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二つのおとぎ話

 その日の夜。

 今夜の夕食は、バセン近海で獲れたという大ぶりな白身魚の香草焼きだった。付け合わせには、トマトと貝柱を数種類のスパイスで煮込んだ鮮やかなスープと、籠に盛られた焼きたての薄焼きパンが並んでいる。


 パリッとした皮にナイフを入れ、ふっくらとした白身を口に運ぶ。淡白な味わいの中に、絶妙な塩加減と香草の爽やかな風味が広がって、たまらなく美味かった。


「奏は不思議ね。私の事をなんにも聞いてこない。それとも、私の事は聞かなくてもなんでも知っている、熱烈なファンなのかしら?」


 アジルが薄焼きパンを小さくちぎりながら、ふと口を開いた。


「私はあなたのことを、何でも知っているわ。竜宮城から来た、少し服のセンスがない面白い異邦人。……どう? 正解でしょ」


 俺は苦笑して、トマトのスープを一口飲んだ。まさか、向こうからそんな風に興味を持ってもらえるとは思ってもみなかったからだ。


「降参だよ。完全にアジルのお見通しだ。……でも、それは『表向きの』俺の話だね。このあと、どこかの夜会に出かけなきゃいけない予定でもないなら、一つ『おとぎ話』でもしていいかな?」


 俺からの唐突な提案に、アジルは目を瞬かせた。


「おとぎ話?」

「ああ。おとぎ話だ。本当に昔の話だよ」


 俺はナイフとフォークを置き、少しだけ居住まいを正した。


「あるところに、この世界を動かす『魔法の仕組み』を作った、一人の魔法使いがいた。彼はある日、自分の魔法でも治せない奇妙な呪いにかけられてしまった」


 1000年前の、原因不明の宇宙病のことである。


「魔法使いは呪いの進行を止めるため、いくつもの魔法を作り出しては試してみたが、その呪いを止めることはできなかったのさ。だから、いつか誰かがこの呪いを解く魔法を作ってくれるまで、冷たい氷の棺に入って、長い長い眠りについた。……次に彼が目を覚ました時、なんと1000年もの時間が過ぎていたんだ」


「1000年……」


 アジルが小さく息を呑む。俺は構わず続けた。


「1000年の後、魔法使いは目覚めたのだけれど、鏡をみたら若い別の青年の姿に作り変えられていた。中身は1000年前の、くたびれた冴えないおじさんのままなのにね」


 俺は自嘲気味に笑って肩をすくめた。


「目覚めた魔法使いは、自分の本当の体を取り戻すために故郷へ帰る旅に出る。そして、人類が失ってしまった『魔法の鍵』が、なんとその魔法使いの『本当の体』の中に隠されているんだよ」


 俺が語り終えると、部屋には少しの間、静寂が落ちた。波の音だけがかすかに聞こえる。

 アジルは俺の顔をじっと見つめ、やがて「ふふっ」と小さく吹き出した。


「なにそれ。1000年眠っていた魔法使い? 中身はおじさん? 随分と突拍子もないおとぎ話ね。……でも、不思議とあなたらしい気がするわ」


 彼女は少しだけ表情を緩め、手元のワイングラスを指でなぞった。


「……それじゃあ。私も一つ、誰にも話したことのない、愚かな娘のおとぎ話を聞かせてあげる」


 アジルは視線をグラスの底に落とし、静かな声で語り始めた。


「あるところに、太陽のそばにいることを望んだ娘がいました。娘はどうしても太陽の隣に立ちたくて、ある日、1000年生きた大魔法使いが持っていた『魔法の鍵』に触れてしまったのです」


 アジルは、俺のおとぎ話を正確に理解した上で、見事に自分のおとぎ話へと昇華させていた。


「でも、娘の体は、その強すぎる力に耐えられなかった。鍵に触れた瞬間、力は呪いの毒となって娘の体を焼き尽くそうとしたの。大魔法使いは娘を助けるために、泣きながら彼女の腕と足を切り落としました」


 彼女は淡々と、酷薄な事実を紡ぐ。


「それでも、毒の根は娘の左肩に残り、今も少しずつ、心臓に向かって伸び続けている。いつまで生きられるかわからない体になってしまい、愚かな娘は太陽の隣に立つどころか、その光を浴びることも許されず、ずっと日陰で生きていくしかない体になってしまいました、とさ」


 アジルはそっと、自分の左肩――昼間、試着室で見たあの忌まわしい紋様がある場所を撫でた。


「あと数年で、娘は毒に喰われて灰になる。……太陽の光を浴びることもなく、誰の記憶にも残らずにね。……どう? 罰当たりの、つまらないおとぎ話でしょう?」


「で、その娘さんと、1000年ぶりに目覚めた魔法使いは、これから東へ船旅に出るんだろう?」


 俺があえて悲壮感を無視して答えると、二人で堪えきれずに声を出して笑いあった。


 彼女は自分の犯した過ちと、残りいくばくもない命の期限を、そんな風に自分の中で一人で抱え込んでいたのだ。誰にも打ち明けられずに。


 彼女が俺の1000年の話をどこまで信じたかはわからない。俺も、彼女がどうやってアマツから権限を奪おうとしたのか、詳しいシステム的背景まではわからない。

 それでも、お互いが「ありふれた日常」からは完全に切り離された、信じられないような数奇で孤独な運命の中にいることだけは、痛いほどに理解できた。


「……ねえ、魔法使いさん」


 アジルが少しだけ身を乗り出して、試すように言った。


「あなたが『魔法の鍵』を使えるようになれば、娘の毒を解くこともできるのかしら?」


「ああ。なにせ俺は、その大魔法使いの『師匠』みたいなものだからな。……でもどうだろう。俺が寝ている1000年の間に、あいつが何か解決策を見つけておいてくれればいいんだけど」


 俺は迷いなく答えた。

 俺がかつて治せなかった「呪い」と同じものに、目の前の彼女が殺されようとしている。それを黙って見過ごすことは、俺の研究者としてのプライドが許さなかった。


「まあ、他力本願な師匠ですこと」


 アジルは楽しげに微笑み、ワイングラスを軽く掲げた。


「本当の奏がどんなおじさまなのか、見に行く旅も悪くないわね」

「せいぜい、がっかりさせないように善処するよ」


 俺は自分のグラスを手に取り、彼女のグラスに軽く合わせた。

 カチン、と澄んだ音が響く。


 とりあえず、里帰りの目標が一つ追加になったようだ。

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