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後宮代筆女官は、冷徹皇子の心だけを読めない  作者: swingout777


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第3章 偽りの一文

 翌朝の文書房は、いつもよりさらに静かに感じられた。


 実際に音が少ないわけではない。戸が開く音も、湯を移す音も、朝いちばんの控えを棚から出す紙の擦れも、いつも通りそこにある。けれど翠鈴の耳には、そのどれもが一枚薄い布越しに届くようだった。昨夜、執務室で掴んだ確信が、まだ胸の奥に冷えたまま残っているせいだろう。


 雪麗妃宛ての返書は、蒼珀の文ではない。


 少なくとも、最後のあの冷え方は、似せているだけの別の手のものだ。


 そう自分の中ではっきりした以上、もう一度、控えと現物を並べて確かめずにはいられなかった。違和感ではなく、差異として。思い込みではなく、紙の上に残った具体として。


 翠鈴はいつもの朝の確認を終えると、他の女官たちがまだそれぞれの持ち場に散りきる前のわずかな時間を見計らって控え棚の鍵を外した。手つきは普段通りに見えるよう気をつける。焦りは、指先より先に背へ出る。こういうときこそ、几帳面ないつもの翠鈴でいなければならない。


 棚から昨日の控え束を取り出し、記録台の脇へ置く。


 雪麗妃宛て。第三皇子発。


 見つけるまでにそう時間はかからなかった。短い返書だった分、控えとしてもかさばらない。翠鈴は紙を開き、今朝の薄い光がまっすぐ当たる角度へ机を少しだけ寄せた。


 そして、昨朝侍女たちが持ち込んだ“現物”の文面を頭の中で呼び戻す。


 最初の礼。断りの芯。末尾の冷え。


 記憶頼りの照合にしたくはなかったが、あの一文だけはいやに鮮明だった。人を傷つける文は、ときに内容以上に温度で残る。


 控えの文を読む。


 やはり違う。


 翠鈴は目を細め、今度は最初から丁寧に追い直した。大きな構造は同じだ。礼を述べ、先方の気遣いへ触れ、必要な距離を置く。その流れ自体は変わらない。問題は、やはり最後の一文にあった。


 控えでは、断りは断りのままでありながら、相手の申し出そのものを土足で踏むような響きにはなっていない。受け取らぬ、しかし侮らぬ。少なくとも、蒼珀が今まで見せてきた“削るが逃げない”文の線の上にある。


 だが現物は違った。


 冷え方が一段深い。


 しかもその冷えは、“これ以上の誤解を防ぐ”ためのものではなく、“差し出した側だけを恥へ追い込む”方向へきれいに傾いていた。


 翠鈴は小さく息を吸った。


 昨夜、自分の中で言葉になった“責任の置き方”という見立てを、改めて紙の上で確かめる。


 蒼珀の文は、短い。だが、その短さのなかでも誰が何を引き受けるかは曖昧にしない。断るなら自分が断る。受け取らないなら、受け取らぬと自分の位置で書く。相手だけを寒い場所へ押し出して、自分は姿を消すような書き方ではない。


 雪麗妃へ届いた現物は、その逆だった。


 言葉は蒼珀の冷たさを真似ている。だが、その冷たさを誰が引き受けるかが薄い。書いた者は安全な場所に留まり、受け手だけに痛みが残る構造。だからこそ、あれは“殿下らしく見える”だけで、“殿下の文”ではない。


 翠鈴は控えを脇へ寄せ、昨日の記録台帳も引き寄せた。


 文の内容だけでなく、紙の扱いも見たかったのだ。


 台帳には、下書き作成、確認、写し、受け渡しの順が簡潔に残されている。雪麗妃宛ての返書も、文書房での通常手順を踏んでいるように見える。少なくとも記録上はそうだ。だが、記録が“そう書かれている”ことと、その間に誰の手も挟まらなかったことは同義ではない。


 翠鈴は控えの紙端を光に透かした。


 こちらは当然、文書房に残るための紙だ。折り返しも弱く、押し跡も浅い。対して昨朝見た現物は、一度開かれ、もう一度きつく畳み直されたような癖があった。端の押しも深く、しかも末尾近くの一行だけ、紙の伸び方が微妙に違った気がする。


 思い出しながら、翠鈴は指先で控えの同じ位置をなぞる。


 もし差し替えがあったとすれば、全文を書き換える必要はない。たった一文でよかったのだ。蒼珀らしい短い冷たさの形さえ真似れば、もともとの評判がその一文を補強してくれる。読む側は“あの方ならそう書く”と勝手に完成させてしまう。


 だからこそ、怖い。


 筆跡を完璧に真似る必要もない。評判が先に働くなら、冷たさだけ似せれば十分なのだ。


「翠鈴?」


 不意に声がして、翠鈴ははっと顔を上げた。


 蘭月が、いつものように紙束を抱えて立っていた。まだ朝の仕事が本格化する前で、彼女の声も抑え気味だ。だが目だけは、翠鈴がいつも以上に控えへ深く入り込んでいることに気づいている。


