弦間流入鹿の独白 / how to receive saliva
ある日の午後にそれは突然やってきた。
『デュア・ボムトニア』が車に撥ねられたのだ。即死だった。
その日は珍しく雨が降っていた。彼はそんな日にもかかわらず私を灰色に染まった野外で待たせた。ずぶ濡れだった。
約束の時間が過ぎてもデュアは現れなかった。しばらく待っても一向に姿を見せなくて、イヤフォーンを掛けたら彼の妹が出てきて「兄は死にました」と一言吐いて通信が切れた。
ここがどこなのか分からなくなった私の思考は雨の音によって辛うじて世界と繋がっていた。『永遠よりも長く』そこに立ち尽くした私は、彼の死の悲しみよりもっと危険なことを夢想しながら、とうとうその時が来たのだと確信した。
『チェヌリエの至宝』……代々そう呼んで受け継いできたものが私の身体に埋め込まれている。古代から世の権力者達が血眼になって探しても見つからなかった秘術、チェヌリエ……ある者は手にした瞬間神になれると言い、またある者は無限の生命を約束されると言って人類を大量に殺したりした。戦争も起きた。そんな昔話を幼い頃母からよく聞かされていた。私の身体の中にはそれが入っていた。
時に人は手を伸ばしても絶対に届かないものに狂おしい程憧れる。しかしひとたびそれを手にすると、一瞬の歓喜はあれどすぐにその熱を排出してしまう。そしてさらなる歓びを求め止まらない。共感者を探し出し己の存在価値を再認識する者も多少はいるだろう。
目に見えない力が人に止めることを禁止する。
だから人は殺し合いをやめない。辟易する。
その力の正体は知っている。でも私にはどうすることも出来ない。
所有しているこの身体もまた、人という生命体だったからだ。
身を切り裂くと出てくるのはいつも赤い液体だった。この血は私と野蛮な世界を繋ぎ止める呪術のようなもので、そんな幾多の人の血を浴びたチェヌリエは、この身体を宿にして静かに身を潜めていた。
私は母を理解できなかった。「捨てることが出来ないから」ただそれだけの理由で私の身体に埋め込んでなんの意味があったのだろうか。一子相伝の秘術、そんな言葉を残したことも記憶に残っている。この力は代々子孫を残すための目的以外には使用してはならないということも……。
結局のところ、この秘術は赤子以外にはなにも生まなかった。
チェヌリエは所有者に子を産ませるために重要な対策を備えていた。それは意識を『記憶している過去』に何度でも戻ることが出来るという能力だった。女の子供を産むことが絶対条件であるため、男子を腹に宿した場合は対策を実施しなければならない。そして出産は一度きりにすること。それも規則だった。
最初の持ち主がそう決めてから代々そうしてきて、私もそうしなければならなかった。この規則に意味はあったそうだが、時の流れの中で真実は風化し、今はこの星が終わりを迎えないためとだけ伝えられている。なんだかもっともらしくて私は少しも信じていなかった。
ちなみに、継承者は胸に『三日月形』と呼ばれる刻印をつけなければならなかった。当然のように私にもその刻印がある。誰が知るわけでもないその目印は、外部からの質問の対象としてのみに機能する以外には活躍しなかった。
条件に満たなかった場合は何度も過去に戻らなければならない。同じ時間を繰り返すなんて恐ろしくて私には試行できなかった。考えようによっては永遠を手にすることだって可能なのだ。時の権力者が欲しても私には無価値な機能だった。
そんなものを使ってしまったら私はもう人ではいられなくなる。野蛮な血と同じ色にはなりたくなかったし、心の虚無を紛らわすための共感者も存在してはいなかったからだ。
母は使用しなかった。母は祖母から受け取って私の手に移しただけで終わった。
私も、それで終わりたいと思っていた。
