巡り合い
2014年度コバルトノベル大賞に投稿し、選外でした。
一
「…………い。パリー、起きなさい」
「……ん……お母、さん……?」
名前を呼ばれて、何度も体を揺すられたからか。うっすらと目を開けた少女は、ぼんやりした様子で体を起こす。それからおっとりと、そこにいた母親に向かって寝ぼけた声で呼びかける。
艶やかでサラサラした藍色の髪が、はらりとこぼれ落ちた。くりっとした大きな瞳をゴシゴシと手でこすり、少女はあくびをかみ殺す。ほどよく日焼けした、健康そうな少女だ。
彼女のベッドは、窓のすぐ近くに置かれている。その窓には、眠る時には薄手のタペストリーがかけてあり、日が昇るまで部屋は薄暗い。そのはずなのだが、今は、窓の向こうがやけに明るかった。
漏れ聞こえてくる喧噪は、明らかに普通ではない空気だ。祭りの日でも、ここまで騒がしくなることはない。
ボーッとしていた少女の顔色が、サッと変わった。
「……何が、起きてるの……?」
村の周囲は砂地だ。昼は暑く、夜はグッと冷え込む。それゆえ、寝る時には袖の長いカートルとズボンを身につけている。だから、決して寒くないはずだ。
けれど、パリーは小柄な体をカタカタと震わせている。そんな彼女を安心させるためか、母親はきつく抱き締め、小さな背中をそっとなでた。やはり動揺しているのか、母親の顔色もよくはない。
「……お父さんと、リーンが待っているわ。行きましょう」
パリーはこくりと頷き、ベッドからスルリと下りる。
リーンは、三歳年上の姉だ。村の誰より綺麗で、年齢の割に大人びていて、いつもどこか達観としている。そんな姉が、パリーは大好きだった。
母親と支え合うようにして、パリーは父親たちの待つ部屋へと移動する。
居間へ入ると、しきりに外をうかがっている父親の姿が目に入った。
「お母さん、パリー、大丈夫?」
一緒に待っていたらしいリーンが、早速声をかけてきた。怯え震えるパリーとは対照的に、彼女は落ち着き払っている。
「お姉ちゃん!」
チラッと持ち上げられたタペストリーの隙間から、赤々とした光が入り込んできた。あまりに禍々しいその色に、パリーは急いでリーンへと駆け寄る。そのまま、ギュッとしがみついた。
「大丈夫よ」
片腕でパリーをしっかりと抱き締めたリーンは、どこまでも悠然としている。
艶やかなサラサラした長い髪はそっくりだ。しかし、リーンの涼しげな目元が、大人びた印象をさらに強めていた。
「リーン、パリー……せめて、お前たちだけでも逃げるんだ」
声を殺しつつ、父親は有無を言わさぬ強さで言い放つ。
家の立地を幸いと言うのは、こんな時にははばかられる。けれど、騒ぎはまだ遠い。
「さあ、早く!」
──今ならば、まだ逃げ出せる。
言葉にならなかった父親の思いを、確かに感じ取ったのか。ほぼ同時に背中をドンと押され、パリーは一目散に裏口へと走り出す。
裏口を飛び出し、村から離れる方角へ足を向ける。駆け出す直前、チラリと振り返った先で、空の端がやけに赤くなっているのが見えた。
この辺りは雨が滅多に降らないため、家の壁は日干しレンガで出来ている。屋根は茅で覆っているから、燃えているのはそれと家具だろう。
体の奥底から沸々と湧き上がる恐怖に、膝がガクガクと笑う。それでも足を必死に動かし、パリーは歩いて数歩のところにある防砂林の中へ転がり込む。防砂林といっても、他より木が密集している程度だ。完全に、パリーの姿を隠してはくれない。
ガタガタと震える体を、やはり震えている腕で必死に押さえ込んだ。
いったい、どのくらいそうしていたのか。気が遠くなるほど長い時間のようで、実際にはそれほどではなかったのかもしれない。
ふと気づいた。
この場にいるのは、自分一人だ。両親はもちろん、姉もいない。
「おね……っ」
叫びかけた口を、慌てて両手でギュッとふさぐ。
声を聞きとがめられたら、それこそ逃げ出す意味がなくなってしまう。
(どうして……!)
裏口からは、誰も出てこない。辺りは静かなものだ。
じわりとにじんだ涙が、ぽろりとこぼれ落ちる。
(……お姉ちゃん……)
嗚咽をこぼさないよう、パリーはグッと下唇を噛み締めた。痛みは感じない。口の中が傷ついたのか、かすかな血の味が広がっていく。
リーンは幼い頃、大人たちも初めてだったという大雨の翌日、登った木から落ちて右足が動かなくなった。今も、杖がなければ歩くこともままならない。外にも滅多に出なくなっていた。
何者かに襲撃を受けている村から逃げ出すことなど、最初から考えていなかったに違いない。
すん、と鼻をすすって、パリーは次から次にあふれてくる涙を乱暴に拭う。手の甲がベッタリ濡れれば、ためらいなく服でふいてまた拭った。
見つかれば殺されてしまうだろう。もう二度と、あの家に戻ることは許されない。
覚悟を決めたパリーは、再び甲で頬をグイッとなでる。
「……この手は……」
その瞬間、すぐ近くで声が聞こえた。今まで聞いたことのない声に、パリーはギュッと身をすくめる。知らず知らず、息を大きく吸い込んでしまう。
「……誰か、いるのか?」
小さいが、ひどく低い声。怒りは感じないが、強い警戒はうかがえる。
(……襲ってきた人の、仲間……?)
村の者ではない声なのだから、他に考えようがない。恐らく、逃げ出した者を探しているのだろう。
よりによって、敵に見つかってしまったのだ。
声を出すことはもちろん、ごく自然に呼吸をすることもためらわれた。
パリーは静かに、ゆっくりと、息を吸っては吐き出す。それでも、やけにドキドキと激しく脈打つ心臓は、ちっとも落ち着かない。ふと気を抜けば、大きく息を吐き出してしまいそうだ。
(……お願い、どこかに行って……)
ここで見つかれば、逃げようがない。逃がそうとしてくれた家族の思いが、すべて無駄になってしまう。
必死の祈りもむなしく、近寄ってくる足音がした。まるで散歩でもしているような、のんびりとした足取りだ。
「俺は何もしない」
パリーの肩が、ピクッと跳ねた。
この言葉を信じない根拠は、いくらでも提示できる。小さな村の中で、ありありと広がっているはずだ。けれど、信じるために必要な理由は、何ひとつ見ていない。
ドサッ、と音がした。荷物を地面に下ろした時の音に似ている。その音は、パリーが隠れている木の、まさに反対側から聞こえた。
ふうっと長く息を吐き出した相手に、パリーはますます息を詰める。
恐らく、すぐそこにいるのだ。どんなにそっと逃げだそうとしても、即座に感づかれる距離だろう。
このままここでやり過ごせば。でも、仲間が現れたら。
あまりに楽観的な想像と、最悪な結末。それらが交互に頭の中を行き来する。
「俺は、何もしない」
騙しておびき出そうとしているのか。そんな手に引っかかるほど、単純な人間だと思われているのか。それとも、すでに引っかかった住人がいたのか。
いろいろと聞きたい疑問は浮かぶ。けれど、パリーはそれを口にせず、グッと喉の奥へ追いやった。
「……あなたは、ここの住人なのか?」
彼はずいぶんと声を潜めている。まったく聞き取れないほどではないが、風が吹いて葉を揺らすと、かなり聞こえづらい。
(……嘘を言っても、きっとバレちゃうよね)
そもそも、襲撃した側は、自分たちの仲間以外は認めないに違いない。
パリーは一度だけ、はっきりと頷く。
それがきちんと伝わったのか、確かめる術はない。
「ならば、今すぐ逃げてくれ。逃げた住人がいないか、いずれ誰かがここを調べに来るはずだから」
(……え?)
思いがけない言葉に、すぐには動けなかった。
(……ひょっとして、逃がしてくれるの?)
