていないんだ」
「金山は、どっちつかずの人間だった」
「は?」
「金山はな、鉄橋氏に告げ口をしていたんだよ」
言って、穴生は調書を眺めた。「ええと、二日目の午後七時ごろに氏の部屋へ赴き、告白したようだな。これに関しては、氏も確かに金山から話を聞いたと認めている」
「……他にその企画について知っていた人はいないのか?」
「古賀がいるな。黒崎の秘書だ」
もっとも、自分は只の秘書であり、黒崎の身の回りの世話をするだけで計画に加担していたわけではない、というのが古賀の言い分らしい。
「で、お前はどう思うよ。鉄橋氏が自衛のためにこの二人を殺した、そう思うか?」
「思わん」永犬丸は即答した。だろうな、と穴生も頷く。
「鉄橋氏が自ら手を下すくれェなら、殺し屋でも雇った方がいいわな。だから俺も鉄橋氏もやったとは思えないんだが――」
「――アリバイと動機か」
穴生は重々しく頷いた。
この館では各々が部屋を割り当てられている。二人が殺害されたのは深夜――となると、相部屋となった永犬丸と東華以外、アリバイは皆無だった。そして動機となり得るものを持ち合わせているのは鉄橋氏のみ。そうなると、鉄橋氏に重要参考人として同行してもらわざるを得ない――。
三日だ、と穴生は言った。
「何を――」
「三日だけ、適当な理由をこじつけて送検を伸ばしてやる。その間に、犯人に目処つけとけ」
「お、おい、勝手な――」
「調書は後で見せてやる。なにか調べ物が必要なら連絡しろ。以上。何か質問は?」
穴生はこうなると聞かない男なのだ。永犬丸はひとつ溜息をついた。「今のところは」と言いかけ、思い直す。
「……いや。遠賀氏と黒崎氏、この二人とも、口にペリペリとした膜――乾いた寒天のようなもの――が残っていたんだが、これが何なのか鑑識に確認してくれないか?」
「分かった。……しかし、現場を荒らすんじゃねェよ」
それきり、永犬丸の取り調べ――という名の話し合い――は終わった。
その後、鉄橋氏はひとまず任意同行として署に連行されていった。その時の茜の取り乱しようは酷く、「なんでおじいちゃんが!?」「三ヶ森よ、三ヶ森を探しなさいよ!」と半泣きになりながら喚き散らしていた。それに対し、鉄橋氏は落ち着き払っており、すんなりと警部と共に館を出た。警官らに引き連れられて鉄橋氏が玄関をくぐった時、茜は東華に支えられながら泣き崩れていた。
【一九九九年 八月五日】
鉄橋氏が任意同行の名のもと連行された後、東華と永犬丸は、警察の手配したホテルでの滞在を余儀なくされた。彼らもまた容疑者の一人であり、鉄橋氏の容疑が未だ確定でない今、九州から関東へ帰すことはできなかったからである。
「センセイ……私たち、どうしたらいいんでしょう?」
東華は途方に暮れていた。
「そうだね」永犬丸はいつも通りの口調で答え、ホテルの引き出しをごそごそと漁っている。「今はとりあえず、客を待とうか。お茶でも入れるよ」
「そ、そんなのんびりと――え? お客さん?」
東華が尋ねた時、タイミングよく部屋のドアが叩かれる音がした。
「おや、噂をすればなんとやらだね」
永犬丸がドアを開ける。「邪魔するぜ」という太い声と共に、体格のいい男が部屋の中に入って来た。紺色の制服と、強面を強調するようなサングラスは、東華が昨日から嫌と言うほど見てきた顔だった。
「あなたは――穴生警部!?」
幽霊でも見たような顔をしている東華を見て、穴生は不服そうに永犬丸を睨んだ。
「あぁ? なんだ永犬丸、この嬢ちゃんに話してなかったのか?」
「遅かれ早かれ知ることだと思って話してない」
「忘れてたんだな」
「そうとも言う」
東華はますます目を丸くした。この話ぶり……センセイと穴生警部は、もしかして知り合いなのか……!?
