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後宮代筆女官は、冷徹皇子の心だけを読めない  作者: swingout777


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第4章 沈黙を選んだ人

 翌朝、第三皇子区画へ向かう足取りは、昨日までとは少し違っていた。


 控え棚の奥で見つけた“過去の揺れ”が、翠鈴の中でまだ整理しきれずにいる。雪麗妃の返書だけではなかった。小さな差が、何通か、同じ方向へ傾いていた。蒼珀をより冷たく見せる方へ。評判の上へ、文が薄く塗り重ねられてきたのだとしたら――。


 そこまで考えてしまうと、景悠が「経路は私が見る」と言った重みもまた違ってくる。


 ただの一件ではないのかもしれない。


 文書房から持ち込んだ確認束を抱えたまま控えの間へ入ると、景悠はすでにいた。いつも通り、書類と人の間で無駄なく立っている。だが、その目の下にわずかに影があるように見えた。昨夜、こちらが考えていたのと同じだけ、あちらも眠りを削っていたのかもしれない。


「おはようございます」


 翠鈴が礼をすると、景悠は浅く頷いた。


「早いな」


「文書房の朝が少し立て込んでおりましたので、先に整えられるものだけ」


「そうか」


 それだけで会話は切れた。


 いつもならその沈黙は乾いているだけだが、その日は少し違った。景悠の方にも、言うか言うまいかを測っている気配があった。


 翠鈴が書類を所定の位置へ置いたとき、景悠が不意に言った。


「昨日の件だが」


 翠鈴は手を止めた。


「はい」


「経路だけでは片がつかんかもしれん」


 それは、景悠にしてはずいぶん曖昧な言い方だった。断定を好まぬ人だが、見込みが薄いなら薄いとはっきり言う。なのに今回は、“片がつかんかもしれん”と留めている。


 翠鈴は黙って続きを待った。


 景悠は少しだけ視線をずらし、控えの束ではなく窓の外を見た。


「殿下は昔から、今のような文を書く方ではなかった」


 その言葉に、翠鈴は思わず顔を上げた。


 景悠が自分から蒼珀のことを語るのは珍しい。しかも今の話は、文の技術ではなく、その背後にある人そのものへ触れている。


「……昔、でございますか」


「かなり前だ」


 景悠の声は低く、事実だけを並べる調子だった。主を庇うための語りではない。むしろ、そこへ感情を差し込まぬよう慎重に切っているように聞こえる。


「ある宮女がいた」


 翠鈴は何も言わずに聞いた。


「身分は低かったが、仕事は真面目で、手も早かった。目立つ者ではなかったが、気が回る女だった」


 景悠はそこまで言って、少しだけ間を置いた。


「ある折、その者が理不尽な形で責めを負わされかけたことがある。大事になる前に、殿下が動いた」


 翠鈴は静かに息を吸う。


 蒼珀が“動いた”。その響きだけで、今の姿からは想像しにくいものがある。


「露骨に庇ったわけではない。ただ、文の処理と人の配置を少し動かして、その者にだけ責が落ちぬようにした」


 それは、今の蒼珀ならおそらくもっと距離を置くだろうやり方だ、と翠鈴は思った。文で整え、人の流れを変える。やろうと思えばできる人なのだろう。だがそれが“動いた”と言われるほどには、今の蒼珀はもうその手を使わない。


「助かったのでは、ないのですか」


 問いかけると、景悠はすぐには答えなかった。


「助かった、という見方もできる」


 その答え方だけで、話の行き先は見えた。


「だが後宮は、助けられた事実より、“誰にどう見えたか”の方を長く覚える」


 翠鈴は胸の奥で小さく頷いた。


 まさに、今の雪麗妃の返書騒ぎと同じだ。文の真偽より、蒼珀らしく見えるかどうか。事実より、どう読まれるか。


 景悠は続けた。


「殿下が手を入れたことで、その宮女は一度責を免れた。だが、代わりに別の噂が立った。特別に目をかけられている、何かあるのではないか、近づきすぎたのだろう――そういう、いつものものだ」


