【短編】竜滅の聖女セディラの恋愛事情 〜邪竜を片手で倒すような女なのですが、倒したはずの邪竜王(人型)に求婚されました〜
ルシアン王国は今、危機に瀕していた。
全てを焼き尽くす闇の炎を撒き散らし、黒い鱗を持つ百体を超えるドラゴンの大群。
それらが迫り来るルシアンの王都には、降り掛かる災難に立ち向かう二人の聖女が待ち構えていた。
一人は名をセディラと言い、赤い金属鎧を纏った類い稀なる身体能力を持つ戦乙女だ。
彼女は【武勇の聖女】だと褒め称えられており、セディラに憧れる男性冒険者も少なくない。
滑らかな銀糸の髪を一つに束ね、鋭く青き眼光で敵を射すくめる、勇気ある女性。
冷静で判断力のある性格で、元は庶民の出であったものの、神殿にその才能を見出されたのである。
対して、もう一人の聖女はミルラと言う。
人々から【慈愛の聖女】と呼ばれ、純白のローブに身を包み、恵まれた癒しの魔法の才能を発揮して人々を救う乙女である。
光をそのまま宿したかの如く輝く柔らかな金髪に、優しさを感じさせる淡いグリーンの瞳。
誰もが思い描くような理想的な聖女ミルラは、彼女を守護する勇者と恋仲である。
貴族の令嬢であるミルラは、既に勇者との婚約が決まっている。
十七歳の若さにして、ミルラは恋する女性としての幸せを掴んだ少女であった。
セディラは、ミルラにとって姉のような存在だ。
引っ込み思案なミルラは、同じ神殿で聖女としての修行を重ねたセディラを慕っている。
セディラとしても、そんな妹分的な存在であるミルラの婚約を心から喜んだ。
……喜んではいるのだが、ミルラへの複雑な思いが胸中で渦巻いていた。
セディラ・ユーリアは、今年で二十五歳になる。
神殿での修行が始まった五年前から、ひたすらに聖女としての役目を果たそうと、あらゆる修行に没頭してきた。
その甲斐あって、セディラの聖女としての力は飛躍的に向上していき、『慈愛の聖女』ミルラと対を成す存在として世間に認識されるようになっていった。
それを決定付けたのが、邪竜王率いるドラゴンの群れとの戦いでの出来事である。
「ミルラ、サポートは任せたわよ!」
「はい! 任せて下さい、セディラ姉様!」
王都の手前に位置する平原にて、二人の聖女と騎士団……そして、ミルラの婚約者である勇者クーガが、ドラゴン達と交戦している。
セディラは大神官から託された神殿騎士団を指揮し、最前線で剣を振るっていた。
そんなセディラと騎士団の回復役を務めるのが、『慈愛の聖女』たるミルラの役目だ。
勇者クーガはミルラの護衛をしながら、次々にドラゴンを葬っていくセディラの姿に圧倒されていた。
「相変わらず、セディラ様の戦い振りは凄まじいな……」
「セディラ姉様は、騎士団の誰よりも武勇に優れた女性ですもの。きっと姉様のお力があれば、あの邪竜王だって討伐して下さるはずです……!」
ミルラは瞳を輝かせて、姉のように慕うセディラの勇姿を見守っている。
しかし、クーガはというと……セディラによる男性騎士以上の無双の戦働きに、尊敬と恐怖の入り混じる目を向けていた。
それはクーガの例に漏れず、ミルラ以外の人々──神殿騎士達ですら同様だった。
治癒の女神ティームの加護を受けるミルラに対し、戦神アルクの加護を受ける聖女セディラ。
その加護の力を発揮し見事に剣を操るセディラの姿は、その頼もしさと同時に、彼女への畏怖の念を抱かせるには充分なものであったのだ。
──彼女が味方であって良かった。
