悴んで流転 / unordinary story routine その1
『ペイス』は深い眠りから強引に引き剥がされた。いつもの穏やかな朝とは違う呼び音が鳴ったのである。それは彼女がここの周囲に仕掛けた罠が反応した警告音だった。
あたり一面が白一色で覆われた極寒の地、この『キャピーラ』には大型の自然生物は生息していなかった。ゆえにこの警告音は彼女にとって侵入者を知らせる音だった。
ペイスは少しやつれた目を擦り寝巻きのまま外に出る。するとそこには全身を赤黒く染めた男女が倒れていた。
視線を変えるとここまで一直線に歩いてきたと分かる足跡が地平線まで続いていた。起きたばかりで意識がはっきりしていなかったペイスは急に覚醒したように目を見開き男女のもとへと駆け寄った。
倒れていたのは太郎と知らない女がだった。すぐに鼓動を確認する。そして熱を混合させた治癒アイテル流を展開するとそれを二人に包んで宙に浮かせ、根城である洞窟へと運び込んだ。
個人的な感情や処置効率などを考慮してまずは太郎に治療を施した。すると太郎は虫の息のようではあったが意識を取り戻した。
「リ、リネン、さんは……」
ペイスは太郎が背負ってきた女の処置を施そうか迷った。腹部を広範囲にえぐられていて内臓の修復には時間を要するからだった。少なくとも三週間はこの知らない女のために自分の精神を削らなければならない。彼女は苛立った。
「ペイス、彼女を、たの、む……」
太郎は再び意識を飛ばした。
彼の両足は腿から爪先まで全ての筋肉が内部で完全に断裂していた。この歩くことすら不可能な状態でここまで『走りきった』太郎の姿にペイスは心を打たれるほどではなかったものの、リネンという女を無視できない心境に至るまでのなにかを感じ取った。
「この借りは、必ず返してもらうからな……」
結局、ペイスの判断は変更を余儀なくされた。
二日後、太郎の意識は完全に回復した。しかし下半身の自由にはまだかなりの時間を要した。リネンの治療を最優先にするよう太郎に言われたペイスは内心を悟られぬよう振る舞いリネンの処置に専念した。
彼女にとってリネンはただの足枷でしかなく放置していれば太郎の回復はもっと早まり、後遺症の発生確率も下げることが出来た。さらに負傷した彼女の腹部は傷を作ってからかなりの時間が経過しており、太郎のアイテルで軽減されてはいたものの腐敗は酷く進行していた。これは治療後に重度の感染症を引き起こす可能性がある。ペイスはこの二つの問題を同時に解決するべく睡眠時間を減らして取り組んだ。全ては太郎の願いのためだった。
「ペイス、本当にすまない。君を巻き込んでしまって」
「クリーツのことか。過ぎたことはもう忘れろ。悲観的な心情は回復を遅らせる。他の事を考えてろ。例えば希望でも夢見ていればいい。なにか食うか?」
「ああ、すまない」
「ところでどうすんだ。まだやるのか?」
「ナヴィのことか?」
「他になにがあるっていうんだ。お前ごときに」
「やるさ。命に替えてでも」
「次はこの程度じゃすまないだろうな」
「もう、これっきりだ。ペイスには迷惑かけないよ」
「手遅れだろ。奴等はじきにここも攻めて来る」
「ああ、そうだったな。すまない」
「しっかりしろよ。男だろ」
「ああ」
ペイスが食事を持ってくると太郎は一人で盆を持ち皿に載るものを口に運んだ。
足以外はほとんど快調と言ってよいくらいに回復していた。
「あの女のことが気がかりか?」
「ああ」
「まだ時間がかかる。それとまだ完全回復の保証は出来ない」
「ああ」
「好きなのか?」
「……分からない。でも彼女からなにかを感じた。君も感じなかったか?」
「別に」
「そうか」
「お前は本当に世直し馬鹿だな。いや、ただの馬鹿なのか」
「そうだな」
「クリーツから手を引け」
「なぜだ」
「あの女の傷を見ても分からないのか? 勝っても刺し違えるのが関の山だ」
「それでも誰かがやらなくてはこの世の中は駄目になる」
「あの女……」
「リネンさんだ」
「あの女も能力者なのか」
「厳密に言うと、違う」
「なぜ一緒にいる」
「彼女の仲間が相当な実力者だったからだ」
「そいつらは今どうしているんだ?」
「一人はケプに、もう一人はおそらくアルファーラッツにいる」