 声色は変わらない。それでも、その“いつものもの”という言い方に、景悠自身の苛立ちがわずかに混じった気がした。


「その者は、自分のために余計な目が向くことを恐れた。周囲も面白がった。庇われたことそのものが、次の傷になった」


 翠鈴は言葉を失った。


 善意が、別の形で人を追い詰める。


 それは頭ではわかる。後宮ならなおさら、目立つ救いは別の嫉妬や疑いを呼ぶ。だがそれを、蒼珀が身近で見たのだと思うと、昨日の冷たい結論が急に別の重さを持ち始めた。


「その宮女は、ほどなく後宮を下がった」


 景悠の声はあくまで平坦だった。


「病とされた。実際には、残れなかったのだろう」


 翠鈴は喉の奥が少しだけ詰まるのを感じた。


「殿下は、あれで学ばれた」


「……何を」


「中途半端な温情は、救いにならぬこともあると」


 景悠はそこで初めて、まっすぐ翠鈴を見た。


「誤解を招く優しさなら、最初から冷たく見えた方がましだと」


 その一言は、蒼珀が昨日言っていたことの根に、そのまま繋がっていた。


 誤解で揺らぐ信頼は弱い。正して得る理解に期待は置かない。希望を持たせるくらいなら、初めから削る。翠鈴には受け入れがたかった考え方が、ただの諦めではなく、一度誰かを傷つけてしまったあとで選ばれた防ぎ方だったのだと、ようやく見える。


 けれど、だからといって簡単に頷けるわけではなかった。


「正しかった、とは思えません」


 思わず口にすると、景悠は小さく頷いた。


「私もそうは言わん」


 その返答に、翠鈴は少しだけ救われる。


 景悠は主を無条件に擁護しているわけではない。あの出来事を“仕方なかった”で片づけてもいない。ただ、蒼珀がどうして今のような人になったか、その経路だけを事実として差し出している。


「だが、あれ以来、殿下は文の置き方を変えた」


 景悠の目が、控えの束へ落ちる。


「誰かに期待を持たせぬように。近づいた者が、勝手に意味を増やさぬように。好かれることより、波立たせぬことを選ぶようになった」


 翠鈴は静かに息を吐いた。


 冷たい人なのではない。


 優しさの扱い方を間違えて、その後ずっと、間違えぬために削り続けてきた人なのだ。


 それでも、胸の奥にはまだ引っかかりが残っていた。理解はできる。だが、それで雪麗妃の傷が軽くなるわけではない。文に救いを求めすぎるなと言われても、やはり文が残す傷の差を無視することもできない。


 景悠は、その揺れまで見抜いたように言う。


「お前が昨日、受け入れられぬ顔をしていたのもわかる」


 翠鈴は少しだけ目を見開いた。


「ですが私は」


「わかっている」


 景悠は遮った。


「納得できぬことと、事情を知ることは別だ」


 その言葉は、意外なほどまっすぐ胸へ入った。


 景悠はそこで話を終えたつもりらしい。書類へ手を伸ばし、いつもの実務の顔へ戻る。だが翠鈴の方は、すぐには動けなかった。


 優しさで救えなかったから、冷たさを選んだ。


 そう聞かされても、簡単に正しいとは思えなかった。

 けれど少なくとも、あの人が無造作に人を切っているわけではないことだけは、もう疑えなかった。


 その日の午前、蒼珀の執務室には珍しく柔らかな色の紙が置かれていた。


 相手は年長の妃。表向きには体調を気遣う短い言葉が届けられ、その返礼として形ばかりでも温かみを返しておけば、少なくとも場は穏やかに見える種類のやりとりだった。文書房にいた頃の翠鈴なら、まず礼をやや厚く置き、相手の気遣いを受け取ったことを明るく示したうえで、結論をやわらかく包む形を選んだだろう。


 けれど、今は蒼珀の机の前にいる。


 しかも、景悠からあの過去を聞いたあとだ。


 中途半端な温情が、かえって誰かを傷つけることがある。優しさに見える一文が、勝手な意味を生み、次の噂の火種になることがある。頭ではわかっていた。だが、蒼珀の文がそこまで削られる理由として聞かされると、同じ一文の重さが少しだけ変わって見える。


 蒼珀は下書きを差し出した。


 やはり短い。


 礼はある。だが、体調を案じる相手の言葉に対して、普通なら一文は足されそうな“やわらかな返し”がない。読めば礼節を欠いてはいない。けれど、受け取った側が温かさを持ち帰れる形にもなっていない。


 翠鈴は黙って読み返した。


 昨日までなら、この短さに対し、どこを鈍らせるかを考えただろう。今日は、なぜそこまで削るのかが気になった。冷たいからではなく、削らなければならない理由があるのではないかと、先に考えてしまう。


