夜を歩むもの、闇に嗤うもの
夕方からの霧雨が本格的な雨に変わった。
日暮れ時まで続いた雄叫びと、剣戟の打ち合う音もとだえ、戦場となった平原には、今はもの云わぬ多くの死体が横たわっているだけとなった。
昨今、珍しくもない国内紛争は、宵闇に王が首を落とされ、他国の援助を受けた王子が勝利するという下克上に終わった。
勝利して生き残った兵士は新王と共に城へ戻り、残りは捕虜として連行された。
野晒しの死体も、明日には近隣の村人たちの手で埋葬されることだろう。
もうここには、生あるものはいなかった。
いない、はずだった。
暗闇の中、ズルズルと何か重たいものを引きずるような音がする。
平原から、それに続く森へ。
その音は、森から少し入った所で止まった。
ガサゴサと何かを捜している気配。
やがて、つくかな? と疲れきった、だがどこか明るい声がし、ポウッと明かりが灯った。
焚き火に浮かび上がったのは、どうみても十五・六の少年の、鉄の鎧がどうにもそぐわない愛敬のある顔だった。
とうきびの髭のような金色というには色褪せたパサパサの髪と、大きな青い目。何より目を引くそばかすが、少年をより子供に見せていた。
今夜は、このよく茂った大木の木陰で、雨をやり過ごす腹を決めたらしい。
少年はあちこちに負った傷を舐めるのもほどほどに、背中に背負ったずた袋から固い黒パンと水筒を出して、火の側でそれをぱくつきだした。
よほど腹が減っていたのだろう、夢中で旨くもないパンを食べ尽くし、水を飲んで大きく安堵の息を吐いた。
腹がくちくなれば、疲れもでる。
自然と欠伸を漏らした少年は、パックリと口を開けたまま硬直した。
焚火の反対側、木の根元においていた男が目を開けていたのだ。
黒い髪と同じ色の瞳で、じっと少年を見ていた。
冷たい黒曜石の輝き。
目を覚ました男は気を失っていたときより五つは若く見える。
「気が……ついたんだ。おじ、お兄さん」
少年はぎこちなく笑った。
「お前……は?俺は……どうして」
「俺は……ラルス。東ロンテのザヤニ村のラルス」
どこか痛むのか、片手で腹を抑え黒い目の男は半身を起こした。
「その、ザヤニ村のラルスがなんで、西ロンテの内紛の戦場にいる?」
「口減らしで売っぱらわれて……。それから三回ばかり市場にたって、四人目の御主人はさっきそこらで死体になってた」
淡々と少年は語った。
「なぜ、俺を助けた」
「助けた訳じゃないよ。だって俺、あんたをここまでひきずってきただけだもの」
「なんで、そんな真似を?」
「……気がついてさ。生きてるんだなって実感した時には、もう暗くなりかけてた。俺の回りで息のある人間ってあんただけだったんだ」
「一人でいるより、得体はしれなくても生きている人間と一緒が良いと?」
からかいの混じった声音に少年はムッとした。
「そうだよ! あっちにはすっげぇたくさん死体が転がってるんだ。首のとれたのとか、真っ二つになったのとか……。それにすぐ夜になりそうだった……し」
ブルッと震え少年は自分で自分を抱いた。
「だが坊主、どうやら俺とお前は敵どうしだったらしい」
少年のつけている簡単な鎧は、赤。男のそれは少年のものより上等だったが黒だった。
「俺がお前に仇なす、とは思わなかったのか?」
「そんなことして……あんた、なんか得するのか? 戦は終わったよ。あんたがついたほうの負けで、ね」
「では、せめてお前を切り殺そうか」
「だけど……! あ・あんた、傭兵でしょ? いくら殺したってお金、払ってくれる人、いないよ。雇い主は死んじゃったんだから」