ドラゴンが一匹、また一匹と息絶えていく様を見せ付けられる男性達。
優に五十匹を超えるドラゴンを一人で斬り伏せた。
その光景を見せつけられた誰もが、セディラを一人の女性として捉えてはくれない。
それはセディラ自身も理解しており、だからこそ自分にはミルラのような縁談が来ないのだと、嫌という程思い知っていた。
セディラのような年頃の女性であれば、既に結婚していても不思議ではない年齢であるからだ。
セディラは、所謂『行き遅れ』であった。
城で開かれるパーティーで、貴族の少女達からそんな陰口を叩かれるのも少なくない。
貴族令嬢の彼女達は、幼い頃からミルラと同じような歳で、縁談や結婚が決まっている。
庶民の出でありながら聖女になるという恵まれた立場なのにも関わらず、自分達よりも歳上のセディラに婚約者すら居ないその状況が、面白おかしくてたまらないのだろう。
年頃の女性らしく慎ましやかにあろうとしても、こうして戦場に出てしまえば、セディラのその武勇が世間に轟く。
けれど、いつか愛する人と人生を共に出来れば……と願ってしまう自分自身に、セディラは苦しみ続けていた。
「……っ、はあぁぁああぁっ!」
そんな感情を誤魔化すように、セディラは目の前のドラゴンの首に横一線に剣を振るう。
その途端に竜は胴体と首が離ればなれになって、物言わぬ骸となったドラゴンが地面に転がった。
──今の私の使命は……戦神の力を宿す聖女として、このルシアン王国を護る事。
セディラは剣を握り直し、前方から舞い降りようとする黒竜に目を向ける。
残るドラゴンは、あの一体のみ。
あの禍々しい漆黒の鱗に覆われた巨大な竜を仕留めれば、聖女セディラとしての務めの一つが果たされるのだ。
──王国を全ての脅威から護り切る事が出来れば、私にだって……きっと……!
ぐっと奥歯を噛み締めたセディラの前に、最後の竜が降り立った。
見上げる程の巨体は、両翼から激しい風を巻き起こしてセディラの髪を揺らす。
二階建ての建物を超える位置にあるドラゴンの頭を見上げ、セディラはその青き両目で黒竜を睨み付けて言う。
「お前が、このドラゴン達を束ねているドラゴンね?」
この黒竜の他に、空の向こうからやって来る影は無い。
セディラは剣に埋め込まれた魔石へと魔力を流し込み、戦神アルクより授けられた破魔の力を蓄えていく。
「早速だけど、お前には配下のドラゴン達と同じ運命を辿ってもらうわよ。それが……私に与えられた使命だから」
それを見下ろすドラゴンは、血のように濃い紅の瞳でセディラを捉えていた。
そして、ドラゴンが薄く口を開く。
『……その魔力、戦神アルクのものか』
「あら……あれだけの竜を束ねていたから上位種なんだとは思っていたけど、お前は人の言葉を操れるのね」
セディラの持つ聖女の魔力を察知し、人類の言葉を理解し、会話する知性を持つ黒竜。
彼女自身も眼前のドラゴンから漂う莫大な魔力を感知してはいるが、それでもセディラは恐れずに顔を上げている。
民からの期待。
貴族達からの期待。
神殿からの期待。
そして、妹分であるミルラからの期待。
その全てに応えて外敵を排除する事こそが、戦神の代行者たるセディラの使命だ。
「……なら、早々にケリを付けてしまいましょうか。ドラゴンの上位種──それも闇属性を操る邪竜種が相手なら、死んでも長期戦に持ち込む訳にはいかないもの」
魔力を溜めきった長剣からは、戦神の魔力である赤い光が発せられていた。
それを構えたセディラが戦闘態勢に入ったのを見て、邪竜と呼ばれたドラゴンも戦意を露わにする。