「そんなに見て、何かあった?」


 翠鈴は一瞬だけ迷った。


 まだ言うべきではない。けれど何もなかった顔をするには、蘭月は鋭すぎる。


「……少し、気になるところが」


「昨日の?」


 さすがに察しが早い。翠鈴は曖昧に頷くに留めた。


 蘭月はそれ以上踏み込まなかったが、机へ少し身を寄せて控えを覗き込むふりだけした。


「顔色、悪いわよ」


「悪く見える?」


「見える。あんた、文のことになると血の気を引かせるのよ」


 軽口めいた言い方だったが、その奥に本気の気遣いがあるとわかる。翠鈴は小さく息をついた。


「まだ確かめているだけ」


「なら、その“だけ”のうちにしておきなさいよ」


 蘭月は低く言って、抱えていた紙束を隣の机へ置きに行った。


 その背を見送り、翠鈴は再び控えへ目を戻す。


 そうだ。今はまだ、確かめているだけだ。


 けれど、確かめるほどに差は濃くなる。これは書き損じでも、急ぎの乱れでもない。文全体の意味を大きく変えないまま、受け手に残る痛みだけを増やす方向へ、意志を持って冷たくされている。


 間違いではなかった。


 あれはたしかに、どこかで誰かが、意志を持って冷たくした文だった。


 午前の文書房を抜ける口実は、いくらでも作れる。


 確認のための受け渡し、控えの照合、侍女頭への短い問い合わせ。文書房にいる者が外へ出ること自体は珍しくない。珍しくなるのは、どこへ行き、何を見て戻ってくるかだ。だから翠鈴は、あくまでいつもの用事のひとつの顔をして、雪麗妃の居所に近い廊下へ向かった。


 表向きの理由は、返書の扱いに関する確認だった。


 本当の理由は、昨日あの文が誰をどう傷つけたのかを、この目で確かめたかったからだ。


 雪麗妃の住まう一角は、後宮の中でも静かな場所にある。華やかさがないわけではないが、玉妃のあたりのような“見せるための美しさ”ではなく、音を立てぬよう整えられた気配が強い。置かれた花も淡く、香も薄い。病がちだと聞く主の暮らしに合わせているのだろう。


 廊下の角を折れる前から、人の気配が少しだけ重かった。


 高くはない、押し殺した声。侍女たちが何かを囁き合い、その合間に沈黙が落ちている。明るい場所で無理に明るく振る舞おうとするときの、あの不自然な切れ目だ。


 翠鈴は歩をゆるめた。


 ちょうど前方の障子が細く開き、中から湯を替えたらしい若い侍女が出てきた。昨日、文書房で涙の跡を残していた娘だ。彼女は盆を抱えたままこちらに気づき、一瞬ぎくりと肩を強ばらせた。


「文書房の……」


「確認があって参りました」


 翠鈴はそれ以上近づきすぎず、声も低く保つ。


 侍女はすぐには返事をしなかった。目の下がうっすら赤い。泣き腫らしたというほどではないが、夜のあいだきちんと眠れた顔でもなかった。


「雪麗妃さまのご様子は」


 問いかけると、侍女は困ったように口元を引き結んだ。


「……お変わりなく、と申したいところですが」


 その先を言いよどみ、視線が障子の向こうへ滑る。


 翠鈴もつられて、その隙間の奥へ目をやった。はっきり見えたわけではない。ただ、薄い帳の向こうに、人が静かに座している気配だけがあった。背筋は崩れていない。誰かに弱った顔を見せまいとする人の、きちんとした座り方だった。


 そのきちんとしすぎた静けさが、かえって痛々しい。


 中から、かすかな咳が聞こえた。


 すぐに控えめな声が重なり、たぶん別の侍女が「お加減はいかがですか」とでも尋ねたのだろう。返事はここまでは届かなかった。けれど、返せるほどには整えているのだとわかる。取り乱して泣き伏しているわけではない。だからこそ、余計に胸へ来るものがある。


 若い侍女が盆を抱え直し、小さく言った。


「雪麗妃さまは、お気になさっておられません、と……何度も」


 その「何度も」に、翠鈴は目を上げた。


 侍女は自分の言葉に気づいたように、すぐ唇を閉じる。だが遅かった。何度も言わなければならないほど、気にしているのだ。


「お気になさらぬように、とは申しますけれど」


 今度は少し年上の侍女が奥から出てきた。昨日、中央で返書を抱えていた女だ。今日は髪も衣も乱れていないが、その分だけ顔色の悪さが目立つ。


「お労わり申し上げるつもりだったのです」


 静かな声だった。責めているわけではない。ただ、それでも言わずにいられないものが滲んでいる。


「ご無理なさらぬように、というだけの文でした。それをお届けしただけなのに……まるで、こちらが何か差し出すこと自体、お心に障ったようで」


 最後のところで、言葉が少しだけ震えた。


 翠鈴は何も返せなかった。


 文書房の者としてなら、今この場で言えることは限られている。返しの文を整えましょうか。気持ちの落ち着く表現をご一緒に考えますか。そういう、形の話しかできない。


 だが目の前にあるのは、形にする前の傷だった。


 雪麗妃本人は、なおも障子の向こうで静かにしている。気丈であろうとしているのがわかる。おそらく侍女たちの前では崩れまいとし、侍女たちは主の前ではそれ以上取り乱すまいとしている。その均衡が、いまにも薄くひび割れそうに張っていた。


