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後宮代筆女官は、冷徹皇子の心だけを読めない  作者: swingout777


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第10章 自分の言葉で

 審議が終わって数日すると、後宮は表向きの静けさを取り戻し始めた。


 何もかもが元通りになったわけではない。

 けれど、後宮という場所は、乱れたままを長く表へ出してはおかない。

 文の流れは整え直され、受け渡しの順はあらためて見直され、控えの扱いにも新しい確認が一つ二つ増えた。

 変わったのはほんの少しの手順だけに見える。

 だが、そういう“少しだけ”の積み重ねこそが、この場所の秩序なのだと翠鈴は思った。


 文書房でも、机の上の景色は以前とよく似ている。


 控え束の紐、帳面の並び、朝いちばんの湯気。

 誰かが大声で審議のことを語るわけでもない。

 雪麗妃の返書騒ぎも、宴席で止まった一通も、もう口にする者は少ない。

 その代わり、紙を受け取る手つきだけが少し慎重になった。

 差し出す前に、もう一度順を確かめる。

 印を押したあとで、癖のように位置を見直す。

 それは恐れというより、みなが一度“文が乱れると何が起きるか”を身近に見てしまったからだろう。


 蘭月が帳面を閉じながら言う。


「前より、みんな紙に触る時の顔がまじめになったわね」


 翠鈴は控えの束を揃えたまま、小さく頷いた。


「悪いことではないと思う」


「悪くはないわよ。肩こるけど」


 蘭月はそう言って肩を回した。

 軽い調子だが、彼女自身も以前より目をよく使うようになっているのがわかる。

 香蓮の姿を見かけたとか、外廷に近い侍女の出入りが減ったとか、そういう流れの話を、今では蘭月も以前より少ない言葉で伝えてくる。

 茶化すことをやめたわけではない。

 ただ、必要な時に必要なことだけを拾うようになった。


 雪麗妃の一角から届く文も、以前より少しだけ落ち着いて見える。


 痛みが消えたわけではないだろう。

 けれど少なくとも、“あれは蒼珀の本意そのものではなかった”という空気が、直接の言葉より先に静かに広がったらしい。

 侍女たちの文面に、あの日のような怯えの硬さがもう前ほどは残っていない。

 それだけで十分とは言えない。

 だが、まったく何も変わらなかったわけでもない。


 蒼珀に向けられる視線も、ほんの少しだけ変わった。


 “冷徹一色”の札が消えたわけではない。

 そんなに簡単に人の評判は変わらない。

 ただ、あまりにも整いすぎた悪評を、そのまま信じきる者が少し減った。

 “やはりそういう方だ”と片づける前に、一拍置く人が出てきた。

 その一拍があるだけで、後宮では十分大きい。


 文書房の朝の手順を終えたあと、翠鈴は机へ座って硯の蓋を閉じた。


 いつも通りのはずなのに、妙な空白が残る。


 大きな場を越えたあとは、たいていそうだ。

 忙しさの中では見えなかったものが、静かになった途端に輪郭を持つ。

 今の翠鈴に残っているのは、疲れよりも“まだ終わっていない”という感覚だった。


 事件としては、一応の形を見た。

 文の流れも、表向きには整え直された。

 控えも、受け渡しも、以前より少し厳格になった。

 蒼珀の文の人格も、公の場でひとつ言葉にされた。


 それなのに、自分の中だけが、まだ結ばれていない。


 蒼珀に「お前がいてよかった」と言われたこと。

 名を呼ばれたこと。

 夜更けの執務で、支えられた腕の感触。

 “人を救う言葉を知らぬ”と零したあの低い声。

 どれも仕事の整理の中には入らない。

 だからこそ、終わった後にだけ残る。


 蘭月が横から紙束を置く。


「また怖い顔してる」


「してた?」


「してる。

 審議のあとより、むしろ今の方が考え込んでる顔」


 翠鈴は少しだけ目を伏せた。


 図星だった。

 審議の前までは、とにかく前へ進むしかなかった。

 見るべき文があり、追うべき流れがあり、止めるべき一通があった。

 今は違う。

 静かになったからこそ、自分の内側に残ったものを見ないわけにいかない。


 蘭月はそれ以上詮索せず、ただぽつりと言った。


「仕事が終わったあとに残るものの方が、案外やっかいなのよね」


 その言葉に、翠鈴はかすかに息をついた。


 そうだ。

 終わったはずなのに、自分の中だけが終わらない。

 それは事件の余波ではなく、自分の言葉がまだどこにも置かれていないからなのかもしれない。


 事件は終わった。

 文の流れも、表向きは整った。

 それなのに私の中だけが、まだ一文も結ばれていないまま取り残されていた。


 数日後、文書房へ正式な打診が届いた。


 紙の上では簡潔なものだった。

 文書係としての働きが認められ、今後は第三皇子区画との往来を含めた、より重い文の確認役として名を置くことが考えられている――要するに、今までの“臨時”より一歩進んだ役目の話だった。


