第六話 まあまあ実話
「生中3つにカシオレが2つ、熱燗2つにジントニック、あと緑茶ですね。かしこまりました」
里香の声は基本的に小さい。それはオーダーを伺う時も変わらない。だがよく通る声をしている。おかげでこの喧噪の中でもはっきりとその声を聴きとれるのだ。
店は今ピークの真っただ中にある。どの座敷でも乾杯の音頭が絶えず何度も響き、あちこちに空のジョッキが散乱している。俺は空いたジョッキを手早く下げつつ、四方八方から無遠慮に飛び交うオーダーを聞き漏らさないよう必死になっていた。
「ジョッキが足りない、早く戻してくれ!」
店の奥から 杏子さんの叫びが聞こえた。嘘であってほしい、まだ開店から30分しか経ってないぞ。ジョッキだって洗うのに時間が多少かかる。間に合うとは到底思えない。
半ばあきらめに近い感情を抱きつつ、トレンチに乗るだけジョッキを載せて店の奥へ向かう。このジョッキはいったんケースに入れて食洗器にかけるのだ。食洗器の手前までたどり着いたところで、後ろから声がかかった。
「恭祐さん! それこっちに持ってきてください!」
声の方向へ顔を向けると、杏子さんがドリンクを作る横で、俊が一心不乱にジョッキを洗っていた。
「持ってきたぞ。でも、なんで手洗いしてんの?」
「食洗器にかけちゃうと、ジョッキから熱が引くまで時間がかかっちゃうと杏子さんが!」
なるほど、ドリンクの作り方なんて教わってる場合じゃないことだけは確かなようだ。この忙しい中、初日の俊には洗い物くらいしか貢献できないだろう。絶賛格闘中の俊、こちらを振り向く余裕もないらしい。彼の足元に目をやるとジョッキケースが溢れんばかりに積まれていた。バランスを崩さないようその上に俺の持ってきたケースをそっと置く。
杏子さんは杏子さんで目の前のオーダーを捌くのに必死なようだ。オーダーの書かれたチップが杏子さんの目の前に無造作に積まれている。
ピンポーンと、忌々しい音が鳴った。俺もここで二人の仕事を眺めている場合ではない。すぐに向かわなくては……。
「恭祐、ストップ。ついでにこれも持って行ってくれ。座敷の3番だ。よろしく」
「杏子さん、何故トレンチが3つもあるんですか。全部酒でいっぱいだし」
「馬鹿な客が飲み比べを始めたらしい。ついさっき鳴った呼び出し音もどうせ3番だろう」
お酒って飲んだ量で競い合う物じゃないはずなんだけどなぁ!!! 絶対許さん会計の時まごつくふりして嫌がらせしてやるからな。
三番座敷には例の20人の体育会系サークルがいるはずだ。いやだなぁ、絡みたくねぇなぁ。てか関わり合いたくないなぁ。
そんなささやかな願いは叶うはずもなく、両掌にトレンチを載せて落とさないように慎重に3番座敷に向かうと、そこは戦場と化していた。本当の意味でジョッキが宙を舞っていた。座布団ならまだ分からなくもないがジョッキはまずい。奥に目をやるとおびえた様子の里香が、それでも逃げ出さずオーダーを伺っていた。
「里香、すまん! 俊が食洗器の使い方分かんなくて困っているからそっちに行ってくれ!」
「え、あ、はい。すみませんお客様。いったん失礼します」
里香、離脱成功。ここにいるのは本当に危険だから俺の判断は間違ってないだろう。さっきまで里香に注文を告げていた客が俺を恨めしそうに睨み付けてくる。すみませんね代わりがこんなので。
店の奥に帰る里香の横顔から疲れが見て取れた。そんなに厄介なのかここの客は、気を引き締めなくてはなるまい。
里香が居なくなったことで少し寂しそうな顔をしてるおっさん、あの人妙に里香に慣れ親しい態度で接していたな、噂のナンパが目の前で本当に行われていたのかもしれない。後処理できるか不安になりながらもオーダーを聞きにおっさんに近付いた。
「申し訳ありませんお客様。再度ご注文をお伺いさせていただいてもよろしいでしょうか」
「注文はないですが、ちょっと座ってもらってもいいですか?」
しばらくの間、目の前のおっさんの言ったことが理解できず固まってしまった。その間おっさんはずっと俺から目を離さないでいた。
