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領民たちに交じって、祭りを盛り上げるために協力する。
そして祭りの準備に勤しむお父様の仕事を間近で見て、『ヘルラータ』の準備の際に当主としてどういうことをすべきかも学んだ。お父様は実際に領地へと出向き、『ヘルラータ』を盛り上げるために町の代表者の人と話したりするんだって。
ただこの国でも有力貴族であり、権力者であるお父様に対して意見を言うことをためらう人も多いらしい。まぁ、お父様家族の前以外ではあまり笑うこともなく、真顔だからとっつきにくいイメージをもたれているのかもしれない。
だからクラウンド先生から私が祭りの準備を手伝ったことを聞いて、お父様は私にその話をさせた。それは私が『エリザベス・ナザント』としてではなく、『エリー』として町に出ているからこそ重要な話であった。私はお父様の役に立てることがうれしくて、思いっきり自分の主観を交えてになったけれど、沢山お父様に話をした。
思えばお母様がなくなってから、こうしてお父様と沢山話すのははじめてだった。だからうれしかったのかもしれない。つい浮かれて、色々話してしまったのも確かだった。
「私は――」
そうして話している間に涙があふれてしまったのは、つい気を抜いてしまったからだ。お父様と久しぶりにこうして思いっきり話して、安心して、そしてなるべく考えないようにしていた『お母様の死』を実感してしまったからだ。
私はお母様が亡くなってから、当主を継ぐためにって行動に移して、そしてそういう事しかお父様と話していなかった。お母様の話題を一切出さずに、それまで交わしていた親子としての会話もほとんどせずに、ただ当主を継ぐために必要なことを習って、そういう会話ばかりだった。
ウッカともそうだ。ウッカともあれから私は距離を置いて、嫌われるように仕向けて。それは私が望んでいたことだけれども。お母様が亡くなって、お父様とウッカと家族としての会話をしなくなって。だから久しぶりに『家族』の暖かさを思って、どうしようもなく涙があふれた。
お父様はそんな私を抱きしめてくれて、お母様が亡くなってはじめてお父様の前であんなに思いっきり泣いた。
お父様は私が心配させないようにって涙を見せなかった事も知っていて、泣いていいんだよってそういった。心配させないようにとか考えないで思いっきり泣いていいとそういって抱きしめてくれた。
それに、本当にどうしようもなく安心した。今まで心にかけていた泣いてはダメだってストッパーが吹き飛んで、もう10歳になるのに思いっきり泣きじゃくった。わんわん声をあげて泣いた。
お母様を失った抗いようのない悲しみは、ずっと私の中にあり続ける。
*
お父様の前で思いっきり泣いて、すっきりしたその次の日。
私は昨日の、子供みたいに泣きじゃくった自分を思い出して恥ずかしい気持ちになりながらもどこか心は晴れていた。『泣く』っていうただそれだけの行為は、気持ちを楽にさせてくれるものだった。
「エリーちゃん、うれしそうだね」
何度もクラウンド先生とルサーナと一緒に町に顔を出していたからか、町の人たちには顔を覚えられていた。町の人たちは暖かい。下心も何もなしにただの『エリー』の私がうれしそうな顔をしている事に気づいて、笑って声をかけてくれる。
「はい。少し、うれしい事があったんです」
お父様と久しぶりにああして家族として会話を交わせたことが何よりもうれしかった。
あの後、お父様に「ウッカとも――」と言われたけれど、それは拒否した。だってウッカが、可愛いウッカが私が当主になった後、危険な目にあうのはいやだった。私の弱味になると判断されてお母様のようになくなってしまったらと思うと心の底からぞっとする。
そしてそれを想像する度に私はもっと力がほしいとそんな焦った思いを感じてしまう。
焦ってはダメだってギルに言われたけれど、焦りが前に出てしまうのはそれだけ私に余裕がないという証なのだろうと思う。
「それはよかったわね」
にこにこと八百屋を経営している女性・タリネさんは笑う。タリネさんの朗らかな暖かい笑みは、何だか見ていて好きだと思う。
領民たちとこうして接するようになってから、貴族って大変なものだと自覚する。貴族の令嬢として、次期当主としての教育を受けているからこそそれを実感する。
クラウンド先生の教えには「人を信頼しすぎるのはいけません」「自分のそばに置く人材はきちんと見極めなければならない」とかそういうこともある。それは私にとって当たり前といえば当たり前のことだ。だってナザント家の長女である私の行動一つで、誰かの人生がダメになる場合もある。そして私がきちんとしなかった影響を家が受ける可能性もある。だからこそ、次期当主として、ナザント公爵家の長女として恥ずかしくない姿を周りに見せなければならない。
でもそういう仮面は平民には必要ない。誰かを疑うことなんて知らないような、打算のないような世界がここには確かにある。
例えば貴族は人から安易に食べ物をもらうことはいけない。なぜなら毒が入っているかもしれないから。人からもらったものを口に不用心にしてはいけないとそうも言われる。でも平民はお菓子などを最近この町に顔を出すようになった私にも普通に差し出す。毒が入っているかもしれない――なんて恐ろしい考えは彼らの中にはない。
例えば貴族は周りにどんな人材を置くかもきちんとしなければならない。なぜなら貴族の親しくしている人が周りに侮られるような存在ならばその貴族の評価も下がる。家来の中に評判の悪いものがいても、その家来のつかえている貴族の評価は下がっていくだろう。評価が下がればそれだけいろいろなことに響く。でも平民はそんなことはない。誰との付き合いが今後のためになるとかそんなことを考えずに、仲良くしたいから自然と手を取り合う。
この私に笑いかけてくれる暖かい人たちが汗水流して働いたお金が、税金として私たち貴族の生活になっているのだ。私に笑いかけるタリネさんの手は『働き手』としての手だ。私の肉刺などできた事のないきれいな手とは違う、労働者の手。
お金は働いたからこそ、手に入るもの。
そんな当たり前の事を、領民たちは私にわからせてくれた。
『ナザント公爵家』---そんな貴族の家に生まれたから私は煌びやかな服を着て、飢えを知らない暮らしが出来る。だけど、もし運命が少しでも違ったら私は貴族ではなかったかもしれない。こうやって町に出てくるまでお金の価値もあまり知らなかった。いや、クラウンド先生に聞かされてはいても実感していなかったというのが正しいだろう。
実際に見てこそ、いろいろなものが実感できるのだ。正に一見は百閒に如かずだと思う。話を聞くだけでは、わからないものは沢山ある。
「エリーちゃん、どうしたの?」
「少し考え事をしていたのです」
心配させないように、タリネさんの問いに笑って答える。
そして私は答えながらも思う。沢山のものを見ようと。聞くだけではなく、興味を持ったものは実際に見に行ってみようと。例えば、私自身が聞いて嫌悪を感じたものだろうとも、見ればまた違った感想が出てくるかもしれない。例えば、聞いただけで素晴らしいと思ったものは、見ればもっと素晴らしいと心から感じることができるかもしれない。例えば、聞いて知りたいと思ったことも、実際に見てみれば答えがわかってまた新たな問いが生まれるかもしれない。
それを考えるだけで様々なことを、実際にこの目で見て、様々な思いを感じたいって本当に心の底から思うのであった。