いることを知りながら、見逃してくれるのか。はたまた、逃げ出して位置がはっきりしたところで、容赦なくつかまえるつもりか。
(……こうやって、悩んでても何もわからないわ)
黙り込んで反応をうかがっていたパリーだが、思い切って尋ねてみることにした。
「……どうして、教えてくれるの?」
襲撃した側の仲間だろうに、なぜ。
震えるか細い声が言葉にしなかった思いを、彼は汲んでくれたようだ。かすかな、安堵の吐息が聞こえる。
「君だけでも、生き延びて欲しいから」
しぼり出したようなかすれた声音が、それは彼の本心なのだと伝えてくれた。今にも泣きそうな彼の声が、ひどく悲しんでいることを教えてくれる。
彼は、信じても大丈夫。
不思議となぜか、そんな思いが湧き上がる。パリーは何ひとつ疑いもせず、この場から逃げだそうと決めた。
「……わかったわ」
なるべく静かに、余計な音を立てないよう、パリーは立ち上がる。木の向こう側からもう一度、大きなため息が聞こえた。
「パルヴァーネフ」
「え?」
パリーの正しい名だ。その由来を、彼はきっと知らないだろう。
この辺りに細々と伝わるおとぎ話に出てくる姉妹の、妹。聡明で気高く、そして強く優しい心を持つ少女。その名を、妹に生まれたというだけで、パリーがもらった。
彼女のように、大きな苦境に立たされたとしても決して諦めないように。そんな願いが込められている名前だ。
運命まで似てしまったと、嘆くことはしない。
おとぎ話のパルヴァーネフも、運命に翻弄される自身を嘆くことはしなかった。ただひたすら前を見つめ、誰もが幸せになれる道を必死に探した少女だ。
(……おとぎ話のパルヴァーネフくらい、強くなれるかはわからないけど……)
彼といつか再会できた時に、この名を合い言葉にできるように。
「あたしの名前、パルヴァーネフっていうの」
今を限りに、この名は捨ててしまおう。
そう決意したパリーは、彼の言葉を待たずに駆け出した。可能な限り足音を殺し、けれどできるだけ急いで。
振り返ることはしない。立ち止まらない。たった今、そう決めたのだ。
乾ききった地面を蹴ると、パッと細かい砂が舞い上がった。
駆けた跡が残ると、追われるかもしれない。そう考えたが、今はこの場でとらえられることが怖かった。何より、まだ暗い。たいまつを持ち出したとしても、夜明け間近に吹く風が乱した足跡をたどるのは、さすがに容易ではない。
迷いを振り捨て、ひたすらに走った。ゆるりと絡みつくカートルは、足で容赦なくはね除ける。足を砂にとられて転んでも、飛び起きてまた走り出す。靴の隙間から入り込んだ砂が、ザラザラと足を刺激しても気に留めない。
村からはもう、それなりに離れているはずだ。振り返っても、炎の色はさすがに見えない位置だろう。
(どこまで、行けば……)
すっかり息が上がってしまうほど、夢中で走り続けていた。それなのに、今の今まで、そんな当たり前の疑問が過ぎる余裕すらなかったのだ。
泣いている自覚のないまま、頬を滑り落ちる涙を止める術もない。
「……っ!」
また転んだ。もう何度目かわからない。体力はとっくに尽きていて、今度は起き上がる気力すら湧いてこなかった。
砂を巻き込んで、拳をギュッと握ってみる。
チクチク刺さる砂の痛みすら、今はもう感じられない。
(あたし、このまま……)
せっかく逃げ出したというのに。運よく、見逃してもらえたというのに。
何もしないまま、できないまま、命を終えるのか。
『君だけでも、生き延びて欲しいから』
不意に、脳裏に声がよみがえる。
たまたまとはいえ、せっかく助かった命だ。こんなところで、こんな形で、無駄に終わらせていいのか。
(……まだ、あたしは、何もしてない……)
助けてくれたあの人と、いつか再会できた時にお礼を言いたい。無事に生き延びて、元気でやっていると教えたい。きっとそれが、彼の望みなのだろう。
家族を取るか、愛に生きるか。その狭間で揺れ悩んだおとぎ話のパルヴァーネフは、決して諦めなかった。
(……パルヴァーネフの名前を、もらったんだから……)
握り締めた拳に、腕に力をグッと込める。その直後、体と砂の間に何かが入り込み、ふわりと浮き上がった。
突然の出来事に、パリーはすっかり固まってしまう。
「嬢ちゃん、ひょっとして一人か?」
助かったのか、それともつかまったのか。
パリーには、どちらとも判断がつかない。なす術もなく、全身を緊張で強張らせる。
「おーい! 女の子が落ちてたぞーっ!」
横抱きに抱き直され、腕の主を見上げようとする。けれど、助かったらしい安堵感と、背中に伝わるゆるやかなぬくもりに、パリーの目は自然と閉じていった。
∮
ゆっくりと浮上した意識に、ぼんやりしたまま、一度瞬きをした。
今度はしっかりと目を開け、砂埃であちこちがまだらに色の変わった白い布を見た。どうやら屋根代わりのようだ。チラリと横目で見れば、左右は広々と開けられている。
初めて見るものに、パリーはかすかに首を傾げた。
(……今、お昼くらいかな?)
肌をなでた風の温度から、おおよその現時刻を推測する。
この気温の中、就寝用の服装では快適に過ごせない。背中や額には、じっとりと汗がにじんでいた。
(……あれ? お母さん、今日はどうしたのかな?)
いつもであれば、パリーは早朝に目を覚ます。時々、疲れていてうっかり寝坊した時には、必ず母親が起こしてくれた。
それが、今日はない。
(あ……)
あるはずが、ないのだ。
暗い中、家から逃げ出した。見つかったが逃がしてもらい、砂の中を必死に駆けた。そこで誰かに拾い上げられたはず。だから恐らく、ここはその後に連れてこられた場所なのだろう。
いつもと違う理由が、少しずつ目覚めていく頭に理解され始めた。
「……っ」
何もかもを失って、一人きりでどこか知らない場所にいる。
そう自覚すると、体が泣きたそうに、鼻の奥がつんと痛んだ。けれど、よほど体が乾いているのか、涙で視界がにじむことすらない。
黙ってギュッと息を詰める。どうにか痛みをやり過ごすと、今度は喉がひどい乾きを訴えてきた。
自覚してしまうと、無性に水分が欲しくてたまらない。近くに誰かいないかと、声を出そうにも、喉がペッタリと張りついていて声にならなかった。
それならば、と腕を動かそうとしてみたが、土くれのかたまりになってしまったように重い。まともに動いたのは、指先だけだ。
「あら、気がついたのね?」
動こうとしているパリーの気配を察したのか。ひょいと覗き込んできたのは、薄い茶色の髪を綺麗にまとめ上げた女性だった。パリーが見たこともないほど、薄くて上等な布で作った服をまとっている。
パリーが着ているのはリネンと呼ばれている。それも、値段を重視した、出来の悪いものだ。対して、女性が身につけている服は、着心地や肌触りを重視したものだった。
「お水、飲むでしょ?」
こくりと小さく頷くと、女性はニッコリ微笑んだ。ゴソゴソと動いたり、ものを置いたりする音が聞こえる。
やがて、女性がかけ声とともに、軽々と上がってきた。
パリーの体を起こし、しっかりと背を支える。そのまま、たっぷりの水が揺れる器を、パリーの口元へ近づけた。
確かめるように、まずはひと口。
渇望していたものだと、頭で理解するよりも早く、体が感じ取った。後は、乾きに任せてひと息に飲み干してしまう。
「あり、がとう……」
まだ足りない。そう体は訴えるが、先に礼を伝える。
「どういたしまして」
女性の言葉と、愛嬌のある笑顔に、パリーの頬がわずかにゆるむ。
支えられたまま、周りを見回してみる。とりあえず、命は助かったことはわかった。けれど、居場所すらはっきりしないのだ。この後どうなるのかは、想像すらつかない。
急に不安に駆られて、パリーはもう一度辺りを見回してみた。
今いるここは、砂に直に触れないよう、高さを作った簡易天幕のようだ。広さは、衣装棚と小さな机、それとベッドを入れていたパリーの部屋とさほど変わらない。
「おい、様子はどうだぁ?」
突然の野太い声に、パリーは驚きとともに警戒した。しかし、声の主をチラリと見て、フッと警戒を解く。
覗き込んできた男は、近寄りがたいほど厳つい顔をしていた。声の印象と、これほどピッタリ合うのは珍しいだろう。まとっている空気も、どこか尖っている。反面、とても穏やかで優しい目をしていた。
「お、目が覚めたか。よかったよかった」
グッと太い腕を伸ばし、男はパリーの頭をグリグリとなでた。彼はそのつもりなのだろうが、堪える気力すらないパリーの首は、容赦なくガクガクと揺すられる。元々残っていなかった体力は、これで根こそぎ奪われてしまった。
「ちょっと、ガロ! なでるにしたって、手加減してちょうだい!」
あっという間にぐったりしたパリーを見て、女性が男に抗議する。
「がはは、すまんすまん。そういやぁ、ずいぶんと細っこくて軽かったな」
パリーの頭をなでた手で、ガロは照れたように、布で覆われた自身の頭をかく。
ぼんやりと聞いていたパリーは、あの時自分を見つけて抱え上げた人物だと気づいた。同時に、見つけたからこそ、様子を見に来てくれたのだということも。
「……ありがとう、ございました」
なぜ、助けたのか。
ここはどこで、これからどうなるのか。
聞きたいことはたくさんある。だが、ガロは小さく笑ってスッと姿を消してしまった。
「休みなさい。あなたはまず、元気にならなきゃね」
ほんの一瞬だけ、パリーの顔に除いた疑問の色。それをたまたま見て取ったらしい女性はそっと、もう一度寝かせてくれる。
体が横になってしまえば、自分の意志で自由に動かすこともできない。まだまだ休息の足りない体の欲するままに、意識はあっさりと引きずられて落ちていった。
∮
再び目が覚めたのは、翌朝だった。その頃にはかろうじて、自力で起き上がれる程度には回復していた。
その後、説明を受けた結果、わかったことがいくつかある。
今パリーがいる場所は、人々に娯楽を提供するキャラバンのひとつであること。つまり、ここにいる者全員が、何らかの見世物をして生計を立てているのだ。そして、パリーを見つけてここへ連れてきた男はガロといい、数年前からこのキャラバンにいること。
訳あってキャラバンに居残るもよし。すっかり元気になった後、頼るあてがあるならそちらへ向かうもよし。
キャラバンという存在は、そういうものらしい。
ひとつの国の中では、ほぼ端っこの辺境に位置している。そんなパリーの村では、大衆的な娯楽とは縁がなかった。キャラバンという存在も見聞きしたことはなく、今初めて知った有様だ。
「行くあてがないなら、残ったらいいわ。国王様の命令があるから、絶対に盗賊に襲われないここと、厳しい暮らしを強いられる一人なら、ここの方がうんと安全だもの」
それが当たり前だと言わんばかりの表情で、説明している女性は言い放つ。逆に、パリーの体はあっという間に冷え切ってしまった。空気の暑さなど、一切感じない。
(……不公平、だわ)
パリーの村は、何者かに襲われて消えてしまった。それなのに、国王の命令ひとつで、安寧が保証されている存在がある。
あまりに不公平で、理不尽だ。
悔しいのか、悲しいのか、寂しいのか。いろいろな感情がない交ぜになって、唐突に目尻からこぼれ落ちる。
『君だけでも、生き延びて欲しいから』
何もわからない。けれど、何とか生きて、何としても生き延びると決めたはずだ。