「え、いや、その」
「座ってください」
「かしこまりました」
足元にいつの間にか用意されていた座布団に腰を下ろした。こんなことをしている場合じゃない、そんなことは分かっている。でも抗えなかった。しょうがないじゃんおっさんよく見たらスーツの下筋肉の塊だし、何故か拳を見せつけるかのように握りしめてるし。知らないうちにさっきまでジョッキを投げてた連中まで俺を取り囲んでるし。全員筋肉ダルマだし。
おっさんはあくまで俺に対し低姿勢だ。この居酒屋に来る客にしては珍しく店員に敬語も使ってくれる。ただスーツ着た屈強な男が敬語を使ってくれても怖いだけだ。出来ればこの謎の時間は早く終わらせてしまいたい。意を決して、俺から話を切り出すことにした。
「よ、よろしければお話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか」
思わず声が上ずってしまった。
「あぁ、いえいえすみません名乗りもせずに、申し訳ない。私は里香の父です。娘がいつもお世話になってます」
「えっ、あっ、里香……さんのお父様ですか!?」
度肝を抜かれた。既に上ずっていた声がさらに裏返る。完全に失策だった、あのまま里香に任せておけばよかった。店に迷惑な客が来ることは何度もあったが、これはある意味一番厄介なお客様だ。
「そ、そうとは知らずに、失礼いたしました」
言葉だけのつもりが深々と頭を下げていた。こちらから謝ることなどないはずなのにだ。
「いえいえ、頭を上げてください。私は店員の方に少しお話を聞きたかっただけですから」
里香のお父さんはこちらの低姿勢に低姿勢で返してくれる、良識のあるいい人だった。
「娘は、ご迷惑などかけていないでしょうか」
「とんでもないです。里香さんはいつも一生懸命働いてくれますし、他のお客様からの評判も良くて、いつも助けてもらっています」
偽りのない本心だった。うちの店は基本的に女性陣が回しているのだ。特にホールの三人、咲、杏子さん、そして里香。このうち一人もいないシフトだと、ホールが上手く回らなくなる。こなせる仕事の範囲や客への対応、総合的に見てうちの店のトップ戦力だ。
「そうですか、それは良かった。あの子は仕事のことをうちで殆ど話しませんから」
ほっとしたのか、お父様は胸をなでおろした。周りの……お弟子さん? も同じ気持ちのようだった。全員俺の話を宴会を中断して聞いているので、正直めちゃくちゃ気まずい。
こちらとしてはこんなに気まずいこともないのでさっさと退散したいのだが、そうは問屋が卸さない。お父様はまだまだ話し足りないみたいだ。娘さん呼び戻してくるんで帰ってもいいですか? そう言えたらどれだけ良いか……依然俺は正座を崩せないでいる。
「最近あの子はバイトがあると武道場に顔も出さなくなりまして……。バイト自体は楽しくやれているようでしたから続けさせていますが、何分心配性なものでして……」
「武道場、ですか」
「はい、私は近くの○○大で空手部のコーチをしているんです」
設定回収完了、あいつの格闘技好きは間違いなく父親の影響だ。てか○○大って俺の大学じゃん。
「以前は暇な時には武道場に来て部員の練習を見ていたのですが、最近はもう……。ここにいる彼らも娘が来なくなって心配していたんです」
周りを見るとこの場にいる皆が何度も頷いていた。これあれだな、こいつら全員里香に惚れたクチだな。俺には分かる。さっきまでの里香を見るこいつらの目は、久しぶりに会った好きな子にどう接していいか分からないって目だった。童貞も極めればこれくらい分かるようになる。
「ですが、娘の働く姿を見て、あなたのお話を聞いて、娘がここでのびのびと働けていることが分かりました。これで安心して任せられます」
最初の怖いイメージから一転、俺の中でのこの人はただの良い父親になっていた。ただ騙されてはいけない。この一団は店内でジョッキを投げまくっていた人たちだ、気を抜いたら俺もジョッキみたいになるかもしれない。ジョッキが一つも割れてないのは奇跡だろう。ただまあ、俺の不安が少し取り除かれたのは確かだ。今なら抜け出せる、逃げよう。
