07 「好きなだけ泣けばいいさ。いくらでも涙を拭いてやるから」
ラウディリアは素直な子どもだ。
喜びには金の鈴を転がすような笑い声を上げ、怒りには桃色の頬を思いっきり膨らませ、悲しみには大粒の涙をいくつもこぼす。ニトが彼女から学んだものはたくさんあるが、感情の表し方や、それにどんな言葉や表情を返せばいいのかということも教えられた。
「泣かないでくれ、ラウディリア」
首にかじりついて泣きじゃくる主君の背を撫でながら、ニトは優しくささやいた。片膝をついた青年の左頬は赤黒く腫れ上がり、激しく殴打されたことを物語っている。だが熱を孕んだ鈍い痛みよりも、止まる様子のない泣き声のほうがよほど身に沁みた。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい、ニトっ」
「おまえのせいじゃない。むしろおまえは俺のために怒ってくれたじゃねぇか」
「でも!」
ラウディリアはしゃくり上げ、太い首に回した腕にぎゅうっと力をこめた。
「あ、あなたを叩いたのは、わたくしのおにいさまなのに……」
リヴェラを治めるティグレー家の当主には、認知していない者も含めると二十人近くの子女がいる。遅くに迎えた正夫人の子は末娘のラウディリアだけで、二番目だか三番目だかの妾夫人の息子が跡継ぎに決まっているらしい。成人前から女遊びに耽っているという父親によく似た彼は、普段は愛人を囲っている別邸に入り浸っているが、何事かで父親から呼び出されたようで城砦に帰ってきていた。
そこへたまたま居合わせたラウディリアとニトを見つけると、およそ幼い妹にかけるとは思えぬ挨拶にはじまり、果てには「犬畜生の分際で頭が高い」という理由でニトの頬を殴りつけたのである。
針のような嫌みや皮肉にもじっと耐え忍んでいたラウディリアは、カッと頬を燃え上がらせて異母兄に噛みついた。その論客ぶりたるや、吠え立てる仔犬どころかおそろしい狼も尾を丸めてへたりこむような凄まじさだった。予想外の反撃に叩きのめされた異母兄が情けなく退散したのは言うまでもない。
逃げ去る御曹司をぽかんと見送ったニトに続いて襲いかかったのは、くしゃくしゃに顔を歪めたラウディリアの目に溜まった涙だった。あ、と言う間もなく彼女の涙腺は決壊し、大洪水となった。それから十分近く泣き通している。
「確かに叩いたのはおまえの兄さんだけど、おまえが手を上げたわけじゃねぇだろ?」
「そっ、それでも! それに、わ、わたくしはニトのおともだちで、あるじなのに……あなたを守ってあげられなかったっ」
つっかえつっかえのラウディリアの言葉に、ニトは息を呑んだ。彼女の背中を撫でさすっていた手を止め、そっと深く抱き寄せる。
(こんな小さな女の子が、当たり前みたいに、俺を守ってあげたいなんて)
思わず頬がゆるみそうになるが、途端に走った疼痛に眉間が歪む。それでも鋼色の瞳を細め、ニトは微笑んだ。
「ありがとう、ラウディリア」
甘酸っぱく香るサフラン色の髪に鼻先を寄せると、ラウディリアはくすぐったそうに身じろいだ。ようやく収まってきたしゃくりに肩を上下させながら、涙の露をいっぱいに湛えた青い瞳で見つめてくる。
そのひと雫すらいとおしく、ニトは惜しむように武骨な指先で少女の頬を拭った。
「俺のために泣いてくれて」
「……え?」
「おまえが俺のために怒って、泣いてくれて、すごく嬉しい」
黄金に煙る睫毛をぱちりと瞬かせ、ラウディリアはきゅうっと唇を引き結んだ。盛り上がった涙がたちまちこぼれ落ち、ニトの手をあたたかく濡らす。
「わたくしはっ、ニトがいやな思いをしたり、怪我をしたりするなんて、ちっとも嬉しくないわ!」
「うん。でも、嬉しい。だから、ありがとう」
ニトはラウディリアの笑った顔が一番好きだ。彼女の悲しみそのものである涙を見ると胸が痛むのに、今がなぜか嬉しくて堪らない。早く泣きやんでほしいと思う一方で、心行くまで泣いてもいいと都合よく考えている。自分に向けられた想いの証だというだけで、ニトにとってはどんな宝石よりも美しく貴いものになる。
(おまえが俺のために涙を流すのなら、俺はいくらだってそれを拭ってあげる)
芽吹いたばかりの独占欲の意味を、まだ彼は知らなかった。
(ニト・バルノァ/傭兵と報酬)