彼は、盗賊の類いとは少し違っていたと思う。あんなに優しく、悲しげな人間がいる盗賊団など、まずないだろう。かといって、彼が属していたのはどんな集団で、何を目的にしていたのか。パリーにはさっぱりわからない。
同じように滅ぼされたとしても、盗賊は襲ってくる理由がわかるから、すっぱりと諦めがついただろう。けれど、正体不明の相手に滅ぼされるのは、やはりどうしても納得ができないのだ。
それでも、生き延びることで彼が救われるなら。もう一度出会えた時、その答えが聞けるのなら。冷静に考えなくとも、答えはひとつしかない。
彼と出会える保証はない。この記憶に残る優しくて悲しい声と、『パルヴァーネフ』の名。それだけが、彼とかろうじてつながっている。
「……あたし、何が向いてるかな?」
キャラバンの一員として生きていく。その意思表示を、短い言葉に込めた。それを察した女性は、ほんの一瞬、ひどく驚いた顔を見せる。
「そうね……踊りか、ナイフ投げあたりが無難だと思うわ。私も、踊り子なのよ」
ニッコリ微笑む女性は、上等な生地のカートルを身につけていた。髪もまとめ上げ、飾りをつけている。手はやわらかく、家事などしたことがなさそうだ。彼女がふと距離を詰めるたび、ふわりと知らない花の香りがした。
「適性も見るけど、でも、その前に。あなたの名前を教えてくれる? 私はアティフィーよ。愛称では呼ばないでね、それが決まりなの」
二度と、パルヴァーネフの名は口に出さないと決めた。けれど、代わりの名はまだ用意していない。
「……ナスリーン」
逡巡の末に出てきたのは、大好きな姉の名だった。無意識にこびりついていた名前だから、自然と口をついたのだろう。
地方でしか語られていないおとぎ話。その中のひとつに出てくる姉妹の、姉の名だ。
生まれつき片足が不自由だが、絶世の美女に生まれた姉ナスリーン。姉ほどの美貌はないが、健康なパルヴァーネフ。
つけられた名前で運命が左右されるなど、考えたこともない。しかし、似たような状況になっていたことを、パリーは理解している。
パルヴァーネフは、何度も苦境に立たされた。そのたびに知恵を絞り、機転を利かせ、どうにか解決していく。強く、時に脆い。そんな少女だ。
「あら、美女の名前なのね。どっちかというと、パルヴァーネフって感じだけど」
そう言って微笑むアティフィーに、パリーは一瞬ドキッとする。
村でも、おとぎ話どおりの姉妹だと言われていたのだ。まったくの他人がそう思っても不思議はない。
気づかれたのか。
そんな考えが浮かぶが、どうやら純粋な感想だったようだ。別段、名前を疑われたのではないらしい。
「ああ、そうだわ。何か食べるでしょ? 今持ってくるわ」
アティフィーがいなくなると、パリーはこっそりと、ホッと息を吐き出す。
(あたしはこれから、ナスリーン……)
覚悟していたとはいえ、捨てると決めた名前が、急に恋しくなる。失ってしまったすべてが、懐かしくてたまらない。
取り戻せないとわかっていても迷うのは、未練がましいことだろうか。
もう一度、家族の声を聞き、会ってみたいと望むのは、罪深いことだろうか。
「お待たせ。熱いから気をつけてね」
差し出されたのは、干し肉と野菜の入ったスープだ。それをふうふうと息を吹きかけて冷まし、ひと口ずつ喉に流し込む。とたんに、生きている実感が体中を駆け巡る。
どんなことをしても生き延びたい、と初めて思えた。
∮
ナイフ投げと踊りを体験した結果、パリーは踊り子を目指すことにした。
華やかな衣装でヒラヒラと舞い踊る踊り子は、それだけで目を引く。賞賛を浴びるほどの舞が踊れるようになれば、名前が自然と売れる。
(……もし、あの人がおとぎ話を知っていたら、きっと)
ナスリーンという名に、引っかかりを覚えるだろう。
もっとも、パリーが『ナスリーン』と名乗った時に何らかの反応を見せた者は、ガロだけだった。あちこちへ出向くキャラバンの一員ですら、知らない者が大多数を占めているのだ。向こうから来てくれる可能性は低い。
キャラバンでは、人前に出られるくらいに腕が上がれば、興行の際に披露する。その時にもらった金品の一部を、自分の収入として得ることができるらしい。それをどう使うかは、もらった人間の采配にゆだねられている。
それを知った時、考えを改めた。
最初は、名を売って探してもらおうと考えていた。けれど今は、収入を貯めて彼を探すのもいいかもしれない、とも思う。
言葉遣いに癖はなく、丁寧で綺麗な発音だった。相当高い教育を受けているはずだ。大きな街で聞けば、かすかな取っかかりくらいは得られるかもしれない。運がよければ、彼の住まう街へ興行へ行くかもしれない。
(一日でも早く、興行で踊れるようにならなきゃ……)
先は長いのだ。とはいえ、焦らずゆっくりでいい、とは思えない。
彼につながる情報は、ほとんど持っていない。一面に広がる砂の中に落とした、小さなキラキラ光る石を探すようなものだ。だからといって、ただ待っているだけでは、絶対に見つかりっこないだろう。
決意を新たに、借り物だらけの姿で初舞台を踏んだのは、ナスリーンと名乗った三ヶ月後だった。
二
初舞台から一年が過ぎた。その間に、パリーの思惑どおり、『ナスリーン』の名は誰もが知るものとなった。
あの夜のことを、忘れた時はない。
身を焦がす強烈な悲嘆が、喉から叫び声となって飛び出しそうな日もあった。何もかもをなくした胸の痛みが、大粒の涙となって瞳からこぼれ落ちたこともある。パリー自身が知らないだけで、うなされた夜もあったのかもしれない。
たった一人だけ生きて、いったい何になるというのか。
そんな自問が、繰り返し胸を突く。手ひどく切り裂いて、見えない血を流し続ける。
『君だけでも、生き延びて欲しいから』
そのたびに、彼の優しくて悲しい声が耳に響いた。
なぜ、村を襲ったのか。どうして、生き延びて欲しいのか。解消しない絡まった疑問を、スルリとほどいて欲しい。
パリーは常々、思い出すたびにそう考えてしまう。
相変わらず小柄な体の中で、グルグルと激しく渦巻く感情。それに突き動かされるように、パリーはいつしか自分らしい踊りを身につけていった。
他の踊り子たちは、決して味方ではない。けれど、あの夜、砂の中で力尽きかけたパリーを拾ったガロは別だ。
ガロはナイフ投げの名手で、踊り子であるパリーとは客を取り合わない。彼が父親と変わりない年齢だったこともあり、パリーは「ガロお父さん」と呼んで慕うようになった。
当初、ガロは「父さんはやめろ」と苦言を呈した。しかし、一向に改まらないパリーに諦めたのか、今では何も言わない。
大きな街を渡り歩き、興行を重ねてきた。得た収入も、衣装や装飾品に最低限だけ使って、残りはすべて貯め込んである。他の踊り子は職人に作ってもらう衣装も、パリーは手作りしていた。
晴れ渡った夏の空を切り取ったような、爽やかな青色。さらに、腰の後ろを通した白い布で左右の手首をつなぎ、端を余らせてたなびかせる。初めて自作したものだけに、思い入れは強い。
新緑色の布は、初々しさを重視した。服より薄い緑色の布をたなびかせ、葉や木の実を模した飾りで額と耳を飾っている。なかなかに評判のいい衣装だ。
気に入った色でも、値段が高い場合は見送ってきた。黒と見まごうほど濃い藍色の髪ゆえに、合う色と合わない色がある。無駄遣いなどできないから、どうしても慎重になってしまう。端切れは大小さまざまな袋を作っている。
それでも、次に作る衣装の色はもう決めてあった。
国王の住まう王都に近いところや、大きな街では、婚礼衣装は赤色と決まっているらしい。パリー自身、滞在した街で見かけたことがある。
男女ともに目の覚めるような赤色の衣装を身につけ、人々の祝福を一身に浴びていた。眩しいほど華やかな光景は、忘れたくとも忘れづらい。
しかし、パリーの暮らしていた村では、婚礼衣装と言えば白だった。糸を染めるにも金がかかるから、というのが大きな理由だ。赤が必要な婚礼など、見たことがなかった。
辺境のちっぽけな村の習慣を知る者など、そうはいないだろう。そのことに気づいてから、パリーは最後の衣装を白で作ると決めていた。
娘ならば、基本的に別の村へ嫁ぐ。その際に、白い生地に好きな色で綺麗な刺繍を施す。そうして作り上げた衣装をまとい、村を出ていく娘たちをずっと見てきた。そんなパリーにとって、白い婚礼衣装は決別の証なのだ。
一年が経ち、パリーは十六歳を半分近く過ぎた。一年前より、体は明らかに大人の女性へと近づいている。パリー自身がそう思うのだ。ずっと見てきた周りが、気づかないはずがない。
時折、ふとした拍子に、嫌な視線を感じるようにもなった。不愉快だが、気づかない振りをしている。
いつまでも、何も知らない子供のままではいられないのだ。
(……ここを出ていく前に、ガロお父さんにはきちんと話しておかなきゃ)
私物を持って急にいなくなれば、逃げたとすぐわかってしまう。見つかって連れ戻された踊り子もいたが、彼女が今どうなっているか。パリーの目にはまったく触れないため、一切合切が不明だ。
万一の時に、ガロに助けて欲しいと頼むわけではない。ただひたすら、知らぬ存ぜぬを貫き通して欲しいだけだ。
サラリとした肌触りの白い布に、そっと手を触れた。布の横には、涙型の青いガラス玉が三つ、コロリと転がしてある。そのそばには、銀色の細い針金と青色の刺繍糸の束、耳飾り用の金具などが横たわっていた。
これらをこれから、急ぎつつも丁寧に、踊りの衣装と装飾品に加工するのだ。
∮
初めて訪れたその街は、これまでのどこよりも大きな街だった。目抜き通りにはたくさんの店が並び、さまざまなものが売られている。裏道は薄暗く陰気だが、人のいる場所は明るく賑やかだ。
キャラバンの座長が近くでの滞在許可を取り、男性陣が野営の準備をしている。その間にパリーは、完成させた白い衣装を取り出して眺めてみた。その出来映えに、心の中で思わず自画自賛してしまう。
露骨に薄く透けた生地を使う踊り子もいる。けれどパリーは、ごく普通の布を使っていた。余計な手間のない、誰でも織れる布は安いのだ。その上、布が日に透けて体の線が見えてしまう心配もない。
上のチュニックは体に沿う半袖で、丈は胸の少し下辺り。ちょうど、へそが出る長さだ。肩口には、腕とほぼ同じ長さの、細く裂いた布を何本も縫いつけた。同じものを、腕輪にも縫いつけてある。動きや風に合わせ、ヒラヒラと揺れてくれるだろう。ズボンは腰から足首までをしっかりと覆い隠す。足首の留め紐は、穴を開けた木の実を三つずつ、両端に並べてある。少し余裕を持たせたため、動くたびに地面や靴に当たり、軽妙な音が出るはずだ。
生地にも、あちこちに刺繍を施した。姉が好きだった青色で、薔薇の花を全面に花開かせてある。
遠目には地味だが、これがいい。
(……ここが、最後の街……)
貯金に明確な目標額があったわけではない。けれど、何もしなくても三年は暮らしていけるくらいには貯まっている。
本格的に見張られて逃げられなくなる前に、何とか逃げ出さなければ。
(……ガロお父さんには、逃げる日に言おうと思うけど)
他の者には一切告げず、姿をくらます。逃げる先は間違いなく行き当たりばったりになってしまうし、過去の興行で訪れた街には立ち寄りづらい。
きっと不自由は多いが、自由だ。
(何日くらい、滞在するのかな?)
