序章
名無しは僕に言った。
「時は流れるものだ。誰にでも始まりがあり、終わりがある。命ある者には何時か終わりが来る。それは遅いか早いかの問題、ただそれだけなんだよ。だから悲しむことはないんだよ。」
そう言われても今は悲しみたかった。だって母さんが死んだんだから・・・。母さんは父さんと別れた後、僕を一生懸命育ててくれた。母さんは休む間もないくらい働いた。そしていつも夜遅くに帰ってきた。時には帰ってこない日もあった。だけど朝には必ず僕に「おはよう」って言ってくれた。父さんと別れたとき、僕はあまりにも小さすぎて、いったい何が起きたのか全くわからなかった。ただ母さんが泣いていたから、僕は母さんを慰めた。
「母さん、僕、早く大きくなるよ。早く大人になって、母さんを助けてあげる。それで、絶対どこにも行かない。ずっと一緒にいる。だから泣かないで。」
母さんはそのとき、「ありがとう」と言った。その母さんが今、ここにいる。棺の中で眠っている。僕は名無しに訊いた。
「どうして生き物は死ぬの? 」
名無しは僕の質問に答 』 兄た。
「死ぬのが自然の決まりなんだよ。人も、大も、猫も、鳥も、魚も、虫も、植物も、みんな生まれてそして死んでいくんだ。そうしなきや地球はたくさんの生物で埋め尽くされてしまうだろ?」
僕はその返事に納得した。そして、僕はさらに質問した。
「時に逆らうことはできないの?」
名無しはしばらくの間考え込んだ。
「無理だね。ある程度未来を変えることはできるかもしれないけど、それでも最後には年をとって、死んでいくんだ。本やゲームのように年を取らなかったり、死なないなんて現実にはあり得ないことなんだよ。もっと現実的にならなくちやいけないんだよ。」
「いったい誰が人生や運命を決めているの?」
名無しはまた考え込んだ。
「さあね、本当に神様がいるかはわからないし、仏だって、死んでしまえばそこらの生き物が仏になれるんだ。結局は誰が決めているのか、誰も決めていないのかなんて誰にもわからないんだよ。」
僕は自分の胸に手を当てた。心臓の鼓動を感じる。何時か僕も心臓が止まる日が来るのかと思うと、少し死んだらどうなるかを考えてみた。だけど、何も思いつかなかった。死んだらどうなるかなんて、死んでみなきや誰にもわからない。そんなこと考えるだけ無駄だ、時間の無駄だ。
「ねえ、僕も何時か、ああなるのかな?」
僕は母さんの棺を見ながら言った。名無しはあっさりと答えた。
「そりゃ君だって生物なんだ。どんなに下等でも、どんなに高等でも、何時か死ぬんだ。自殺なんて考えるなよ。死ぬには勇気がいる。それに、君はまだこの世に飽きるほど生きていないだろ?」
僕は黙ってうなずいた。
「死ぬのが怖いかい?」
名無しが僕に訊いた。僕は首を横に振った。
「そうだろうね、君ならそう言うと思ったよ。だけどそう言っている人間に限って死ぬときになると生きようとするんだよ。まあ、それは君が死んだときにわかるだろうけどね。」
話し終わった後、最後に母さんの顔を見た。母さんはまるでただ眠っているだけの様に見えた。僕は母さんの頬にキスをした。いつも母さんは寝る前、僕の頬にキスをしてくれた。でも、僕からするのはこれが始めてで最後だ。棺のふたが閉められた。僕は雨の中、静かに泣いた。この日以来僕は泣いたことがない。
母さんは地中に埋められた。墓石がたてられ、花が添えられた。僕は他に身内がいないため、遠く離れた場所にある養護施設に行くことになった。僕はそれでいいと思った。だって、母さんと緒に住んでいた家を見ると、また泣いてしまうかもしれないからだ。名無しはもう泣くなと言った。だからもう泣くのはやめようと決めた。それに今までと同じ学校に行くのは気が引ける。
僕は家に戻り、荷物をまとめた。荷物を片づけていくと、昔の思い出の品がたくさん出てきた。母さんの部屋を片づけていると、古いアルバムが出てきた。写真には母さんと父さんと赤ん坊の僕が映っていた。母さんの顔は父さんと別れた後よりも笑っていた。
父さんと母さんは元々大学時代の同級生だった。大学でも有名なカップルで、大恋愛の末の結婚だったらしい。その父さんと母さんが別れたのは父さんが浮気をしていたことがわかったからだ。
「人間なんてこんなものさ。最初は永遠に一緒にいるとか言っていても、何年か経つと結婚生活に飽きてきて簡単に浮気に走る。君が生まれた頃が一番幸せだった頃だろうね。だけどその幸せも永くは続かない。君が生まれてわずか5年で別れてしまった。結局子供は大人の身勝手によって幸せを示す道具に過ぎなかったんだよ。君もいつか大人になっていくだろうけどあんな大人にはなるなよ。人間は親によって子供が変わる。汚れた政治家の子供は汚れた政治家にしかならない。金儲けをする医者の予供はそういう医者にしかならない。だけどそうとは限らない場合もある。ちやんと自分の意志を持った子供だって産まれてくる。君もそういう大人になれよ。」
そのとき、名無しはそう言っていた。
僕はそのアルバムを他のいらない物と一緒に庭で燃やした。だけど僕が赤ん坊の頃に撮られた家族の写っている写真をー枚だけ残した。僕は元々過去の事にはこだわらない人間だった。だけど写真1枚ぐらいはいいだろうと思った。昔の写真はそ
ね1枚を残して全て灰となり風に飛ばされていった。
「僕は女々しいかい?」
僕は名無しに訊いた。
「そんなことはない。誰だって昔の事を覚えておきたいって思うことはある。写真を1枚残すも全て燃やすも君の自由なんだ。僕が言う事じやないよ。君にはこれから新しい人生があるんだ。死んだ母親や離れた父親が何を言おうと君を縛ることはできない。君は今自由なんだ。いちいち僕の意見を聞かなくてもいい。確かに僕は君の行動を見て意見を出す。やめておいた方がいい事はやめた方がいいと言う。だけど、それを聞くのも聞かないのも君の自由だ。君が誰を傷っけようが、誰を好きになろうが、そんなこと君が決めることだ。僕の意見はせいぜい参考にしかならないんだ。」
名無しはそう言った。僕は荷造りが終わると、自分の部屋のべソドで寝た。部屋はがらんとしていて、僕とベッド以外には何もなかった。僕はここで過ごす最後の夜を1人で過ごした。取り忘れていたカレンダーは今は4月だと僕に黙って告げていた。カレンダーには桜の写真がついていた。このカレンダーは植物好きの母さんが買ってきて飾った物だ。僕はこのカレンダーは置いていこうと考えていた。養護施設に行くのにカレンダーはいらないと考えたからだ。もはや僕には時は関係ないのだから。明日には雨はやむだろう、そう思いながら、僕は眠った。耳に聞こえるのは、雨の音だけだった。




