06 「おまえなんか大嫌いだ。だから忘れてしまえ」
初出:2013.06.29.
首筋に触れる刃の冷たさは氷に似ていた。
こみ上げてくるのはおそろしさではなく、声を上げて笑いたくなるような馬鹿馬鹿しさだった。思わず喉を鳴らすと、ぐっと刃を皮膚の内側に押しこまれる。焼けるような痛みが走り、染み出した熱が赤い絨毯の上に滴った。
「――何がおかしい」
ごっそりと感情が抜け落ちた低い声が問う。わたしはさんざんに乱れた髪の隙間から男を見上げた。今にもこの首を斬り落とそうとしている男のまなざしは、まさしく氷の色をしていた。
男はわたしの夫だった。一国の玉座に就くことを定められ、それゆえにあらゆる力を掌中にして生まれてきた男だった。傲岸で強欲な、統治者ではなく支配者にしかなれない、そんな男だった。
そしてもはや、妻に裏切られた憐れで愚かな男でしかない。
痙攣めいた笑いは止まらず、わたしの口は壊れたオルガンのように甲高い哄笑を響かせていた。身をよじった拍子に首筋の刃が滑り、どくどくと血潮が溢れ出す。心臓の音が耳鳴りのように頭の中でとどろき、世界が色と温度を失っていく。だが、それでもわたしは笑い転げるしかできなかった。
なんて喜劇! なんて悲劇! わたしもこの男も、まるで舞台の上で踊り狂う道化のようだ。
きっとこの男は知りもしないだろう。王妃に選ばれたとき、わたしの胸が確かに幸福と情熱に高鳴ったことを。はじめて言葉を交わしたとき、若者だった男が少女だったわたしの才を認め、褒めてくれたことがどれほど嬉しかったか――きっと、信じもしないだろう。
男が望んだわたしは、わたしが願ったわたしではなかった。ただ、それだけの話だ。
「おかしくておかしくてたまらないですわ、陛下。あなたが妻と信じた女は妻ではなく、娘と信じた子どもは娘ではなかった。あなたの手に信じたものは何ひとつ残らず、あなたの望んだ愛は永遠に奪われたのですから」
男の表情は凍りついたように動かない。だが氷色の瞳の奥底で、猛火のごとき激情が荒れ狂っている。鈍く光る刀身に揺らめく幻が映りこんだ。
いつか炎はすべてを呑みこむだろう。この男も、この国も、もしかしたら小さなわたしの娘も。征服と支配しか知らぬ王の進む道はすなわち覇道であり、その果てにあるのは破壊と破滅でしかない。
その灼熱の魂に焦がれ、身も心も焼き尽くされたのはわたしであったのに。
「かわいそうな陛下、どうぞわたしのことなどお忘れになって。――ようやく愛する背の君との、来世での誓いを果たすことができるのですから」
にっこりと微笑んで告げると、首筋から刃が離れた。男は高々と長剣を振り上げ、静かに呟いた。
「そうか」
そして、白刃がきらめいた。
(レイシアのアニエスタ/裏切りの翼)