神殿に完全に読まれましたが、母数を増やせば問題ありません
第2話
牢の扉が、錆びた悲鳴みたいな音を立てて開いた。
「出ろ。猶予は3日だ」
朝の光が差し込み、俺は反射的に目を細めた。眩しい。生きているというだけで眩しい。
だが同時に、首の後ろが冷える。3日――72時間――その間に結果を出せなければ、俺は“やっぱり盗人だった”という結論で静かに消える。
中庭に出ると、領主代行セレス卿が石柱の影に立っていた。横には銀の鎧を纏った女騎士。鋭い目。無駄のない姿勢。
「騎士団副長、エルナだ」
女騎士は俺を見下ろし、鼻で笑った。
「処刑寸前の台帳係が、神殿相手に“数字で勝つ”と?」
「勝つとは言ってません。観測します」
「同じだ。神殿に刃を向けるのと変わらない」
剣の人間は、すべてを切り合いで理解する。嫌いじゃない。ただ、危うい。
セレス卿が淡々と言う。
「約束通り人員を貸す。30名。兵だ。字は読めるが計算は苦手だ」
「十分です」
俺が即答すると、エルナの眉が動く。
「何をさせる。戦に出すのか」
「街を歩いてもらいます」
「……それだけ?」
「それだけです。鍋に指を入れ、薪を持ち上げ、灰を見る。記録する」
エルナが露骨に不機嫌になる。
「ふざけている」
「ふざけてません。戦争です」
言い切ると、空気が変わった。兵たちの肩が少し固くなる。セレス卿の目がわずかに細くなる。
「戦争?」とエルナ。
「敵は神殿です。相手は合理的に動きます。こちらが観測すると知れば、結果を整えます」
俺は石畳にしゃがみ、指で円を描いた。
「街を4区画に分ける。貧民区、職人区、商人区、上層区。各区画から同じ人数を観測する。時間帯も朝・昼・夕の3回。偏りを潰す」
「全員調べればいいだろう」とエルナ。
「3日しかない。全数調査は不可能です。代表を取ります」
「人を数字にするのか」
エルナの声が少し低くなる。
「数字にしないから誤るんです」
言った瞬間、兵の何人かが息を呑んだ。誰かの琴線に触れたのだろう。怒らせたかもしれないが、今はそれでいい。怒りは動力だ。問題は、その動力をどこへ向けるかだ。
俺は立ち上がり、兵たちに向き直る。
「観測項目は3つ。湯の温度、薪の重さ、灰の量。各自、紙に記録し、必ず署名する」
兵がざわつく。
「署名?」
「記録の改ざんを防ぐためです。署名した紙はそのまま私の手に入ります」
不満の空気。だが、押し切る。
「ただし――」
俺は声を落とした。
「今日のうちに、この観測方法は神殿に漏れます」
沈黙が落ちた。
セレス卿が静かに問う。
「内部に神殿の目があると?」
「ある前提で動きます。漏れない前提で動いた瞬間、負けます」
エルナが俺を睨む。
「兵を疑うのか」
「疑っていません。構造を疑っています。人は善意で漏らす。善意ほど止めにくい」
その言葉に、セレス卿が小さく笑った。面白がっている。危険な笑いだが、今は味方だ。
「よし。30名、配置につけ」
観測はその日のうちに始まった。
俺は空き倉庫を即席の推計室に変える。地図を広げ、区画ごとに観測点を打つ。兵たちの動線を重ならないようにし、時間帯をずらし、報告の締切を決める。
データは量だ。量は力だ。
だが――足りない。
30名、4区画、3回観測。
合計360データ。
神殿が本気で“均等化”を選べば、この程度の母数では差が埋もれる。差を消すのが相手の最適反応だ。最適反応をされる前提で、こちらはさらに上の層を用意しなければならない。
夕刻、エルナが倉庫に入ってきた。鎧の擦れる音が短く響く。
「神殿が発表した。過去最大規模の配給だ」
「内容は?」
「パンだけじゃない。薪も配る。干し肉もだ」
来た。こちらの観測項目を潰しに来た。しかも早い。つまり、漏れた。
エルナが苛立ちを隠さない。
「これで終わりだ。湯の温度も薪も、均等にされれば差は出ない」
「ええ。表層は潰されます」
俺は地図に新しい線を引いた。
「表層が潰された時に見るのは、中層です」
「中層?」
「物流です。薪と小麦の搬入ルート。均等配布を成立させるために、必ずどこかに歪みが出る」
エルナが鼻で笑う。
「歪みなんて見えるのか」
「見えます。重いものは隠せない」
薪は重い。馬車が必要だ。馬車が動けば痕跡が残る。痕跡は観測できる。
俺が言葉を続けようとした時、倉庫の外で足音が止まった。
――軽い。訓練された歩き方。
扉が、ノックもなく静かに開いた。
白衣の女が立っていた。フードは被っていない。淡い金髪。目は冷たく、しかし好奇心の熱が宿っている。
「失礼します。推計官殿」
声で分かる。処刑台で耳元に囁いた女だ。
「神殿神官、フィオナと申します」
エルナが一歩前に出る。反射的に剣へ手が伸びるが、セレス卿の気配がないことに気づいて、動きを止めた。ここには俺とエルナと兵数名。神殿の神官が単身で来たという事実が、逆に不気味だった。
「何の用です」とエルナ。
「挨拶です」
フィオナはエルナを見ず、俺を見た。
「観測、楽しみにしています」
「それはどうも」