「……違いない」
安堵にホッと肩の力をぬいた少年を、男は片頬で笑った。気勢を張ってはいるが、やはり先程まで敵方だった男と夜を過ごすのは怖かったらしい。
男は改めて周囲を探った。
森閑とした森の入口付近。死体の散乱する平原にはいたくない。しかし、何がいるか分からない夜の森も恐ろしい。そんな少年の想いが察せられる野営地だった。
力を抜いた男は、大木に背を預けた。
何を考えているのか、目を閉じ、表情の無い男からは何一つ伝わるものはなかった。
「つれてこないほうが……良かった?」
男は訝しげに少年を見た。
「なぜだ? あのまま死体の群れの中にいれば寄ってきた悪霊に魂を抜かれたかもしれない。野獣に喰い殺されたかもしれない」
「そっちの方が良かったって顔、してる」
少し冷たく見える端正な顔が、少年の声に苦痛に揺れた。
「ごめん……」
男を助けた事を謝っているのか、男の心を言い当ててしまったことを謝っているのか。
ほろ苦く笑った男は、
「謝ることはない。お前が助けずとも俺は死ぬことはなかっただろうからな」と、続けた。
「でも……」
「俺は、死ねぬのだ」
苦痛の入り混じった声。そして顔。
黙り込んだ男に、少年は見入った。
雨
雨。
しのつく雨。
野晒しの死者を清める為の雨かも知れない。
置き去りにされた死人の涙雨かもしれない。
男と少年は、それぞれの想いで雨を眺めていた。
「あ……! 迎え火!!」
少年の言葉に視線を転じた男は、平原に降り立った白銀の炎を見た。
その白銀の慈愛に満ちた輝きに魅かれるように、暗闇にポツポツと炎が灯りだした。赤、青、黄色、橙、翠、濃い色、薄い色、とりどりの小さな光に平原は埋まった。
神々しいまでに美しい輝き。
「……西風が、死者の魂を連れにきたんだ?」
少年の震える声に、男の返事はなかった。男はただ、雨に咲いた光の花の幻想に一心に目を凝らしていた。
腕を捕まれ男ははっと意識を戻した。少年が両手で彼を捕まえていた。
「なんだ?」
「……いっちゃ駄目だよ」
この少年は見かけよりずっと鋭いらしい。
男は軽く息を吐いた。
「いかない。いけないのだ……。言ったろう? 俺は死ねないのだと」
「でも……」
「知った魂がないか、確かめていただけだ」
「知った……魂? 魂って、区別がつくの?」
「ある程度な。よく見ろ、全部色が違うだろう。あれはそれぞれが転生を繰り返し魂を浄化しているからだ」
「浄化……って?」
「例えば人の役にたち、人生を楽しみ、満足して生を終えればその魂は美しくなる。濃い色からより薄い色へと。そうやって転生を繰り返し、やがて純白の魂となったとき、魂は天上界に招き入れられるという」
「それ、ばぁちゃんから聞いたことがある。悪いことをすればするほど魂が汚れて真っ黒になっちゃうって、でも……」
少年は改めて光の花園を見た。
「綺麗だけど……なんか濃い色が多くない?」
「戦で死んだからだ。憎悪や恐怖や痛み。そんなものに駆られて死んだ魂は色を増す」
「そうか、じゃ、僕も……あそこで死んでたら」
「戦場などに立つものではない。特に子供はな」
「好きでここにいるんじゃないやい! それに子供じゃない。先月始めに十七才になったんだからな!」
闇を透かし見るように魂の群れを見ていた男は、ギクリとして少年を振り返った。
「なんだよぉ。見えないっていうんだろ? だけど正真正銘俺は十七なんだ!」
強張った顔の男は、むきになった少年の頭をポンと叩いて、再び木の根元に座り込んだ。