これまで観察してきた結果、最終日は一番見張りが厳しい。逆に、初日と最終日の前日は、なぜか警備がゆるみがちだった。合間の警備は、厳しかったりゆるかったりと判断が難しい。
明日の初興行を終えた後で逃げ出すか。はたまた、最終日前日まで待ってみるか。
どちらで決行するかは、様子を見て決めることにする。明日が難しそうならば、最終日前日に強引に逃げ出すだけだ。
そのためには、できるだけ早急に、キャラバンの滞在場所周辺をきっちり把握しておく必要がある。
何がどこにあるか。身を隠せる場所はどの程度あるのか。逃げるならば、どの方向へ行くのが最適か。それらを把握しておかなければいけない。
踊りを見せる時ですら、緊張したことはない。それなのに、今は、気を抜くと手が小刻みに震えそうになる。顔色が変わってしまいそうなほど、血の気が引いていきそうな感覚もあった。
(……大丈夫。絶対に成功させて、逃げ出すんだから)
逃げて逃げて、逃げ延びるのだ。
そう強く心に決めた瞬間、不意に、逃げてばかりだと思った。
決して、逃げてばかりの人生ではない。村が襲われるまでは、ごく普通の少女として、当たり前に生きていたのだから。
それだけに、ほんの一年少々の時間は、あまりに印象的だった。
(……無事に逃げて、その後、もし、会えたら……)
会えずに息絶えるかもしれない。むしろ、その可能性が高いだろう。それでも、運よく会えた後のことを想像してみる。
(まずは、村を襲った理由を聞いて、どうしてあたしに生き延びて欲しかったのかも聞いて、それから……)
聞きたいことを残らず聞いた後、彼に告げたい言葉は、もう決まっている。
∮
そこかしこから賑やかな音が聞こえる。キャラバンに所属する踊り子のほとんどが、自分専用の楽師を抱えているからだ。曲に合わせて手拍子やかけ声も入り、ますます華やかになっている。
パリーは当然、楽師を使っていない。踊る場所も、他の音があまり聞こえない、比較的静かな場所を選ぶ。そこには、ここがパリーの踊る場所だと示す立て札が、ぽつんとあるだけだ。
それでも、他の街から追いかけてきてくれる人がいるのか、いつもそれなりに人が集まっている。誰かが指示しているようで、いつも全員が座ってジッと待っているのが、不思議と言えば不思議だ。
初舞台は、当然ながらあまり人がいなかった。初舞台の踊り子をまずは見よう、と考えてくれた人がちらほらいただけだ。それがいつの間にか、当たり前のように人が待っているようになった。
立て札をどかしてニッコリ微笑んだパリーは、まず軽く一礼する。クッと顔を上げた瞬間から、右足がトントンと拍子を刻む。
長い髪は綺麗にまとめ上げ、頭の上に咲いた花々から流れ落ちるヴェールに包まれている。涙型のガラス玉は、耳から伸びた鎖の先でユラユラと揺れた。額の中心にも、耳飾りとそろいのガラス玉が揺れている。肩と両手首につけた腕輪から流れる布は、かすかな風に吹かれてたなびいていた。
トン、とごく軽い調子で地面を蹴った。そう見えた動きだが、宙に浮き上がったように、パリーを高々と持ち上げる。そのまま一度地面へ降り立ち、再び跳び上がった直後、彼女の体はクルリと回った。クルクル回りながら地面に足をつき、今度は左へひょいと飛んでいく。
パリーが地面を蹴る音はほとんどしない。コンコンコツン、と木の実が音を立てる。ごくたまに、わずかな衣擦れが聞こえるだけだ。
細くたなびく布やヴェールと、やけに楽しげな表情。そんな彼女の動きを見ているうちに、鳴っていないはずの音楽が聞こえてくる。誰も打っていない手拍子やかけ声も、聞こえてくる気がするのだ。
最後は、その場でクルクルと数回回ってから、観客に向かって一礼した。
瞬き数回分の間があって、誰かがパチンと手を鳴らした。その音につられたように、あちらこちらからまばらに拍手が上がる。それがあっという間に、大きな音の波となって、パリーへ襲いかかってくるのだ。
「ありがとう!」
キャラバンの者と違って、彼らは純粋に踊りを楽しみ、賞賛の拍手をくれる。それが、パリーにとって、何よりも嬉しいことだった。
ひとしきり拍手が鳴り終わると、今度は硬貨が投げ込まれる。見学者それぞれの気持ちが思い思いの硬貨となって、確かな形で伝わってくるのだ。
ニッコリ微笑んだまま、人が減っていくのを待つ。ある程度いなくなったら、左腕に抱え込んだカゴへ硬貨を拾い入れて持ち帰る。そこから座長に分け前をもらい、今日の興行は終わりとなる。
(……思ったより多いわ)
奮発してくれた人がいたようで、今までの街での初日より多そうだ。
「……あの、これ」
声をかけられて驚き、パリーはバッと振り返る。そこには、二十歳そこそこと思しき青年が立っていた。スラッとした細身に見えるが、決して軟弱ではなさそうだ。
サラサラとした薄茶色の髪に、濃い新緑色の瞳は珍しい。パリーはまだ、彼と同じような色の髪と瞳を持つ人には会ったことがなかった。たいていは、濃い茶色の髪と瞳だ。
真っ直ぐ見つめてくる彼の手には、数枚の紙幣が握られている。
「え……?」
「君の踊りに魅せられたから、そのお礼に」
唖然としているパリーのカゴに、彼は紙幣をヒラヒラと落とす。
硬貨でも、一番価値のある硬貨は見たことがあった。けれど、紙幣は初めてだ。そもそも、紙幣が本当に存在していること自体、パリーは疑っていた。
本物だろうかと、一枚だけ、指でそっと触れてみる。少しザラリとした手触りの紙は、不思議な感触だ。
「で、ついでにちょっと聞きたいんだけど……」
とっさに、パリーは警戒を露にする。
過去にも、こんなふうに直接渡す形で近寄ってきた者はいた。名前や年齢を聞かれたこともある。名前は『ナスリーン』と答え、年齢はごまかした。
(……何が聞きたいのかしら?)
露骨に警戒するパリーに、彼は苦笑いを浮かべる。
「君と同じくらいだと思うけど、パルヴァーネフっていう女の子と会ったことはある? もしくは、パルヴァーネフっていう名前の女の子の話を聞いたことがある?」
心臓がドクンと飛び跳ねた。大きく目を見開き、パリーはうっかり驚きを表情に出してしまう。
名前を聞かれたことはあっても、『パルヴァーネフ』について聞かれたことはない。そもそも、おとぎ話でも数える程度の話にしか、パルヴァーネフは出てこない。万人に広く知られた名ではないのだ。聞いてくる者はごく限られている。
「……おとぎ話を、知っているの?」
自分がそうだ、とは言えない。知っているとも、もちろん言えない。代わりに、そんな問いをぶつけてみた。
「知ってる、というか、調べたんだ。パルヴァーネフにつながるものが何かないか、片っ端から全部。君の名前はナスリーン……姉の名前だよね? だから、ひょっとして何か知らないかと思って聞いたんだけど……」
最後は声が小さくなり、彼は申し訳なさそうに頭を指でかく。可能性がほとんどないとわかっていても、聞きたかったのだろう。
(もしかして……この人が……?)
ほんの一瞬、そう思った。覚えている彼の声は、この青年と似ている気もする。けれど、あの夜の彼は、ひどく沈んだ声音だった。たった今聞いた、朗らかな声と同一人物のものかと問われると、断言はできない。
彼があの夜の人だったとして、すべて打ち明けたら。今までずっと抱え続けてきた疑問に、きちんと答えてくれるだろうか。
強烈な衝動が湧き上がるが、かろうじてグッと飲み込む。
彼が調べた理由を、今は聞いてはいけない。本当の名前を、まだ教えてはいけない。そんな気がしたのだ。
(だって、この人があの人とは、限らないよね。あの人が逃がしたってバレて、みんなで探してるのかもしれないし……)
敵かもしれない。だから、まず疑ってかかるのは当たり前だ。誰であれ、無条件で信じることはできない。
「……あたしは妹はいないし、聞いたことがないわ。まだ、このキャラバンはそんなに長くないし。それに、キャラバンの仲間だって、あたしの名前に何も言わない人ばかりだもの。今じゃ珍しい名前だけど、知らないなら、パルヴァーネフって子に会ってても、覚えてないのかもね」
ひとつ前の国だったら、当たり前にあふれていた。女の子が生まれれば、まずはナスリーンとつける。もう一人生まれたら、今度はパルヴァーネフ。近所中に、同名の娘や姉妹がいくらでもいたのだ。
だが、今は非常に珍しくなった。おとぎ話を知っていれば驚き、知らなければずいぶん変わった名前だと聞き流される。その程度でしかない。
たとえ聞いたことがあったとしても、一度や二度でははっきりと覚えていないだろう。
「そっか……」
かえって心配になるほど落胆した青年に、再び理由が聞きたくなった。ひょっとして彼が『あの人』だからなのかと、確認したくなってしまう。
今なら、問いかけても不自然ではないだろうか。
そんなことを考えているうちに、パリーの口から言葉がこぼれ落ちていた。
「……ねえ、どうしてパルヴァーネフを探してるの?」
そう尋ねられることは想定していたのか。青年は少し考える素振りを見せてから、おもむろに口を開く。その奇妙な間は、どこまで話していいのかを決めあぐねているようにも見える。
「……彼女が生きていることを、この目で確かめたいから」
パリーはヒュッと息を吸い込む。そうしていっぺんに入ってきた空気に、思い切りむせ返りそうになる。
『パルヴァーネフ』という名を持つ少女がいることを、知っている。その上、彼女が生きていることをわざわざ確かめたい人間が、いったいどれほどいるのか。
(……あの時、助けてくれた人……なの?)
