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目を覚ます。
手足は動かない。縛られている。
自分の状況を思い起こす。さらわれてしまったという事実を実感して恐ろしさが自身の心を襲った。
このタイミングでさらわれたということなのだから、誰が私をさらったかは理解している。
油断は一切していないつもりだった。――本当に。
私の手足である奴隷たちの事だって傍に置いていたし、何かあれば動ける状態にしていたはずだった。でも、そんな安心が今の状況を生んでいるのだろう。私は油断してしまった。何も今まで起こらなかったことに、どこか警戒心を緩ませてしまったのだろう。
「ごきげんよう、エリザベス様」
扉が開くと同時に一つの人影が現れた。
その存在は、動けない私を見下すかのように見ていた。
やっぱりか、という思いがわいた。私が、ナザント公爵家が動いている。王家だって動いている。そんな状況を打破するために、私をさらったのだろう。
私はナザント公爵家の長女で、王族の婚約者である。
普通に考えてその存在をさらえばどうなるかわかったものではない。だけど、ツードン家がこれだけ強引な手に出たということは、それだけお父様がツードン家を追い詰めていたのだろうか。
「……ごきげんよう、ツードン様」
私は恐ろしいと思った。この状況を思うと、体が震えそうになった。だけれども、気丈にふるまった。
此処で怯えを見せつけても、ツードン様が、いい気になるだけの話である。
私は、エリザベス・ナザントだ。ナザント公爵家の娘だ。だから、こんな時でも、そうあるべきなのだ。
―――そう思うからの態度だったのだが、気に食わなかったらしい。
ツードン様は、私の自慢の髪をつかんだ。
お母様譲りの、赤い髪。お気に入りの、私の一部。
それをつかんで、私の顔を上げさせる。
「いい気になっていられるのも、今のうちよ!」
ツードン様はその目をそれはもう釣り上げて、私に顔を近づけて告げる。
痛い。痛みに漏れた声に、ツードン様が馬鹿にしたような目をこちらに向けていた。
「貴方は、まだ殺さない。でもその自慢の髪、切ってあげる」
まだ殺さないと告げたツードン様は、残虐な笑みを浮かべて、そして何処からか取り出した鋏を右手に持つ。
髪に、鋏があてられる。
嫌だと思った。折角伸ばした髪を、切られるのは嫌だと。本当は泣いてしまいたかった。でも、涙はこらえた。
ざくっ、ざくっと音がした。
髪が、床に落ちていく。
ずっと伸ばしていた髪が。私の自慢が。
そもそも貴族の令嬢であるツードン様に、散髪の技術などあるわけもなく、ここには鏡がないからわからないが、私の髪はひどい事になっていることであろう。
「ふふっ、無様ね」
ツードン様はそういって笑うと、「またくるわ」と去って行った。
ツードン様が去って、少しこらえていた涙が零れた。泣き叫べば、外に聞こえてしまうかもしれないから、大丈夫だと、まだ私は死んでいないと、ただそれを言い聞かせる。
大丈夫、お父様が、皆が助けてくれる。
そう、言い聞かせながら今の状況を思う。
殺されていないということは、少なからず利用価値があると見いだされたということなのだろう。
ならば、その利用価値はなんだろうか。
人質といった線が一番高いだろう。
『エリザベス・ナザントを殺されたくなければ――』という要求を通そうとしているのかもしれない。
それともツードン様が、私の事が嫌いで仕方がないらしいあの方が、私を簡単に殺すなんて楽な真似をせず、じわじわと殺したいと思っているのかもしれない。
ぞっとした。
身体が震える。
冷や汗が止まらない。
怖い。恐ろしいと、心が叫んでいる。
ギルの事を思う。お父様の事を思う。ルサーナたちの事を思う。私は、どうなるのだろうか。お父様たちは無事なのだろうか。
貴族の世界ってのは、煌びやかな反面恐ろしい部分が数多くある。それは頭でも理解していたし、お母様の件で理解していた。
私は貴族で、ナザント公爵家の次期当主で、そういう立場だから危険な目にだって合う覚悟はしてきた。
それでも、恐ろしいと、ただ思ってしまう。
私の油断が生んだ。私がもっと――って、いくら後悔しても仕方がないことはわかっている。それよりも、これからの事を考えなければならない。これからの、私の事を。
あらゆる可能性を。
しばらく殺されはしないにしても、おとなしく黙っていれば殺されるかもしれない。わからない。私の命はツードン家の手中にある。
彼らは殺そうと思えば私を簡単に殺せる。
私みたいな小娘の命を奪うなんてことぐらい、誰にだって簡単に出来る。
手足を縛られている私の事を殺すことなんてツードン様だって出来る。
今、すぐに殺されなかったことを感謝するべきだろう。人は簡単に命を散らしてしまう生き物なのだから、今、生きている事は幸いであるとそう思おう。
――――私は、死ぬわけにはいかない。やりたいことも沢山ある。ウッカを残して逝くなんて絶対にしたくない。




