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無言の旅支度

 翌朝の朝食の席でのことだった。

 箸を動かす手を止め、アジルが珍しく俺の服をまじまじと見つめてきた。


「……奏。あなた、竜宮城から着の身着のまま来たとは言っていましたけれど」


 食卓には、羊肉の出汁が効いたスープと、炊きたての白米、それに香草で和えた野菜の漬物が並んでいる。

 箸を使って器用に米を口に運びながら、彼女は呆れたように溜息をついた。


「いつもその……作業着のようなものしか着ていないのね。見ているこちらが退屈してしまいますわ。少し買い物にくらいは付き合ってあげてもいいわよ」


 言われて自分の服を見る。

 着ているのは、竜宮城で支給された紺色の作務衣さむえだ。

 リュックに詰めてきたのは、これの替えが二組だけ。機能的だし動きやすいので気に入っているのだが、確かにこのバセンの街中や、ましてや貴族の別邸では浮きまくっている。使用人ですらパリッとした制服を着ているのに、客人の俺が一番みすぼらしい修行僧のような格好だ。


「男の一人旅なんてこんなもんだよ。機能性重視だ。それに、君も人混みは嫌いなんだろう?」


 俺がやんわりと断ろうとすると、アジルは湯呑みを置いて口元を拭い、試すような視線を投げてきた。


「察しが悪いのね。……実は、私が服を買いたいの」

「え?」

「でも、今の私は『病気療養中』の身でしょう? 一人で街を歩き回るのは外聞が悪いの。だから……『客人の服を選ぶ』という名目で、私が外に出る言い訳くらい作ってくれてもいいんじゃない?」


 アジルは悪戯っぽく微笑んだ。

 その言葉に、俺は思わず箸を置いた。


 なるほど。

 「あなたの服がみすぼらしいから買いに行きましょう」と言えば、俺が遠慮することを見越しているのだ。

 だから彼女は、「私が外に出たいから、そのカモフラージュとしてあなたが必要なの」という理屈を持ってきた。これなら、俺は「付き合ってあげる」という立場で、彼女の厚意を受け取ることができる。

 単なるお節介ではなく、こちらのプライドを傷つけないための高度な気遣いだ。


 普段から、どうやったら加里奈先輩や士郎みたいな地味顔の家系からこんな美しい娘さんが生まれてくるのか不思議で仕方なかったが、この軽快で知的な会話センスは、確かに加里奈先輩の若い頃を思い出させる。