「知った魂……、捜さなくて、いいの?」
「いや、いい。あの中にはいない」
「そう?」
急に態度が固くなった男に首を傾げつつも、少年は幻想的な光の渦に魅入った。
やがて全ての死者の魂が出揃ったのか、光が増えなくなった。と、風が、強い一陣の風が辺り一帯を駆け抜けた。
「うわぁ……!」
手近な木にしがみつきながらも少年は見ていた。白銀の炎に導かれ空高く昇っていく光の美しさを、涙を浮かべ少年は見送っていた。
やがて虚空の闇に呑み込まれるように、光は消え、気がつけば焚火の炎だけが光源の全てとなっていた。
放心したように焚火の前にペタンと座った少年は、ややあって口を開いた。
「あの魂は……これからすぐに転生するの?」
「それぞれだろう。彼岸には〈まどろみの池〉というのがあってそれにつかって充分に休養し、これまでの記憶を消し、必要に応じて地上に転生すると聞く」
「必要に応じてって?」
男は答えない。
「ねぇ」
「俺は知らん。彼岸のことなど、本当は誰も知らんのだ」
「じゃ、生まれかわるっていうのも……嘘なの?」
男は少年を正面から見た。
「それは、本当だ」
「けど……」
「俺は、生まれ変わる人間を知っている」
少年は目を丸くした。
「なんで、生まれ変わりって、分かるの?」
「何度死んでも俺を覚えているのだ。覚えて必ず捜し出し、目の前に現れる」
「……なんとかの池ってので記憶は消えるって」
「その言い伝えが嘘なのか、それとも余りにも深く魂に刻まれて、忘れるに忘れられんのかもしれんな」
「ふ〜ん」
生返事をした少年は、あれ、と首を傾げた。
「何度死んでもあんたを覚えて?」
「ああ」
「そんなのおかしいよ。あんたどうみても三十になってないだろ? 人間がどれくらいで転生するのか知らないけど、そんなに何度も会えるわけないじゃないか!」
男は黙って少年を見ていた。
「嘘つき……!」
「嘘ではない」
「嘘だよ! じゃないとあんた……あんた、見た目通りの人間じゃないってことになるじゃないか!」
怯えた目で自分を見る少年に、男はほろ苦く笑った。
「最初から云っているではないか、俺は死ねぬ人間だと」
ギョッとして少年は立ち上がった。
「……不死者…?」
男は肯定も否定もしなかった。
「な・なんで、嘘だ……嘘…だろ? だってあんた、ひっくり返ってて……、放ってたらそのまま死んでた……じゃないか」
「死なぬよ。俺の運命の糸は一つの魂に繋がれている。彼女が幸せになるまで俺は死ねぬのだ。ごらん」
男は鎧を外して胸をはだけて見せた。逞しい体に縦横に走る幾重もの刀傷。
その中に一際新しい傷痕があった。心臓を一突きにされた刀傷。
それは普通ならば即死しているほど深い傷痕だったのだろう。だがその傷跡が、見ている間にも刻々と癒えている。
少年も気になっていたのだ。
貫かれた鎧の痕跡を。でも、つけようにも薬はないし、平気な顔でいるしで、たいしたことはないだろうと見てみぬふりをしていたのだ。
「そんな……、」
「死ねぬのだ」
少年は冷たい黒曜石の瞳に、疲れの影を読み取った。
「なんで……? なんで? あんた、どのくらい……生きてきたの?」
「さぁ? 四百年もした頃から、意味がないから数えるのを止めた」
「四百……年」 少年は絶句した。
「一人……で?」
「おおむね一人だった」
再び焚火の前にゆっくりと腰を下ろした少年は、ためらいがちに口を開いた。
「なんで? なんでそんなことになったの? 昔は、普通の人間だったんだろ? いったいなんで?」