 責任者はその文を読み終えると、珍しくほんの少しだけ笑みを見せた。


「よかったじゃない。これはもう、ただの手伝いじゃ済まないわよ」


 周囲の女官たちも、表立って騒ぐほどではないにせよ、どこか納得した顔をする。

 審議で前へ出たことも、宴席の文を支えたことも、文書房の中ではもう知らぬ者の方が少ない。

 だからこの話は意外ではなく、むしろ“そうなるだろうと思っていた”種類のものとして受け取られた。


 蘭月が真っ先に言った。


「ほらね。あんた、どう考えてもそこで終わる顔してなかったもの」


 翠鈴は文を受け取ったまま、小さく息をついた。


 本来なら、うれしいはずだった。


 文書房にいる女官にとって、役目が定まり、扱う文の重みが増すことは、ただ負担が増えるだけではない。

 見てきた手つきや目が、仕事として認められたということでもある。

 しかも相手は第三皇子区画だ。気が抜けぬ場所ではあるが、文の質そのものを求められる場所でもある。

 以前の翠鈴なら、望みすぎぬよう気をつけながら、それでも確かに喜んだだろう。


 だが今は、その文を前にして胸が軽くならなかった。


 責任者が言う。


「返事は急がなくていいけれど、遅くもできないわ。

 皇后さま側の意向も入ってる話だから」


 その一言に、さらに重さが増す。

 ただの配置換えではない。

 皇后の審議を経た上で、“ここへ置くべきだ”と判断された役目なのだ。


 翠鈴は深く礼を取った。


「少し……考えさせてください」


「もちろん」


 責任者は不思議そうではあったが、無理に勧めはしなかった。

 文書房に長くいる者ほど知っている。

 仕事の話と、人の心の定まり方は、同じ速度では進まない。


 その日、昼の短い休憩に入っても、翠鈴は茶碗を持つ手が落ち着かなかった。


 文書房の裏手の茶場はいつも通り静かだ。

 湯の匂い、木の机、薄い光。

 なのに、今はそこが妙に遠く感じる。


 蘭月が向かいへ座る。


「で」


 その一語だけで十分だった。


 翠鈴は文を畳んだまま、しばらく黙っていた。

 何が引っかかっているのか、自分でもわかっている。

 これは悪い話ではない。

 役に立ってきたことの延長だ。

 第三皇子区画で文を見ることも、もう慣れ始めている。

 なのに、うなずいてしまうことが、なぜか怖い。


 蘭月が茶をひと口飲み、言う。


「うれしいくせに、うれしい顔してない」


 翠鈴は苦く笑いそうになった。


「そう見える?」


「見える。

 うれしいのに、それだけじゃない時の顔」


 さすがだと思う。

 蘭月はいつも、言葉にする前の形を拾う。


 翠鈴は小さく息をついた。


「……このまま受ければ」


「うん」


「私はたぶん、ずっと“役に立つ人”としてそこにいられるの」


 蘭月は何も言わずに待った。


「文を見て、整えて、必要なところで支えて。

 それは私にできることだし、たぶん間違ってもいない」


「うん」


「でも、それだけで済ませてしまう気がするの」


 蘭月の指先が茶碗の縁で止まる。


 翠鈴は視線を落としたまま続けた。


「蒼珀さまのそばにいる理由を、全部“仕事だから”にしてしまえる」


 そこまで言って、自分の胸の内がようやくはっきり見えた気がした。


 そうだ。

 それが怖いのだ。


 役目が定まれば、近くにいる理由ができる。

 紙を持って行く理由、確認に入る理由、遅くまで残る理由。

 どれも正しい。

 どれも誰にも咎められない。

 そして、その正しさの中へ隠れてしまえば、自分はたぶんずっと“文書係として必要な者”のままでいられる。


 それは安全だ。

 傷つかずに済む。

 蒼珀のそばにもいられる。

 けれど、そこで終われば、自分の本当の言葉は一生どこにも置かれない。