「それで? 持ってきてくれたのか?」
「当たり前だろ、テメェと違って物忘れはひどくねェんだよ」
憎まれ口をたたく様子からも、彼らが往年の知り合いだということが見て取れる。
ぽかんとしている東華をさておき、穴生は鞄から何やら紙の束を取り出して、永犬丸の方に放った。書類を受け取った永犬丸は、すぐさまその中身を読み始めた。
「なんですか、それ?」
「調書だよ」東華の疑問に、穴生が短く答えた。なんでも、館にいた面々の証言が記録されているものらしい。
「ええ? センセイにそんなものを読ませちゃって……いいのでしょうか?」
「いいんだよ。こいつは基本的にアホだが、たまには役に立つこともある」
「はあ……」
東華たちが会話をしてる間に、永犬丸は一通り調書に目を通したようだった。
「ふうん。やっぱりアリバイを崩すのは難しいね。もっとも、この場合はアリバイがある人を見つける、という意味になるが」
まあな、と穴生も神妙な顔で頷いた。
「午後十時半までには全員部屋に戻っていたときてる。二日目の件について怪しいと思われる三ヶ森は依然消息不明だ。館内にいたのは、お前たち二人を含めて、計六人だな」
東華が興味津々といった様子で調書を覗き込むと、永犬丸はそれを見せてくれた。
以下が、東華と永犬丸を覗いた四人の証言である。
<鉄橋剛>
午後九時以降は、ストレッチなどを行い、どうにか冷静に努めようとしておりました。寝る前に日課の坐禅を組み、床につきました。ちょうど十時を回ったところだったかと。
不審な音などは――気づきませんでしたな。
昨晩はまだ雨が強かったでしょう。窓に叩きつける雨の音がひどく、館内の物音などは聞こえませんでした。いや、一度大きな雷が鳴ったような気がします。
そう、眩しかったので少し起きました。気づいたのはそれくらいでしょうか……。
<鉄橋茜>
多分、部屋に戻ったのは九時半くらいだったと思います。キッチンでカモミールティーを作って、部屋に持って帰り、ラジオを聞きながらおとなしくしていました。ハーブティーで少し気が安らいだのか、十時半――より少し前に、寝てしまいました。
え? 物音ですか? うーん……すみません、ぐっすりと寝てしまったようで、何か物音がしたような記憶はないですね……。お力になれず、すみません。
<金山沢三>
私は十時頃まで大広間にいました。ただぼうっと、窓からの景色――といっても、雨で殆ど見えませんでしたが――を眺めていました。部屋に戻ったのはその後なので、大体十時十分くらいだと思います。
そういえば、私がまだ大広間にいた時、キッチンの方から食器が重なり合うような、カチャカチャとした音がしていたような気がしますね。
その時間帯はまだ誰か一階にいたのかもしれません。
十時以降ですか……うーん、ああ、昨晩、大きな雷が落ちたようでしてね。腕時計を見ると、確か二時くらいだったと記憶しております。
い、いや、私がこの時間に起きていたからといって、私が犯人という訳ではありませんからね! そこは誤解しないでいただきたい。
<古賀美里>
そうですね……部屋に戻ったのは、八時ごろ、でしょうか。寝るまではずっと本を読んでいました。十時ごろには、寝入っていたと思います。
それ以降に物音がしなかったか、ですか?