 若い侍女が、思わずというように呟いた。


「第三皇子殿下がああいうお方だと存じていても……」


 年長の侍女がすぐに目で制する。


 だがその一言で十分だった。


 “ああいうお方”。


 すでに文の外側にある評判が、傷の説明として使われている。あの返書は、ただの一通では終わらない。蒼珀の“冷たさ”の札をさらに厚くし、雪麗妃には“やはり拒まれた側”という形だけが残る。


 翠鈴は障子の向こうをもう一度見た。


 ほんのわずか、袖が動いた気がした。たぶん雪麗妃自身が、侍女たちの声に耳を澄ませているのだろう。自分のために皆が傷ついていることすら、きっとあの人には負担になる。


 そのとき、また小さな咳がした。


 強くはない。けれど、胸の奥を細く削るような咳だった。若い侍女がとっさに振り返り、盆を抱えたまま奥へ駆け戻る。年長の侍女も、翠鈴へ申し訳なさそうに一礼した。


「失礼いたします。確認でしたら、後ほどでも」


「……ええ」


 翠鈴も頭を下げた。


 引き留める理由はない。というより、ここに長くいるべきではないとようやく気づく。文書房の者がこの傷の場に立ち会いすぎるのは、別の意味で無遠慮だ。


 それでも足がすぐには動かなかった。


 たった一文で、人は死なない。


 けれど、その日一日をきちんと座っていることさえ難しくなることはある。差し出した気遣いが、相手に届かなかっただけではなく、差し出したことごと拒まれたように返ってきたなら、なおさらだ。


 翠鈴はようやく一礼して、その場を離れた。


 廊下へ出ると、さっきまでより光が明るく感じられた。にもかかわらず、胸の内だけが妙に重い。文の違和感を確かめたかったはずなのに、今そこにあるのはもっと単純な事実だった。


 あの一文は、誰かを確かに傷つけている。


 控えと現物の差は、紙の上だけの話ではなかった。冷たくされたのは文面ではなく、人の心だ。そしてその傷は、本人の胸の内だけに留まらず、侍女たちの顔にまで落ちている。


 翠鈴は文書房へ戻る道すがら、無意識に手を握りしめていた。


 見過ごしてよい違和感では、もうなくなっていた。


 一文で人は死なない。

 けれど、たった一文で、その日一日を立っていられなくなることはある。


 文書房へ戻ってからもしばらく、翠鈴は手元の紙にうまく意識を戻せなかった。


 雪麗妃の居所で見た静けさが、目の奥に残っている。泣き伏しているわけではないからこそ痛々しい、あの無理に整えられた気丈さ。返書の差し替えがただの事務上の不備ではなく、人の一日を、ひいては立場そのものを静かに削るものだと、改めて突きつけられた気がした。


 気づかなければよかったのかもしれない、と一瞬だけ思う。


 だが、見てしまったものは戻らない。控えと現物の差、責任の置き方の違い、そして雪麗妃の傷。そこまで揃ってなお黙るなら、もうそれは慎重ではなく、見ないふりだ。


 翠鈴は昼の仕事を一通り片づけると、控えの受け渡しを口実に第三皇子区画へ向かった。


 景悠に話すべきだと決めたのは、勢いではない。蒼珀へ直接言えば、昨日と同じように“誤解を正すことの意味”へ話がずれてしまう気がした。景悠なら、少なくとも経路と記録という現実の側から見てくれる。そう考えた。


 第三皇子区画の控えの間は、昼を過ぎてもやはり静かだった。


 文書房の静けさが紙の擦れる音で成り立っているのに対し、こちらの静けさは人が自分の足音まで管理しているような沈黙だ。翠鈴は案内の女官に用向きを伝え、人目の少ない書類受け渡しの小部屋へ通された。


 ほどなくして景悠が現れる。


「何だ」


 挨拶のあとに続いたその一言は、ぶっきらぼうというより、最短距離だった。余計な枕詞を許さない人なのだと、翠鈴ももうわかっている。


「少し、お伝えしたいことがございます」


「文の件か」


 翠鈴は一瞬だけ目を上げた。景悠は表情を変えない。


「お前がそこまで顔を固くするのは、文のときだけだ」


 嫌味ではなかった。ただの観察だ。その事実の言い方に、かえって余計な逃げが利かなくなる。


 翠鈴は息を整えた。


「雪麗妃さまへ届いた返書でございます」


 景悠は扉の方へ一度だけ視線をやり、音もなく戸を半分閉めた。完全に密談の形にするほどではないが、人の出入りの気配を薄くする程度の閉め方だ。


「続けろ」


「控えと現物に差がございました」


 景悠の顔に変化はない。だが、すぐに否定もされなかった。それだけで話を続けやすくなる。


「最後の一文だけが、より冷たく、相手の申し出そのものを退けるような形へ寄っております」


「写し間違いではなく」


「その可能性も考えました」


 翠鈴は急がずに言った。


「ですが、単純な誤写にしては、意味の動く方向が整いすぎております。しかも、控えの文と比べると、現物は“冷たさ”だけが強くなっております」


 景悠は腕を組みもせず、ただ立ったまま聞いている。


「冷たさだけ」


「はい」


 翠鈴は続ける。


「殿下の文は短うございます。冷たく見えることもあるかと存じます。ですが、今日拝見した文は、どれも責任の置き方が曖昧ではございませんでした。断るにしても、引き受ける位置からは退いておられない」


