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数字で人は救えると信じていた

プロローグ①


 人が怒鳴る理由は、たいてい「不安」だ。

 不安の正体は、たいてい「分からない」だ。

 だから、分からないものを分かる形にすれば、人は静かになる——俺はずっとそう信じていた。


 前世の俺の仕事は、数字だった。


 派手な仕事ではない。スポットライトも当たらない。

 ただ、表に出てこない数字を掘り起こして、筋道を立てて、誰かに「これが現実です」と差し出す。それだけだ。

 それだけなのに、驚くほど嫌われる。


 俺は大学を出て、最初は民間の調査会社に入った。統計を扱い、アンケートを設計し、店舗の売上を切り刻み、広告の効果を測る。数字は嘘をつかない。嘘をつくのはいつも人間だ、と、その時の俺は少しだけ得意げに思っていた。


 でも社会は、数字で動かない。

 正確には、数字だけでは動かない。


 数字を出すと、必ず「物語」が出る。

 「この数字はこういう意味だ」「いや、違う」「それは偏っている」「あなたは現場を知らない」

 数字よりも、物語のほうが強いことがある。強いどころか、ほとんどの場合そうだった。


 それでも、俺は数字を捨てなかった。


 転機は、父が倒れたことだった。


 父は小さな工場をやっていた。下請け。町工場。真面目に働くほど報われにくい種類の仕事。父はいつも「うちは大丈夫だ」と言っていたけれど、ある日突然、入金が遅れた。遅れが続いた。資金繰りが崩れた。銀行は冷たく、取引先は優しくない。父は一気に老けて、そして倒れた。


 病室で、父は俺に言った。


「正しいことをやったからって、助かるわけじゃないんだな」


 その一言が、胸に刺さった。

 正しいことをやっても助からない。

 なら、正しさとは何だ?


 その時から俺の中で、数字は「正しさ」ではなくなった。

 数字は「武器」になった。


 社会を殴る武器ではない。

 腐った場所を見つける武器だ。


 数年後、俺は転職して、自治体と企業の間に入るようなコンサルの仕事を始めた。補助金の設計、事業の評価、地域の経済循環の分析。資料作りは地味で、会議は長く、議事録は無限に増えた。


 でも、その仕事で初めて分かったことがある。


 政治も行政も、悪意だけで腐るわけじゃない。

 むしろ、善意で腐る。


 「困っている人を助けたい」

 「地元のために良いことをしたい」

 「混乱を起こしたくない」

 この“正しい気持ち”が、時に、何よりも強い圧力になる。


 混乱を避けたい、という正しさが、検証を止める。

 検証が止まると、腐りが進む。

 腐りが進むと、弱い人から死ぬ。


 だから俺は、余計に数字に執着した。

 数字があれば、少なくとも「分からない」を「分かる」に近づけられる。

 分かれば、怖さが薄まる。

 怖さが薄まれば、怒鳴り声が減る。


 理想論だと笑われてもいい。

 俺は本気でそう信じていた。


 ある年、俺はとある案件を任された。補助金の実績報告の監査。表向きは“支援がうまく行ったかどうか”の確認。だが実態は、金の流れの確認だった。人は金の話になると途端に目を逸らす。目を逸らすのは、たいてい後ろめたいことがあるからだ。