「修正するか」


 蒼珀の声に、翠鈴は顔を上げた。


「……少しだけ」


 答えてから紙を引き寄せる。


 筆を持つ手は、迷っているようでいて、実際にはかなりはっきりと動いた。礼を厚くしすぎない。結論は曖昧にしない。ただ、ひとつだけ、受け手が“こちらの気遣いそのものを疎まれた”とまでは受け取らぬための婉曲さを置く。少し前へ、少し薄く。ほんの半歩だけ、冷たさの角を鈍らせる。


 書き終えて差し出すと、蒼珀は一読し、該当箇所で視線を止めた。


「この一文か」


「はい」


「なぜ足した」


 問いは静かだ。だが前より、少しだけ“理由を知るための問い”に聞こえる。


 翠鈴は答える。


「そのままでも礼は足りております。ただ……このままですと、相手は“体調を案じたこと自体を退けられた”と感じるやもしれません」


「感じれば何だ」


 言い方は変わらない。けれど、その背後にある考え方を翠鈴はもう少し知っている。


「文そのものより、気遣いを差し出したことが恥になって残るかと」


 蒼珀は紙を机へ置いた。


「恥は残る」


 翠鈴は一瞬、返す言葉を失った。


「断る文なら、なおさらだ。残らぬものはない」


「……はい」


「ならば、どの恥を残すかの話になる」


 その言い方に、翠鈴は目を伏せた。


 確かにそうだ、とも思う。断る以上、痛みは消えない。では、その痛みをどういう形で残すか。受け手の面目を崩しすぎぬようにするのか、あるいは曖昧さによって別の期待を生ませないことを優先するのか。蒼珀は常に後者を選んできたのだろう。


 翠鈴は紙の上の一文を見ながら言う。


「この場合は、少しだけ前者を置いてもよろしいかと存じました」


「なぜ」


「相手が年長の妃でございます。ご本人より、周囲が先に読みます」


 蒼珀は黙っている。


 翠鈴は続ける。


「ご本人が慎重でも、侍女たちは“どう返されたか”だけを持ち帰ります。冷たく断られた、という形だけが先に立てば、そこから余計な枝が生えます」


「枝」


「はい」


 翠鈴は小さく息を整えた。


「この一文は、結論を変えるものではございません。ただ、相手が“差し出した気遣いまで切られた”と受け取るのを、少しだけ防げるかと」


 蒼珀は紙へ視線を落としたまま、しばし何も言わなかった。


 その沈黙のあいだに、翠鈴は昨日の景悠の言葉を思い出す。中途半端な温情。誤解を招く優しさ。近づいた者が勝手に意味を増やしていく怖さ。蒼珀の沈黙は、その全部を知ったあとで選ばれている。


 だからこそ、次の言葉は予想できた。


「余計な希望は、時に毒だ」


 低い声が、紙の上へまっすぐ落ちる。


 翠鈴はその一言を、ただの理屈としては受け取れなかった。


 きっとこの人にとっては、もう実感なのだ。誰かを安心させるつもりで置いたわずかな柔らかさが、別の誰かの勝手な解釈を呼び、のちにその当人を苦しめる。そういう形を一度ではなく見てきた人の言い方だった。


 それでも、翠鈴は引き下がるつもりになれなかった。


「毒になることもございます」


 蒼珀の目が少しだけ上がる。


「ですが、毒にならぬように置くこともできるかと」


「できると?」


「少なくとも、厚くしすぎず、結論を曖昧にせず、逃げる余地を作らぬままであれば」


 言ってから、翠鈴は自分が少しずつ蒼珀の言葉の中で考えるようになっていることに気づいた。以前なら、もっと“やわらかさ”の側から組み立てたはずだ。今は違う。曖昧な優しさは危険だという前提の上で、それでもなお残せる一文を探している。


 蒼珀は、その変化にも気づいたのかもしれない。


 紙を取り上げ、翠鈴が足した一文を改めて読み返すと、そこで初めて小さく頷いた。


「この程度なら」


 それだけ言って、筆を取り、翠鈴の置いた語をひとつだけ替えた。さらに薄く、しかし温度は残る形へ。


 翠鈴は息を止めるようにその修正を見た。


 やはり、この人はただ削るだけではない。残すと決めたときは、残し方まで厳密なのだ。やさしさを足すのではなく、誤解を増やさぬまま置ける最小の形へ削り直す。その手つきに、翠鈴はまた少しだけ胸を打たれる。