もし、本物なら。ずっと聞きたかったことを、今すぐ聞いてしまいたい。
「……探して、確かめたら……その後は?」
辺境の小さな村とはいえ、生きている人間を襲い、火を放ったのだ。そんな話を聞いた上で、寛容に受け入れられる者はそう多くはないだろう。
今さらだとしても、誰かに知られないよう、口を封じるため。
それが探されている本当の理由であっても、パリーは取り立てて驚かない。むしろ、納得できる。そもそも、あの時見逃されたこと自体があり得ないのだ。
「さあ……会って、伝えたいことを伝えて、それから考えるよ」
どこか達観した様子の青年は、フッと微笑んだ。
「ひょっとしたら、そこですべてが終わりになるかもしれないしね」
「え……?」
深く首を傾げ、怪訝な表情を見せるパリーに、彼は何も言わずにちょいと肩をすくめてみせる。その理由を、告げる気はないようだ。
疑念を抱かせないよう、無理に聞き出すことはできない。
決め手に大きく欠けたまま、離れるしかないだろう。
「それじゃ、あたしはキャラバンに戻るから」
まだ落ちていた数枚の硬貨を拾い上げ、カゴに放り込む。それから彼に笑みと、別れの言葉を向けた。
彼が、あの日逃がしてくれた人だったら。
何度口にしてしまおうか。そう考えるほど、心から知りたい疑問だ。けれど、聞くことは同時に、自分の正体を明かしてしまう。
もしも、別人だったら。肝心なことをきちんと聞き、言いたいことを伝える前に、あっさりと殺されてしまうのでは。
そんな悪い想像が、パリーの口を固く閉ざしてしまうのだ。
「……もう少し、君と話してみたいんだけど、時間をもらえないかな?」
思いがけない申し出に、パリーは立ち去ろうとしかけた恰好のまま、ぼんやりと突っ立っている。そんな彼女に、青年は気恥ずかしそうに横を向いた。
彼の目的を確かめ、あの日助けてくれた人なのかを確認する。そのためには、もっと話をしてみたい。そういう気持ちがあることは確かだ。しかし、話せば話すほど、事実が知られてしまう恐れも増していく。
(でも……)
驚いたふうに数回瞬きして、パリーは小さく笑う。
「日が暮れる頃に、キャラバンの近くに来て。でも、見えるところにはいないでね。あたしが探しに行くから」
戻ってから夕食までは、キャラバンの周りは自由に歩くことができる。だが、街での買い物は、到着した日の夕方までと、最終日の興行を終えた後にしかできない。そう、厳しく決められている。
それが窮屈だと、パリーは感じない。今までは、そうは思わなかった。
(……今から戻って、今日の取り分をもらって、それからガロお父さんに言って、着替えて荷物をまとめて……何とかなる、はず)
見知らぬ若者と話していたことは、明日にはもう、キャラバンの面々に知られてしまうだろう。それから逃げ出すことは、相当難しくなるに違いない。
まだ情報が届いていない今日、これから、逃げ出す。
そう決めたパリーは、もう一度別れの言葉を彼に向け、急いでキャラバンへと戻った。
取り分をもらい、普段着である長袖のカートルに着替える。履いていく靴は、砂地の旅に向いた底の厚いものだ。まとめ上げていた髪もほどく。これまでに作った踊りの衣装は惜しいが、さすがに持ってはいけない。
一日分の着替えと、これまでの貯金。それを袋にギュッと詰め、ベルト代わりに腰に巻いた布へ縛りつける。それを隠すように、丈の長い長袖の上着を羽織った。
これから日が暮れていくから、長袖は別段異様とは映らない。そう見せるために、これまでにも何度か、パリーは上着を着て散歩を繰り返してきた。
肩の力を抜いて、自然な足取りで歩く。行き会った者には、散歩だと伝える。誰も不審がる様子はない。
(……この調子なら)
脱出も、案外簡単にできるかもしれない。
希望と期待に満ちて、ついつい歩調が浮かれ気味になる。
「お、嬢ちゃん、散歩か? 今日はまた、嬉しそうだな」
「あ、ガロお父さん。ふふっ、今までで一番の収入だったの! あ、ねえ、お父さんもたまには一緒にどう?」
まだ、ガロには話していなかった。そのことを思い出し、パリーは何の気なしにそう口にする。ガロは一瞬、眉根をググッと寄せた後、フッと相好を崩して大きく頷いた。
「浮かれた嬢ちゃん一人だと、飯に遅れるかもしれないしな」
「えーっ! いくらあたしでも、お腹が空いたら戻るよ?」
「とか何とか言うけどな。嬢ちゃん、前に一回、飯を忘れて服を作ってただろ」
「……そんなこと、あったっけ?」
いつでもどこでも聞かれる、パリーとガロの会話だ。それだけに、疑念を抱かれることは、まず考えられない。
並んで歩きながら、ガロにどう切り出そうかと思案する。同時に、名前を聞き忘れた彼がいないか、辺りを眺めてしまう。
「……今から、行くのか?」
潜めたガロの声に、パリーは足を止めた。気づかなかったガロは、あっという間に数歩先へ行ってしまう。
「嬢ちゃん、どうした?」
のんきそうな、いつもの笑みだ。声も間延びしていて、パリーのよく知るガロで間違いない。
けれども、まとっている空気が少し違う。
(……味方だと、信じてたけど……)
騙されていただけで、敵だったのか。
どうしたらいいのかわからず、パリーは立ち止まったままだ。
「何なら、手でもつなぐか?」
ひょいと気軽に差し出された手と、ガロの顔。両方を交互に数回まじまじと見つめ、それからパリーは手を伸ばす。
久しぶりにつないだガロの手は、相変わらず、硬くてざらついている。手触りが妙に心地よかった。
「……逃げ延びてくれよ?」
「……うん」
一緒に行こう。
そう誘っても、きっぱり断られるだろう。それがわかる程度には、パリーはガロという人を理解している。
分かれ道で、ガロが左へ足を進めた。キャラバンからも街からも、遠ざかる方向だ。
ゆっくり三回ほど呼吸をした辺りで、岩の陰からチラッと覗く人影が見えた。恐らく彼だろう。
「あれは、お前の同行者か?」
「……まだわからないけど、途中までは一緒に行くかもしれないわ」
「そうか……」
呟くが早いか、ガロはスタスタと人影へ近づいていく。不意をつかれたパリーは、瞬きを繰り返して呆然と見送ってしまう。ハッと気がついたのはずいぶん遠ざかってからで、慌てて後を追った。
先に人影と接触したガロは、声をかけたようだ。厳しい横顔から、それが単なる挨拶や誰何とは思えない。
思いがけず速かったガロの歩調に、パリーは完全に出遅れた恰好だ。
「ガロお父さん!」
ようやく追いついて声をかけると、振り返ったガロは笑っていた。これまでに見たどの笑顔よりも、ずっとずっと穏やかで優しい。
「あ、ナスリーン……」
そこにいた人影は、やはり街で声をかけてきた青年だった。やけに動揺している様子なのは、突然ガロに声をかけられたからだろう。ひょっとしたら、かなりの詰問口調でいろいろ尋ねられたのかもしれない。
恐らく、心配してくれたのだろう。そこは素直に嬉しい。だが、初対面の人を相手に、いきなりそんなことを言うのはやりすぎだ。
ほんのひと言でもいいから、きっちりと叱らなければ。
「嬢ちゃんを頼む」
口を開きかけたパリーだったが、代わりに目を大きく見開く。
低く、けれどもはっきりと囁かれた言葉を、パリーも青年も聞き逃さなかった。
「あんたは、キャラバンが絶対に入れない場所を知ってるだろう? 最悪の場合は、そこへ逃げ込め。あんたの都合はどうでもいい。嬢ちゃんがここに連れ戻されるようなことがあったら、俺が地の果てまで追いかけてあんたの息の根を止めてやるぞ」
「……わかっています」
どうやらすでに、二人の間で話はついているようだ。
二人の態度にキュッと眉を寄せ、すっかり置いていかれたことにむくれてみせる。そんなパリーに、ガロがいつもどおり笑いかけた。
「嬢ちゃん、できることなら、完全に逃げ切れるまでこいつと一緒にいるんだ。嬢ちゃんには、生きづらいかもしれない。だがな、ここへ戻されるよりはずっとマシだ」
人を食ったような笑みも、人好きのする笑みも、見慣れている。だが、真顔で淡々と、怒りを抑えた声音で語るガロは、パリーの記憶にはない。
(……ガロお父さんは、何を知ってるの?)