腹の底にまで響くような低い声を轟かせ、邪竜が咆哮する。
『よかろう……。ならばこの邪竜王ファヴニール、貴様の全霊に真正面から応えるのみである……!』
「戦神アルクの聖女セディラ……いざ参る!」
すると、セディラは先手を取って地面を思い切り蹴り出し、一気に邪竜に詰め寄った。
そのスピードには騎士達の目も追い付かず、セディラが本気で短期決戦を決意している事を窺わせる。
「はあぁぁっ!」
そして振り上げた刃が陽光に照らされ、そのまま剣を振り下ろそうかというその時。
邪竜がセディラ目掛けて闇の炎を口から吐き出し、辺り一面が黒き炎に包まれてしまった。
これでは流石の聖女でも一溜りも無い──そう誰もが思ったのも束の間、勇ましい戦乙女の叫びが上空から降り注いで来るではないか。
「これでも……喰らえぇぇぇええぇぇっ!!」
真紅の輝きを放つセディラのガントレットが、堅く拳を握り締めた状態で邪竜の背中へと叩き込まれた。
『なっ、にぃ……!?』
混乱する邪竜の胴体に、ありったけの戦神の魔力を込めた一撃が貫通する。
セディラは炎が迫る直前、邪竜の行動をあらかじめ予測して、剣に溜めておいた魔力を地面に向かって放出した。上空へと跳躍していたのである。
魔族の一種であるドラゴン──その中でも、闇の力をより濃く保有する邪竜であれば、戦神アルクの破魔の力による影響は計り知れない。
ぐらりと横倒れになった邪竜が立っていた場所には、土埃に紛れた火傷一つないセディラの姿があった。
魔族の心臓部である核を的確に打ち抜いた戦神の聖拳によって、邪竜の身体は光の粒子となって、少しずつゆっくりと空へ溶けていく。
「……これで終わりね」
そう呟いたセディラは、地面に突き刺さっていた剣を拾い上げた。
興味無さげに無残に横たわるドラゴンを見て、セディラは汗で貼り付いた前髪を払いながら訊ねる。
「何か言い残す事はある? せっかく人の言葉を話せる魔物が相手だったんだもの。聖女の務めとして、遺言ぐらいは聞いてあげるわ」
邪竜は、今にも消え入りそうな……けれども、絞り出すような掠れた声で言葉を返す。
『戦神の聖女、セディラ……貴様の名とその顔は、我が死しても忘れはせぬぞ……セディラ……セディラァァァアァアァァッ!!』
最期の叫びを聞き届け、今度こそ邪竜ファヴニールは消滅した。
その日からセディラ・ユーリアは、誰もが畏れ敬う【竜滅の聖女】として認知されていくのであった。
*
それから半年の月日が流れ、相も変わらず恋愛沙汰とは無縁の戦いの日々を送るセディラ。
そんな彼女が、珍しく十日間の休暇を与えられた初日の事である。
ルシアン王国の東。緑豊かな山々と温泉で有名な観光地の宿。
そこにセディラを訪ねてやって来た男性が居ると、宿の主人から伝言があった。
「また誰かが飛び込みで依頼を持って来たのかしら……。久々の休みだっていうのに、のんびり羽休めも出来ないのはちょっと辛いわね」
部屋で愚痴を零してから、男性が待つという宿のロビーに顔を出す。
すると、こちらに背を向けている、長い黒髪を背中でゆるく三つ編みにした男性が立っているのが見えた。
「あの、宿の人にあたしに用がある人が居るって聞いて来たんですけど……もしかして、貴方の事かしら?」
セディラの声に振り向いた男の眼は、いつか見た鮮烈な血色の瞳で。
上質そうな黒の金属鎧に真紅のマントを羽織るその男性の腰には、セディラの物と同等の立派な剣が携えられていた。