 蘭月が静かに言った。


「それって、逃げたいってこと?」


 翠鈴は少し考えてから、頷いた。


「たぶん」


 その一言が出た途端、胸の奥が少し痛んだ。


 自分はずっと、蒼珀の沈黙を“逃げではない”と理解しようとしてきた。

 傷つけぬための削り方だと。

 誤解を増やさぬための防ぎ方だと。

 なのに、自分は今まさに、役目というきれいな形の中へ逃げ込もうとしている。


 仕事だから。

 必要とされたから。

 認められたから。

 そう言ってしまえば、どれほど本音をごまかしても咎められない。


「役に立つことと」


 翠鈴は小さく言った。


「本音を言うことは、別なのね」


 蘭月はそこで初めて、少しだけやわらかく笑った。


「ようやくそこまで来たか、って感じ」


「そんな顔しないで」


「だってそうでしょ。

 あんた、今までずっと“役に立つ言葉”ばっかり上手だったんだから」


 その言い方に、翠鈴は反論できなかった。


 他人のための文。

 場を荒らさぬ文。

 傷を増やさぬ文。

 そういうものばかりを見てきた。

 そして、自分自身の気持ちまで同じように扱おうとしていた。

 整えて、削って、余分を落として、きれいに役目の中へ収まる形にする。


 けれど本音は、そうやって整えてばかりいると、いつか本当にどこにも残らなくなる。


「私は」


 翠鈴は文を見つめたまま言った。


「この話を受けるのが嫌なのではないの」


「うん」


「むしろ、受けたいと思ってる」


「うん」


「でも、それを受けた瞬間に“これで十分”って顔をしてしまうのが怖い」


 蘭月はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言う。


「十分じゃない、って、誰に一番言いたいの」


 その問いはやさしいのに、逃げ場がなかった。


 翠鈴は答えられなかった。

 答えれば、もうただの昇格の話ではなくなるからだ。

 けれど、答えられないこと自体がもう答えなのだと、自分でもわかる。


 蘭月はそれ以上は追わなかった。


 ただ茶碗を持ち上げ、いつもの少しだけ軽い調子に戻して言う。


「まあ、今すぐ全部言えって話じゃないけど。

 でも少なくとも、“役目のままで逃げる”のは、あんたっぽいけど、たぶんあとで苦しくなるわよ」


 その通りだと思った。


 役に立つ言葉なら、いくらでも整えられる。

 けれど私はもう、それだけで済ませたくないと思ってしまっていた。


 夜の机に向かうのは、文書房で紙に触れるのとはまるで違った。


 同じ白い紙。

 同じ筆。

 同じ硯。

 それなのに、そこへ置こうとしているものが“他人のための文”ではなく、自分の言葉だと思った瞬間、机の上の静けさまで別のものになる。


 翠鈴は灯りを少しだけ手元へ寄せ、紙を前に座った。


 机の上には何も多く置かない。

 余計なものが視界へ入ると、ただでさえまとまらぬ心がさらに散る気がした。

 外はもう遅く、回廊を行く足音も少ない。

 後宮が眠る前の、ほんのわずかな静けさ。

 他人の文なら、こういう夜の方がむしろ整えやすい。

 周囲のざわめきが消えるぶん、紙の上の乱れだけを見ればよいからだ。


 けれど今夜は違う。


 見ているのは乱れではなく、自分の中にあるものだった。


 翠鈴は筆を取った。

 そして、最初の一行を書こうとして止まる。


 どう書けばいいのかわからない。


 形式ならいくらでも浮かぶ。

 季節の挨拶も、先日の審議への礼も、これまでのご配慮への感謝も。

 文書房で積み上げてきた手つきが、きれいな入口をいくつも差し出してくる。

 だが、そのどれもが薄い。

 いかにも“整った文”であって、自分の今の気持ちには届かない。