「殿下は」


 思わず口にすると、蒼珀が視線だけで続きを促した。


「やわらかな文そのものをお嫌いなのではなく、余地をお嫌いなのですね」


 蒼珀は少しだけ間を置いた。


「好いてはいない」


 それから、静かに続ける。


「好き嫌いではない。残したものが、後で誰を刺すかの話だ」


 翠鈴はうなずいた。


 やはりこの人は、優しさを知らぬのではない。持っていても、その先で誰を傷つけるかわからないから、自分から置かなくなったのだ。


 前なら冷たく聞こえただけの言葉が、その日は妙に重かった。

 きっと私は、あの人の沈黙に、理由があると知ってしまったからだ。


 その日を境に、蒼珀の執務室で流れる時間の質が少しだけ変わった。


 大きな変化ではない。誰かが親しくなった顔をするわけでもないし、言葉数が増えるわけでもない。景悠は相変わらず必要以上に口を挟まず、蒼珀もまた、文の前では余分を置かない。けれど、紙の上を行き来するやりとりだけが、前より少し短く、少し正確になっていく。


 翠鈴は、それを最初に自分の手で気づいた。


 午前の早い時間、蒼珀から差し出されたのは三通まとめた返書案だった。相手はそれぞれ違う。ひとりは有力妃付きの侍女頭、ひとりは外廷筋に近い家からの気遣い、もうひとりは取るに足らぬようでいて後に尾を引きやすい確認の文。内容も温度も違うのに、蒼珀の下書きにはどれにも共通した硬質な整いがある。


 翠鈴は一通目を読み、筆を取る前に次の一通へ視線を移した。


 ここは削る。


 そう思った箇所が、ほとんど蒼珀の手で先に削られている。


 ここは残す。


 そう考えた一文だけが、ぎりぎりのところで残されている。


 まだ完璧ではない。だが、どこへ問いが飛んでくるかは、前よりずっと見えるようになっていた。礼を厚くしすぎれば膨らむ。理由を後ろへ送れば受け手が都合よく読む。断るなら断るで、相手の面目だけを不必要に切らぬようにする。その線の引き方が、少しずつ指先に馴染んできている。


 一通目に手を入れ、差し出す。


 蒼珀は読み、末尾の一箇所にだけ筆を入れた。語を変えたのではなく、置き順をひとつずらしただけだ。たったそれだけで、文全体の重心が少し前へ落ちる。相手に残る冷えが、薄くではなく、正しくなる。


 翠鈴はその修正を目で追った。


「理由は」


 問われる前に、ほとんどわかってしまう。


「このままですと、結びが遅れて響きます」


 そう答えると、蒼珀は「そうだ」と短く言った。


 その“そうだ”に、前のような試しの色はもう薄かった。正解を言い当てた者への確認のような響きに近い。


 二通目では、逆に翠鈴の方が先に手を止めた。


 外廷に近い相手への返書で、礼の語が少しだけ硬い。硬いままでも問題はない。むしろ距離を保つには妥当だ。だが、この相手は文面の硬さそのものを“軽んじられた”と読むより、“外された”と読む可能性が高い。ならば必要なのは、やわらかさではなく、礼の位置だ。


 翠鈴は主語を変えず、礼の一行だけを前へ出した。


 差し出すと、蒼珀は一読し、今度は何も書き足さなかった。


「通せ」


 それだけ言われ、翠鈴はわずかに目を上げる。


 修正がないこと自体は、これまでも一度二度はあった。だが今回は違う。偶然通ったのではなく、最初からほぼ同じところを見ていたのだと感じられる。


 三通目は確認の文だった。取るに足らぬ内容に見えて、返し方を誤ると“無視された”とも“余計に気を持たせた”とも読める種類の紙である。こういう文がいちばん厄介だと、文書房ではよく知っていた。


 翠鈴は最初に蒼珀の下書きを見た瞬間、頭の中で答えが立ち上がった。


 礼は足りる。説明は増やさぬ。だが、末尾の一文だけはそのままだと受け手の側に沈みすぎる。


 筆を持つより先に、蒼珀が言った。


「最後だ」


 翠鈴は思わず顔を上げた。


 蒼珀は紙を見たまま続ける。


「そこだけだろう」


 わかっていたのだ。


 翠鈴の目が止まった場所も、その理由も、おそらく。


「はい」


 答えると、蒼珀は紙を寄越した。


「やれ」


 その一言だけで十分だった。


 翠鈴は末尾だけを直し、返した。蒼珀は読み、今度も修正を入れない。


 景悠が脇で書類を並べ替える音だけが、かすかに響く。何気ないその音まで、今はどこか心地よい間のように感じられた。


 それからしばらくのあいだ、二人はほとんど会話らしい会話をしなかった。


 文が来る。読む。手を入れる。差し出す。問われる前に理由がわかる。ときに蒼珀が一語だけ足し、ときに翠鈴が一文だけ残す。長く説明しなくとも通じるところが増えていく。文を挟んで向かい合っているだけなのに、不思議と息が詰まらない。