 景悠の目が、そこでほんのわずかに動いた。


「雪麗妃さまの返書は、そこが違いました。冷たくはございます。ですが、その冷たさを誰が引き受けるかが薄いのです。相手だけを寒いところへ置き、書き手は後ろへ下がるような形で」


「主観だな」


 返ってきた言葉は短かった。


 だが、頭ごなしの切り捨てではなかった。現時点での弱さを確認されたのだとわかる。


 翠鈴は頷いた。


「はい。文の読みとしては、主観と申されても仕方ございません」


 そこで終わらせず、さらに一歩だけ踏み込む。


「ですが、控えと現物の差は事実です」


 景悠は黙る。


「また、現物の紙には折り直したような癖がございました。末尾近くの押しも、やや深うございます」


「見たのか」


「昨朝、侍女たちが持参した現物を」


「記憶違いの可能性は」


「ございます」


 翠鈴はそれも認めた。


「ですから、断定はできません。ですが、控えの一文だけが都合よく“より冷たく見える形”へ動いております。しかも、雪麗妃さまは実際にその文で深く傷ついておられました」


 雪麗妃の名を出したところで、景悠の視線が少しだけ沈んだ。情に流される人間ではないだろう。だが、被害の現実そのものを軽んじる顔でもない。


「雪麗妃の様子を見たのか」


「はい」


「勝手にか」


 その問いに、翠鈴は一拍だけ言葉を選んだ。


「確認のために」


 景悠は小さく息をついたが、咎めはしなかった。


「で」


 その一音で、続きを促される。


 翠鈴は机の端に揃えられた紙へ一度だけ視線を落とした。


「今朝、控えをさらに見返しました。少なくとも今回は、ただの写し損じではないように思えます」


「思える、では足りん」


「存じております」


「ならば何がある」


 ここが一番難しかった。


 推測を言いすぎれば軽くなる。だが、何も示せなければ、ただ差がありましたで終わる。


 翠鈴は静かに言った。


「経路でございます」


 景悠の目が、今度ははっきりこちらへ向いた。


「控えは残っております。現物だけが違うなら、文書房を出た後にどこかで手が入った可能性がございます」


「可能性」


「はい」


「そのどこかを、お前は見たのか」


「いいえ」


「ならば」


「だからこそ、お伝えに参りました」


 言ったあと、翠鈴はようやく自分の声が少し強くなっていることに気づいた。雪麗妃の様子を見たあとだからだろう。いつもなら、もっと平らに言ったはずだ。


 だが景悠はそこには触れなかった。


 しばらくの沈黙のあと、彼は窓際へ半歩だけ移り、低く言う。


「証には足りない」


 予想していた通りの言葉だった。それでも胸のどこかが少しだけ冷える。


「はい」


「だが」


 続いたその一語に、翠鈴は顔を上げた。


「お前がそこまで言う以上、文だけの話として捨てるのも早い」


 それは信じる、ではない。だが、切り捨てるとも言っていない。


 景悠は指先で机を軽く叩いた。


「経路は私が見る」


 翠鈴は息を呑むほどではないにせよ、胸の内で少しだけ張りつめていたものがほどけるのを感じた。


「お前は」


 と、景悠が続ける。


「表立って騒ぐな。誰にも言うな。見ろ、覚えろ、だが動くな」


「……承知しました」


「できるか」


 問いは確認というより警告に近い。


 翠鈴はまっすぐ頷いた。


「できます」


 景悠は数秒だけ翠鈴の顔を見ていたが、やがて短く言った。


「ならいい」


 それだけ言って、彼は閉じかけた戸の方へ向き直る。話は終わりらしい。


 だが翠鈴が一礼して下がろうとしたところで、景悠がもう一度だけ声を落とした。


「お前の見立てが正しいかどうかは、まだわからん」


「はい」


「だが、控えと現物の差は、紙の上に残る」


 その言葉は、感情を抜いた事実のはずなのに、妙に心へ残った。


 紙の上に残る。


 それはつまり、自分が見たものは幻ではないということだ。証拠にはまだ足りなくても、少なくとも“見間違いで片づけて終わり”ではない。


 翠鈴は深く頭を下げた。


 小部屋を出ると、回廊の光が少し白く見えた。安心したわけではない。むしろ、これで本当に引き返せなくなったとも言える。だが、一人で抱えているだけの状態ではなくなったのも確かだった。


 信じられたわけではない。

 けれど、切り捨てられもしなかった。

 それだけで、今は十分だった。


 景悠へ話を通したあとも、翠鈴の胸の内は静まらなかった。


 切り捨てられなかったことに安堵はある。だが、それで何かが解けたわけではない。経路は景悠が見ると言った。ならば自分は待つべきなのか。文の違和感も、雪麗妃の傷も、ひとまず景悠の手へ預けて、下級女官の分を越えぬように黙っているべきなのか。