 翠鈴は白紙へ視線を落としたまま、筆を置いた。


 違う。

 これではまた他人の文と同じだ。

 役目として差し出す言葉の形に、自分の本音を押し込めようとしている。

 そうしてしまえば、きっと蒼珀へも届かない。

 いや、それ以前に、自分の中でまた“言ったことにならない”気がした。


 一度、紙を脇へ寄せる。


 深く息を吸って、吐く。

 それからもう一枚、新しい紙を前に置く。


 今度は形式から入らない、と決めた。


 挨拶も礼も後でいい。

 まずは、自分が何を言いたいのかだけを紙へ出す。

 うまい文にしなくていい。

 整いすぎなくていい。

 それはこれまで、何度も他人の文へしてきたことだ。

 今夜やるべきなのは、それではない。


 翠鈴は改めて筆を取る。


 今度は、最初の一行が出た。


 ――私は、あなたの文を冷たいと思っておりました。


 書いてしまった瞬間、胸がひどく鳴った。


 あまりに率直で、文としては不格好だ。

 敬意もなければ、まわりくどさもない。

 けれど、嘘ではない。

 最初に蒼珀の返書を見た時、自分はたしかに冷たいと思った。

 その冷たさが誰かを傷つけることも、怖いと感じた。

 だから、この一文は整っていないが、本当だった。


 その下へ、少しずつ続ける。


 ――けれど、見れば見るほど、ただ冷たいのではないとわかりました。

 ――削ることで、誰かを誤らせぬようにしていることを知りました。

 ――それでも、書かれぬ言葉の方に、私は何度も目を奪われました。


 筆は時々止まる。

 止まるたびに、翠鈴はそれを無理に流さなかった。


 今までは、止まれば整えていた。

 言い回しを変え、重い語を軽くし、余分な感情を削って、読みやすくしてきた。

 だが今日は、止まること自体が大事な気がした。

 言えないところに、本当に言いたいことが沈んでいるからだ。


 たとえば、ありがとうと書けば違う。

 たしかに感謝はある。

 蒼珀が自分の目を必要としてくれたことにも、名を呼んでくれたことにも。

 けれど“ありがとう”では足りない。

 それは礼として正しすぎる。

 本音の代わりにはならない。


 たとえば、心配していますと書いてみる。


 ――あなたのことが心配でした。


 そこまで書いて、翠鈴は筆を止めた。


 心配。

 それも嘘ではない。

 回廊で足止めされた夜も、審議の前も、翠鈴はずっと蒼珀の立場と、その沈黙の重さを思ってきた。

 けれどそれだけでは、自分の揺れ方が説明できない。

 心配している相手に、名を呼ばれただけであんなふうに胸が鳴るだろうか。


 その一行は、結局、細く線を引いて消した。


 次に書いたのは、もっと拙い言葉だった。


 ――私は、あなたのそばで文を見ているうちに、自分が何を思っているのか、わからなくなっておりました。


 それもまた、整った文ではない。

 だが書いてみると、不思議と次が出た。


 ――役に立つことはできます。

 ――けれど、役に立つことだけでそこにいたいのかと問われると、もう違うとしか申せません。

 ――それがどういうことかを、私はまだうまく言えません。

 ――ただ、仕事だから近くにいるのではないと、自分ではもう知っております。


 そこまで書いたところで、翠鈴は筆を置いた。


 手が少し震えている。

 けれど、今までのような“うまく書けない苛立ち”ではなかった。

 むしろ、ようやく本当に自分の文を書き始めた時の怖さに近い。


 紙を前にすると、これまで他人の文をどれほど整えてきたかが逆にわかる。

 整えれば読みやすい。

 整えれば誤解は減る。

 整えれば美しくもなる。

 だが整えすぎれば、今夜書きたいものは死ぬ。


 翠鈴は紙を少し遠ざけ、読み返した。