……何時ごろだったか覚えていませんが、雷が鳴って、その光がとても眩しくて少しだけおきましたが、すぐに眠りについてしまいましたので、それ以外は特に……。
うーん、と東華は首をひねった。
「皆さん、静かに過ごしていたみたいですね……」
事態は依然として動かないままである。相部屋だった東華と永犬丸を除いて、アリバイのある人物は、やはり一人として存在しない……。
黙り込んでしまった東華と穴生に、永犬丸が「え?」と素っ頓狂な声をあげた。
「いや、一人、真夜中に堂々と館内を動き回っている人がいるじゃないか」
東華と穴生は同時に顔をあげた。永犬丸は「おそらく黒崎さんの部屋にいたんだろうな。でもなあ、動機がなあ……」とぶつぶつ言いながら、顎に手を当てている。
「センセイ、犯人が分かったんですか!?」
「犯人が分かった、というより、嘘をついている人が分かった、だけどね」
「て、テメェ、犯人が分かったなら教えやがれよ!」
「まあ、そう急くな」永犬丸は前のめりになる二人を宥め、続けた。「現時点では犯人だと断定できないんだよ。動機も今の時点じゃ不明だし……」
そこで永犬丸は、あることを思い出し、穴生の方を見た。
「そうだ、頼んでおいた調べ物について、結果は出ているのか?」
「ああ、口の中にある膜、だったな。お前の見立て通り、天草などの海藻類、つまりは寒天の主成分だとよ。ちなみに検出された毒物は青酸カリだ」
「寒天……? なんでそんなものが?」
東華はますます混乱した。これについては穴生も納得がいっていないらしい。
「毒入り寒天を食ったせいで死んだ――とか言わせるなよ。そんなアホな話があってたまるかってんだ」
「寒天……寒天、ねえ……」考え込んでいた永犬丸は、不意にぼそりと言った。「いや、その通りかもしれない」
これには穴生が黙っていなかった。
「お前……マジで馬鹿になったのか? なんだって深夜に毒入り寒天を食う物好きがいるってんだよ!」
「食べたのではなく、飲まされたのだ」
「かーっ!」穴生は短い髪をぼりぼりと掻いた。「お前がここまでボケてたとは……コイツに頼った俺ももう駄目かもしらんな」
「いいから話を聞け。館にいた人物の過去については、あらかた調べているのだろう?」
「当たり前だ。それがどうした?」
「その中に、製薬会社――黄鶴堂製薬に勤めていた人物がいないか?」
黄鶴堂といえば、テレビCMでもよく目にする、超大手の製薬会社だ。鶴のマークの黄鶴堂製薬。東華にとっても馴染みがある。
それと寒天がどうつながるのだろう……?
東華がはらはらしながら考えていた時、「いたぜ」と穴生が答えた。「しかし、――動機がねェぞ」
これで事態は再び膠着状態へと回帰した。難しそうな顔で口をつぐんでしまった永犬丸と穴生を見ながら、東華はおずおずと切り出した。
「さ、三ヶ森さんが姿を現してくれて、証言を何かしてくれたら、この事件も前に進むのでしょうかね……?」
「三ヶ森の野郎ねぇ。あの執事から奪った車を小峯で乗り捨てて、とんずらよ。酷い雨だったせいか、捜査は難航してる」
「車、見つかったんですか?」
「ん? ああ、ちょうどここに来る途中で見つかったと連絡が入ったんだ」
「そうだ」永犬丸が口を挟んだ。「三ヶ森は遠賀と口論していたな。あれは、何だったか……」
「三ヶ森さんが、二十年くらい前に女の子を買っていた、って話ですよ。それで三ヶ森さんが激昂して――」
「なんだと!?」
急に穴生が大声をあげたので、東華はびくりとした。
「三ヶ森ってェ野郎は買春に手ェ出してたっていうのか!? いや、しかし二十年前じゃなあ……」
とうに時効は過ぎている。そのことが、穴生には歯がゆいようだった。そのまま黙り込んでしまう。
「そう、二十年前、だ」永犬丸は額を抑えながら、ひとりごちた。「それが引っかかっているんだ。私は同じ二十年前の出来事を、最近、目にしている。“二十年前、父を失い一人残された少女”――確かそう書いてあった……」