「それは良かったです。では、私はそろそろ……」
「いえ、すみません。もう一つだけお伺いしたいことがあるんです」
腕を強引に掴まれ再着席させられた。なんだ今の力、一切抵抗できなかった。これも空手の成せる技なのか? いや違う、多分ただの馬鹿力だ。
助けを求めようと店の奥に目を向けると杏子さんがいた。助かった! これで何とかなる。アイコンタクトで必死に助けを求めると、杏子さんは口の動きでこう伝えて戻って行った。
(他の客は落ち着いてきた。だからこっちは大丈夫だ。そっちは任せる)
俺が大丈夫じゃないんですが??? お父様が良い人だと分かってちょっと安心したとはいえ冷や汗出続けてるんですけど。脇の下が大変なことになっているのは想像に難くない。
そんなことは知る由もないお父様、まだまだ話し足りないといったご様子。ほんと娘さん召喚するんで開放していただけないでしょうか。あ、ダメですか、そうですか。
「実は最近、娘が夕食時にある人のことを話題に出すんですよ。バイトのことは話してくれないのに、やれ今日はこんなことをしてくれたとか、あの人はやっぱり頼りになるだとか。そんな素敵な先輩がいると笑顔で話してくれるんです」
杏子さんだな間違いない。杏子さん以外に里香がそこまで言うやつに俺は心当たりがない、そのはずだ。なのに、何故か嫌な予感がする。こう、胃袋を掴まれてるような、もしくは崖際まで追い詰められているような、そんな気分だ。
なおもお父様は話し続ける。俺はというと帰りたいよりも聞きたくないという感情の方が強くなってきた。聞いてしまうと取り返しがつかなくなる、みたいな。
「私は基本的に娘を信じています。そして、娘が楽しく働けているというこのお店にも、あなたの話を聞いてからはある程度の信頼をおいています。ですが、一抹の不安といいますか、恐怖の感情が残っているのです」
さっそく話の流れが怪しくなってきた。お父様、俺も今現在不安と恐怖で動けません。そんなマイナスの感情が心を埋め尽くしているせいか、この空間自体も狭く重苦しい物に見えてきた。物理的にも俺の周りをお弟子さんたちが取り囲んでいるから狭くなっている。逃げ道を塞ぐ魂胆だろうがそうはいかない。俺は既に足が動かないんだ、無駄足だったな! そうやって心の内だけでも虚勢を張っておかねば何かに押しつぶされそうだった。
「もし娘の話す先輩が男で、そして娘に手を出そうとしているのなら……そんなありもしない空想に胸が押しつぶされそうになるのです。里香は私のたった一人の大切な娘です。大切な娘を、どこぞの馬の骨にやるなんてとんでもない。そう思いませんか?」
「え、あ、はい! そう思います!」
「ですよね、ですから今日はその先輩にもお話を伺おうと思ってこちらに来たんですよ。女性ならば挨拶しなければいけませんし、男性ならば別の意味であいさつしたいですからね! ははは」
あかん。
「確か里香は立花先輩と言ってたと記憶しています。もしよければその方を呼んできていただけませんか? ああそうだ、これだけ時間を割いてもらって申し訳ない、あなたにもお礼を……そういえば、あなたのお名前は?」
「立花ですすみませんでした!!!」
人間、生命の危機には体が動くようになっているみたいで、先ほどまで恐怖で動かせなかった足が、嘘のように店の奥へと駆け出してくれた。
「ごめんなさい後日謝罪にふべぇっ!」
そしてそのまま俺を取り囲んでいたお弟子さんに激突、逃走はあえなく失敗した。
そのあとの記憶が、俺にはない。
本当に忙しい居酒屋だと作中程度の忙しさなんていつものことです。あくまで彼ら彼女らが働いているのは(売り上げが)底辺居酒屋だと考えてください。
ちなみに現実ではジョッキは飛びませんがお子様が店内を我が家のように闊歩します。いったいどちらがマシなのか……