 粗い。

 礼も足りない。

 文としてのまとまりも十分ではない。

 だが、ここにある言葉は少なくとも自分のものだった。


 それでも、まだ足りない気がする。


 蒼珀に伝えたいのは、自分の揺れだけではない。

 あの人の文の冷たさの奥にある慎重さを、自分は見ていること。

 書かれなかった言葉にまで、何度も心を動かされたこと。

 そして、自分もまた本音を言葉にできぬ人間なのだと、ようやく知ったこと。

 それを抜いてしまえば、ただ“そばにいたい”だけの浅い告白になってしまう。


 翠鈴はもう一枚紙を取り、今度は少し整えて書き直し始めた。


 最初の率直さは残す。

 だが、礼を完全に捨てない。

 感情だけをぶつけるのではなく、どうしてそうなったかを、自分の言葉のまま並べる。


 ――私は、あなたの文を最初、冷たいものと思っておりました。

 ――けれど、おそばで拝見するうちに、その冷たさが、人を誤らせぬために削られたものだと知りました。

 ――書かれた言葉だけでなく、書かれない言葉の方にこそ、あなたのお心が出ていることも、今は少しわかる気がいたします。

 ――それでもなお、書かれぬままでは届かぬものがあると、私は思っております。


 ここで筆が止まる。


 “届かぬもの”の先に、本当に言いたいことがある。

 だが、そこでまた整えた言い回しへ逃げそうになる。

 翠鈴は目を閉じ、しばらくじっとした。


 逃げたくない。

 今夜だけは。


 もう一度目を開き、そのまま書く。


 ――私自身もまた、本当のことを言葉にするのが下手なのだと、ようやく知りました。

 ――あなたの沈黙を責めながら、私も自分の本音だけは、ずっと整えた言葉の後ろへ隠しておりました。

 ――けれど、今はもう、それでは足りません。


 筆先が紙に少し深く沈む。

 そこへさらに、もっと言い逃れのきかない一文を置く。


 ――私は、あなたのそばにいたいと思っております。

 ――役目としてではなく、ただ文を見る者としてだけでもなく。


 書いた瞬間、翠鈴は息を止めた。


 これ以上をどう続ければいいのか、一瞬わからなくなる。

 だが、もう引き返せない。

 ここまで書いたのなら、最後まで自分の文にしなければ意味がない。


 だから続ける。


 ――それがどういう名の感情かを、まだ私はうまく申せません。

 ――けれど、あなたが誤解されたくないと願うなら、その願いに、ただ仕事としてではなく応えたいと思うのです。

 ――そして私もまた、あなたにだけは、誤解されたくありません。


 そこまで書くと、もう筆が進まなかった。


 十分なのか。

 足りないのか。

 文としてはまだ粗い。

 けれど、これ以上削れば、また“きれいなだけの文”になる気がした。


 翠鈴は筆を置き、しばらく動かなかった。


 上手な文ではない。

 文書房で他人に見せるには、いくつも直したくなる。

 語の重なりもある。

 礼としては不格好だ。

 だが、その不格好さの中にしか、今夜の自分は残らない。


 最後に、結びだけを考える。


 ここでまた整えすぎれば壊れる。

 だから、最低限の礼と、自分の名だけを置くことにした。


 静かに書き終え、筆を置く。


 紙を前にしたまま、翠鈴は長く息を吐いた。


 上手な文ではなかった。

 けれど、あれほど拙くて、あれほど嘘のない文を、私は初めて自分の名で書いた。


 手紙を渡したあと、翠鈴はその日の仕事をほとんど覚えていなかった。


 文書房へ戻り、いつものように控えを揃え、受け渡しの確認をして、責任者の短い指示に頷いたはずだった。蘭月が何か言っていた気もする。けれど、それらはみな薄い霧の向こうにあるようだった。意識のほとんどは、たった一枚の紙が今どこにあるのか、そればかりへ向いていた。