 理屈では、そうだった。


 だが、どうしても蒼珀本人に伝えずにいることが、妙に落ち着かなかった。あの返書は、蒼珀の“冷たさ”を借りて誰かを傷つけている。その冷たさの名を使われている当人が、何も知らぬままでいてよいはずがない――そう思ってしまったのだ。


 それが正しい慎重さでないことは、翠鈴にもわかっている。


 景悠は経路を見ると言った。証拠は薄い。蒼珀へ今この段階で話せば、また“誤解を解く意味”や“信頼とは何か”へ話が逸れるかもしれない。あるいは、もっと悪く、余計な主観として片づけられるかもしれない。


 それでも、会わずにいられなかった。


 午後の執務が一段落したころ、翠鈴は文案の確認を口実に蒼珀の執務室へ入った。扉の向こうはいつも通り整っている。机の上に余分な紙はなく、筆も硯も必要な分だけが置かれ、窓辺の光すらどこか無駄なく差しているように見えた。


 蒼珀は席にいた。


 書冊を閉じるでもなく、ただこちらを見上げる。その視線だけで、余計な前置きは要らぬと言われた気がした。


「何だ」


 低い声が落ちる。


 翠鈴は礼を取り、顔を上げた。


「雪麗妃さまへお届けされた返書の件で、お伝えしたいことがございます」


 蒼珀の目が、ほんのわずかに細まる。


 だが驚いたような色はない。第三皇子という立場にある人間なら、後宮の小さな波紋くらいはとっくに耳に入っているのだろう。あるいは、もっと前から別の形で知っているのかもしれない。


「続けろ」


 翠鈴は息を整えた。


「控えと現物に差がございました。末尾の一文だけが、控えよりも強く、相手を拒む形に寄っております」


 蒼珀は黙って聞いている。


「拝見した文と、今こちらで整えた文を比べますと、違いは筆跡よりも、責任の置き方にございます」


「責任」


「はい」


 翠鈴は自分でも驚くほど、言葉を慎重に選んでいた。責めたいわけではない。蒼珀に“あなたの評判が悪いからです”とでも言うような粗雑さは、どうしても避けたかった。


「あの返書は、冷たくございます。ですが、殿下のお文のように、断るにしても引き受ける位置を明るくする冷たさではございません」


 蒼珀の視線が少しだけ深くなる。


 翠鈴は続けた。


「相手にだけ痛みが残り、書き手は後ろへ退く形に見えました。控えとは違います」


 しばらく沈黙が落ちた。


 否定も、同意もない。ただ、翠鈴の言葉を机の上へ置いて、その重さを量っているような静けさだった。


 やがて蒼珀が言う。


「それで」


 たった二音だったが、その先を問われているのはわかった。


「差し替えがあった可能性がございます」


「可能性」


「はい。断定はできません」


 翠鈴は認める。


「ですが、雪麗妃さまは実際に深く傷ついておられました」


 そこで初めて、蒼珀の指先が机上でわずかに止まった。


「見たのか」


「はい」


「誰の許しで」


 問いは厳しかったが、声は上がらない。だからこそ、翠鈴も逃げる言い方をしたくなかった。


「確認のために参りました」


「勝手に」


「……はい」


 蒼珀はそれを咎めるでもなく、ただ一度だけ息を落とした。


「それで、傷ついていたから何だ」


 その一言に、翠鈴は一瞬だけ言葉を失いかけた。


 冷たい、と感じるより先に、その問いの奥にある考え方が見えた。傷ついた事実そのものを軽んじているのではない。傷ついたというだけで、文の真偽や差し替えの有無は証明されない、と言っているのだ。


 それでも、翠鈴は引けなかった。


「傷ついたから申し上げているのではございません」


 蒼珀は何も言わない。


「傷つける文であることが、あまりに“殿下らしく見えすぎる”から申し上げております」


 そこまで言って、翠鈴は自分の鼓動が少し速くなったのを感じた。


「殿下の評判を知る者であれば、あの一文を見て“やはりそういう方だ”と読みます。だからこそ、差し替えられたとしても気づかれにくい」


 執務室の空気が、ほんのわずかに張った気がした。


 蒼珀は相変わらず表情を変えない。けれど、視線だけはいつもより深く、まっすぐこちらを見ていた。


「正してどうなる」


 唐突に、そう問われた。


 翠鈴は意味を測りかねて一瞬黙る。


「……どうなる、とは」


「雪麗妃に、あれは私の文ではないと伝えてどうなる」


 その問いの冷たさに、翠鈴はわずかに息を詰めた。


 やはり来た、と思った。昨日、自分の中で恐れていた方向だ。文の違和感や差し替えの可能性ではなく、その先、“誤解を解くこと”そのものの意味を問われる。


 翠鈴は、言葉を探しながら答えた。


「少なくとも、受け取った傷が、殿下ご自身のお心から出たものではなかったと知れば――」


「知れば、何だ」


 蒼珀の声は平らだった。


「その場は救われるかもしれぬ。だが次はどうする。次の文で、また別の誰かが違う解釈をすれば、また正すのか」


 翠鈴は口を閉ざした。


 蒼珀は続ける。


「正して得る信頼は、次の偽りに弱い」


 その言葉は、まるで最初から自分の中で何度も繰り返してきた結論のように落ちた。


「誤解で離れる相手を、私は引き留めぬ」


 静かな声だった。怒りでも、諦めでもない。だが、その両方を使い切った後に残る乾いた確かさがあった。


 翠鈴は胸の奥が重くなるのを感じた。


 この人は、やはりそう考えるのだ。傷つけたいからではなく、誤解を解くこと自体を、すでに信じていない。期待を持たせるくらいなら、最初から冷たいままでいた方がましだと。