それらを身に付ける男性の更に特筆すべき点は、鎧や剣に全く見劣りしない、麗しの美貌である。
──この人、もしかしてどこかの貴族か王族だったり……? でも……この人とはどこかで会った事があるような……。
小首を傾げるセディラに、突如として黒衣の剣士が彼女の目の前で片膝を付いた。
「えっ……え? な、何なんですか……⁉︎」
戸惑うセディラに対し、男性は嬉しそうに顔を綻ばせながら口を開く。
「ようやく……ようやく巡り逢えたぞ、聖女セディラ……!」
「あ、貴方、一体どこのどちら様……?」
問われた黒衣の男は、その言葉を待っていたと言わんばかりの勢いで、自信と期待に満ちた声で名乗りを上げた。
「我はかつて、我が配下共々そなたに葬られし邪竜の王──ファヴニールだ。そして、聖女セディラに結婚を申し入れる者である!」
*
面倒な変人に絡まれたな──というのが、セディラの正直な感想だった。
邪竜王ファヴニールを名乗った貴族風の男は、無駄に声も大きく無駄に顔も良かったので、宿の中とはいえ人目が気になった。
仕方なく……本当に仕方なく、セディラは渋々自身の部屋へ男を案内する。
男女が密室で二人きりという状況にはなるが、人間如きなら聖女様パンチでイチコロだ。アドバンテージはこちらにある。
……仮に彼が本当に【邪竜王】であったとしても、一度倒した相手に不覚をとるセディラではない。
「とりあえず適当に座りなさい。途中で呼び出されたせいで少し蒸らしすぎたけれど、お茶が入ってるから」
「ほう……? 人間とは、色の付いた水を飲むのだな」
「水じゃなくて紅茶。……貴方、本当にそんな事すら知らないの?」
「ああ、知らんな。何せ我は邪竜の王であるからな!」
ティーポットからカップに紅茶を注ぎながら、そんな会話を交わす。
やはりこの男、無駄に声量がある。隣の部屋の客に迷惑を掛けなければ良いのだが……。
「……熱いから、気を付けて飲みなさいよ」
観察がてら、テーブルの向かいに座ったセディラは紅茶を口に運ぶ。
やはり少し渋みが出てしまっているが、飲めない程ではない。
ただ、せっかく休暇前にミルラから貰った茶葉がもったいないな……と思った。出来る限り、美味しいものは正しい方法で堪能したかったからだ。
すると、ようやく男もカップに手を伸ばした。
「これが紅茶、というものなのか。ふむ……」
一口飲んで、彼は切れ長の真紅の眼を大きく見開く。
「これは! 水ではない味がするぞ! 何なのだ、この花のような豊かな香りのする湯は‼︎」
「花をブレンドした紅茶だもの。香りの強い品種だし、ストレートで飲むなら私がこの茶葉がお気に入りね」
「ストレート……とな?」
「砂糖で味を甘くしたり、ミルクを入れないでシンプルに飲む紅茶の事……なんだけど」
「うむ! このストレートなる紅茶の飲み方、我も気に入った! やはりそなたと我は、惹かれ合う運命なのだな‼︎」
我ら、最高に似合いの夫婦ではないか〜! なんて上機嫌に笑っている自称邪竜王。
セディラは苦笑しながら頭が痛くなってきたが、ひとまずこれはいい傾向だ。
……相手の気分が良くなっている今ならば、情報を引き出しやすい。
それも、向こうがこちらに好意を抱いているならなおさらだ。こういった駆け引きも、聖女として各地に派遣されていく中で学んできた。
「……ねえ、貴方は私に倒されたはずのファヴニールなのよね?」
「ん? ああ、間違いないぞ! 我の渾身のブレスをものともせず、強烈な拳を叩き込まれたからなぁ。いやぁ、かなり痛かったぞぉ〜アレは!」