そこまで言って、永犬丸はハッと顔をあげた。
「そうだ、鉄橋翁の自伝だ! そうか、じゃああの昼の話は――? いや、そうなると、当時の関係者が四人とも全て集まっていたことになるのか……?」
永犬丸は椅子から立ち上がった。穴生の方をまっすぐに見る。
「おい、穴生。“福間誠司”という男性について調べてくれ」
「誰だよそいつは?」
「二十年前、鉄橋工業の悲しい事件の犠牲者となった男性。そして、私の考えが正しければ――古賀美里の父親だ」
【一九九九年 八月七日】
そろそろ昼時になろうかという頃。永犬丸は喫茶店である人物を待っていた。待ち合わせの時間ぴったりになって、ドアが開き、からん、と軽やかなベルが鳴った。永犬丸の姿を目に留めるなり、こちらにまっすぐと近づいてくる。
やがて、真向いの椅子が引かれた。永犬丸は軽く頭を下げる。
「すみません、急なお呼び立てをしてしまい」
「いえ、構いませんが――私になんのご用でしょうか?」
「おっと、その前に。コーヒー、飲みますか? ここの主人はサイフォン式を取り入れてましてね。非常に香り高く、コクのあるコーヒーを楽しめますよ。私のおススメはキリマンジャロですが、何かお好みのものはありますか?」
永犬丸がメニューを手渡すと、ほっそりとした白い手がそれを受け取った。しばらくメニューを眺めていた目が、ある一点で止まる。
「……あら、コナコーヒーを置いているのですね。これをいただこうかしら」
「ツウですねえ」
言って、永犬丸はテーブルに頬杖をついた。コーヒーを待つまでの間、二人の間に会話はなかった。
ほどなくして、給仕が二人の前にコーヒーを置いた。カップを手に取った永犬丸は、一口飲み下すなり、ほう、と軽く溜息をついた。
「いやあ、コーヒーってなんで美味しいんでしょうね? 子どもの頃は“なぜ大人はこんな苦い水に金を出すんだ?”って思っていましたけどねえ。あ、でもコーヒー牛乳は好きでしたね。甘々ですし」
「……永犬丸様は小説家とお聞きしております。恐れ入りますが、私の平々凡々たる人生では、興味深い話など出来かねますかと」
業を煮やしたように、彼女は言った。
「平々凡々、そうでしょうか? 古賀美里――いえ、福間美里さん」
古賀はコーヒーに口をつけながら、いつものポーカーフェイスを浮かべていた。
「……失礼ですが、人を間違えているのでは?」
「いいえ。貴女は十四歳まで福間美里で、ある日を境に古賀美里になったのでしょう。違いますか?」
古賀は何も答えない。眉一つ動かさない、仮面のような無表情。地味ながら整った顔立ちの彼女がそうしていると、妙に迫力がある。
「貴女のお母様は、夫である福間誠司氏を事故で失った後、福氏届を出されていますね。そしてその後、貴女をお母様の戸籍に入れる際、貴女の姓を古賀にしている」
「……よく調べましたね」
「骨が折れましたよ」
永犬丸は軽く肩をすくめた。
「貴女を古賀美里として見た時、動機は見つからなかった。しかし、貴女が古賀美里であり福間美里でもあると判明した時――事件の見方が変わりました。最初に違和感を覚えたのは、貴女の証言です」
「――どこか、ヘマをしましたでしょうか」
「ヘマをしたというより、貴女は正直に自分が見た光景を穴生警部に伝えているじゃないですか」
古賀は不思議そうな顔をして、促すように永犬丸を見ている。
永犬丸は言った。
「貴女が滞在されていた部屋には、窓がないじゃないですか。どうして雷が眩しくて起きれるんですか?」
「ああ――なるほど、失念していました」
その時初めて、古賀の顔に、わずかに笑みらしきものが浮かんだ。
「雷が鳴ったのは午前二時くらいであると、金山さんが証言しています。この時間の雷の光に気づくには、窓のある部屋にいなければなりません。それが――黒崎さんの部屋だったのでしょう。とすれば、貴女は黒崎さんの死亡推定時刻に彼の部屋にいたことになります」
「遠賀さんの事件の場合はどうなのでしょう?」