「妹を、愛して、死なせてしまったのだ」
「妹……、愛して?」
少年にはピンとこなかったようだ。
「身体を交えたということだ」
淡々とした説明。
理解した瞬間、少年は顔を火照らせた。
「そう、実の兄妹で褥を供にした私たちに神の怒りがおちた。以来、妹は救いのない転生を繰り返し、俺はこうして不死者として彷徨うようになった」
「神の……怒り?」
ふと、少年の顔が陰った。
「子を生んだのだ。妹が兄の子を。それは親の罪をかぶった奇形の子で、生まれ落ちてすぐ死んだ。妹は悲しみで狂い、近くの農家の生まれたての赤子を攫った。奪われまいと庇った母親を殺してな」
「それで?」
「赤子を狂女から取り戻そうと村中の男衆が手に手に鍬や鋤きを持ち、妹を追った」
「それで……、その女は殺されたんだね」
男は押し黙った。
少年の明るい青い瞳が半眼に閉じられた。
「その時、あんたは何をしてたんだ?」
「俺は、」 男は手元の剣をグッと握り直した。
「俺は、妹を、助けた」
はっきりと挑むように男は云った。
「ちが……う…」
少年のものとも思えぬ呪詛の籠もった声。
「ちがう、違う!違……!!!」
少年の顔が変わっていた。
陽気なそばかす顔に、憎しみにゆがんだ青白い女の顔が二重写しになっていた。
亜麻色の髪の美しい女だった。ただ血走った目が彼女を醜く見せていた。
男は、ゆっくりと立ち上がった。
「やはり、お前だったな、フィオナ」
「四十年振りというのに、兄様にはお変わりなく」
「俺は変われぬのだ。お前を救うために」
「嘘、嘘! 兄様の云うことはみんな嘘。兄様に都合のいい事ばかり! 兄様は妹の私を犯した。犯して、狂わせ、挙句に刺し殺した。愛した妹? 嘘! 肉欲で実の妹を辱める事を兄様は、愛したというの!?」
二重写しの影は、次第に女のほうが濃くなり、反対に少年の姿が薄れていく。
「フィオナ、眠れ! もう、お前は転生したのだ。ラルスという男に! また、お前は、俺への憎しみで、この十七年の営みを捨てる気か」
「そのようなもの惜しくはない。兄様を討てるのならこの魂が漆黒に染まろうとも!」
切りかかる剣を男は、スルリと交わした。
「フィオナ、いい加減に憎しみを捨てろ! 俺へのこだわりを捨て、新しい運命を見つけろ」
「都合の良いことを。けれど私は忘れない。絶対に忘れない。兄様の剣が胸に刺さったあの時の痛みを絶対に忘れない! 何度転生を繰り返そうと、忘れはしない!」
叫んだ女の亜麻色の長い髪が逆立った。
「兄様は邪魔になった私を殺した」
「違う!」
「村人の先頭にたち、私を狩ったのは兄様、貴方だったではありませんか!」
「フィオナ、憎しみだけで走るのを止めて、立ち止まって思い出せ。このままではお前は永遠に救われぬ!」
「かまうものですか」
繰り出す彼女の剣は、男に掠りもしない。
悔しい、と女は慟哭した。
なぜ、いつも力無き者にしか転生できぬのか。いつも女、たまに男かと思えば戦いとは無縁の商人や無力な農夫の子。
そしてこの憎しみの記憶が蘇るのは十七才。
いつもいつも同じ。
兄に犯され、子供を月足らずで生み落とし、狂って殺された十七にならなければ記憶は戻らぬ。戻った時には大抵、憎い男が目の前にいる。
今夜のように。
もっと前に記憶が戻れば、この身体を鍛えられるのに。剣術を躰につけられるだろうに。
そうすれば一太刀なりと浴びせられるものを! ああ、せめてこの怨念が形になれば呪い殺せるだろうものを!!
