御座船『鳳凰』
数日後の朝、別邸の玄関前。ハナをはじめとする数人の使用人たちが、必死に涙を堪えて整列していた。
「そんな顔をしないでちょうだい。少し時間はかかるかもしれないけれど、また元気になって戻ってくるわよ」
アジルは気丈に、軽やかさで告げた。彼女らしい、優しさを隠した振る舞いだ。ハナたちは何度も頷き、車が動き出すまで深く頭を下げ続けていた。
迎えの車がバセン港の特等桟橋に到着すると、そこには一隻の巨大な、燃えるような影が横たわっていた。
「これはまた派手に……シャイナか? いや、高田さん辺りのセンスだな、これ」
車を降りた瞬間、俺はその圧倒的な色彩に目を奪われた。船体は深く鮮やかな「朱」。そこに炎の揺らめきを模した黄金の装飾が施され、陽光を浴びて目も眩むほどに輝いている。
高田さん。ナルハイム建造時の同僚で、デザイン案を出すたびに「悪趣味だ」とボツにされていた変わり者だ。彼女は夜な夜な、開発初期のシャイナの端末に自分の理想とするデザイン案を勝手に流し込んでいたが、まさかそのデータが1000年後の今、こんな形で出力されているとは。
「驚いたわ……。日本の御座船がこれほどまでのものだなんて。女神シャイナのお仕事かしら? ご自分の情熱を形にすることに一切の妥協をなさらない方のようね」
隣に立つアジルが、その威容に息を呑みながらも、洗練された表現で感想を漏らした。彼女はボルドーのドレスに、俺が選んだ赤いブローチを合わせている。
「鎖国中っていうから、もっとこう、隠密艇みたいなのに揺られてこっそり行くのかと思ってたから、完全に度肝を抜かれてしまったよ」
「あら、ではあちらに停泊している漁船を今からお借りしますか? 私はそれでもかまいませんけれど」
アジルの冗談に苦笑していると、タラップの下で待機していたサギリが、純白の軍服の裾を翻して一礼した。
「お待ちしておりました、奏様、アジル様。御座船『鳳凰』へようこそ」
船内へ足を踏み入れると、外観の熱量とは対照的に、静謐で洗練された空間が広がっていた。不気味なほどに音がしない。本来、これだけの巨体が海面を滑れば咆哮のような轟音がするはずなのに、システムが物理法則を力ずくで書き換えているかのようだ。
老練な風格の船長タツミが、施設を案内して回る。
劇場のようなサロンを通り過ぎる際、アジルが俺の隣を歩きながら、声を落として囁いた。
「ねえ、奏。この調度品の数々……ただ豪華なだけではなく、すべてが完璧なこだわりに沿ってデザインされていることを感じるわ。一体どれほどの精密さをこの船に求めたのかしら」
「まあ、几帳面で融通の利かないヤツだからな」
「なるほど。奏とはちょっと違うタイプの方なのね」
そんな会話を交わしながら進むと、船の中央付近にある重厚な隔壁の前で、タツミが足を止めた。
「こちらが本船の心臓部。小型マター増殖炉でございます。これ一基で本船の全エネルギーを賄っております」
俺は思わずその隔壁を凝視した。アマツが旧炉を凍結して以来、大陸全体がエネルギー不足に喘いでいるこの時代。風車や水力発電を用いて必要な電気を作ってしのいでいる世界で、船一隻のために炉を独占する。その異常さを前に、アジルが知的な驚愕を瞳に宿して呟いた。
「……信じられない。このマター増殖炉一基があれば、100万人の民を一生養えるはずよ。それを船一隻のために?」
「これほど贅沢なお出迎えをされるなら、服を新調しておいて正解だったよ。あのままの作務衣姿だったら、一人だけ背景から浮いていたかもしれないからな」
「あら、私のおかげで恥をかかずに済んだのだから、もうちょっと素直にお礼を言ってくれてもいいのよ?」
アジルは悪戯っぽく微笑んだ。
やがてサギリが、しなやかな動作で歩み寄ってきた。
「奏様、アジル様。展望食堂にて昼食の準備が整いました。シャイナ様からは、奏様がちゃんと食事をなさっていたのか心配のご様子で、ちゃんとしたものをしっかり食べていただくようにとの配慮がなされております」
「1000年も前の説教をまた聞けるとは、長生きはしてみるものだな」
「よほど深い仲だったようで。ごちそうさまです。案内してくださる? 隊長さん」
全面が強化ガラスで覆われた展望食堂からは、バセンの街が驚くべき速さで遠ざかっていくのが見える。
運ばれてきたのは、真鯛のカルパッチョに、完璧な温度管理で仕上げられた白身魚のグリル。サフランの香るリゾットが、白い磁器の上で芸術品のように並んでいる。
「素晴らしい味だ。シャイナの心配性も、美味しい料理に反映してくれるのなら、もっと心配させてもいいのかもしれないな」
「奏様のその変わらぬ不遜さを伺えば、シャイナ様もかえって安心されるでしょう」
サギリが小さく笑う。
俺はリゾットを口に運びながら、窓の外を見つめた。白く泡立つ航跡のその先に、かすかに西の空が見える。
(……シズク)
スノウの体で「奏」として生き続けることは限界だった。だが、俺が本来の体を取り戻せば、彼女が愛してくれた「奏」の面影は消えてしまう。生きるためには仕方のない選択だが、それが彼女との思い出を塗り潰していくようで、胸が疼いた。
「奏? 手が止まっていてよ。リゾットが冷めてしまったら、シャイナ様に『また何かに集中してお食事を粗末にされていました』と報告されてしまうわよ」
アジルの静かな問いに、俺は顔を上げた。彼女の賢い瞳は、俺の感傷を見透かしながらも、それを野暮に暴こうとはしない。隠した本音の代わりに、彼女はただ、次の料理へと視線を向けた。
「1000年経っても説教されるのはかなわないな。美味しくいただくとしよう」
俺は冷めかけた紅茶を飲み干し、二度と振り返らない決意を固めるように、東の空へと向き直った。