デュア・ボムトニアの『命を守るため』にチェヌリエを初めて使った時、首筋から後頭部にかけて死神に引っつかれているような感覚に襲われた。もしかしたら本当に世界に災いが起こるのではないかと思って怖くなった。されど彼を無視することの後悔が、不意の災難を進む道を選択したのは必然だった。むしろ行動は反射という名の異性感情によってもたらされたと言えば否定は出来ない。
私はあの雨の日、薄暗くなった道の上で赤く汚れた彼を見た。うつ伏せのまま動かない大きな背中が、この目に動かない時間を証明する。雨で濡れた自分の髪が瞼を通り、悲しみのない涙が流れた。
孤独な彼の死を力いっぱい目に焼きつけた。そして私はここに立つ理由を知った。決意をするためだった。
本当はあんなものを見たくはなかった。でも一度だけ、引き金を引くこの一度だけ、そのために私はチェヌリエあらため『02/ゼロツウ』という秘術を使って会いに行った。
あの約束の、彼が大切にしていたあの一言を、心に刻むために……。
02という呼び方にしたのは単純に格好がいいと思ったからで他に理由はなかった。いろいろ調べていた時に昔のオカルト研究者が解読した古文書の一節にチェヌリエと酷似する不思議な力の記述があったのだ。
チェヌリエは発音も言葉の響きも嫌いだった。02という言葉は私の感性を偶然にも刺激して次第にチェヌリエと取って代わる呼び名になった。
この頃だったと思う。なにかに解放された気分を受け入れるようになって、自然と笑顔が作れるようになったのは……。
私はなにも変わらなかった。そして経験は全てにおいて私を向上させ強くしていった。朝に目が覚めるとそこにいるのは紛れもなく私で、変化を受け入れることもまた、なにも変わらない私そのものだった。
02という言葉そのものになにか不思議な力が宿っているのかもしれないと思った。チェヌリエの長い歴史を終わらせる最初で最後の継承者が私になることを、02というオカルト用語が知っていたかのような、そんな出会いだった。
果たしてデュア・ボムトニアの死が本当に不慮のものだったのか。疑ったのは彼に二度目の死が訪れた時だった。一度目の死からわずか三日後のことだった。
時代はまだ至宝を求めているのだろうか。今後強大な権力を前に未来を修正する必要があるとするならば、この頃の私はほとんど手ぶらに等しかった。
事と次第によっては寝首を掻かれる事態に発展してもおかしくない状況に足を突っ込むことだってあるかもしれない。そんな危険と対峙する未来が待っているとするならば、行動には細心の注意を払わなければならなかった。
そのために私は、完璧な人生を演じる必要があるという結論を下した。納得するまでの試行回数はもう覚えていない。百か、千か、億か。とにかく毎日が命懸けの調査だった。
彼の身辺を調べていたらおかしなことに気がついた。無職だったのだ。
以前本人から児童教諭をしていると聞いていた。だが過去にも未来にもそのような職歴は確認できなかった。本人にあらためて確認しても、やはりそうだと言い張るだけだった。
私に嘘をついてまで守りたかったものとはなんだったのか。生前の彼をもっと知る必要があった。生まれて初めての尾行、見知らぬ人物と彼の接触、ここまでは何度も見た。決定的な情報が欲しかった。
少し大胆に動き過ぎた。私は何者かに拉致されてしまったのだ。意識が薄れていく寸前に02の使用を試みたが落ちるほうが少し早かった。
目を覚ますと私は服を脱がされ手足を縛られた状態で吊るされていた。咄嗟の判断で戻ろうとも思ったが、さらに様子を見ても面白いと思いそのまま吊るされてみた。
しばらくすると一人の男が入室してきた。灯りが小さい部屋のため男の顔をはっきりと見ることが出来なかったが、私はこの男をどこかで見た記憶があった。クリーツ財団理事のトップで関連開発事業会長のジェイサン・クリートだった。