 案の定、書類はきれいだった。きれいすぎた。

 きれいな書類は、現場の泥と合わない。現場はもっと雑で、もっと揺れて、もっとブレるはずだ。なのに数字が揃っている。誤差がない。説明が簡潔すぎる。帳尻が合いすぎる。


 俺は嫌な予感がして、現場に行った。


 現場は、静かだった。

 静かすぎた。


 支援を受けたはずの施設に人がいない。備品が新品のまま。使われた形跡が薄い。担当者は笑顔だったが、笑顔が薄い。質問に答える速度が速すぎる。用意された答えだ。


 その日の夜、俺はホテルで資料を広げた。

 数字を突き合わせる。

 支出のタイミング、業者の名、支払いの分割、受領書の筆跡。

 点が線になり始めた。


 そして、線の先に“同じ会社”が何度も出てくる。


 仕組みだ。


 その瞬間、背筋が冷えた。

 単発の不正ではない。

 “構造”が不正を産んでいる。


 構造は厄介だ。

 構造は人を悪役にしない。

 構造は誰かの善意を利用して回る。


 だから壊しにくい。


 俺は翌日、会議室で報告した。

 「この補助金の運用には、構造的な問題があります」

 「特定の業者に資金が集中しています」

 「成果指標が恣意的で、検証ができません」


 会議室の空気が死んだ。

 笑顔が消えた。


 その瞬間、俺は理解した。

 これから自分は嫌われる。

 そして嫌われるだけでは終わらない。


 会議後、上司が俺に言った。


「そこまで言う必要はあったか? 混乱を起こすな」


 混乱。

 またその言葉だ。


 混乱を避けたい、という善意が、腐りを守る。

 その夜、知らない番号から電話が来た。


「あなた、いい加減にしたほうがいい」


 声は落ち着いていた。怒鳴りもしない。

 落ち着いている声ほど怖い。感情のない声は、実行に近い。


 俺は言い返した。


「私は事実を確認しているだけです」


 電話の相手は笑った。


「事実は、みんなの迷惑になることがあるんだよ」


 迷惑。

 正しいことが迷惑になる世界。


 電話は切れた。

 背中に冷たい汗が流れた。


 それから数日、妙なことが続いた。

 電車で隣に座った男が、スマホを覗き込むようにこちらを見る。

 帰り道、同じ車が数回、曲がり角で視界に入る。

 SNSに身に覚えのない誹謗が増える。

 「現場を壊すな」「税金泥棒」「正義マン」

 正義マン、という言葉が一番嫌だった。


 正義じゃない。

 俺はただ、腐りを測っているだけなのに。


 ある晩、俺は資料を抱えてオフィスに残っていた。

 誰もいないフロア。空調の音だけ。

 そこでふと気づいた。


 自分は、いつからか「数字で人を救える」と信じるのをやめている。

 代わりに「数字で腐りを暴ける」と信じている。


 救うのではなく、暴く。

 暴くことは、救いになるのか?


 救いになると信じないと、ここまで来た意味がなくなる。

 だから俺は、机に向かい、資料を整え続けた。


 そして、事件は起きた。


 帰宅途中、雨が降っていた。

 交差点で信号を待っていると、背後から誰かがぶつかってきた。

 転びかけた瞬間、前方のトラックのエンジン音が跳ね上がる。


 眩しいライト。

 濡れた路面が光り、滑る。

 誰かが叫ぶ声が遠い。


 俺は思った。

 ああ、こういう終わり方か。


 最後に浮かんだのは、父の言葉だった。

「正しいことをやったからって、助かるわけじゃない」


 なら、正しいことを“助かる形”にしなければならない。

 正しさが救いにならない世界なら、正しさを制度に変えなければならない。


 制度。

 制度があれば、個人が潰されても残る。


 そう考えた瞬間、体が浮いたような感覚になった。

 雨の冷たさが消え、音が遠ざかり、視界が白くなっていく。


 ——そして。


 次に目を開けた時、俺は見知らぬ天井を見上げていた。

 木の梁。

 石の壁。

 油の匂い。

 遠くで鐘の音。


 言葉が分からないはずなのに、意味が入ってくる。

 世界が、俺の脳に合わせて言語を埋め込んでいく感覚。


 誰かが言った。


「台帳係、起きたか」


 台帳係。


 その言葉が、妙に胸に落ちた。

 数字から逃げられない。

 いや、逃げるつもりもない。


 むしろ——今度こそ、数字を“救いの形”にする。


 俺はまだ状況を知らなかった。

 穀倉が空になることも。

 処刑台に立つことも。

 神殿が“静けさ”を正義にすることも。

 そして、観測が社会に殺されることも。


 だが一つだけ確信していた。


 この世界でも、腐りは必ず生まれる。

 腐りが生まれるなら、観測が必要だ。

 観測が必要なら、観測を制度にしなければならない。


 個人の正しさは折れる。

 制度の正しさは残る。


 だから俺は、目を覚ましたばかりの体で、ゆっくりと息を吸った。


「……今度は、負けない」


 言葉にすると、震えが少しだけ止まった。


 数字で人は救える。

 救えないなら、救える仕組みを作る。


 そう決めた瞬間——遠くの鐘が、やけに近く聞こえた。

どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。

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