「それを笑顔で言える貴方が怖いわ」
「記憶に残る致命傷だからな!」
いまいち会話が噛み合わない。
だが、そこまで当時の状況を把握しているのなら、彼がファヴニールの関係者である可能性は高くなってきた。
セディラは緩んでいた頬の筋肉を引き締めて、真剣な面持ちで彼に問う。
「……あの時、確かに邪竜王は死んだのよね?」
でなければ、光の粒子となって身体が消滅した説明が付かない。
あれは幻術でしたと言われてしまえばそれまでだが、竜が人の姿になるなど聞いた事が無い。
世界には獣人と呼ばれる種族はいる。けれどもそれは、人間と動物の中間のような姿をした人々の事を指すものだ。目の前の彼には当てはまらない。
彼は、どこからどう見ても人間。多少人間離れした美貌を兼ね備えているけれど、それでも人間の特徴を持っている。
「……そうだな。我はあの場で、そなたの手で葬られた」
「なら、どうして貴方はここに……それも、ドラゴンとしてではなく、人間の姿で私の前に現れたのかしら?」
核心を突くセディラの質問に、男は困ったように眉を下げて笑った。
彼はカップを持ったまま椅子から立ち上がると、ベッドの横を通って窓辺をもたれかかる。
その立ち姿すらも、無駄に画になってしまっている。イケメンとは、その中身が変人であったとしても許されてしまうものなのだろう。
セディラは内心、小さな苛立ちを覚えた。
「……我が邪竜王として配下を率いていた当時、我にはある野望があった。人類を駆逐し、ドラゴンが世を支配する世界を作りたかったのだ」
「そうして、ドラゴンが魔族の頂点に立とうとしていたのね」
「ああ。それこそが我ら竜種の幸福であり、義務なのだと信じていたよ。……その野望は、聖女セディラの手で途絶えてしまったがね」
人間やエルフ、ドワーフ、獣人をはじめとした人類連合と、ドラゴンをはじめとする魔族の軍勢は、古くから争う間柄だ。
聖女であるセディラとミルラ、そして異世界から召喚された勇者クーガの三人を主戦力とした防衛戦。それこそが、セディラとファヴニールの戦いである。
「けれどもあの後、冥界へと堕ちたはずの我の身に異変が起こった」
「異変……?」
「冥界へ堕ちる最中、何者かの妨害……否。見方によっては援護とも言えるか? ……我の魂が、二つに引き裂かれてしまったのだよ」
あらゆる生命は、その炎が途絶えれば地上を離れていく。
善き生命は天界へ。
悪しき生命は冥界へ。
それが世界の理である。
セディラ達のような聖女は、人々が清く生きられるよう奔走する神々の遣いだ。
しかし、彼の話を聞いてセディラは直感した。
人類の駆逐を目指した邪竜王に手を貸し、魂に影響を与えられるような者──
「……邪神の仕業、なのね」
セディラの言葉に、男は目を伏せながら頷いた。
「我が魂は、荒々しい殺意を抱く邪竜としての魂と、愛を知り、生きる事の素晴らしさを知った魂とに分離した。故にセディラ、我はそなたの事を探しておったのだ」
──……ん? 今、こいつ何て言った?
「そなたのあの拳によって、我は気付かされたのだ! 『生きる』とはただ肉を喰らい、敵を殺す事にあらず! 痛みによって生を実感した時は衝撃的であったぞ? 邪竜王たる我に強烈な痛みを与えられる者の稀有さもそうだが、我に向かって来るそなたの凛とした美しさに惚れたのだよ、我は‼︎」
「痛みと、美しさ……?」
──もしかしてこいつ、私のせいで性癖歪んだ説ある?