「ただ、忠告をひとつ。母数が少ないと、推計は幻想になります」
心臓が一段跳ねる。
この女は、統計を理解している。
「30名では足りませんよ」
俺は表情を変えない。変えた瞬間、主導権を渡す。
「足ります」
「足りません」
フィオナは柔らかく言い切った。
「あなたが見たいのは“差”でしょう? なら差を消せばいい。私たちは差を消します。均等にします。あなたの観測は、美しく崩れます」
兵たちがざわつく。
“崩れる”という言葉が、恐怖として染みる。
俺は静かに返す。
「均等にはコストがかかります」
「ええ。だからこそ神の慈悲は尊いのです」
言葉が綺麗すぎる。綺麗すぎる言葉は、裏で汚れを抱えている。
「あなたは、均等配布を成立させる」
「当然です」
「3日で?」
「3日で」
即答。迷いがない。
合理の化身みたいな女だ。
俺はあえて軽く笑った。
「では、楽しみにしています。神殿が“完全な均等”を作れるのか」
フィオナの口元がわずかに上がる。
「作れます。なぜなら、あなたが何を測るか知っているから」
そして彼女は扉の方へ向かいながら、振り返って言った。
「推計官殿。観測は、観測される側が支配します」
扉が閉まる。
しばらく誰も動けなかった。
最初に息を吐いたのはエルナだった。
「……最悪だな」
「最悪です」
俺は地図を見つめる。否定しない。否定すると、現実が遅れる。
「勝てるのか?」
エルナが問う。剣の人間の問いだ。勝てない戦には出ない。
俺は答えた。
「勝てます。ただし条件がある」
「条件?」
「母数を増やす」
エルナが眉をひそめる。
「兵を増やせと言うのか。セレス卿の許可が要る」
「兵ではありません。民です」
兵が驚いた顔をする。
「民を動員するのか?」
「協力者を募ります」
「誰が従う」とエルナ。
その疑問は正しい。だが、従わせる方法はある。国家運営の最初の基本――人は理念より利害で動く。
「価格が下がれば、彼らの腹が満たされます。観測は彼らの利益になります」
エルナが吐き捨てる。
「汚い」
「現実です」
俺は紙を取り、見出しを書いた。
『配給後の生活観測 協力者募集』
文字の横に、条件も書く。
『協力内容:湯の温度、薪の量、パンの膨らみ、灰の量の記録』
『報酬:翌週の備蓄販売を優先案内(価格を固定)』
エルナが目を細める。
「備蓄販売?」
「次の一手です。神殿が均等配布するなら、市場が歪みます。歪みを抑えるために備蓄放出が必要になる。先に“制度”を置いておく」
兵の1人がぽつりと言う。
「……お前、最初からそこまで考えてたのか」
「考えていないと死にます」
俺は正直に言う。
72時間。残り時間は減る一方だ。均等化を選ぶ神殿。観測を読んでくる敵。母数不足。情報漏洩。
普通なら詰み。
だが詰みは、こちらが“表層しか見ない”時に起きる。
表層が潰れたなら中層。中層が潰れたなら深層。
均等という最強の対抗策は、同時に“最もコストが高い”対抗策でもある。コストは、必ず痕跡として漏れる。
俺はエルナに向き直る。
「あなたの剣が必要です」
「何に?」
「観測者を守る。民間協力者は脅されます。神殿は直接手を下さなくても、信者がやる」
エルナの目が鋭くなる。
「神殿が民を動かすと?」
「ええ。観測が増えれば、抵抗も増えます。統計戦は、群衆戦です」
エルナはしばらく黙り、やがて短く言った。
「……分かった。だが約束しろ」
「何を?」
「無駄死にはさせない」
「させません」
即答する。無駄死には、母数の減少だ。勝率が落ちる。何より、俺の嫌いな腐り方だ。
夜になり、倉庫の外は静まり返った。
遠くで鐘が鳴る。神殿の鐘だ。今日の勝利を祝っているのか、明日の準備を告げているのか分からない。
机の上に地図を広げる。観測点を増やす。協力者を募る地区を決める。口の固い職人組合を押さえる。貧民区には施しではなく“価格固定”を約束する。商人区には“先物の情報”を匂わせる。
――情報は貨幣だ。貨幣は流れで価値が決まる。
そして流れは観測できる。
扉の隙間から冷たい風が入り、紙がわずかに揺れた。
俺はペンを止めずに呟く。
「神殿に完全に読まれているなら、読む対象を増やせばいい」
敵が潰せる観測は限られている。
母数が増え、観測が多層化すれば、均等化で全部は潰せない。
72時間のうち、すでに10時間は過ぎた。
残り62時間。
神殿が均等を作る。
俺は歪みを掴む。
窓の外、神殿の尖塔が月明かりに浮かんでいる。
まるでこの街全体を見下ろす目だ。
だがこちらも、目を増やす。
観測できる国家は、腐りにくい。
腐りにくい国家は、強い。
俺は紙の端に、次の章題のように書き付けた。
『配給は勝利ではない。価格が真実を吐く』
3日後、笑うのはどっちだ。
どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。
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