 蒼珀の手元に届いている。


 読まれたのか、まだなのか。

 読まれたとして、どう受け取られたのか。

 あるいは、何も返ってこないのか。


 返ってこなくても不思議ではないと思う。

 あの手紙は、文として整っていない。

 礼としても不格好で、感情としても途切れ途切れだ。

 他人の文なら、きっと翠鈴自身がもっと直しただろう。

 けれど、もう直せなかった。

 あれ以上整えれば、たぶん本当に言いたかったことの方が消える気がしたからだ。


 その日の終わり近く、第三皇子区画から短い呼び出しが来た。


 それだけで、胸の内がひどく静かになる。

 騒ぐのではなく、むしろ音が消える感じだった。


 案内の女官に導かれ、蒼珀の控えへ向かう。

 回廊の灯りはまだ消えきっておらず、夜というには少し早い。

 けれど人の気配はまばらで、足音だけが床に細く残る。

 昨日までなら、この道を歩くたびに文の確認や仕事の段取りを考えていた。

 今日は何も浮かばない。

 浮かぶ余地がないくらい、自分の手紙のことだけが重かった。


 控えの間を通されると、蒼珀は窓際ではなく、机の前にいた。


 紙は広げられていない。

 それだけで、今日は“文の確認”ではないのだとわかる。

 蒼珀の前には、ただ一枚、折りたたまれた紙だけが置かれていた。

 自分の手紙だと、見なくてもわかった。


 翠鈴は礼を取る。


「お呼びにより参りました」


 蒼珀は短く頷いた。


「来たか」


 それだけの言葉なのに、喉の奥が少し熱くなる。

 呼ばれたのだ、と今さらのように実感する。

 手紙は届いて、無視されなかった。

 それだけで、もう十分なはずだった。

 なのに胸は、それ以上を勝手に待とうとしてしまう。


「座れ」


 言われて、いつもの位置に座る。

 だが、今日は机の間に紙束がない。

 距離の測り方も、いつもと少し違って見えた。


 蒼珀はしばらく何も言わなかった。

 その沈黙に、以前ほど怯えなくなっている自分に気づく。

 怖くないわけではない。

 けれど今は、この人が沈黙を置く時、何も感じていないからではないと知っている。


 やがて、蒼珀が手元の紙へ目を落とした。


「読んだ」


 それだけだった。


 手紙の内容を繰り返さない。

 感想も言わない。

 けれど、その一言だけで十分に重い。

 ちゃんと読まれたのだ。

 目を通したのではなく、読まれた。

 その違いが、声の置き方だけでわかる。


 翠鈴は何も返せなかった。

 下手に「ありがとうございます」と言えば違う気がした。

 感想を求めるような視線も向けたくなかった。

 自分の中で整いきらないものをようやく差し出したのだから、返ってくるものもまた整っているとは限らない。

 むしろ、整っていない方がいいのかもしれないとさえ思う。


 蒼珀は、机の上の紙へ指先を一度だけ置いた。


「お前は」


 そこで一度言葉を切る。


「下手だな」


 その言い方があまりにも蒼珀らしくて、翠鈴は思わず目を上げた。


 からかわれているのではない。

 厳しい評価でもない。

 ただ、整っていないものを整っていないまま受け取った、そのままの言葉に聞こえた。


 翠鈴はかすかに息をついた。


「……自分でもわかっております」


「だろうな」


 蒼珀の声は平坦だった。

 だが、その平坦さの奥に、ごく薄くやわらかなものが混じる。

 おそらく本人にも自覚がない程度の。


「礼に見えぬところが多い」


「はい」


「文としても、不揃いだ」


「はい」


 そこまで言われると、なぜか少しだけ肩の力が抜けた。

 たしかにそうだ。

 上手な文ではなかった。

 きれいでも、読みやすくも、礼儀正しくもない。

 けれど、その欠点をそのまま言われることが、逆に安心になった。

 見過ごされていない。

 そして、拒まれてもいない。


 蒼珀は紙から目を上げた。


「だが」


 その一語に、翠鈴の背筋が少しだけ伸びる。