逃がしてくれようとしているのだから、間違いなく味方だ。それは信じていいだろう。
「……どうして?」
ここまでしてくれるなら、本当のことを──捨ててしまった名前や愛称を、そうした理由を、話しておきたかった。
いつか会えるように。
そんな願いを強く込めて教えれば、きっとガロとも再び会えるはずだ。
けれどもう、伝えることはできない。
単純に巡り合わせの幸運を、ただただ祈る他にないのだ。
「……あの夜、俺が嬢ちゃんを見つけた時から、嬢ちゃんは俺の娘だ。娘の幸せを願わない親はいない。ただ、それだけだ」
もう一度、念を押すように、ガロは青年へ鋭い視線を向ける。それを受け止め、青年はきっぱりと頷いた。
「ナスリーン、行こう」
「え……? でも……」
「行こう。話は、とりあえず距離を取ってからでも遅くないから」
クルリと背を向け、元来た道を戻っていく。そんなガロの背中を追いかけ、引き止めたい。その衝動を理解しているように、青年はしっかりと、パリーの腕をつかんでいる。
腕を引っ張られ、半ば後ろを向いた状態で、パリーはガロから遠ざかっていく。小さくなる背中へ、ただただ無事を祈り、再会を願うしかできない。
「……あの人も、これから逃げるそうだよ。だから、君もきちんと逃げないとダメだ」
思わず、青年を勢いよく見上げてしまう。
あの時、パリーがガロに追いつくまで、それほど長い時間がかかったわけではない。深い話をする暇など、なかったはずだ。
いつの間に、どうやって。
頭の中を支配するその疑問は、知らず知らず、声となってこぼれ落ちていた。
「さっき聞いたよ。君を必ず逃がす約束もしているしね」
今日出会ったばかりの、正直な話、見ず知らずの他人だ。それを、さらに初対面の人間に頼まれて、どうして約束できるのか。
(……この人って、実はすっごくお人好しだったりするの?)
そうでもなければ、とてもではないが説明がつかない。
もしくは、あの短い間に、ガロから何か聞いたのか。
考えてから、首を横に振って否定する。ガロとて、何を知っているわけではない。
「どうして……」
先ほどから問いかけてばかりだ。パリーはそう思う。
「君を、絶対に助けたいと思ったから。それが理由じゃ、君は納得できない?」
「できるわけないでしょ!」
引っ張られながら声を荒げる。
「だいたいあたし、あなたの名前も知らないのに!」
ポロッとこぼれた本音だったが、彼の足を止めるには十分だった。
振り向いた彼は、苦笑いを浮かべている。
「……ああ、そうだね。ゴメン。俺はシェルダード。友達にはシェルって呼ばれてたから、君も好きなように呼んでね」
「シェルね。あたしは……リーンって呼ばれてたわ。もう今は、誰も呼ばないけど」
(危ない危ない……あたしは、ナスリーン。リーンなんだから、間違えちゃダメ!)
記憶にない赤子の頃から、村が消えてしまったあの日まで。村中からずっと呼ばれ続けていた愛称が、突然誰からも呼ばれなくなってしまった。
それからまだ、たった一年半ほどしか経っていない。
いくら捨てた名前と愛称でも、生まれた時から『パルヴァーネフ』だったのだ。短い期間で『ナスリーン』になりきれるはずがない。
「そうなんだ……じゃあ、これからは俺がリーンって呼ぶよ」
キャラバンに身を寄せている理由の中でも、家族を失ったから、というのは多いらしい。年頃の娘一人では、パリーの暮らしていた村ですら、生きていくのは難しいのだ。
その辺りを、シェルは理解しているのだろう。ニッコリ微笑んでそう言っただけで、深く追求することはしなかった。
「ところで、これからどこへ向かうの?」
パリーはひたすら、シェルに引っ張られている。行き先や目的は、何も聞かされていないのだ。
不安を感じないように心がけるほど、どんどん湧き出てきてしまう。
「……パルヴァーネフを探すよ。それで、どうしても行きたい場所があるんだ。その辺りはキャラバンも来ないはずだし、もし追われても君だけは逃がすから」
「……行きたい、場所?」
嫌な予感がする。
急に息苦しくなった。胸がギュッと締めつけられて、鼓動がやけに響いている。ドキドキとうるさくて仕方がない。そのくせ、手足は妙に冷え切っていて、額や背中をじっとりと冷たい汗が流れ落ちていく。
彼の行きたい場所が、あの夜に言葉を交わした場所だったら。
たとえ何もかもなくなっていても、村までの道は目印があるはずだ。あの防砂林があった場所も、村へ着けばパリーにはわかるだろう。
失ったものの大きさを目の当たりにして、どうやったら平静を保てるだろうか。
敵かもしれないシェルの前で、我を忘れてしまうかもしれない。
「俺が、パルヴァーネフと会った場所だよ。もしかしたら、その近くに戻ってきているかもしれないしね」
ひょっとしたら、『パルヴァーネフ』に関して少なからず知っていると、疑われているのだろうか。
そう考えなければ、シェルの言動は理解しがたい。
すっかり冷たくなった手に、感覚はない。体がフラフラと揺れている気がする。頭はすっかり真っ白になって、ガンガンと鳴る音がひどく煩わしかった。
∮
衝撃に呆然としていた間に、シェルの目的地まで、二人で向かうことが決定していたようだ。
確かに、逃げるのなら、一人よりは誰かと一緒がいい。
あの夜のようにたった一人、行くあてもなく、孤独と悲しみ、焦燥感と混乱の極みの中で進みたくはなかった。
一日でも早く着きたい気持ち。少しでも遅く進みたい心。ふたつがせめぎ合って、自然とパリーの足取りを鈍らせた。彼女が遅れているとすぐに気づき、シェルは当たり前のように速度をゆるめる。
「大丈夫? 疲れたなら、早めに言ってね」
「……まだ、大丈夫よ」
ニッコリ微笑もうとして、失敗した。その自覚がある。
ごまかしたくて、空を見上げた。
もうすぐ、完全に日が落ちる。西の空の端がほんのり赤い。東側に至っては、すっかり夜の装いだ。
夜の空。赤色。足から伝わる砂の感触。
(あ……)
意識しないよう頭を振ってみるが、遅すぎた。
唇がわなわなと震える。時々、歯がカチカチと鳴った。瞬いている星が、不意に見えなくなってしまう。
どう言いつくろおうか。
懸命に考えていたパリーの頭に、いきなり何かがバサッと降ってきた。暗い色のそれで、視界はあっという間に遮られてしまう。
驚きで、こぼれかけていた涙はヒュッと引っ込んだ。一度だけ、すん、と鼻を鳴らす。
「さっきは日暮れ時だったから、うっかり忘れていたよ。昼間や、街に出入りする時には、これをかぶっていてね」
言いながら、シェルは首元の紐をキュッと縛る。
「君の髪は珍しい色だから、それだけで人の記憶に残ってしまうから」
手で触れて確かめると、フードのついたマントのようだった。額近くの布をギュッと引っ張れば、髪どころか目まで、しっかりと隠せるはずだ。
「……ありがとう」
こうなる可能性を考えていたのか、事前に用意していてくれて。
突然泣き出した理由を、何も聞かないでくれて。
言葉にできない感謝の思いを、たったひと言にしっかりと乗せる。
「どういたしまして」
返されたひと言に、ホッと安堵の息を吐き出す。
(もし……もしも、シェルが、あの時の人だったら……)
吸い込んだ空気に、胸がズキリと痛む。
はっきりした時、果たして嬉しいと思うだろうか。それとも、まったく別の感情を抱くのか。
複雑に絡んだ気持ちはうまく解きほぐせずに、パリーはうつむく。それからもう一度、フードをギュッと引っ張った。
三
シェルと行動をともにするようになって、半月あまり。朝日が昇る方角へ進む目的地までは、半分ほど来ただろうか。その頃には、さまざまな違いを痛感していた。
たとえば、街へ立ち寄り、買い物をしようとする。その時、パリーは字が読めないため、欲しいものを指差すしかない。だが、シェルはその商品の名を口にする。
荷物を乗せるためだけのラバも、彼がいなければまともに購入できなかっただろう。
言葉遣いやふとした仕草から推測していたが、やはりシェルは高度な教育を受けているようだ。
「……そんな気がしてたけど、シェルって、どこか大きな街で暮らしてたのね」
何の気なしに呟いたパリーだったが、シェルの表情がサッと曇る。その曇りは一瞬で、気がつけばいつもと変わりないシェルになっていた。だからパリーは、気づかなかった振りをする。
「シェルが字を読めて、すっごく大助かりよ。ありがとう!」
「……どう、いたしまして」
気恥ずかしそうにシェルが微笑む。
これで二人とも文字が読めないとなれば、買い物にもひと苦労するだろう。まともな硬貨を持っているゆえに、いらぬ疑いをかけられる可能性もある。それらを未然に防いでくれるシェルの存在は、一人旅に慣れていないパリーにはありがたい。
何より、一人でないことが大きかった。
街へ寄った時には、夕食を取って宿に泊まる。朝食を食べてから、昼食と数日分の食料を買い込んで発つ。その繰り返しだ。
それでも、少しずつ近づいていると実感できる。
今のところは、ナスリーンに関する噂は何も聞いていない。恐らく、まだ届いていないのだろう。
街に立ち寄るたびに、不安と安堵を交互に味わっている。
それが嫌だとは言えない。街に寄らなければ、食事や湯を浴びることもままならないのだ。時には、わずかな我慢や不便も必要だろう。
何より、宿に泊まることは、シェルには不可欠なようだった。
(……やっぱり、育ちがいいのね)
一日一食になったとしても、パリーはそれほど気にしない。村では、その一食すら、満足に食べられない日もあったのだ。満腹を感じられるなら、それだけで幸せになれる。寝る場所も、どこだろうと気にしない。
だが、シェルは違う。パリーとは真逆に近い。当たり前のように三度の食事があり、自由に湯を浴びられる環境にいたのだろう。
街に入れば、さっさと宿を決めてもらって部屋にこもる。翌日の出発まで、宿の外には基本的に出ないで過ごすのがパリーだ。シェルは逆に、部屋に荷物を置くと、硬貨を何枚か持って外へ出ていく。パリーへの土産を含め、買い物を終えて戻ってくるのは夕方だ。