「あ……っ!」
剣を叩き落とされ、男の片手で両腕を捕らわれた。
「俺のことなど全部忘れて生きれば良いものを……」
ギリギリと唇を噛む女の顔を覗き込み、男は哀しく微笑した。
「殺してやる! 殺してやるぅ……!!」
視線で人が殺せたとしたら、彼女は目的を達っせたであろう。だが、男は捕らえた彼女の目に口づけ、いとも簡単にその目を閉じさせた。
「フィオナ、覚えているがいい。憎しみで、俺は殺せない事を……」
男は妹の生まれ変わりに、口づけた。
甘く熱い、想いのこもった濃厚な口づけ。
それとは別に男は片手に掴んだ剣を、彼女の胸にあてた。
「愛して、いたよ……」
何の躊躇も、ためらいもなく、男はその身体に剣をつきたてた。
一瞬、目を見開いた女は呟いた。
「嘘……つき…」と。
こと切れた身体から女の影が次第に薄れ、出会った時の少年の姿となった。
だが、生きてはいない。
転生したフィオナが少年自身だったのだから。
そっとこと切れた少年を大地に横たえ、男はその死に顔をじっと見つめた。
やがて、少年の胸に突き刺さっている剣を、顔色一つ変えずに抜いた男は、ゆっくりと立ち上がった。
『お待ちなさい』
涼やかな、何者にも拒否できない、力のこもった声が頭上からした。
「なんだ、あんたは?」
白銀の輝きを持った人ならぬ存在が男の前に舞い降りた。
『私は西風の王。死者の道行きの先導者』
男は感情のない目で白銀の男を見つめた。
『愛想のない人ですね』
「俺はあんたの恩恵には預かれぬのだから、愛想を良くしたってしかたあるまい」
『いつだって連れていってさしあげますよ。貴方が望みさえすれば』
長い銀の髪と瞳の持ち主は優しく笑った。
その笑みに、鼻に皺を寄せ、
「断わる」と、一言の元に男は言い捨てた。
『本当につれないお人だ』
肩をすくめてその場を立ち去ろうとした背に、西風の王の咎めるような声がかかった。
『なぜ、本当の事を彼女に云わないのですか?』
「本当のこと?」
『都合が良いことを云っているのは、貴方ではなく、本当は彼女なのだということを。都合良く記憶を塗り替え、嘘を云っているのは彼女の方だと、なぜ、云わないのです?』
「必要、ないからだ」
なんでもないことのように男は云った。
『しかし、真実は一つ。貴方が彼女を犯したのではなく、彼女が貴方に懸想したあげく、一服盛って無理やり貴方と寝たのだと』
「黙れ!」
黒々と闇を切り裂く鋭い瞳。
「それ以上云うな!」
白銀の色をもった男は、薄く笑った。
『人間は、云われたくないことを云われると怒ると聞きましたが、本当ですね』
ギリッと男が唇を噛んだ。
「俺は、もう人間じゃ、ない」
『人間ですよ、誰よりも優しく強い人間です。でも、もう充分でしょう。私と一緒にいらっしゃい』
「できない。あんたといって転生したところで俺は妹のことが忘れられないだろう。結局は同じだ」
『貴方には転生の必要はありませんよ』
「え?」 男は虚をつかれた。
『貴方の魂は充分に白い。すぐにも天上に迎え入れられることでしょう』
「すぐ……にも?」
『ええ、すぐにも。私と来ますか?』
スッと男は目をそらした。
「俺が……天上に行って…。そしたら妹はどうなる?」
『彼女は転生を繰り返すでしょう。これまでとおなじように』
「……では、俺は逝く訳にはいかない。あれ一人に罪を被せ、一人救われる訳にはいかない」
『罪は彼女一人のものです。あなたがつき合う事などなかったのです。これまでも、そして、これからも』
「いや……。結局フィオナをあそこまで追い詰めたのは俺だ。妹ゆえに愛してはならぬと自分自身を戒め、必要以上に意識してしまった俺が、フィオナを追い詰めた。薬を盛られ俺は知らぬ間にフィオナを抱いたが、それ以前に夢に現に俺は彼女を抱いていた。心の中で、フィオナを犯し続けていた。俺よりフィオナの方がよっぽど素直で、正直だ」
『しかし……』
「俺がいなくなれば、彼女は本当に狂うだろう。目に見えるもの全てを傷つけ、傷つき、憎悪に狂い。魂を黒く染めて……」