 それは“気安さ”ではなかった。


 相手をよく知っているから笑えるような親しさでもない。ただ、同じ紙の上で、どこを削り、どこを残すかの呼吸が合い始めている。文の中だけで、少しずつ距離が変わっていく感覚だった。


 昼をまたぐころ、景悠が新しく運んできた文束の中に、珍しく少し長い申し入れへの返答が混じっていた。内容は一見穏やかだが、答え方次第では“殿下は関心を寄せておられる”とも、“形式だけで流された”とも取れる。難しい一通だ。


 翠鈴は下書きへ目を落とした瞬間、自然に眉を寄せた。


 蒼珀の文はきれいに削られている。だが、この相手にはそのきれいさ自体が距離に見える。ならば、ひとつだけ、相手の労を認める位置を前へ――。


 そこまで考えたところで、蒼珀の声が落ちた。


「二行目」


 また先を読まれたのかと思い、翠鈴は反射的に顔を上げる。


「礼をずらせ」


 問いではなく、確認に近かった。


「はい」


 それ以上何も要らない。翠鈴は二行目の礼を少し前へ出し、結論の前に“見た”という事実だけを置く。書き終えて差し出すと、蒼珀は一読し、「それでいい」とだけ言った。


 それでいい。


 ただの承認なのに、その言葉は妙に残った。理由を問わずとも、同じところを見ていることが前提にある言い方だったからかもしれない。


 少し経ってから、蒼珀が別の一通へ一語だけ書き足した。


 それは謝意でも婉曲でもない、ごく短い語だ。だが、その一語があるだけで文の芯が少し起きる。相手が“ただ切られた”と感じるのではなく、“見たうえで、なお断られた”と読める位置になる。


 翠鈴はその場で小さく息を呑んだ。


「どうした」


 問われて、翠鈴は正直に言った。


「その一語だけで、ずいぶん変わります」


「変わるように置いた」


「はい」


 それだけのやりとりだった。


 だが、その短さの中に、この人の文がなぜああいう形をしているのかがよく出ていた。大きく飾らず、必要なものだけを置く。しかも、その必要を見誤らない。だから短い。だから冷たく見えることもある。けれど、見誤ってはいない。


 気づけば、翠鈴は蒼珀の次の下書きへ手を伸ばす前に、もうどこに視線を置くべきかを考え始めていた。


 ここは削るだろう。


 ここは残すだろう。


 ここは、削ったままでは刺さりすぎる。


 そうした見立てが、前より自然に浮かぶ。しかもその多くが、蒼珀の問いより先に通る。問われること自体が少し減っていく。


 昼過ぎ、文束がひと区切りついたところで、翠鈴はふと自分の肩の力が朝より落ちていることに気づいた。


 緊張が消えたわけではない。景悠の視線も、蒼珀の無駄のない問いも、相変わらず鋭い。だが、その鋭さにいちいち身構えなくなっている。文の理由を、文のままでやり取りできることが、こんなにも息をつきやすいものだとは思っていなかった。


 蒼珀が新しい紙を取る前に、一瞬だけこちらを見た。


「早いな」


「……何がでございますか」


「読むのが」


 それだけ言って、もう視線は次の文へ落ちる。


 褒めたつもりはないのだろう。だが、翠鈴の胸にはその短い一言が、思いのほか静かに染みた。


 いつのまにか、あの人が削る場所と、残す場所が少しだけ先に見えるようになっていた。

 それは気安さではなく、けれど確かに、距離が変わり始めた感覚だった。


 その夜、文机の上に残っていたのは、昼までの延長では片づかない種類の紙だった。


 夕刻に届いた急ぎの文。外廷に近い家筋からの照会に対する返答と、後宮内での行き違いを広げぬための短い確認書き。どちらも明朝では遅い。夜のうちに形を整え、朝一番で迷いなく出せるようにしておかなければならない。


 景悠は早い段階で必要な記録だけをまとめると、別の確認へ回った。執務室には蒼珀と翠鈴だけが残る。


 昼のうちはまだ人の出入りが細く続いていた部屋も、夜になると別の静けさを持つ。窓の外はもう暗く、格子越しに見える庭も輪郭を失っていた。灯された灯りは十分な明るさを保っているのに、紙の白さだけが昼より強く浮く。そのせいか、黒く置かれた文字が余計に鋭く見えた。