最初のうちは、シェルは一緒にどうかと誘ってくれた。しかし、頑なにパリーが断るため、今では出かけることだけ告げていく。
キャラバンの興行は、宿がいくつかある街が主だった。移動をする旅人が商売相手と言っても、決して過言ではない。彼らは別の街に行く。そこでキャラバンの話をしてくれれば、住人は興味を持つだろう。別の旅人は、他の街で聞いた話として語ってくれる。
そうして、『ナスリーン』は名を知られたのだ。
けれどそれは、いいことばかりではない。
フードをかぶっているとはいっても、風が吹き上げることがあるだろう。誰かとすれ違った時、隙間から髪がちらりとでも覗いたら。ふとした拍子に露になり、そこに『ナスリーン』を知っている者がいたら。
そんなことを想像するだけで、恐ろしくて外に出る気にはなれないのだ。
ギュッと布を引っ張り、フードを目深にかぶり直す。窓辺に立ち、パリーは眼下に広がる景色を眺めた。
窓を開けなくとも喧噪が聞こえてきそうなほど、見るからに活気にあふれている。行き交う人々は誰も彼も楽しげで、笑みがこぼれていた。
その中を行くシェルも、どことなく楽しそうに見える。
急に息苦しくなって、パリーの右手は胸元のマントをギュッと握り締めた。それでも、呼吸はちっとも楽にならない。
(一緒に歩けたら、きっと楽しいよね……)
多少の不満はあれど、かつての自分が選んだ結果だ。受け入れるしかない。それはわかっている。
「……あ、れ……?」
何かが頬をくすぐっていく。顎まで着いたそれは右手に落ちて、落ちた場所をひんやりと冷やす。
次々に手を濡らすそれを、パリーは左手でグイッと拭う。
(……どうして……)
涙がこぼれる理由がさっぱりわからず、混乱したまま、パリーはひたすら涙を拭い続けていた。
∮
その街へ着いたのは、キャラバンを出てからひと月ほどが過ぎた頃だった。
街の中心付近に、空を突き刺す針のような、鋭くて細長い建物の屋根がそびえ立っている。金属製らしく、今にも雨が降り出しそうな雲と同じ色をしていた。
そんな屋根の下にある建物の壁は、他と同じ赤茶けたレンガで作られている。屋根だけが、あまりにも異質だった。
(あ、ここ……)
ガロに拾われてから、最初に着いた街。そう確信するのは、他の街にはない、少し変わったその屋根が見えたからだ。
その建物がどういったものか、パリーはまったく知らない。キャラバンで聞いたが、誰も教えてくれなかった。けれど、あまりに奇妙なあの屋根だけは、記憶にはっきりと焼きついている。
ここへ来た当初は、まだ復調しておらず、好きなだけ歩くことはできなかった。ここから村までは、それほど離れていないだろう。
(ここからなら……)
一人でも、村までは行けるかもしれない。
今すぐ駆け出して、ひと息に村まで走っていけたら。
知らず知らず、視線が村のある方角へ向いてしまう。すぐそこに、あの頃と変わりない村が見えるような気がしたのだ。
あれから、両親と姉は、村はどうなってしまったのか。
村を襲って滅ぼしたのは、いったい何者だったのか。
あの時助けてくれた人は、本当にシェルなのか。
(いろいろ確かめなきゃ、前に進めない……)
──この場で問いかけてしまいたい。
今までにも幾度となく湧き上がった衝動を、懸命に押さえ込む。
「……もう少しだ」
シェルの思い詰めた声で、ふと我に返る。先走りかけていたたくさんの感情は、一気にスッと冷えていく。
パリーはフードをキュッと引っ張り、視線を地面に落とす。
「……もうすぐ、なの?」
わざと知らない振りをしたパリーが、そんなことを聞いてみる。
ほんの少しだけ、声が頼りなく震えていたことにすら、気づかないまま。
「うん。数日で到着できるはずだよ」
「……そうなのね」
それっきり、パリーは口をつぐんだ。シェルは何も言わないまま、宿へ向かって歩いていく。
街の喧騒は、どこか遠い。
「そういや、最近、ナスリーンの話を聞かないな」
唐突に、どこかから聞こえてきた。
頭を思い切り殴られたような、激しい衝撃を受けた気分だ。
できるだけそちらを向かず、けれど、耳はすっかり話し声に吸い寄せられている。
「いなくなったらしいぞ。まあ、あのキャラバンはよく逃げ出すって評判だしなぁ」
「ああ、それであそこの座長が必死だったんだな。誰彼構わず、ナスリーンを見かけたら教えてくれって大騒ぎしてたっけ」
とうとう追いついてきた。
居場所を知られ、本気で追われたら、きっと逃げ切れないだろう。誰に見られて、ここにいると知られるかわかったものではない。
意志に反して、体がカタカタと震え出す。わずかでも気を抜けば、フラリと揺れて膝から崩れてしまいそうだ。
(……あそこに、戻されるくらいなら)
あの夜に消えるはずだった命を、たまたま長らえることができたのだ。今さら、死を恐れることはしない。したくはない。
そう思っているのに、どちらも怖いと感じてしまう。
(……震えさえ、収まってくれたら……)
また、何でもない顔をして歩き出せる。その自信があるのに。
動くことができないでいたパリーの右手を、シェルの左手がそっと握った。安心させるように、かすかに力が込められる。
目深にかぶったフードで、視界はひどく狭い。だからなのか、手から伝わる穏やかなぬくもりと、自分ではない誰かの感触が、不思議と心地よかった。
ゆっくりと、手を引っ張られる。つられて、足が自然と前へ出ていく。
(……シェルの手は、ガロお父さんの手と、ちょっと似てるわ)
マメがいくつもできていて、硬くて、ゴツゴツしている。でも、温かくて優しい。思わずホッとしてしまう手だ。
「……絶対に、俺が、守るから」
囁きはそよ風にかき消されそうなほど小さく、けれど力強かった。
彼の言葉を嘘だと、虚勢なのだと、否定することは簡単だ。しかしそれでは、ガロが別れ際に言い放った言葉の意味がわからなくなってしまう。
(ガロお父さんは、シェルなら、キャラバンから逃げられる場所を知ってるって言ってたよね……)
あれだけ、きっちりと念を押していたのだ。いくら何でも、実は知りませんでした、という結果にはならないだろう。
子供のように手を引かれ、黙り込んだまま宿までたどり着いた。部屋に入り、それでもパリーはフードをかぶったままでいる。
いつ、どこから、誰が見ているか。見られてしまうか、わからない。
それが怖くて怖くて、たまらないのだ。
結局その日、パリーは一度もマントを脱ごうとしなかった。それどころか、部屋から一歩も出ない有様だ。眠る時に至っては、布団を頭まですっぽりかぶっていた。
∮
街から出るまで、幾度となく『ナスリーン』の名を耳にした。どんな見た目なのか、誰かが声高に語っているのも聞こえる。髪や目の色は、やはり多くの者が聞き知っているようだった。
怖くなって、ことさら顔を隠すように、パリーはフードをキュッと引っ張る。
反対の手はシェルにつかまれて、かろうじて歩いていられる状態だ。
底の厚い靴が、足を踏み出すたびに、わずかながら砂に埋もれる。やわらかい砂の上を歩きながら、ようやく、パリーは詰めていた息を吐き出した。
パリーから力が抜けたことを感じ取ったのか、シェルの足取りもいくらかゆるむ。
街が見えなくなって、最初に見つけた小さなオアシスで休憩を取る。
日差しが照りつける砂の中は、ひどく熱い。水は飲んでいるが、体から抜け落ちてしまうのはあっという間だ。
まるで、誰かがわざわざ作ったように、適度な距離にこうした小さなオアシスがある。キャラバンの移動中は、時々オアシスに寄っていた。今も、数人の旅人が、水筒に水を汲む姿が見える。
パリーとシェルも水筒に水を補給し、木陰に座ってひと息入れることにした。背中を太めの木に預け、吹き抜ける風に身を任せる。
近くにキャラバンはいないようで、小鳥の楽しげなさえずりが聞こえてくる。
急ぎたい気持ちはある。けれど、いつまでも着かなければいい。そう思ってしまう部分があることもまた、事実だ。
(……あたしは)
いったい、どうしたいのか。どうなりたいのか。
ゆっくりできる時間があると、無意識に考えてしまう。
仮に、シェルがあの夜助けてくれた人だとしよう。聞きたいことを聞き、伝えたいことを伝える。その後どうするかは、まだ何も考えていない。
その先が、何も想像できないのだ。
知らず知らず、パリーの口から吐息がこぼれる。とたんに、シェルが立ち上がった。手を引っ張られた勢いで、パリーも立ち上がってしまう。
「そろそろ、行こうか」
言葉は口にせず、パリーは小さく頷く。
まだ日差しは高い。他の旅人たちはもうしばらく、オアシスの木陰で涼んでいくようだ。すっかりくつろいでいる。
彼らの近くを通りざまに聞こえたのは、また『ナスリーン』の名だ。
(……お父さんと、お母さんと、お姉ちゃんと……みんなが一緒だった頃みたいに、笑っていたいだけなのに……)
耳にする『ナスリーン』の名に嫌気が差して、気がつけばうつむいている。それがまた、嫌で嫌でたまらない。
∮
午前は前から、午後には背中から、日差しを受けながら歩いた。
先を行くシェルは、一度も迷う素振りを見せていない。彼の目には、目的の場所がはっきりと見えているようだった。
そのシェルが、ふと足を止めた。彼の視線は、一点を凝視している。
ほぼ同時に、パリーもそこを見つめていた。
それは、パリーより少し背が高い石柱だった。いくつか村の名前が書かれているが、そちらは文字の読める旅人や行商人向けの案内だ。文字の読めない人間には、村の名前の後ろにつけられた印を見る。それぞれ固有の印があり、それを覚えて判断しているのだ。
あの頃と変わらない、村を示す印が残っていた。
ここからは、少しゆっくり歩いても、半日もかからずにたどり着けるだろう。
(……どう、なっているのかな……?)