 けれど、それでは。


「……それでは」


 思わず声がこぼれる。


 蒼珀が視線だけで促す。


「それでは、傷ついた方は、傷ついたままです」


 言ってしまってから、自分の声がいつもより硬いことに気づく。


「雪麗妃さまが何を信じるかはともかく、少なくとも、あの文は殿下の文として広がります。殿下が本当にそうお書きになったと」


「それで」


「それで、殿下はそれをそのままになさるのですか」


 問いかけになったところで、翠鈴ははっとした。


 蒼珀を責めたいわけではなかった。だが、どうしてもこの考え方だけは、理解できても受け入れられなかった。


 蒼珀はしばらく黙っていた。


 怒っているようには見えない。むしろ、もっと遠いところを見ているような静けさだ。その沈黙が、かえって翠鈴にはつらかった。否定される方がまだ楽だったのかもしれない。


 やがて蒼珀が言う。


「そのままにする」


 翠鈴は息を止めた。


「信じたい者は、文ひとつで揺らがぬ。揺らぐ者は、正したところで次にまた揺らぐ」


「ですが――」


「だから私は、最初から余計なものを足さぬ」


 その声に熱はない。けれど、熱がないからこそ、それが一時の意地ではなく、深く根を下ろした考え方なのだとわかる。


 翠鈴は拳を握りしめたくなるのをこらえた。


 傷つけるつもりがないことは、もうわかっている。蒼珀が好んで冷たくしているわけでもない。むしろ逆だ。無用な期待で誰かを壊すくらいなら、自分が冷たく見られる方を選んでいる。


 それでも。


「私は」


 言葉が先に出た。


「私は、それでは書かれた嘘の方が勝つと思います」


 言い切った瞬間、執務室の空気が一段だけ静まった気がした。


「私は、それでは書かれた嘘の方が勝つと思います」


 言葉が落ちたあと、執務室はひどく静かだった。


 大声を出したわけではない。机を叩いたわけでもない。けれど、その一文だけで、先ほどまでとは別の緊張が部屋の中に立ち上がったのがわかった。自分でも、言い過ぎたかもしれないと思う。下級女官が、第三皇子の考え方に対して、ほとんど否定の形で言葉を置いたのだから。


 だが、引っ込めることはできなかった。


 蒼珀はすぐには何も言わなかった。怒りも、驚きも、あからさまには見せない。ただ、先ほどまでよりほんの少しだけ深く、翠鈴を見ていた。その視線の静けさがかえって苦しい。


 翠鈴は唇を結んだ。


 自分が感情に任せていることはわかっていた。雪麗妃の居所で見た静かな傷つき方が、まだ胸から抜けていない。文の差し替えが理屈の話だけでは済まぬものだと、目で見てしまった。だからこそ、蒼珀の「そのままにする」という結論が、どうしても飲み込めない。


 けれど同時に、蒼珀の言い分にも理があることもわかっていた。


 誤解で揺らぐ信頼は弱い。正して手に入れた理解が、次の噂ひとつで崩れるなら、それは最初から頼るに足らぬ。期待を持たせるくらいなら、冷たいままでいる方がまだましだ――そういう考え方にたどり着くまでの傷も、翠鈴は少しずつ知っている。


 だからなおさら、苦しかった。


 理解できるのに、受け入れられない。


 それが、いちばん始末が悪い。


 やがて蒼珀が口を開いた。


「勝たせておけばよいものもある」


 その言い方はあまりにも平らで、翠鈴は一瞬、意味を取り損ねた。


「……よい、もの」


「すべてを正す必要はない」


 翠鈴は思わず一歩だけ詰め寄りそうになり、かろうじてその場にとどまった。


「ですが、あれは――」


「雪麗妃を傷つけた」


 先に言われて、翠鈴は口を閉じる。


 蒼珀は視線を逸らさなかった。


「それは知っている」


 その一言に、逆に胸が詰まった。


 知っている。


 ならばなおさら、どうして――そう問い返したいのに、言葉がうまく続かない。蒼珀は雪麗妃の痛みを知らぬわけではない。軽く見ているのでもない。そのうえでなお、“正さない”を選ぶ。その隔たりが、翠鈴にはどうしても遠く感じられた。


「知っておられて、なお、そのままに」


 ようやくそう言うと、蒼珀はほんのわずかに目を伏せた。疲れにも似た、一瞬の影が差す。


「正して、何を返せる」


 低い声だった。


「傷ついたことを、なかったことにできるか」


「できません」


 翠鈴は即座に言った。


「ですが、殿下ご自身がそうお考えになったのではないと伝われば――」


「伝われば、次はどうなる」


 また、その問いに戻る。


 翠鈴は息を詰めたまま答える。


「少なくとも、書かれたものがすべてではないと」


「それを信じる者だけが残る」


「それでよいのですか」


「よい」


 きっぱりと返された。


 その一音に揺らぎはなかった。だからこそ、翠鈴の胸の内で何かがきしんだ。


 蒼珀は、誰かに理解されたいがために文を書く人ではない。誤解されぬために削るが、誤解されたあとに追いかけて解くことまでは望まない。そこへ希望を置かない。置けないのかもしれない。だが翠鈴には、その切り捨て方がどうしても痛く感じられた。


