第二話 未確認第三号、襲来
俺のシフトは23時まで。勤務終わりが近くても煙草休憩を取れるこの職場は、世間一般で言うブラックではないのだろう。
キッチンに戻ると、恐らく里香と同じタイミングで出勤した明智が明日の仕込みをしていた。
「おはよう恭祐」
「おはよう、今日は楽なシフトに入れたみたいだな」
ここの居酒屋の挨拶はおはようだ。理由は分からんがこの挨拶を交わしていると現実の昼夜逆転生活が反映されているみたいでちょっと憂鬱になる。
明智は俺と同じ大学で同じ経済学部、同じサークル仲間だ。ここには俺が明智を紹介料目当てで誘ったんだが、仕事のスキルは一週間もしないうちに抜かれてしまった。まあこいつがいてくれれば俺が覚える気のない発注作業をやってくれるのでいいとしよう。
「何の仕込みやってんの」
「見りゃ分かるだろ。お前が今日散々出した鍋の仕込みだ」
「何個仕込めって言われた?」
「20、冬はこれだから嫌なんだ」
気持ちは分かる。俺も嫌だから仕込みは後から来る奴に任せることにしていた。運がなかったな明智。
仕込みは全て明智に任せることにして、俺は床のモップ掛けをしようと思う。バケツに水を貯めていると、明智からストップが入った。
「恭祐―、お前には別の仕事があるぞ」
「鍋はぜったいにやらん」
「どんだけ嫌なんだよ。そうじゃなくて、ホールでお前と同じ時間に上がる人がいるから賄い作ってあげてくれー」
「りょーかい」
明智は賄いを作るのが嫌いだ。顔も知らない客に作るのはいいが、同僚に作るのは気が引けるらしい。俺にしてみれば、モップ掛けより賄いの方が自分の分もついでに作れるので都合がいい。喜んで引き受けることにした。
空いている調理場に陣取り、周りの物を片づけていく。ここが片付いていないと店長が怒り狂って仕事にならないからだ。山内さん忘れてたな……。
「ところで、誰に何作ればいいんだ?」
そう聞くと明智が不敵にほほ笑んだ。お前その苗字でそんな笑い方すると碌な死に方しないぞ。
「ヒントは親子丼だ」
「あぁ、分かった分かった」
謎解きも終わったし調理に入る。鶏肉は切ってあるやつを仕入れてるから使う分だけ出しておいて、玉ねぎを切っていく。あの人は薄く切ってある玉ねぎが好きだから、好みに合わせて切っておく。
次に厚底のフライパンに鶏肉を入れて皮に焦げ目を付けていく。付いたら玉ねぎを入れて、追加で調味料を加えていく。酒・醤油・麺つゆ・砂糖、この四つで十分だ。親子丼の味の決め手は砂糖の量、山内さんに習ったように入れていく。
鶏肉に火が通ったら卵二個を溶いて半分ほど回しがける。弱火で1分ほど蓋をして放置し、その後残った卵を回しかけて再び蓋をする。20秒くらい経ったら火を止めて40秒くらいまた放置。後はあらかじめよそっておいたどんぶりのご飯の上にかけて小口ネギと三つ葉を添えて完成。
「相変わらず親子丼の手際だけはいいよな」
明智がつまみ食いに来た。丼物をつまみ食いするってどれだけ食い意地張ってるのか。彼の数少ない長所ではあるのだが。明智の伸ばした手を払いのけて時計を見ると既に22時55分、勤務終了の時間だ。
「じゃ、俺上がるわ。お得意様はどこで待ってる?」
「3番卓で既に着替えて待ってるぞ」
3番って二人席じゃん。何考えてんだあの人、馬鹿なのだろうか。
仕方がないので丼に蓋をして着替えに戻ることにした。この感じだと1時間はかかるだろう。里香には遅れると伝えなくちゃな。
更衣室に向かう道中、丁度いいことに女子更衣室から里香が出てきた。
「里香、お疲れ。先に上がったわ」
「お疲れ様です、お客さん全員帰っちゃいましたから私はこの後暇ですよ」
「あ、いや、それなんだがな。あれ0時くらいまで待ってくれ」
そう言うと里香は顎に手を当て少し考えるような表情を見せるとこう言い放った。
「女ですか」
「……お前さん分かってて言ってるだろ」
本当にこの後輩はドキッとさせるのがお上手だ。真顔に切り替えて言うもんだから、やましいことではないはずなのに冷や汗をかいてしまった。
「へー、立花先輩は私を待たせて他の女とご飯食べるんだーショックだなー」
「真顔はやめてくれ胃が痛くなる……」
感情のこもらない棒読みは本当に怖い。必修を落とした後の電話越しの母さんを思い出す。