「……参ったな。口が達者な女性には本当に弱いんだ」

「あら、これくらい普通ですわ」


 俺は苦笑しながら、彼女への評価を改めた。

 ただの悪役令嬢ではない。頭の回転が速く、人を動かす術も心得ている。

 この先一緒にいたら、あとどれくらい気の利いたセリフが聞けるのか。少し興味が湧いてきた。


「わかったよ。お姫様のエスコート役、喜んで仰せつかります」


 支度を整え、玄関で待つこと十分。

 ようやく階段を降りてきたアジルを見て、その美しさに一瞬息を呑んだ。そして、それをごまかすようについ憎まれ口を利いてしまう。


「ずいぶん待たせるな」

「あら。ご存じですか? 女性の準備時間は美しさに比例するという話を」


 アジルは悪びれる様子もなく、階段の上から優雅に微笑みかけてきた。

 憎まれ口に憎まれ口で返す、本当に楽しい会話だ。

 彼女は外出用の、これまた露出を極端に控えた藍色のロングドレスに身を包み、つばの広い帽子を目深に被っている。

 完全に「日陰の住人」スタイルだが、その佇まいは凛として美しい。


「……なるほど。確かに、待った甲斐がありましたよ」

「ふふ、よろしい」


 アジルは満足げに頷くと、軽やかな足取りで俺の横を通り過ぎた。だんだんと心を開いてくれているようだ。


 玄関前には、すでにハナが運転する電気自動車が待機していた。

 俺たちが後部座席に乗り込むと、車は音もなく滑り出した。


 窓を開けると、バセン特有の乾いた海風が吹き込んでくる。

 エンジン音も排気ガスの匂いもしない、静かなドライブ。丘の上から見下ろす港町の景色は、作り物めいてはいるが、それでも美しい。


「いい風だ」

「ええ。久しぶりに浴びましたわ」


 アジルも目を細めている。

 こうしていると、彼女は普通の、少し深窓の令嬢といった風情だ。


 車は海岸沿いの大通りにある、高級ブティックの前で停まった。


「さあ、まずはあなたの服からですわよ」


 店に入るなり、アジルは水を得た魚のように動き出した。

 俺自身は服に頓着しないタチなのだが、アジルは熱心にあれこれと提案してくる。


「このシャツの素材はダメ。通気性はいいけれどシルエットが安っぽい」

「こっちのジャケットの方が、奏の目の色に合っているわ」


 彼女が選んでくる服は、どれも仕立てが良く、品がある。

 俺は着せ替え人形のように試着室を出入りしながら、ふと値札が気になった。


(俺、今いくら持ってるんだっけ?)


 生体認証とは便利なものだ。そう思っただけで目の前に自分の残高が表示される。

 加里奈先輩が「結構入れておいた」と言ってくれたので、てっきり1000年分のスパイスのロイヤリティかと思ったが、そんなわけはなかった。そんなことをしたらこの帝国はハイパーインフレになってしまうから仕方ない。

 それでも、それなりに贅沢な暮らしを3年くらいはできる額が入っていて、この高い服をアジルに勧められた分は十分に買えそうでほっとした。


 会計はただ手を置くだけだ。便利な世の中になったもんだ。

 しかし不思議なもので、この体自体は俺のものではないのに認証は俺で通る。

 昨晩の夢では、そんなことしようものなら神殺しの毒が発動しそうなものではあるが、今のところそんな兆候もない。

 それもそうか。今まで管理権限を持っていたのはアマツだけなのだから、あのトラップはアマツだけに仕掛けておけばよかったわけで、俺の場合は発動しないのか。


「ありがとうございました。お車に運んでおきますね」


 品のいい店員さんがそう言うと、アジルが動き出す。

 そう、今度はアジルが服を選ぶ番だ。

 とはいえ俺のやることはなにもない、はずであった。


「ねえ、奏。この色はどうかしら? 少し派手かしら?」


 アジルの真面目さは、自分の服を選ぶ時も真剣そのものだった。

 普段どこにも出かけない生活をしているのに、そんなに服を買って何をするのだろうとは思うが、楽しそうな彼女の笑顔を見ていると茶化す気にもなれない。


「この赤は凄く濃い良い色をしている。きっとアジルに似合うと思うよ」


 赤いワンピースを指さすと、アジルは少し躊躇しているようであった。

 普段は露出を控えている彼女だが、店員にも勧められ、俺の選んだ肩の出たデザインのワンピースを試着することになった。


「ねえ奏、どうかしら?」


 試着室のカーテンが開き、アジルが照れくさそうに姿を見せた。

 彼女の白磁のような肌が眩しい。


「予想以上にその赤は似合うね。とっても素敵だよ」


 俺は素直に称賛した。

 だが、俺の目はドレスのデザインよりも、彼女の左肩に釘付けになっていた。


 一見すると、何もない美しい肌だ。

 だが、俺の強化された視覚は、その違和感を捉えてしまった。

 

 ファンデーションやコンシーラーを何層にも重ね、巧妙に隠されてはいるが、皮膚の下にうっすらと浮かび上がる幾何学的な紋様。

 左肘の義手との接合部から、肩口にかけて這い上がるように伸びる、赤黒い蔦のような影。


 その不自然なほどの厚塗りが、朝の「十分の遅刻」の理由を雄弁に物語っていた。

 彼女は鏡の前で、お洒落のためではなく、必死にこの死の刻印を塗り潰していたのだ。

 「美しさには時間がかかる」という言葉の裏にある、あまりにも切実な秘密。


(……間違いない)