 翠鈴は筆を持ったまま、肩の奥が少しずつ重くなっていくのを感じていた。


 疲れていないわけではない。だが、仕事の最中にそれを意識するのは癖ではなかった。文書房でもそうだ。忙しい日に限って、体はあとから遅れて気づく。今も同じつもりで手を動かしていた。だが、蒼珀の執務室で扱う文は、短くても集中を切らせない。少しの置き違いが、そのまま別の意味になる。


「ここは」


 蒼珀の声に、翠鈴は顔を上げた。


 差し出された下書きの三行目、結びへ入る直前の語だった。受け手の体面を残すには少し硬い。だが、ここでやわらげすぎれば含みが生まれる。


 翠鈴は紙へ視線を戻し、考える。考えて、すぐに答えが立たないことに、自分の頭が少しだけ鈍くなっているのを知った。


「……申し訳ございません、もう一度」


 そう言いながら読み直す。いつもなら、一読で見える場所だ。今は、二度目でようやく輪郭が立つ。


 蒼珀は急かさなかった。ただ待つ。その待ち方が、かえって翠鈴の集中を保たせた。


「このままですと、受け手に返す冷えが強すぎます」


「理由は」


「労を認める位置が遅うございます」


 答えながら、ようやく自分の中で文がつながる。蒼珀は短く頷き、筆を取る。翠鈴が見立てた位置へ、ごく短い語をひとつ置く。それで文は少しだけ起き上がり、冷えが正しい方向へ落ち着いた。


「これでよい」


「はい」


 返事はしたものの、翠鈴の指先にはわずかな痺れが残った。疲れが思考に追いつき始めている。だが、この一通だけでは終わらない。卓上にはまだ紙が二枚残っている。蒼珀も当然それを片づけるつもりだ。


 翠鈴は次の紙へ手を伸ばした。


 文は短い。短いが、厄介だ。礼の位置ひとつで、受け取る側が“見られた”と感じるか、“流された”と感じるかが変わる。翠鈴は語を二つ並べ、どちらを残すか考えた。だが、途中で視線が紙の上を滑った。


 一度だけ、瞬きを挟む。


 眠いわけではない。ただ、焦点を合わせるのに少し時間がいる。こんなことは珍しい。文の前で目が滑るなど、仕事としては恥に近い。


「……どうした」


 低い声が落ちて、翠鈴は反射的に背筋を伸ばした。


「いえ」


 そう答えたものの、蒼珀の目は逸れない。ごまかせる相手ではないと、今さらのように思う。


「少し、考えが」


「遅い」


 咎めのようでいて、声は平坦だった。


 翠鈴は苦笑を飲み込む。


「申し訳ございません」


 蒼珀は何も言わず、手元の紙をこちらへ引き寄せた。翠鈴が迷っていた二語を一瞥し、不要な方を指先で押さえる。


「こちらだ」


「……はい」


 答えたとき、自分の声が少し掠れていることに気づいた。喉が渇いていたのだろう。だが水を求めるのも、今は妙に大げさな気がした。


 蒼珀はそのまま紙へ視線を落とし、次の一文を読む。翠鈴も読み直そうとして、筆を置こうとした、その瞬間だった。


 立ち上がろうとした膝の力が、思ったより抜けた。


 ほんのわずかなことだ。大きくよろめいたわけではない。けれど、机の端へ手をつくには一拍遅れた。視界が白く薄まり、床が一歩だけ遠くなる。


 次の瞬間には、腕を取られていた。


 蒼珀の手だった。


 強く引き寄せるのではなく、落ちる前に支えるだけの、正確な手つき。翠鈴の肘の少し上を押さえ、膝が戻るだけの位置で止める。余計な力がない分、その接触は妙にはっきり伝わった。


「……申し訳、ございません」


 言葉が遅れて出る。


 蒼珀はすぐには離さなかったが、確認するように翠鈴の顔を一度見て、次にはもう手を放していた。


「座れ」


 それだけだった。


 叱責でも心配でもない、命令の形。だが今の翠鈴には、その短さの方がありがたかった。余計に気遣われれば、かえっていたたまれなくなる。


 椅子へ座り直すと、世界が元の位置へ戻る。ほんの一瞬のことだったのに、鼓動だけが少し遅れて強くなった。


 蒼珀は何事もなかったように紙へ視線を戻した。


「湯を」


 とだけ言うと、執務室の外へ控えていた女官が静かに下がった。誰に向けた言葉なのかも曖昧なほど短い。けれど、それが自分のためだと翠鈴にはわかった。


「続けられるか」


 問い方まで平坦だった。


「はい」


 反射的に答えると、蒼珀の目が一瞬だけ上がる。


「無理はするな」


 その四文字は、たぶんこの人なりには十分に長い言葉だった。


 翠鈴はうまく返せず、小さく頷くだけに留めた。胸の内が落ち着かないのは、立ちくらみのせいだけではない。支えられたことそのものより、蒼珀がそれを“何でもないこと”のように扱ったことの方が、妙に残った。