「ま、しょうがないですね。立花先輩は誰にでも甘々でお人よしですもんね。しょうがないです」
「そういうことにしておいてくれ」
何とかお許しをいただけたようだ。それでもまだ不満はあるのだろう。今度は肘当たりに2発ほどいただいてしまったが、これで済むなら安い物だ。相変わらず全然痛くないし。
「じゃあ、私にも1時間くださいね」
彼女は決めるポイントをよく分かっている。的確なタイミングで小悪魔のような笑顔を見せてきた。また惚れるところだった。俺は彼女の前では気を抜けないようだ。
「ああ、それでいいなら喜んで」
俺も最高の笑顔で返した。
「先輩、無理に笑わないでください気持ち悪いです」
「あ、はい。すみません」
・・・
トレンチに丼を2つ乗せて3番卓に向かう。ここは個室居酒屋だ。20番以降は座敷になっていて屏風もどきで仕切っている。俺の赴く3番卓はさっき言ったように二人席、座席はⅬ字になっていて机を囲むような形だ。それでいて何に気を遣っているのか二人席はやたらと狭い。つまり2人で座るとほぼほぼ体が密着する。本当に何を考えているんだろうかあの人は、酒の飲み過ぎで頭がおかしくなってしまったのだろうか。
そうこう考えている内に3番卓の前まで付いてしまった。基本的に個室には障子が付いていて、外から中が見えないようになっている。この状況全てであの人は俺をからかうつもりだ。覚悟を入れて中に入る。
「お待たせしました、こちらご注文の親子丼になります」
そう言って丼を彼女の前に置く。
「足りないな」
「はい?」
「注文内容はこうだ、親子丼と立花恭祐を一つずつ」
「俺は聞いて無いのでスル―しますね」
「つれないなぁ、早く座れ。わたしはこれの為に今日1日働いたんだ」
そう言うと俺の袖を引っ張って無理やり席に座らせた。まあ元々俺もここで食べる覚悟はしていたから別にいいんだけど。
「じゃ、飲むか」
「は? 何言ってんすか」
「わたしの奢りだ、付き合え」
この人も里香と同じように決めるタイミングを分かっている。こいつと遊ぶのが楽しくて仕方ないって顔でこっちを見てくるんだ、断れるはずもない。
「じゃ、1杯だけですからね」
「よし、じゃあ、お前とわたしの出会いに乾杯!!!」
「その口上もう5回目ですよ、杏子さん」
彼女の名前は鈴本杏子、大学の先輩でここでは上司。ここに入ってからずっと俺を気にかけてくれている人だ。
「杏子さん、近い、近いっす」
予想通りというか、予想以上というか、俺はⅬ字の丁度角の所に先輩の手によって固定されていた。
「いいじゃないか、恭祐とわたしの仲だ。減るもんでもあるまいし」
「いや、そうかもしれないっすけど……」
嘘である。San値や理性がゴリゴリと削られて行ってる。何が楽しいのか分からないが杏子さんは大層ご満悦のようだった。
「あぁ、本当に楽しいよ。恭祐の困ってますって顔を見るのは、本当に楽しい」
「2回も言わなくていいですって」
「大事なことだからな」
先輩は既に俺の作った親子丼を完食し、熱燗を2本開けていた。ただこの人のたちが悪いところは、酔ってようがいまいが関係なく俺をいじり倒すことにあった。
「お前シャワー浴びてないのか?」
「ここシャワーないでしょ。もしかして臭いますか?」
「いや、いつも通りお前の匂いがするぞ。わたしの好きな匂いだ」
杏子さんはそう言うと俺の胸元に顔を近づけわざとらしく匂いを嗅ぎ始めた。辞めろ、辞めてくれ。どれだけ俺の心拍数を上げるつもりだこの人は。
尚も杏子さんは俺に身体を預けたまま、熱燗の3本目に手を付け始めた。酒が入ったからか、先輩の体温がやけに熱いように感じる。違う、密着しているからだ。全然思考がまとまらない。
「本当にお前はいい顔を見せてくれる。わたしがここを辞めない理由の半分はお前なんだってことを理解してくれよ」
「分かりましたから少し離れてください」
「本当につれない男だな、ほら、離れたぞ」
意外と素直に離れてくれた。ほっとしたような、ちょっとだけ寂しいような……。
「まあこんなところでおったてられても困るしな」
前言撤回、離れてもらって助かった。
「店の中でそんなこと言わないでくださいよ、冗談でも誰かに聞かれたらどうするんですか」
「客はもう全員帰ったからいいんだ」
この人の頭の中には同僚はもういないらしい。生き返れ、明智!!