「なにをしているんだ。女を助けに来ないのか?」
「どうだろう。彼らも負傷しているのかもしれない」
「そいつらはナヴィなのか?」
「ああ。まだ協力関係だが」
「誰にやられた。ジェイサンか」
「違う。マイヤーズという男と、もう一人は知らない」
「これからどうするつもりだ」
「まだ決めていない。和平交渉は断絶した。中枢を叩くか、クリーツ移行を止めるしかない」
「たぶん、もう無理だな」
「どうしてだ」
「そういえばお前はまだ知らなかったな。これを見ろ」
ペイスはクリーツ移行完了者が全世界人口の六割を突破した電子記事を太郎に見せた。彼は重い溜息を吐いた。
「引き金を引いたのはお前達だ。回復の妨げになると思って黙っていた」
「そうか。すまない」
「ナヴィは利用されたんだ。そしてこれからも世界の敵としてクリーツを結果的に正当化する指標として使われる。この私でさえも腹が立つ。だが、これが世界の選択だ。力なき者は従うか諦観するしかないんだ」
「……人類の、進化だ」
「なんだと?」
「人は、いつかは死ぬんだ。そうあるべきなんだ。その規律を放棄したらどうなると思う? 進化を止めるんだ。正しい進化を止めるんだ。それでは、意味がないんだ」
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……その通り。
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「ではこうか。人は人として死ぬために自ら火に飛び込めと?」
「無駄死にはしない。僕が死んでも誰かが正しい進化をきっと見つけ出す。歴史はそうだった。進化を求める時は、いつだって誰かが血を流すんだ」
「クリーツが間違った進化だという証拠はあるのか?」
「ある」
「なんだ」
「痛みだよ」
「は?」
「電子記号化された意識は老いから解放されるが同時に痛みからも解放される、と思っている。少なくとも彼らにとっての死は情報としての消失だ。それは苦しみのない死だ。もしかしたら死んだことすら気づかないかもしれない。僕達人類の心の成長はいつだって苦しみから得られてきた。苦しみのない生に進化を求める意思が生まれるはずがないんだ」
「欲求から生まれることはないと?」
「物質という垣根から解放された人にそれ以上の欲求は生まれないはずさ。その世界の神にでもなりたいと願わない限りはね。でもクリーツという安易な人生選択を下した人に神になろうなんて大仰な野望は生まれない。それならばいっそ物質世界で神を目指すだろう。現状を見ればそちらのほうに分がある」
「意味深だな。寒気がする」
「ここは寒いからな」
「茶を淹れよう」
二週間後、太郎の両足は完治した。意識が戻ってから彼自身もアイテル治療を施したことが急速な回復に繋がったのだ。
歩けるようになった彼は真っ先にリネンのもとに向かった。しかしそれをペイスが止めた。
「消毒を兼ねている。お前のせいで感染症にでもなったらどうする。それに裸だ。心配するな。治療は順調だ。じきに回復する。その時を待て」
太郎はペイスの忠告に従った。リネンの回復にはまだ時間を要するらしいので、彼はそれまで今後の計画を練ることに専念した。
その数日後、ペイスは生活に必要なものを揃えるため二日ほど外出することにした。リネンの傷は外見ではほとんど分からないくらいに治っており、あとは本人の治癒力による意識回復を待つのみだった。それゆえの外出であった。
実際問題として太郎達の訪問は彼女の備蓄計画を大きく狂わせていた。普段であればこの時期の買出しは予定には入っていなかったのである。太郎はペイスのかわりに行こうかと申し出たがペイスはそれを断った。
「女の服は着せてある。あとはお前に任せてもいいだろう」
小刻みに身体を震わしながら寒空の雪原を歩いていくペイスの後姿を太郎は心配そうな面持ちで見ていた。彼女はそんな太郎の心配をよそに全身をアイテル流に溶け込ませて、高速で飛んでいく。
太郎はそんな彼女を見届けたあと、洞窟の中へと戻っていった。
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