「私は」


 言葉がまた先に出る。


「私は、違うと思います」


 蒼珀の目がわずかに細まる。


「どこが」


「傷ついた方がいるなら、その傷の理由が、ご本人の本意ではなかったと伝えることには意味がございます」


「意味」


「はい」


 翠鈴は自分でも驚くほど、声を抑えていた。怒鳴りたいわけではない。ただ、引きたくないのだ。


「すべてが戻らなくても、違うと知るだけで残るものがございます。何も申し上げなければ、“やはりそういう方だった”だけが残ります」


 蒼珀は沈黙した。


 その沈黙は、いつものような“考えている静けさ”とも少し違った。返す言葉を選んでいるのではなく、返さぬことも含めて量っているような重さがある。


 翠鈴はそこで初めて、自分がかなり踏み込んでいるのだと実感した。


 文の良し悪しではない。語の置き方でもない。蒼珀がどう生きるか、そのやり方の根へ触れようとしている。下級女官の分を越えているのかもしれない。景悠がいたら、おそらく止めただろう。


 だが、もう引けない。


 雪麗妃の静かな咳が、侍女たちの顔が、頭の奥に残っている。文が人を傷つけるのは当たり前だと割り切れるほど、翠鈴は文から遠くなれなかった。


「お前は」


 蒼珀がようやく言った。


「文に救いを求めすぎる」


 その一言は、責めるというより、淡々とした観察のようだった。


 翠鈴は息を飲んだ。


 救い。


 たしかに自分は、残す一文、鈍らせる語、受け手の面目、そこに小さな救いを見てきた。文そのもので人を助けられるなどと大仰に信じているわけではない。けれど、傷を増やさぬ形はあると思っている。文の置き方次第で、同じ断りでも残る痛みの質は変わる。その差を見てきたからこそ、この仕事をしてきた。


「殿下は、文に何も求めておられないのですか」


 問い返すつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。


 蒼珀は、そこで初めてほんのわずかに眉を動かした。


「求めている」


「では」


「誤解を増やさぬことだけだ」


 その答えは、まっすぐで、硬かった。


 翠鈴は唇を噛みそうになるのをこらえる。


 増やさぬこと。たしかにそれも大切だ。むしろ後宮では、何より大切かもしれない。だが、増やさぬことのために、すでに負わされた傷まで置いていくのなら――。


 その思いが顔に出たのだろうか。蒼珀はそれ以上言わなかった。


 咎めもしない。説き伏せようともしない。ただ、こちらを見ている。その静けさが、翠鈴にはかえってつらかった。怒られた方がよかったのかもしれない。立場を弁えろと切られてしまえば、ここまで胸の内が残らずに済んだのに。


「……出過ぎたことを申しました」


 ようやくそれだけ絞り出すと、蒼珀は少し間を置いて言った。


「そうだな」


 否定しない。


 だが、その声に冷えた刃はなかった。そこがまた、翠鈴には苦しかった。


 蒼珀は視線を机上の文束へ戻した。


 それで会話は終わったのだとわかる。下がるべきだ。これ以上いても、もう文ではなく感情だけが残る。


 翠鈴は礼を取った。背を向ける直前まで、何かもう一言あるのではないかと、心のどこかで待ってしまう自分がいるのが情けない。だが何も落ちてこなかった。


 執務室を出て扉が閉まると、翠鈴はようやく浅く息を吐いた。


 声を荒げたわけではない。

 それでも、そのとき交わした数語は、どんな大きな物音よりはっきりと私の胸に残った。


 その日の文書房は、仕事を終えるころになっても、どこか息が浅かった。


 実際に忙しかったのかもしれない。返書の確認が重なり、受け渡しの記録も多かった。けれど翠鈴には、それだけではない疲れが肩に乗っている気がした。蒼珀とのやりとりのあと、胸の内に残った言葉が、紙より重く沈んでいる。


 文に救いを求めすぎる。


 あの一言は、咎められたというより、見抜かれたようで痛かった。翠鈴はたしかに、文にすべてを託しているわけではない。だが、少なくとも“置き方によって傷の質は変わる”と信じてきた。そうでなければ、この部屋で毎日、人の詫びや願いを整える意味が薄くなってしまう。


 けれど今は、その信じ方そのものより先に、確かめなければならないことがある。


 雪麗妃の返書が一件だけの偶然か、それとももっと前から続いていた“揺れ”なのか。


 仕事の終わりを告げるように、女官たちが少しずつ筆を洗い、紙束を明朝の位置へ移していく。蘭月が「今日はもう目が滑る」とこぼしながら控え台帳を閉じるのを聞き流しつつ、翠鈴は最後に残った確認仕事を自分で引き取った。


