08 「そばにいるよ、ずっと」
初出:2013.05.29.
掻き集めた灰は、私の両手にも満たなかった。
生前の彼を思わせる、真っ白な灰だった。砂のように指の間からこぼれ落ちてしまいそうなそれを慎重に包みこみ、私は露台に続く窓扉をくぐった。
夏を迎えたばかりのクースの空は青く輝いていた。まばゆい陽射しに目を細めると、下から吹き上げてくる海風が前髪を揺らした。外套の裾が大きく膨らんでバタバタと音を立てる。さあ、早く掌の内の彼をお渡しなさいと急かすように。
私はきつく唇を引き結び、一歩足を踏み出した。このジェイフィスト城は、かつてのリオニアの王都を見下ろす高台にそびえ立っている。まるで空中に浮かんでいるような威容と美しい白亜の外観を、遥か古の私の同胞は〈雲の城〉と謳った。そして城の最上階にある広大な露台から眺める景色は、まさに雲上から望むものであるとも。
どこまでも、碧く藍く海原が広がっていた。夏のはじめの光はしろがねにきらめき、潮風の円舞曲に乗って海鳥たちが優雅に踊っている。クイック、クイック、ふわりとターン。広がった裳裾のような翼の影が足元をよぎり、私は「ああ」と声を洩らした。
「わかっている、わかっているとも。……わかっているんだ」
風がうねり、伸び放題の黒髪を掻き乱す。現代のリオニアではすっかり見かけなくなったこの色は、彼のお気に入りだった。とても懐かしい色だと、鏡のような眸を細めて笑っていた。
彼は私の養い親だった。血縁関係では遠い遠い『父』に当たる。リオニアが王国と呼ばれていた頃よりも、黒き髪の勇者が聖なる獅子とともにこの地へ舞い降りた頃よりもずっと昔から、永遠のような星霜を過ごしてきた流浪の予言者。白い鴉と呼ばれた、おとぎ話の吟遊詩人。
――穏やかな初夏の夜明けに、彼は死んだ。
いったいだれが考えただろう、彼の生に終わりがあると。妖精のごとく美しい少年のままの彼の命が尽きる日が来るのだと、その最期を看取る役目をだれが担うのだと。
(僕は幸せな鳥だね。この血と歌を託した愛し子に送り出してもらえるんだから。立派なヨルンに育ったきみに、僕の最後の息子に祈りの歌を贈ってもらえるんだから)
透きとおるような面に確かな幸福を湛えて、彼はそう呟いた。握り締めた手は細く、こんなにも小さかっただろうかと思わずにはいられなかった。
繊細とはほど遠い骨格も、低く重い声音も、長じてからの私は何ひとつ彼に似なかった。それが寂しくて、せめて奏でる楽器はと同じ竪琴を選んだ。彼はただ静かに微笑んで、数えきれぬ歌や物語を丁寧に教えてくれた。
親鳥とはぐれてしまったヨルンの雛を、彼はそうやってたびたび養育してきたのだという。私の何代も前の『父』や『母』たちも、彼から歌を習い、演奏の手ほどきを受けたそうだ。そのひとりがリオニアを築いた王と縁づき、今日に至るまでの数奇な絆が生まれた――もはやリオニアに王はなく、王家の血筋もひっそりと行方を絶って久しい。しかし、リオニアの民は変わらず彼に崇敬と友愛を抱き、今は深い嘆きに暮れている。
クースの街は、白と黒の波に覆われていた。
家々の屋根の上でたなびく二色の幟旗。黒色のそれは弔意の表示であり、国喪の際には必ず上げられる。だがもう一色の白は……私は思わず目を伏せた。
その土地で最も天に近い場所から遺灰を風に還さねばならないというヨルンのしきたりを汲み、現在のリオニアの元首は快くジェイフィスト城での葬送を許してくれた。同胞以外は立ち会えぬことを惜しみつつも、「どうかよき旅を」と最後の祈りを捧げてくれた。
こんなにも愛された偉大な語り部を、私は知らない。きっと彼以外、だれにも成り得ない。
「アレフ」
海風が強く吹き抜け、呼びかけをさらってしまう。それでも私は、もう一度彼を呼んだ。
「アレフ。――アレフゲルダ」
歌が聞こえる。彼を呼ぶ風の歌、彼を悼む人々の歌、そして空に向かって口ずさむ彼の歌声が。
(ヨルンの死出に悲しみはいらない。僕はようやく約束を果たすことができるんだ。いつか戻ると誓ったひとの許へ、彼女のためだけの歌を届けるために翔んでいけるんだから)
澄んだ少年の歌声は、青春の歓びを謳っていた。導くべき『王』の行く末を見届け、語るべき運命を語り尽くした彼は今、何者でもない無垢な魂に還った。恋し愛した魔女の待つふるさとへ、やがて私もたどるであろう旅路の果てへ。
瞼を押し上げ、私は空を仰いだ。涙をこぼしてはならない。ただ、ただ、少しでも早く彼が彼女に逢えるように、その翼が少しでも軽くなるように祈ることしか。
いいや、きっとそれだけで充分なのだ。
「あなたが心を残す必要はない。あなたは自由に、どこまでも羽ばたけばいい。……代わりに、私が想うよ」
胸元に引き寄せていた両手をそっと差し伸ばす。はたしてうまく笑えているだろうか。あまり自信はなかった。
「あなたを忘れない。あなたの歌をうたい続けよう、語り継ごう。私の祈りが、あなたを愛する人々の祈りが、あなたを助ける風になるように」
ゆっくり指をほどくと、さらさらと白い灰が溢れ出す。風に舞い上がり、銀色の光の粒になって空と海に向かって広がっていく。
歌が聞こえる。風に還り、世界に溶けた彼の歌が、まるでその膝の上でまどろんだ幼い頃のように、優しく歌っている。愛しているよ、と。
私は大きく頷いた。そして息を吸いこんだ。
彼から教わった、旅立つ鳥への別れの歌を捧げるために。
(あるヨルンの語り部/吟遊詩人はかく語りき)