『貴方はいいのですか、それで? 一人で生き続けなければならないのですよ。忘れた訳ではないでしょう? あの養い児のことを』
男は顔を曇らせた。
「なぜ、知っている?」
『ずっと貴方を見守ってきましたから』
フイッと男は顔を背けた。
もうどのくらい前になるだろうか。
野党に襲われた村があった。たまたま通りかかった男が、母親に庇われて生き延びた女の子を見つけた。
恐怖に涙も流せずにいたその少女に情が移り、なし崩しに手元で育てることになってしまった。
その少女がフィオナの転生だと知ったのは少女が十七才になった日。
突然フィオナの記憶が目覚め、男は涙ながらに憎しみに狂った少女を殺した。
以来、男はどのような人間とのかかわりも避けるようになった。
黙り込んだ男に哀しげな瞳を向け、西風の王は息絶えた少年の身体に手をかざした。
ポウッと現れた炎は、毒々しいまでに赤い。
『見なさい、もはやこの魂には救いがない』
「……違う、昔はもっと赤黒かった。少しずつだが魂は浄化されている。そう、俺の話しも聞いてくれるようになった。いつか、いつの日かフィオナの辛い記憶が癒される日まで、俺は彼女の憎しみを受け続ける」
西風の王は、呆れたように大きく一つ溜め息をついた。その王に軽く頭を下げ、男はその場を後にした。
再び妹が転生し、自分の前に現れるその日まで、彼は黙々と歩き続けるのだろう。
夜の闇を、一人で。
男を見送った西風の王は、しばらくそこに立ちつくしていた。
やがて手の中の小さいがどこまでも赤い魂に意識をむけた。
『そなた、狂おしいほど愛した男を、ここまで苦しめてそれで、満足か?』
むろん、返事はない。
西風の王は深い深い溜め息を盛らした。
『お前が清くなっているのは浄化してのことでなく、あの男の清らかな魂を少しずつ喰らってのこと……。このまま、お前は兄の魂を食らいつくす気か?』
白銀の男は、深紅の魂を空に放った。
『そう教えれば、喜んであの男は己の魂の全てをお前に与えるのであろうな……』
空に浮かんだそれに、西風の王は険しい目を向けた。
『そなたがいなくなれば、あの男の高潔な魂はすぐにも天上界に昇れようものを』
白銀の輝きを持つ男は、深紅の光を握りつぶそうとして止めた。
『そんなことをしてもあの男は、喜ばぬか』
じっとその魂を見つめる。
『かつてそなたたちが同じ色の魂を持った双子であったとは、思えぬな。兄があれほどまでに白く己を高め得たというのに……』
微かな嫌悪に、西風の王は柳眉をしかめた。
『彼は特別かもしれぬな。闇に染まりやすい人間が、これほどまでに重い運命を背負いながら、清らかでいられるのだから……』
西風の王は、深紅の魂を連れてフワリと空に舞い上がった。
そして、どうすればあの高潔な男を救えるかと、思案顔で虚空に消えた。
白銀の輝きが消えると、濃厚な闇が辺り一帯を支配した。
シトシトと雨は止む気配もない。
カサリと少年の屍が動いた。
屍の胸元がもそもそと動きそこから気味の悪いものが現れた。
拳大の蜘蛛によく似た昆虫。だが蜘蛛は十本足でもここまで醜悪でもない。
何より身体と同じぐらい大きな牙などもってはいない。
大きな邪の存在に、闇がざわついた。
何者と、問ったのはその闇だろうか。
その闇に、悪びれない答えがかえった。
<俺ハ、不死者ノ心ノ汚レ。汚レテハナラヌト アノ魂ガ 無理ニ棄テタ、アノ男ノ闇ノ心>
カサカサとそれは屍の首に移動し、その咽ぶえに牙を立てた。みるまにその身体が赤く染まり、目に見えて大きくなっていく。
やがて少年の血を吸い尽くし、先ほどより二廻り以上も育ったそれは牙をおさめた。
しばらくじっとしていたが、雨の湿気の中に、死者の気配を悟ったらしい。
喜々としてそれは平原へ姿を消していった。
雨の闇の中、血を啜る化け物の気配が次第に大きくなっていく。
凄惨な戦場跡に残されたのは、もの云わぬ死者と、巨大化していく化け物だけだった。
この化け物がこれより後、どれほどの恐怖を人の世に撒き散らすか、誰が産みだしてしまったのか、あくまでも高潔でいようとする男も、西風の王も知ることはなかった・・・。
END