「三日目の朝、金山さんはこう仰っていました――“私が遠賀さんを部屋までお連れした後、すぐにベッドに倒れ込んで寝入ってしまっていたみたいでした”と。この館の部屋は、内側から鍵を駆ける仕様になっているので、金山さんが部屋を出た後、急に遠賀さんが起き出して鍵を閉めたりしない限り、誰でも出入りができたことになります」
つまり、古賀も当然犯人になり得る、というわけだ。
古賀は静かに微笑している。追い詰められた犯人、というには、いささか優雅すぎる表情だった。
「そのまま金山さんが、遠賀さんを殺した可能性は?」
「実は、金山さんは、遠賀さんを部屋まで連れて行った後、すぐ厨房へ向かっています。どうやら、目が冴えてしまったため、ハーブティーをいただこうとしたようです。これが、十二時十五分あたりのことです。そこで、執事の陣原さんとしばらく歓談していたようですね」
「なるほど、面白いです。続きを?」
永犬丸はそこで一度、コーヒーに口をつけた。ふう、と息をついて、続ける。
「ところで、犯人は、同じ手段を用いて両人を殺害したものと思われます。これが、この事件は同一人物による犯行であると私が考えている根拠になります。そしてこれは、あの館にいた人物の中で、唯一貴女にしかできない手段だと考えられます」
「どうして、そうお思いに?」
「遠賀さんと黒崎さんの口内から、同じ成分の、あるものが発見されています。それは、寒天とみられる成分でした。これでお二方を殺害したのでしょう?」
ふふふ、と古賀は声に出して笑った。
「小説家さんはやはり発想が突拍子もないですね。想像力豊かで羨ましいですわ」
「確かに、寒天と聞くと、どこかずれた印象を抱くかもしれません。しかし、これは――嚥下補助ゼリーの一部ではないでしょうか」
その言葉で、古賀の顔から笑みが消えた。
嚥下補助ゼリーは、喉に負担をかけずに薬を服用することができる、画期的な発明だった。嚥下補助ゼリーの利点として、胃までの到達時間が短いことも挙げられる。これは、確実に死に至らしめる上で、重要な役割を果たすことになった。古賀は青酸カリをこの嚥下補助ゼリーに包み、彼らが寝ている間に服用させた、と永犬丸は見ている。
「一九九八年に、古賀さん、貴女の勤めていた黄鶴堂製薬は、嚥下補助ゼリーの開発に成功しています。しかし、開発に成功したとのプレスリリースは発表されていますが、まだ製品化されていません。貴女はそのレシピを知っていたはずだ。何故か。貴女が開発チームの責任者のうちの一人だったからです」
「よく、そこまで……」
古賀は面食らった様子で、小さく呟いた。
「ところで、あの違和感のある死体については? なぜ自殺に見せかけなかったのでしょう? その方が安全に思えますが」
「いえ、貴女はむしろ、この件が他殺であると示唆したかった」
「そんなことをして何の得が?」
「そもそも、遠賀さんと黒崎さんのどちらも、自殺するような動機を持ち合わせておりません。そんな中、鉄橋翁に招かれた館内で自殺するなど、どう見ても不審でしかありません。しかし他殺であるならば、怨恨など何らかの動機を持つ者がいた場合、その人物に目が向かいます。そしてその動機を持つスケープゴートとして二番目に選ばれたのが――鉄橋翁でした。
貴女は知っていたのでしょう。遠賀、黒崎、金山の三人が鉄橋翁の殺害を計画していたことを。……館にいたほぼ全ての人物に、犯行当時のアリバイを証明できる者はいない――しかし、その中で唯一、鉄橋翁だけが動機となり得るものを持っていたとすると? 警察が来れば金山さんは確実に鉄橋翁殺害計画が企てられていたことを吐露するでしょう。そうすることで、疑いの目を鉄橋翁に向かわせた」
なるほど、と古賀は小さく頷く。
「先ほど、鉄橋氏は二番目と仰られましたね。なぜです?」
「本来の予定では、スケープゴートとして、三ヶ森さんに注意を向けるつもりだったのでしょう? 元々は、彼らに対する意趣返しが目的だったはずだ。だが、三ヶ森さんは暴走し、消息が分からなくなってしまった。そこで急遽あつらえたのが鉄橋翁だった」