 湯が運ばれてくると、蒼珀はもうその件に触れなかった。


 文はまだ残っている。仕事は止まらない。だからこそ、そのまま続ける。翠鈴もまた、それに従う。紙を読み、語を直し、最後の一通まで形を整える。やがて文束が薄くなり、ようやく夜の執務が終わるころには、先ほどの接触はまるで夢のように静かに机の下へ沈んでいた。


 ただ、帰り際に一度だけ、翠鈴は湯呑みへ目を落とした。


 湯は最後まで温かかった。


 翌夜、また急ぎの返書が入り、翠鈴が少し遅くまで執務室に残ることになった。


 今度は立ちくらみなど起こしていない。だが、机の脇に小さな白磁の茶器が最初から置かれていた。昼間にはなかったものだ。女官が当然のように湯を注ぎ、蒼珀の机ではなく、翠鈴の手元寄りへ置いていく。


 翠鈴は思わずその動きを目で追った。


 女官が下がったあと、蒼珀は紙から目を離さずにいる。何も言わない。説明もしない。


 それでも、誰の指示かはすぐにわかった。


 翠鈴がそっと湯呑みに触れると、指先にじんわりと熱が移った。昨夜、自分が何も言われずに支えられたときと同じ熱だと思った。


 あの人は、やさしい言葉を持たないのではなく、たぶん持っていても置き方を知らないのだ。

 そう思った瞬間、胸のどこかが静かにほどけた気がした。


 夜更けの執務から一日置いた午後、文書房へひとりの侍女が訪れた。


 目立たぬ色の衣をきちんと着ている。歩き方も、声のかけ方も、後宮では珍しくない程度に整っている。だからこそ、翠鈴は戸口に立った瞬間にわかった。珍しくないように見せている者ほど、たいてい珍しい用を抱えている。


 その侍女は、文書房の責任者へ簡単な用件だけを伝えたあと、控えの確認に来たふりをして部屋の端へ流れた。誰の差し向けかまではすぐに知れない。だが、翠鈴と目が合ったときにほんの一瞬だけ強ばった表情で、雪麗妃付きの侍女だとすぐに思い出した。あの返書騒ぎの朝、文書房へ飛び込んできた三人のうちのひとりである。


 翠鈴はすぐには近づかなかった。


 こういうとき、こちらから急げば相手は引く。文書房の仕事を二つ三つ片づけ、帳面を閉じるふりをして、ようやく人目の薄い側の棚へ移る。その頃には侍女の方も、逃げずにそこにいた。


「何かご確認が」


 翠鈴が低く言うと、侍女は周囲を気にするように一度だけ目を走らせた。


 蘭月は離れた机で別の紙を揃えている。耳は利いているだろうが、顔まではこちらへ向けない。責任者も今は別の女官に指示を出している。話すなら今しかない、というタイミングだった。


 侍女はごく小さく口を開いた。


「あの返書のことで……」


 声は掠れていた。まだ怯えが抜けていないのだとわかる。


 翠鈴は頷いたが、先を急がせるようなことはしない。ただ、手元の控え束を見ているふりで立つ。


「雪麗妃さまに届く前に」


 侍女はそこで言葉を切った。


「はい」


「一度、別の方の手を経たかもしれません」


 翠鈴の胸の奥が、わずかに冷えた。


 それでも表には出さず、平らに問う。


「どなたの」


 侍女はすぐには答えなかった。言い切った瞬間に後戻りできなくなるのを知っている顔だった。


「……玉妃さま付きの方です」


 言ってから、侍女は小さく息を呑む。ようやく口から出せたのだろう。


 翠鈴はその名を頭の中で静かに置いた。


 玉妃。


 やはり影がある。だが、この一言だけで玉妃を黒と決めるには早すぎる。玉妃本人が動いたのか、玉妃付きの女官が勝手に手を回したのか、あるいはそのさらに外から利用されたのか。後宮では“あの方のところの誰か”と“あの方自身”のあいだに、薄くて深い川がある。