「もういいんじゃない?」


 蘭月が何気ない声で言う。


「それ、明日でも」


「少しだけ」


 翠鈴はそう答え、控え棚の前へ立った。


 蘭月は何か言いかけて、結局は黙った。朝からの翠鈴の気配がいつもより固いことに、彼女も気づいているのだろう。だが詮索せず、先に茶碗を片づけに行く。その距離の置き方がありがたかった。


 控え棚の鍵を開ける。


 昼間は人目があるぶん、見られる側の意識が残る。だが、仕事終わりの文書房は違う。誰もがそれぞれの疲れを持ち帰り始め、残る者の手元まで注意を向ける余裕が薄い。この静けさの方が、翠鈴にはかえってやりやすかった。


 昨日と今日の束だけではない。もう少し遡る。


 蒼珀発の返書、あるいは蒼珀名義で文書房に写しが残っているものを、時期も相手もばらしながら取り出していく。多すぎるわけではないが、少なくもない。短い文が多いぶん、一通一通の差は目立ちにくい。それでも、同じ書き手の文には必ず癖が出る。主語の置き方、断りの入れ方、礼の厚み、残す余白。何通も見れば、輪郭ができる。


 翠鈴は一通ずつ目を通していった。


 最初は何もないように見える。


 違和感を探そうと思えば、どんな文にも小さな揺れは見つけられる。人の手が入る以上、それは当たり前だ。だからこそ、“揺れ”そのものではなく、“どちらへ揺れているか”を見なければならない。


 やがて、一通目が目についた。


 ある妃付きへの簡潔な返書。文そのものは問題ない。だが末尾の語だけが、控えの他の文と比べて、やや強く相手の非をにおわせる。次に見た一通では、礼の位置が半歩ずれ、受け手に残る寒さが増している。さらにその次では、断りの理由はそのままなのに、最後の一言だけが“切る”方へ寄っていた。


 どれも小さい差だった。


 一件ずつ見れば、書き損じや写しの揺れとも言い張れる程度。だが、三つ、四つと並ぶと、偶然にしては方向が揃いすぎている。


 すべて、蒼珀をより冷たく見せる方へ。


 責任の置き方を少し薄くし、受け手だけが痛みを抱えやすい方へ。


 翠鈴の指先が、紙の端で止まる。


 昨夜と同じ冷えが、今度はもっと明確な形で背を這い上がってきた。


 ひとつではなかった。


 雪麗妃の返書だけではない。大きく騒ぎにならなかっただけで、これまでにも何度か、“蒼珀らしい冷たさ”に見えるよう整えられた揺れが混ざっている。しかも、揺れの方向がすべて同じだ。偶然なら、もう少しばらける。強くなったり弱くなったり、礼が厚くなりすぎたり、別の不自然さが出たりする。だがここにある差は、ひどく素直に“冷徹な第三皇子”という顔を補強する側へだけ傾いていた。


 つまり。


 評判の上へ、文が少しずつ塗り重ねられていたのだ。


 “あの方ならそう書く”。


 そう思われやすい冷えを、一通ごとに薄く足していく。それは一回では足りない。だが、何度も重ねれば、いつしか本物の印象になる。文を受け取った者は傷つき、その傷が噂へ変わり、その噂が次の文を読む前提になる。そうやって、冷徹という顔は紙の上でも育てられていく。


 翠鈴は思わず、机へ片手をついた。


 紙が薄い。なのに、その薄さの上へ積もるものはこんなにも重い。


「……まだいたの」


 背後からの声に、翠鈴は肩を跳ねさせた。


 蘭月だった。もう帰り支度を済ませていたらしく、肩に上掛けを掛けている。いつもの軽さを残しながらも、声はかなり抑えられていた。翠鈴が振り向くと、蘭月は棚から出した控えの束と、机上の広げ方を見て、眉をひそめる。


「何通見てるのよ、それ」


「少し……確かめたいことがあって」


「少し、って顔じゃないわよ」


 蘭月は机へ近づきかけて、しかし紙面までは覗かなかった。そのへんの距離感は心得ている。


「翠鈴」


 呼びかけが、朝より少しだけ真面目だった。


「何を見つけたの」


 翠鈴はすぐには答えられなかった。


 まだ誰かに言い切れるほど、証が揃っているわけではない。けれど、自分の中ではもう疑いでは済まない。蘭月へ話せば、きっと黙っていてくれるだろう。だが、口にした瞬間に形がはっきりしすぎる気もする。


 迷っていると、蘭月が先にため息をついた。


「言えないなら、今は言わなくていい」


 それから、少しだけ視線を落として続ける。


「でも、ひとりで顔色なくすほどのものなら、ほんとに気をつけなさいよ」


 翠鈴はようやく小さく頷いた。


 蘭月はそれ以上何も聞かず、「先に出るね」とだけ言って戸口へ向かった。去り際、一度だけ振り返る。


「帰るとき、ちゃんと灯り持っていきなさい」


 その何気ない一言に、翠鈴はかすかに息をついた。後宮では、こういうささやかな気遣いの方が、長く残ることがある。


 戸が閉まり、再び文書房にひとりになる。


 翠鈴は机上の控えを見下ろした。


 ひとつではなかった。


 しかも、偶然でもない。


 第三皇子の冷たさは、書かれた文によって、少しずつ、正しい顔に見えるよう整えられていたのかもしれなかった。

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