三ヶ森の場合、動機は用意されたかのようにあからさまだった。彼が館にいれば、彼が容疑者として逮捕されるのは明白だった。三ヶ森が本来、彼女の駒だったのだ。
そこまで語ると、しんと静寂が訪れた。彼らは黙って対峙していた。給仕の注文を取る声や、他の常連客らの話す声が、遠く聞こえていた。
カップの黒い水面に、二人の姿と、無音で回る天井のファンが映しだされていた。
「――よくまあ、そこまで推理したものですね。感服ですわ」
古賀はふわりと微笑を浮かべた。
そして、生徒に問題を出す教師のように、永犬丸に問うた。
「ところで、なぜ三ヶ森が選ばれたかわかりましたか?」
永犬丸はやや答えるのを躊躇った。
「……憶測ですが」と小さく言う。
「お聞かせください」という古賀の声音はあくまで落ち着いている。
「遠賀さんが暴露した三ヶ森さんの秘密――二十年前に少女を買っていたということ――この時の少女は、古賀さん、貴女だったのでは?」
「……そうです」
古賀は少し、目を伏せた。
「その少女が、私……。私は、父を失い、母には捨てられ、生きるのに必死だったのです」
うすく浮かべられた微笑には、かすかに自嘲が混ざっているように、永犬丸には見えた。
「なるほど、見事な推理でした。一つ、補足して差し上げます。確かに、私は鉄橋氏をスケープゴートとして仕立てましたが、この時の私は葛藤していました」
「……葛藤?」
「はい。おそらく、鉄橋氏は私の正体に気づいています。実は、二十年前の事件について、氏に探りを入れたのですよ」
言って、古賀は窓の外を見つめた。喫茶店の外では、夏休み中の小学生の集団が、プールバッグを下げながら、楽しそうに駆け抜けていくのが見えた。古賀が小さく目を細める。まるで、過去の自分を見ているかのように。
「鉄橋氏は、私の父――福間誠司に大変目をかけていたようです。そして、父の話をする氏の目には、溢れんばかりの悔恨の念がにじみ出ていました。それを見て私は悩んでしまった。結果、どこか中途半端な仕立てとなってしまいました。父を慕ってくれた氏には――非情になれませんでした」
永犬丸は、ジムで立ち聞きした話を思い出していた。鉄橋氏が「福間くん」と口にする時、その中には確かに、親しみと後悔とが同時に宿っていたような気がする。
古賀は永犬丸に向き直り、冷めてしまったコーヒーに口をつけた。水面を見ながら、続ける。
「金山さんも同じです。彼は、弱い人間です。しかし、それは悪いことではございません。一番人間らしくある人、という意味です。彼は、ある意味で被害者だったのです。彼は、殺せなかった」
古賀は、気づいているだろうか。鉄橋氏と金山について語る時の声色が、鉄橋氏が福間誠司について語った時のものとそっくりだということに。
「……じきに、貴女のもとへ警察がやってきます」
永犬丸の言葉に、古賀は「そうでしょうね」と落ち着き払って答えた。
「ふふ、しかしとんでもない伏兵がいたものですね」
冗談めかして笑みを浮かべた彼女は、それから不意に真面目な顔になり、言った。
「……お願いがあります。鉄橋氏に、お会いできますでしょうか」
口調はいつも通り平淡だったが、その中にわずかに懇願するようなものを孕んでいた。
「私は警察に知り合いがいます。口を利きましょう」
ありがとうございます、と古賀は深く頭を下げた。
【一九九九年 八月十日】
三泊四日のはずが、予想以上に長い滞在になってしまった。
東華がひやひやしながら会社に戻ると、予想通り、上司の剣呑な目つきと小言が彼女を待ち受けていた。どう答えたものか、と悩んだ東華は、「殺人事件に巻き込まれてしまいまして」と、結局ありのままを伝えることにした。