「嘘はなかった」


 その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。


 そうだ。

 あの手紙に欲しかったのは、それだけだったのかもしれない。

 上手さではなく、礼の正しさでもなく、ただ“嘘はなかった”と受け取られること。


 翠鈴は思わず視線を落とした。

 涙が出るほどではない。

 けれど、その一言は危ういほどまっすぐだった。


 蒼珀は続ける。


「私は、お前にだけは誤解されたくなかった」


 部屋の空気が、その一言で変わる。


 前にも似たことは言われた。

 “お前がいてよかった”と。

 けれど今のこれは、もっと直接だった。

 いてよかった、ではなく、誤解されたくなかった。

 つまり、自分がどう見られるかを、この人が誰か一人にだけは強く気にしていたということだ。


 翠鈴はすぐには呼吸もできなかった。


 蒼珀は、まるでそれがどれほど重い言葉かをわかっていないかのように、静かに言葉を続ける。


「誰にどう見られるかを、私はあまり追わぬ」


「……はい」


「だが、お前だけは別だ」


 その一文で、もう十分すぎた。


 翠鈴は目を上げる。

 蒼珀の顔はいつもと大きく変わらない。

 それでも、今だけはその静けさの下に、隠しきれない本音があるのが見えた。


「お前は、私の文を見てきた」


 蒼珀は低く言う。


「冷たいと思い、違うと思い、なお見続けた」


 翠鈴は何も言えない。


「そのお前にだけは、私は……」


 そこで言葉が詰まる。

 蒼珀ですら、そこを言葉にするのは容易ではないのだとわかる。

 だからこそ、その詰まり方に胸が揺れる。


 やがて蒼珀は、少しだけ視線を落として言った。


「お前にだけは、違う形で見られたくなかった」


 それは告白というには、まだ整っていない。

 愛の言葉でもない。

 けれど、ここまで削ってきた人が、自分だけは誤解されたくなかったと言うのなら、それ以上の本音がどこにあるだろう。


 翠鈴は喉の奥にひっかかっていた息を、ようやく少しだけ吐いた。


「……私は」


 返そうとして、言葉が崩れる。


 今ならわかる。

 蒼珀が沈黙を選ぶ理由も、書かない言葉の重さも。

 その上でなお、自分はもう整えた返事だけで逃げたくない。


 だから、深く息を吸って、そのまま言う。


「私は、あなたを誤解しておりません」


 声は震えていなかった。

 それだけで少し驚く。


「最初は冷たいと思いました。

 怖いとも思いました。

 でも今は、違います」


 蒼珀はじっと聞いている。

 遮らない。

 その聞き方が、答えを待っているとわかるからこそ、翠鈴も逃げたくなかった。


「私は、あなたの文の冷たさの奥にあるものを、もう見てしまいました」


「……」


「だから、役目だけでそばにいたいのではありません」


 そこまで言って、翠鈴は少しだけ目を伏せる。


 まだ恋だと綺麗に言い切れない。

 けれど、役目だけではないと、もう言える。


「私もまた、あなたにだけは、誤解されたくありません」


 それは、手紙の中に書いた一文と同じだった。

 けれど紙の上と違って、今は相手の目の前に置いている。

 その違いは大きかった。

 逃げ場がない。

 だからこそ、本当だった。


 蒼珀はしばらく黙っていた。


 その沈黙は遠くない。

 むしろ、言葉がここまで来てしまったあとで、何を返せば崩さずに済むかを量っている沈黙だった。


 そして、珍しく蒼珀の方から一歩だけ踏み込む。


「そばにいろ」


 短い言葉だった。


 だが、それは仕事の命令ではないと、翠鈴にはわかった。

 いつもなら、もっと具体に言う。

 文を見ろ、残れ、確認しろ、そういう命令ならもっとはっきり形がある。

 今のそれは違う。

 ただ、自分のそばにいてほしいと、それ以外の飾りを全部落として言った形だった。


 翠鈴は目を上げる。