「お前さっきちょっと残念って顔したぞ、しょうがないからお前の為にもう一回くっついてやろう」
抵抗を試みたが無駄だった。今度は杏子さんの右手で俺の左手が絡めとられた。所謂恋人つなぎだ。勿論人生初体験、頭が沸騰しそうなくらい熱くなる。今もなお俺を見つめる杏子さんの瞳は怪しげに輝いたままだ。
そうこうしてるうちに30分ほどの時間が経った。くんずほぐれつ、傍から見れば完全にバカップルだ。男として一皮剝けていない、未経験の俺にとってこれは拷問に等しい。手を出す勇気も、権利もないのだ。そそられっぱなしの欲情は、行き先を見つけられず空中分解していく。
「なぁ恭祐、一つ聞いてもいいか?」
「え、ええ、どうぞ」
「この後私以外の女と密会するというのは本当か?」
なぜあんたがそれを知っている、なんて聞けるはずもない。先刻まで怪しげに光っていた彼女の瞳からは光が消え、突き刺すように俺の目を睨み付けてきた。
あれ、俺悪いことしてないよな。なんでこんな、まるで浮気の証拠を見つけられたみたいな、そんな気まずさを感じなきゃいけないんだ?
「責めているわけじゃない。事実確認がしたいだけだ。ただ、少し気になってな」
恋人繋ぎをしている左手がきつく締められているようだ。いやこれようだとかじゃないめっちゃ締め付けられてる痛い痛い痛い痛い!!!
「は、はい。会います。許してくださいごめんなさいごめんなさい」
訳も分からず変なことを言ってしまった。変なことだよな、俺悪くないよな、浮気してないよな、そもそも付き合ってないもんな、童貞だもんな、童貞関係ないか、そうか。
自分の顔が青ざめていくのが分かる。脈拍は加速を続け、混乱しっぱなしの俺の精神を置き去りにする。血の気がなくなり、呼吸もままならない。そんな状況でも俺は杏子さんから目を逸らせないでいた。
彼女の顔が、瞳がどんどん近づいてくる。逃げ場はない、あってもこの手を放してくれる気がしない。杏子さんと俺の距離がなくなっていき、そして……
「ばーか、何死にそうな顔してるんだ」
「……へ?」
「冗談だ冗談、近藤から話は聞いている。ちょっと羨ましかったからからかっただけだ」
杏子さんはそれはそれはいい笑顔でデコピンをくださりました。
その表情はいつも見ていた、ひとしきり俺で遊んだ後の満ち足りた物だった。
ひとしきり俺で遊び終わった杏子さんがやっと離れてくれた。今度は本当に安心している。思い起こせば責められる理由はどこにもないし、俺の身体は綺麗なままだった。今度からさっきみたいな手には絶対に引っかからない。寧ろからかい返すまであるな。……出来ねぇよなぁ。
「ところで、恭祐は今度の飲み会出るのか?」
「さっきみたいにからかわれたくないんで出ないつもりです」
「さっきみたいなって、アレを人前でやれっていうのか? この鬼畜」
「違いますよ! やるなって言って……」
杏子さんが口元を押さえて必死に笑いをこらえていた。やっぱり俺はからかわれる側のままだった。
杏子さんが最後の熱燗に手を伸ばし、一気に飲み干した。
「っかぁー効くなー」
「杏子さん、女子なんですからもうちょっと恥じらいを持ってください」
「わたしだって自分が女だってことくらいよく分かっている。お前にも教えてやったじゃないか」
「何をですか」
「女の身体を」
いい加減疲れてきた。何度からかわれてもなれないものは慣れない、首から上に血が集まっていく。
また勝ったとでも言いたげな杏子さん、この人に一度でいいからぎゃふんと言わせてみたい……とからかわれる度に思う。まあ一度もその願いが叶ったことはないが。
左手の腕時計を確認すると0時13分を指していた。くだらないやり取りをしてるうちに日が変わってしまっているじゃないか、里香の怒っている顔が目に浮かぶ。
「杏子さんすみません、俺もう行かないと」
「ああ、そうか。もうそんな時間か」
「どんぶりは店長に片づけさせてください。あの人今日裏で寝っぱなしですから」
店長が店で寝てどうするんだ、何が休めないならここで寝ちゃお!!! だ、ぶん殴るぞ。
「今日もありがとな恭祐、いつも通り親子丼美味かったぞ」
「それは良かったです。けど、いい加減別のメニュー頼んだりしないんですか?」
杏子さんは俺に賄いを作らせる時、必ず親子丼を注文する。いつも美味しそうに食べてくれるのは嬉しいが、飽きたりしないのか疑問だった。
「思い出の味なんだよ」
「思い出って、なんかありましたっけ」
「気にするな、取るに足らないことだ」
はぐらかされてしまった。どうも杏子さんはこの話題を続ける気はないらしい。いい加減里香を待たせるのも申し訳ないから、ここは大人しく退散しよう。
「じゃ、俺行きます。お疲れ様です」
「おう、彼女によろしくな」
驚いてバランスを崩し、踏み出しかけていた足が迷子になって障子にぶつかった。
「痛っ! きょ、杏子さん!!」
「冗談冗談、早く行け」
手をひらひら振って俺の出発を促す。どうやら彼女はもう一回飲みなおすつもりらしい。
彼女に敵うのは、いつになることやら。