死ぬ程の痛みで生を実感して、そんな痛みを与えたセディラに一目惚れ。
「……こんなモテ方あります?」
その後もセディラの素晴らしさと、生きる事の喜びを叫び続けるファヴニール。
ぼそりと呟いた竜滅の聖女の嘆きは、元邪竜王の萌え語りによって掻き消されるのだった。
*
その後、セディラは今後の方針を固めた。
まず、このファヴニールを名乗る男──彼は間違い無く、邪竜王の魂の片割れであるのだろう。
人類への敵意を取り除かれたからは、言うなれば『善なるファヴニール』だ。
冥界に堕ちきる前に、邪神によって地上へ押し戻された彼ら。
彼の話では「邪心の方の我であれば、まだ充分に力を取り戻せていないはず。この我も本調子ではないのだから、間違いあるまい!」との事だったので、今すぐ世界の危機に晒される訳ではないらしい。
ともあれ、邪竜王の片割れを放置しておく訳にもいかない。
ここは一度近くの神殿に立ち寄り、セディラの本来の住まいである大神殿に連絡を入れる必要があるだろう。
……それに、放置出来ないファヴニールはもう一匹いるのだ。
「貴方の事は、仕方がないので私が面倒を見ます。だけど、自分の事を邪竜王だと言いふらしたり、変な真似をしたらワンパンで沈ませるからね!」
「フフッ、そこまで我も馬鹿ではない! 安心せよセディラ。我はそなたの夫として、堂々と振る舞うことをここに誓おうぞ‼︎」
「それが変な真似だって言ってんのが分からんのかぁ‼︎」
「ゴフッ‼︎」
宿に預けていた馬を走らせる準備を終えたところで、セディラの聖女様パンチがファヴニールのみぞおちに叩き込まれる。
威力はセーブしたので、死にはしないはずだ。
ファヴニールはその場で崩れ落ちてしまったが、少し放っておいたら復活した。これが普通の人間相手であれば、即入院レベルのパンチだったのだが……。
「ふぅん……。囮として使えそうな耐久力ね」
「ああ! 以前から、体力には自信があったのでな!」
と、セディラの冷めた発言に輝く笑顔で応えるファヴニール。
「私はこの子に乗って隣街まで向かうつもりだけど、貴方はどうするの? 一応、二人で乗れないこともないわよ」
そう問えば、ファヴニールは待っていましたとばかりに胸を張って魔力を放出させる。
すると、彼の背中に立派な黒い竜の翼が生えたではないか。
「我にはこの翼があるのでな! グリフォンをも凌駕するスピードを約束しよう!」
「いやいやいや、それ目立つからしまいなさい!」
「そ、そうなのか? ……せっかく我の素晴らしさをセディラに伝えられる機会であったのだが」
ファヴニールは残念そうにしながら翼を消すと、セディラに続いて馬の背に跨った。
当然ファヴニールは馬に乗った経験が無いので、手綱を握るセディラが前に座っている。
背後からファヴニールに包まれているような状態になっているが、男性と二人乗りで戦場を駆けた経験は何度もある。違和感や嫌悪感は特に無い。
仮にも、命を懸けて戦った敵同士であったのに……だ。
「これが二人乗り……というものか」
「落っこちないようにしなさいよ、ファヴニール」
「う、うむ! そなたには窮屈やもしれぬが、迷惑をかけぬよう注意を払おう!」
言いながら、ファヴニールがセディラを抱くようにして、背後から腕を回して来る。
「……なあ、我が妻よ。何故だか妙に心臓が騒がしいのだが……」
「誰が誰の妻だ! ……初めての乗馬なんだし、緊張してるだけでしょうよ」
「あ、ああ……早く慣れるよう努めよう。そしてあわよくば、正式にそなたを妻として迎え入れたい!」
「そんな未来は来ないと思いますけどねぇ」
「来させてみせる! 何故なら我は、偉大なる邪竜のお──」
「それ以上口に出したら貴方のこと嫌いになるわよ!」
「すまなかった‼︎ 次こそ気を付けよう‼︎」
「声がデカい! ……あー、まったくもう!」
そうしてセディラが馬の横腹を軽く蹴ると、二人を乗せた馬が走り出す。
傍目から見れば、その姿はまるで姫と王子の遠駆けのよう。
けれどもセディラに向けられる恋心は、ひどく一方通行なものでしかない。
果たして、邪竜王ファヴニールを名乗る男との出会いが、【竜滅の聖女】セディラに遅い春をもたらすのか──
──その答えは、神のみぞ知る。