 蒼珀の視線は静かだ。

 それでも、その静けさの中へようやく自分の言葉を置けた気がした。


「はい」


 返事はそれしかなかった。

 それで十分だとも思った。


 甘い言葉はない。

 抱擁もない。

 けれど、これ以上整えた言葉にしてしまえば、きっと二人ともまた本音の後ろへ隠れる。


 だから、その短さのままでいい。


 それは甘い言葉ではなかった。

 けれど、あの人が誰かに誤解されたくないと願うのなら、それだけで十分すぎるほどの本音だった。


 翌朝、翠鈴はいつも通り文書房の鍵を受け取った。


 扉の前に立つ。

 木の引き戸は、季節によって少しずつ癖を変える。

 朝の空気はまだ冷たく、指先に触れる金具もひやりとしていた。

 あの日と同じだ、と翠鈴は思う。

 誰よりも早く文書房に入り、窓を半分だけ開け、控え棚の紐と封紙を確かめ、乱れを消すことから一日を始める。

 やることは何も変わらない。

 変わったのは、たぶん自分の方だった。


 静かに戸を開けると、紙と墨の匂いが朝の薄い光と一緒に流れ出てくる。


 文書房は、今日も朝いちばんだけがいちばん正直だ。


 まだ誰の声も落ちていない。

 噂も、気遣いも、腹の底の思惑も、まだこの部屋には入ってきていない。

 あるのは昨夜のままの机、控え棚、台帳、乾いた筆先だけ。

 何も言わず、そこに置かれている。


 翠鈴はいつものように窓を少しだけ開け、湿りを逃がしすぎぬように調整した。

 次に控え棚の前へ行く。

 鍵穴の傷、紐の結び目、封紙の端。

 乱れがあればすぐわかる。

 それを確かめる手つきも、もう身体に染みついていた。


 異常はない。


 そう判断して、ようやく息をつく。


 硯に水を落とし、墨を磨る。

 黒が少しずつ濃くなる音は、昔から変わらず心を整えた。

 ただ、今朝はそれが“乱れを消すため”だけではない気がした。

 整えることの意味が、前より少しだけ違う。


 誰かの文を荒れぬ形へ置くこと。

 誰かの傷を増やさぬように、言葉を選ぶこと。

 それはこれからも変わらない。

 文書房の仕事は続く。

 紙も、控えも、謝意も、断りも、また今日もここへ流れ込んでくる。


 けれど翠鈴はもう知っている。


 整えるだけでは足りぬ言葉があることを。

 削るだけでは届かぬ想いがあることを。

 そして、自分自身の本音まで黙って消してしまえば、どれほどきれいに整っていても、それはもう“生きた言葉”ではないことを。


 机の端へ、今日最初の控え文を置く。

 紙の角を揃え、台帳の余白を確かめる。

 筆を取る手は落ち着いていた。


 背後で戸が開き、蘭月の足音が近づく。


「今日も早いわね」


 いつも通りの声だった。

 翠鈴は振り向き、かすかに笑う。


「落ち着くから」


「文書房が?」


「ううん」


 翠鈴は机へ目を戻した。


「書く前の、この静かな時間が」


 蘭月は少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 ただ「じゃあ私は湯、入れてくる」と言って、いつものように軽い足取りで奥へ消える。


 翠鈴は白い紙を前にした。


 最初は、目立たず、乱さず、生き延びるために言葉を整えてきた。

 それでよかった。

 それでここまで来た。


 けれど今はもう、それだけではない。


 誰かのために言葉を整えることと、自分のために言葉を置くことは、別のことだ。

 その違いを知ってしまった以上、前と同じ人間ではいられない。


 窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっていく。

 紙の白さが明るくなる。

 筆先が、その白の上で静かに待っている。


 翠鈴は筆を持った。


 他人の想いを整えてきた私が、最後に書いたのは、たしかに私自身の未来だった。

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