「見たのですか」


 侍女は首を横に振った。


「見た、とまでは……」


 それでも話を止めず、必死に記憶を手繰るように続ける。


「返書は、本来ならいつもの順でこちらへ届くはずでした。ですがその日は少し遅く……途中で、玉妃さま付きの女官が“こちらへ回す前に確認がある”と言って受け取ったように思うのです」


「ように思う」


「はい……申し訳ございません、はっきりとは」


 翠鈴は首を振った。


「いいえ。続けて」


 侍女は少しだけ安堵したようだった。だが、声の震えは消えない。


「その方は、ふだんから文や贈り物のやり取りに口を挟むことのある方で……ですから、そのときも不自然ではなかったのです。けれど、あとから思えば、あの返書だけ少し手元に留まっていた気がして」


「お名前は」


 侍女はさらに声を落とした。


「香蓮、という者です」


 翠鈴は記憶の中の顔を探る。玉妃付きの女官の名すべてを把握しているわけではない。だが、名前が出たこと自体は大きい。たとえ弱い証言でも、“誰か”ではなく“香蓮”と形を取った。


 侍女は続けた。


「でも、断言はできません。わたくしが見たのは、受け取るところまではっきりではなく……廊下の向こうから、そう見えただけかもしれません」


「その方が、返書を持っていたのは確かなのですね」


 侍女は唇を噛んでから頷く。


「……はい。たぶん」


 たぶん。


 弱い言葉だ。だが、後宮で何かを告げる側の言葉としては、むしろ正直だった。強く言い切れるほどの証を持つ者は、そもそも黙るか、消される。こういう場に現れるのは、たいてい“見たかもしれない”“違ったかもしれない”の境目にいる者だ。


 翠鈴は、その弱さごと受け取るしかない。


「雪麗妃さまは、このことをご存じで」


「いえ」


 侍女は即座に答えた。


「申し上げておりません。これ以上、お心を煩わせたくなくて……」


 その一言に、雪麗妃の静かな部屋と、無理に整えられた背筋が思い出された。主を守るために、侍女たちは傷の理由まで飲み込んでいる。弱い立場の者ほど、真実より先に“波立てないこと”を選ばざるを得ない。


 翠鈴は静かに息を吐いた。


「よく来てくださいました」


 侍女は顔を上げた。まさか労われるとは思っていなかったのだろう。


「ですが、このことは他言なさらぬように。少なくとも今は」


「はい」


「誰に話したかも、残さぬ方がよろしいでしょう」


 侍女は何度も頷いた。そうしなければ自分自身が危ういと、もう十分に知っている顔だった。


 そこで蘭月が、離れた机から大きめの紙束を持って歩いてきた。こちらへ来ること自体は自然な動きだが、タイミングはあまりにもよい。侍女ははっとして口を閉じる。


 蘭月は何も知らぬ顔で棚へ束を入れながら、軽い声で言った。


「翠鈴、その控え、責任者のところにも回しておいてね」


「ええ、あとで」


「お願い」


 それだけ言って去っていく。会話を切るための、見事な横入りだった。


 侍女はそれで我に返ったように、深く頭を下げた。


「失礼いたしました。わたくし、もう……」


「ええ」


 翠鈴もそれ以上は留めない。


 侍女は来たときよりさらに小さく見える背で文書房を出ていった。


 戸が閉まると、蘭月が何気ない顔で戻ってくる。


「今の、雪麗妃さまのところの子でしょう」


「ええ」


「また面倒な顔してたわね」


 翠鈴は答えずにいた。蘭月も詮索しない。ただ、紙束を机へ置きながらぽつりと言う。


「玉妃さまのところって、文の流れにも口が出せる人多いのよね」


 翠鈴は目を上げた。


 蘭月は肩をすくめる。


「噂よ、噂。でも、あそこは華やかなだけじゃなくて、細かいところまで手が回るから」


 それは情報というより、後宮で生きる者の実感だった。


 翠鈴は侍女が残していった名を、心の中でもう一度なぞる。


 香蓮。玉妃付き。途中で返書を手にしたかもしれない女官。


 答えが近づいた気はしなかった。


 むしろ、紙の上の文だけを見ていては足りないと、いっそうはっきりした。後宮の文は、書かれたあとも人の手と視線のあいだを渡る。その途中で、たった一文が冷たくなる。たった一度の受け渡しで、誰かの評判がまた一枚厚くなる。


 名は出た。


 けれど、それで終わるほど、この場所の文は紙の上だけでは動いていなかった。

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