東華がことの顛末を話し終える頃には、知らぬ間に上司のデスクの周りに人だかりができていた。もともと、本の虫が高じて編集者になったような人たちばかりの編集部である。「なにそのミステリー小説みたいな話!?」「いいネタを手に入れたじゃないか、でかした」「永犬丸先生の次回作は推理モノで決まりだな」と、皆が好き勝手に茶々を入れた。結果として上司の小言が短く済んだのは、不幸中の幸いだろうか。
文字通り山となった仕事と対峙して、全てを片づけ終わる頃には、日も傾いてきていた。それから東華は永犬丸邸へと向かった。永遠のように長く急な石段を上り、息も絶え絶えに庭に入った彼女は、そこで衝撃の光景を見た。
「……何してるんですか、センセイ?」
視線の先では、庭木の松の下の木陰で、永犬丸が半裸で胡坐をかいていた。……いや、よく見ると胡坐ではない。
「見てわからないかい、坐禅だよ」
「いや、それはわかりますけど」
「いつか話しただろう? ウェイクフルレストというやつだ。前回の反省を踏まえて、今回はちゃんと木陰で腕立て伏せをして、それから休憩がてら精神統一を図っているのだよ」
「……現実逃避ですよね?」
「そうとも言う」
永犬丸はあっけらかんと答えた。
「センセイ、仕事してください!」
東華は思わず声を張り上げた。
「お盆までに“筋肉老師シリーズ”の外伝の原稿、校閲さんに届けなきゃいけないんですよ! センセイ、四本の短編のうち、まだ二本しか書き終わっていないじゃないですか!」
「なに、一本はもう書き終えたさ。二本目に取り掛かる前に、少し休憩をしようというだけで――ああ待って東華くん帰らないでくれ、そうだ、冷蔵庫にアイスがあるんだが食べていかないか?」
その言葉を聞いて、東華はぴたりと足を止めた。
永犬丸がアイスと完成した原稿とを持ってくるまでの間、東華は縁側で涼みながら、ぼうっと永犬丸を待っていた。
こうしていると、嫌でも先日の事件を思い出してしまう。
あの後、古賀と鉄橋氏が面会をするという時、永犬丸と東華も彼らの傍にいた。鉄橋氏は泣きながら古賀に謝っていた。古賀は静かに、嫣然と微笑んでいた。いつも無表情で淡々としている印象の強い古賀がそんな顔をするのかと、東華は驚いたものだ。
面会が終わった後、古賀はそのまま警察に出頭した。鉄橋氏は無事釈放され、怪我が快方に向かいつつある陣原と、彼とともに鉄橋氏を迎えに来た茜と、感動の再開を果たした。茜は鉄橋氏を見るなりその首に縋りつき、大泣きをして喜んでいた。鉄橋氏が警察に連れて行かれた時もそうだったが、普段はクールな茜が、鉄橋氏のこととなると感情をあらわにすることにも、東華はいささか驚いていた。
東華が物思いにふけっていると、不意に、背後で畳を踏む足音がした。永犬丸が原稿とソーダアイスを持って立っていた。
「ほれ」
「ありがとうございます……」
東華の声が――食べものを前にしているにもかかわらず――覇気がないことに、永犬丸は気がついた。
永犬丸は黙って東華の横に腰掛けた。
「……古賀さんは、どうなるのでしょうか」
どうやらそれが気になっていたらしい。
「それは法が決めることさ」永犬丸は庭に目をやったまま、静かに答えた。
「もっとも、もし彼女が娑婆に出ることができたなら――その時は鉄橋翁が彼女の世話をするといってきかないだろうね」
東華は少し安堵したように笑い、永犬丸と並んで庭の景色に目をやった。
その時、彼女の持つアイスの先端から、ぽたり、と水色の雫が滴った。
「ほれ、東華クン、早くそのアイス食べないと溶けてしまうぞ」
「あっ、そうでした」
我に返った東華は、急いでアイスにかじりついた。しゃくり、と小気味いい音がする。並んで縁側に座る二人の間を、夕風が吹き抜ける。東華が黙々とアイスを食べる音と、蝉しぐれの中に、ちりん、と涼しげな音色が混じった。
東華は音につられて顔をあげた。丸いガラスの中で、短冊はまだ風になびいてかすかに揺れている。
「あれ? いつの間に風鈴なんて飾ったんですか?」
透明なガラスに、水流と金魚。どこかで見たことがある。
「ああ、もらったんだよ」
永犬丸は優しく微笑んだ。
「へえ……。夏も、もう終わりますね――」