第32話 未だに、心に楔は残っていても
ナギさん視点ラストです。
「……伊勢さん?」
目の前のミルクベージュの女の子──しずくの声で、記憶の底から呼び戻された。
「え、なに?」
「話聞いてませんでしたね? 夜食に、チョコレートケーキはいかがですかって話をしてたんですよ」
「あぁ……って、夜に食べたら太らん?」
「どうでしょう、お姉ちゃんも私もあんまり太らない体質なんですよねぇ」
「羨ましいなぁ」
しかし食欲には逆らえまい。出されたら食べざるを得ない。
お礼を言いつつ、口に運ぶ。
「どうですか?」
「うん、うまいな」
口の中に甘みと少しの苦味が広がる。しっとりとした食感とチョコレートの風味が馴染んでいて、美味である。
夜に食べるスイーツという背徳感が、この美味しさを倍増させているようにも感じる。
やってしまったなぁ。明日からのダイエットは確定やな。
後悔を抱えて明日を迎えようと覚悟を決めると、ぽつりとしずくから音が漏れる。
「……懐かしいですね」
「うん?」
「ほら、あの時も歌い終わってからチョコ食べたじゃないですか」
「……そうやったね」
てっきりその話題には触れないものだと思っていたが、しずくはウチとの邂逅のことを言葉にする。
2人で歌った後、しずくはカバンから包装されたチョコレートを手渡してきたのだった。
疲れた時には甘いものがいいですよ〜とか言っていたような記憶がある。
「ですね。お姉ちゃんにプレゼントしたかったので、試作品でしたけど」
「試作品押し付けられたんか……」
ウチの記憶が確かならば、ウチ好みの甘くて美味しいチョコだった気がするが。プチショックである。
「あ、試作品と言っても、適当に作ったものじゃないですよ? 味見もしましたし。ただ、他の人の感想が聞きたかったんです」
「ウチの感想で参考になるんやろか?」
「なりますよ、生の声は大切ですからね」
ふーん、そんなもんやろうか。
美味しいとか、甘いとかしか言えんと思うけど。
しかし。
「あの頃と比べると、しずくはだいぶ大人しくなったよな」
「そうですかね。ま、大人になったってことですかね」
「かもしれんな」
かなたは子供っぽいところが目立つわけやし、その分しずくは大人っぽい落ち着きを手に入れた、ということやろうか。
でも、あの時のしずくは『お姉ちゃんみたいな大人に』というようなことを言っていたような気もするんやけど。はて。
「伊勢さんはあれからどうでした?」
「どうかなぁ、ぼちぼちやってきたんちゃうかなぁ」
あの公園での邂逅の後、色んなことを考えるようになった。
自分が歌っていくために必要なものは何か。
緊張しない方法はないか。
感情を込めるにはどうすればいいのか。
わからないことだらけではあったんやけど、あの公園で何かを掴んだ気がしていて。
あの時の『音』を忘れないように、スタジオで歌いまくって、父親に心配されたりもしたけど。
緊張しない方法については未だに模索中ではあるけど、『歌ってみた』の動画を作る際の音源の収録は、比較的落ち着いてできるようになっていた。
人前で歌うことが緊張するのであれば、先に収録してから聴いてもらうという方法で、歌うことに支障はなさそうだった。
そして、『歌ってみた』を何回か行った後に見つけたのがVtuberという存在だった。
1番最初に見たライバーは、えーっと誰やったか。確か、しなぷす1期生の『祈里めばえ』さんだったと思う。厳密には1期生じゃなかったんやっけ? ……まぁ、細かいことはええか。
ともかくバーチャルアイドルである、めばえ先輩の歌を聴き、踊りを見て、こういう世界もあるのだと初めて知ることができた。
観客の前で、ステージの上で笑顔で歌うことができる場所がそこにはあって。
未だに自分のことは嫌いだけど、新しい自分は好きになることができるかもしれない。
そんな希望を持って、4期生のオーディションに応募して、今に至るわけやけど。
受かったからには、自分のできることを増やさねばならんと、深く考えるようになった。
けど生で歌を歌うことには、まだちょっと抵抗がある。
伊勢京としての初配信の時ですら、フィーナがいなければどうなっていたか分からない。
母親の曲を、何度も何度も聴き続けていて、耳にも口にも馴染んでいる曲で、なんとか歌うことができたくらいやし。
……けど、緊張という問題も少しずつ解消されてきてはいて。
実は伊勢京として歌配信をしたことはあるのだが、リスナーの反応が良かったのか、初配信での経験が生きたのか、意外と落ち着いて終えることができていた。
この調子でいけば、問題はないだろうと思えるところまできている。
──ミソノさんの娘なら、もっとちゃんとしてよ!!
未だに、心に楔は残っているけど。
それでも前を向いて、やっていくことはできそうだ。
思考の海から浮上すると、すっごいニコニコしてウチを見てくる子が目の前にいる。
「……なに?」
「よかったですね、伊勢さん」
「……あぁ、そうやな」
この子との出会いがなければどうなっていただろうか。今もあの公園で黄昏ていたのだろうか。駅で緊張でいっぱいになりながら歌っていただろうか。
それは分からない。
しかしVtuberになったウチの同期の妹が、ウチに『はじめての音』を教えてくれた子だったとか。
そんな偶然あるんやなぁという感慨と共に、この偶然を喜ぶことにした。
いつか、何かを返せるとええなぁと思いながら、ウチはケーキを口に運んだ。
ナギ「しずくってポーカーフェイスうまいよな、この家来た時、反応薄かったよな?」
しずく「いや、そんなことないですよ。めっちゃ動揺してましたからね、あれで。お姉ちゃんが悪いんですけど! なので罰を与えました!」
ナギ「え、それで正座させてたん?」
しずく「当たり前じゃないですか。驚かせた罰ですよ」
ナギ「理不尽やなぁ」
というようなやり取りが、あったとかなかったとか。
次回は配信回です。
シリアスを吹っ飛ばしたいと思います。