公にはめったに顔を出さないこの男を知っていたのは学生時代に一度講義の壇上に上がったのを憶えていたからだった。当時は珍しく文字媒体のみによる報道がなされ、架空の人物と噂した一部の記者や解説者の主張を一蹴した。
その謎に包まれた男が白い上下の着衣を纏って裸の私を見ていた。すると相手が気味の悪い笑顔で手を伸ばしてきたので私は反射的に02を発動した。
その時が明確な境となった。無力であることの愚かしさとこの世界の持つ強大な力が私を砂粒ほどの小虫に変えた。
無力。
それは世界を生きる者にとっての枷であり、なによりも重い罪でもあった。
私の力に対する固執は異常なまでに膨れ上がり、いつもそのことばかりを考えるようになっていった。肉体の強化に限界があることを知るのに十年はかかっただろうか。
それでも私は一定期間の時間を生きるだけの存在なので、徐々に精神と肉体の不一致が起こることを覚えた。肉体の増幅は本質的な力と相対的な関係にないことが分かると、訓練は身体に対する負荷行為とは反対の所作に置き換わっていった。
手や足をゆっくりと伸ばす……呼吸、感触、流動、全ての意味が一つの答えに行き着くまでひたすら信じ続けた。もう何年そうしていただろうか。もはや理由すらもどうでもよくなってしまうほど拘り続けて、考えて、考えなくなって、ある時、その答えの先端に触れたのを指先が感じ取った。
それはこの世界のどこにでもある空間の余韻、みたいなものだった。それ自体を力で掴むことは出来ないが鍛錬の末にそれを掴むところまでの理解を得た。それはとてつもなく遠く、とてつもなく近い一つの大きな魂との触れ合いと解釈する。
私はそれがこの星のものだとすぐに分かった。そしてそれは瞬時にこの身体を優しく包み込んだ。手を振りかざすとその周囲に切なくも温かい光が発せられて、意識と意識が溶け込んだ淡い小さな星となった。
さらに鍛錬を続けた。それは肉体の強化の時とは比べ物にならないくらい精神を酷使するものだった。十年それを続けたら二十年は寝かしつけなければならないほど脆かった。そうやって心の破壊と再生を繰り返していき、完全にものにするまで、何度も何度も過去へと飛ぶ……。
ある日の朝、それは突然やってきた。ついに私は閃光になったのである。
光線のように飛び、稲妻のように突き刺す。星の息吹に感謝しその魂を拝借することを覚えた私は、まるで神に許された処刑人のような、残酷さをあわせ持つ美しい天使となった。
ちなみに彼のことはもう顔も覚えていない。記憶の中できっかけになったとても大事な人というだけの、デュア・ボムトニアというただの記号だった。
きっかけと言えばもう一つあった。それはジェイサン・クリートだった。世界を操る術を手に入れた私は、最強の秘術02を従えて人としての心の蘇りの入り口にジェイサン・クリートを選んだ。
それは私が初めて処刑することを決めた第一号となる男の名前と一致した。
クリーツは世界に蔓延していた。
強大な力は私と星にとって敵そのものだった。
近々ファスークスという研究施設が爆破されるらしい。
どんな馬鹿野郎が関わっているのかに興味が湧いた。
偵察がてら研究所へ行くことにした。
その途中、遥か遠い空の向こうに不自然な軌道を描く『黒い異物』を発見する。
迷わずそこへ向かおうとしているように、施設のある方角へと落ちていった。
私はその奇妙な『宇宙船』のあとを追った。
森の茂みに降下した黒い船は瞬時に装甲の色を『透明』に変えて着陸する。
上空からその様子を静かに窺っていると、その中から一人の男が出てきた。
ゆったりとした足取りで地上に足を置くその所作がなんとも気味悪く感じる。
そして不思議な着衣を纏った若い顔の男は、一人寂しそうに空を見上げた。
私は咄嗟の判断でその場から逃げた。
あれは、要注意人物だと思った。
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