 昨晩の夢で見た、「神殺しの毒」の後遺症だ。

 アマツが腕を切り落としたことで進行は止まったかに見えたが、完全に除去しきれてはいなかったのだ。

 彼女は今も、毒に蝕まれ続けている。


 なるほど。10代の若い時期を皇太子妃教育に全て費やしてでも手に入れたかった身分を諦めた理由は、それだったか。

 若い彼女の回復力を原動力にして浸透し続けるのだろう。このままでは、毒は数年で心臓に達してしまう。


「あら、見惚れてしまいました?」


 アジルがからかうように言う。

 俺は顔色一つ変えず、笑顔を作った。


「ああ。見惚れたよ。今朝食べた羊肉よりも美味しそうだ」

「はいはい、お腹が空いたってことね」


 彼女は満足そうに微笑み、再び試着室へと戻っていった。

 その背中を見送りながら、俺の中で「傍観者」でいることへの迷いが消えていくのを感じた。


「その服は俺からのプレゼントとさせていただくよ」


 そう言うと、俺はまた決済機の上に自分の手を置いた。

 予想以上の金額が決済される。そう、アジルが他に試着していた服全部を買ってしまったのだ。

 まあしょうがない。どうせこんな大金、日本に持っていったところで研究室に籠るだけだろうから使い道もないのだから。


 帰り道、俺たちは海岸沿いの景色の良いカフェに立ち寄った。

 テラス席で香り高い紅茶と、昨晩の食後にも出たバームクーヘンみたいな焼き菓子を楽しむ。夕日が海に沈みかけ、空が茜色に染まっている。


「いっぱい服買ってもらっちゃったわね」


 アジルはリラックスした表情を見せていた。


「昨晩の最高のおもてなしへの、俺なりの返礼さ。……そういえば、このお菓子、昨晩も食べたけれど美味しいよね。なんていう名前なんだ?」


 フォークで何層にも重なった断面を切り分けながら尋ねると、アジルはティーカップを置いて答えた。


「『アルク・クランツ』。バセンで今流行中の新しい焼き菓子よ。生地を何層も重ねて焼くことから『時間を重ねる』『歴史を紡ぐ』っていう意味なの」

「時間を重ねる、か。名前をつけるセンスがあるね。アジルの会話みたいだ」


 俺は、空白になってしまった自分の長い時間を密かに思い出しながら、静かに頷いた。


「あら、奏がそんなに私との会話を楽しんでくれているとは思わなかったわ」

「アジルは、俺が昔お世話になった人にそっくりなんだ。凄く頭がよくて気が利いて、人のことをよく見ている。人生でそう何人も出会えることのない、素敵な人にね」


 俺が素直な称賛を口にすると、アジルは少しにっこりと笑った。


「まあ、光栄ですこと」


 彼女は再びティーカップを手に取り、茜色に染まる海へと視線を移した。

 波の音だけが、心地よい沈黙を埋める。

 少し間をおいて、彼女がぽつりと呟いた。


「……この景色も、あと数日だと思うと名残り惜しい気もしますわ」


 最初は何を言っているかわからなかった。

 だが、少し考えて、すぐに合点がいった。


 港町であるバセンには宿だっていっぱいあるし、ジーマ家には他にも立派な屋敷があるはずだ。それなのに、わざわざ離れのようなこの別邸で、アジルと同居させた。

 そして今日、普段は屋敷から出ない彼女が、大量の「外を歩くための服」を買い込んだ。


 ……なるほど。これは一緒に旅をするための面通しであり、旅支度だ。

 彼女は、俺と一緒に日本へ行くつもりなのだ。


 詳しい事情は聞かない。聞く野暮はしたくなかった。

 彼女が辛うじてこの帝国に踏みとどまっていた理由が、もう失われてしまったのだろうことだけは察しがついた。加里奈先輩や彼女のお父上が、彼女を遠くへ逃がすための「道連れ」として俺を用意したのだ。

 そしてあわよくば、アジルを蝕むあの厄介な毒を、なんとかしてほしいという願いも込みで。


 俺は余計な詮索はせず、ただ紅茶を一口飲んで、その事実だけを静かに飲み込んだ。


「……日本には、何か楽しいものはあるのかしら?」


 海を見つめたまま、アジルが尋ねてくる。

 共に東へ向かうという前提を、互いに共有した上での問いかけだった。


「さあね。俺ももうしばらく帰っていないので、かなり変わってしまっていると思いますよ」


 俺もまた、彼女と同じ方向を見つめて答えた。

 テラスから見つめる夕日が、少しだけ目に染みた。

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