唐突に、不安が胸に去来した。
あれから一年以上が過ぎているのだ。村の残骸が少しでも残っていれば、それこそ御の字だろう。むしろ、何もない可能性が高い。
互いに黙り込んだまま、目印に従って歩いていた。
緊張してしまい、冷や汗が背中や額を流れる。手足の先から、じんわりと冷えていく。キーンと嫌な耳鳴りがして、体は暑さをまったく感じない。
身体の変化を気づかれないか。それを気にかける余裕は、パリーにはなかった。
「……え?」
思わず声がこぼれたのは、あまりに予想とかけ離れていたからか。
村のあった場所に、何もない砂地が広がっている。そんな光景を見ても、パリーには、耐える覚悟は出来ているつもりでいた。
「……どういう、こと……?」
声に出ていることすら気づけないほど、パリーは激しく動揺している。それはシェルも大して変わらないようで、呆然とたたずんでいた。
村があった場所に、建物が見えるのだ。それも、村のものとは違う。他の街で見かけた、赤茶けた色の街並みだ。
さらに近づくと、そこでたくさんの人が行き交っている。まさしく、これまで通過してきた街と大差ない光景だった。
街へ入れば、驚きはますます強くなる。
華やかな刺繍を施したチュニックやカートル、カーチフを身にまとう女性ばかりだ。道は整備され、荷車も軽々と道を走っていく。室内で何かしているのか、子供の姿は一切見えなかった。
平穏な空気がただようが、異様な雰囲気もある。
穏やかでのんびりした村だった。それが、砂に埋もれて跡形もなくなっている。その方が、感情はまだついていけただろう。
ここまで変わり果てた姿を目の当たりにするくらいならば、来なければよかった。
あまりの劇的な変化には、到底なじめそうにない。なじみたくもない。
「……まさか本当に、こんなことに、なっているなんて……」
落胆を多く含んだ呟きに、パリーはシェルを見上げる。
ギュッと眉を寄せ、苦虫を噛みつぶした顔だ。何かを憎み、別のものを悼む。そんな印象を受ける、痛々しい表情だった。
「ねえ、シェル……」
「……少し、移動しようか」
言うなり、シェルは歩き出している。今までは必ず、パリーの意向を確認してからだった。これまでの彼からすると、ずいぶん珍しい行動だ。
前触れもなくシェルが立ち止まった場所で、パリーは目を見開いてヒュッと息を呑む。
やはりなくなってはいたが、あの夜、パリーが身を隠した防砂林があった場所だ。街外れのそこは、見渡す限り砂地が広がっていた。
ここには何もないからだろう、人が来る気配はない。
シェルの視線は、空虚となったかつての防砂林を凝視しているようだ。
「……あの夜、パルヴァーネフはここにいたんだ」
不意をつかれ、パリーはギュッと身を固くする。
彼が突然語り出した意図が読めず、耳を傾けながらわずかにうつむく。
「ああして、古い習慣の残る村を、滅ぼしていく……それが、この国の軍の……かつての俺の、本当の仕事なんだ」
ふと言葉を切って、シェルは下唇を軽く噛む。それから大きく息を吸い込み、残らず吐き出した。
「俺は見ているだけで、ただ見ているだけで、止めることはできなかった……間違っていると、声をあげることすらできない、ただの腑抜けなんだ……」
シェルの声が震えている。
そのことに気づいたパリーは、硬く握られたシェルの左の拳をそっと両手で包む。振り払われるかと思っていたが、シェルはそのまま話し続ける。
「あの時、パルヴァーネフが隠れていると気づいた時……この子を逃がせば、俺の罪は少しだけ、ほんの少しだけ、軽くなるかもしれないと思った。今まで、ただ見ていただけの人間の罪が、今さら変わるわけはないのに……」
「シェル……」
ひと月も一緒にいれば、彼の人となりはよくわかった。穏やかで優しく、感情の起伏はなだらかだ。赤の他人同士の争いすら好まない。人の変化に敏感で、さりげなく気遣ったり、助けようとする。パリーも、何度助けられたかわからない。
シェルはそういう人だ。
その彼が、いったいどんな思いで、あの夜の光景を見ていたのか。
「……あの夜、右足を悪くしている、綺麗な人がいた」
村に、足が不自由な者はリーンしかいなかった。間違いようはない。
(お姉ちゃん……)
グッと喉が詰まる。視界が急速ににじむ。空気を吸い込むことも、吐き出すこともできない。そのくせ、息苦しさばかり感じてしまう。
「あの人が本当のナスリーンで、君のお姉さん……そうだね?」
ザッと音を立てて血の気が引いた。
(……いつから、気づいて……?)
動揺し、シェルに触れている手がカタカタと震える。それに気づくことなく、パリーはギュッと唇を引き結ぶ。
「涼しげな顔で、声ひとつあげない。あの人が見せた未練が、気になっていた。きっと、君が無事でいるか、それだけが気になっていたんだろうね」
両親と姉がどうなったのか、知りたいと思ったことは何度もあった。知ることができた安堵と、やはり生きてはいなかった落胆が、同時に押し寄せてくる。
どうしても堪えきれずに、涙がポロリとこぼれ落ちた。一度あふれてしまうと、もう抑えることはできない。後から後から頬を伝い、フードの隙間から、マントや地面にポタリと落ちていく。
もはや、嗚咽を押し殺すことすらできなかった。
「君に生き延びて欲しいと言ったことは、あの時の俺の、心からの願いだった。あの時君を逃がしてよかったと、今でも思っているよ」
シェルの左手を包む両手に、温かな手が怖ず怖ずと重ねられる。
「パルヴァーネフに、ずっと会いたかった。生き延びてくれて、本当にありがとう。俺は初めて、自分が生きていることが無駄じゃなかったと、君のおかげで実感できたんだ」
ジッと見つめられていることが、フード越しでもわかった。
「……だから、君になら、殺されてもいい」
思いがけない言葉に、パリーは目を丸くする。それから、なぜか笑いが込み上げてきて、堪えきれずに小さく声をこぼす。そうなると、もう止まらない。
パリーが笑う理由がわからないからだろう。シェルはひどく戸惑い、怪訝な色を浮かべている。
『君だけでも、生き延びて欲しいから』
シェルの言葉がなければ、砂の中で倒れた時、何度も立ち上がろうとはしなかっただろう。村の近くで逃げることを止めていたかもしれない。ガロに見つかる前に、諦めて目を閉じていた可能性もある。
何をしてでも生きていこう、と思えたのは、シェルのおかげだ。
「村を襲った理由を聞いて、それから助けてもらったお礼を言えたら、殺されてもいいと思ってたわ」
国王の命令で動く軍にとって、生き残りなど邪魔なだけだ。不都合が生じて、命を奪いに来てもおかしくはない。
そう腹をくくっていたのに、シェルの方が死を覚悟していたなんて。
無性におかしくて、自然と顔に笑みがほころぶ。
「なんで村を襲ったのか、どうしてあたしを逃がしてくれたのか、それを聞きたいとは思ってたけど、シェルの命は欲しくない。シェルには、生きてて欲しいの」
「どうして……」
呆然と呟くシェルに、パリーはフードの下からニッコリ微笑みかける。
「家族がいなくなって、村がなくなったのは、盗賊団に襲われてもあり得ることだもの。運が悪かったと嘆いても、襲った側をいつまでも憎んではいられない。だって、あたしはまだ生きてる。これからずっと、生きてかなきゃいけないんだから!」
いつの間にかゆるんでいたシェルの手から、右手だけを引き抜く。何もかもを吹っ切るように、フードを後ろへすとんと落とした。
明るくなった視界の中で、シェルが呆けている。パリーはジッと真っ直ぐ、彼の濃い新緑色の瞳を見つめてみる。
「ねえ、シェル。あの夜、あたしを逃がしてくれてありがとう。生き延びて欲しいと言ってくれて、ありがとう。あなたの言葉があったから、あたしは今まで、どんな時でも諦めずに生きてこれたの」
「パルヴァーネフ……」
「パリー、って呼んで。あの日までは、そう呼ばれてたから」
誰からも呼ばれなくなった名を、たった今取り戻した。そんな気分がして、パリーはますます晴れやかに微笑む。
心につっかえていたものがなくなったら、今まで意識しなかった欲求が生まれてきた。
「ねえ、シェル。今度は、シェルの生まれた街を見せて?」
シェルはどんなところで、どんなふうに育ったのか。なぜだか、やけに知りたくてたまらない。
──もっと知りたい。もう少し、一緒にいたい。
「シェルの住んでる街に、行ってみたいの!」
素直な気持ちを吐露する。とたんに、シェルは困った顔で視線を逸らす。
「……君といるところを、友達が見たら……絶対に驚くだろうなぁ……」
ため息に混ざった呟きに、パリーは首を傾げながら目を細める。
「シェルの友達にも、会ってみたいわ」
村のあった場所を振り返って、パリーはそっと目を閉じる。
記憶の中では、ここはあの頃のままだ。日干しレンガの壁に茅の屋根を乗せた家々が、ズラリと並ぶ。しゃれっ気のない恰好の娘たちが水を汲み、子供たちがはしゃいで木登りを楽しんでいる。
パリーは外で友達と話し、家の中でリーンと刺繍を楽しむ。
自宅の窓や出入り口をふさいでいた厚い布は、リーンと二人で織ったものだ。
当たり前だった日々は、今は、パリーの記憶にしか存在できなくなってしまった。一緒に遊んだ友達の笑顔も、リーンの微笑みも、もう二度と本物を見ることはできない。
「あたしの友達は、きっと誰も生きてないと思うから……」
だんだん小さくなる声に合わせるように、パリーは徐々にうつむいていく。
「……じゃあ、パリーが覚えていることを、俺に全部聞かせてくれる?」
少し腰を落とし、目線を同じ高さに近づけたシェルが言う。パッと顔を上げると、思いがけず距離が近くて、思わず目を逸らしてしまった。
「……うん」
こくりと頷き、何とか承諾を声に出す。
「村のことも、友達のことも、家族のことも……シェルが聞きたいことは、何でも話すわ。その代わり、シェルのことも教えてね?」
ニコッと微笑み、パリーは小首を傾げる。一瞬で頬に赤が走ったシェルは、焦った様子で何度も首を縦に振った。
「楽しみね!」
キャラバンの問題は、まだ名にも解決していない。これからまた、顔を隠し続ける日々が待っている。ガロの無事も、確かめる術はない。
それでも、新しい楽しみがある分、今までとはまったく違うだろう。
笑っていられる毎日がやってくるはずだ。
「それじゃあ、行こうか」
一歩踏み出してから振り向いたシェルが、手を差し伸べる。その手に自分の手を重ね、パリーは笑顔を向けた。