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氷の令嬢

 定期船がバセンの港に接岸すると、そこには竜宮城とは対極にある喧騒と、どこか芝居がかった独特な景観が広がっていた。


 赤茶色の煉瓦と土壁で造られた家々が、海岸線から丘陵地帯へと美しく配置されている。

 20世紀の中央アジアを思わせる乾燥したエキゾチックな街並みだが、これは観光客向けに計算して整備されたものだ。

「古き良き異国」を演出しつつ、実際は海に面した交易都市。乾いた砂の匂いと、濃厚な潮の香りが混じり合う不思議な空気が、旅人たちの旅情を誘うように設計されている。


 丘の上には、景観に配慮したデザインの巨大な白い風車が幾つも立ち並び、海風を受けて重々しく回転している。

 街中を流れる運河には、これまた観光資源を兼ねた発電用の水車が設置され、水飛沫を上げながら駆動音を響かせていた。


 一見すると、現皇帝が推し進める「文明規制派」の理想郷に見えるが、実情は少し生々しい。

 数年前、この地域一帯を襲った原因不明のマターの大規模停止ブラックアウト

 マターエネルギーの供給が突如として途絶え、都市機能が麻痺したそのトラウマが、首長以下バセン行政府を電気エネルギーへと走らせたのだという。

 皮肉にも、その「備え」が現在の皇帝の政策と合致し、バセンはモデル都市として栄えているわけだ。


 港の荷捌き場では、無骨なデザインの電気自動車が、モーター音を唸らせてコンテナを運んでいる。

 一般の民家の屋根にも、継ぎ接ぎだらけだが太陽光パネルが普及しており、市場の屋台を照らしているのも、各々が持ち寄った携帯用バッテリー式のランタンだ。

 活気はある。だが、どこかマターへの不信感と、エネルギー不足への恐怖が根底にあるような「必死さ」を感じる街だ。


 今の俺には、その熱気と必死さが少し眩しすぎた。

 隣にいるはずのシズクは、もういない。その喪失感が、ボディブローのように効いてきている。


「おぉーい! そこのお方! カナデ殿とお見受けする!」


 タラップを降り、物珍しげに街を眺めていた俺を迎えたのは、熊のように体格の良い男だった。

 日に焼けた肌に、白い歯。上質な生地の服をラフに着崩し、豪快な笑みを浮かべている。


「……ゴウキさん、ですか?」

「いかにも! ジーマ家の三男、ゴウキと申します! 加里奈様……我らが『大奥様』より連絡を受けておりますぞ。『私の大事な人を送るゆえ、粗相のないように』とな!」


 ゴウキは俺のリュックをひょいと奪い取ると、遠慮のない力強さで背中を叩いてきた。

 痛い。この体でなければ吹き飛んでいただろう。名家の人間というよりは、海千山千の貿易商といった風情だ。


「腹減ってるでしょ、美味い店ありますよ」


 俺たちはそのまま、港の近くにある大衆食堂へと入った。

 天井の高いドーム状の店内には、電気グリルの鉄板で焼かれるスパイスと羊肉の香ばしい匂いが充満している。

 高級レストランではなく、あえて地元の港湾労働者たちが使うような店を選ぶあたり、このゴウキという男、なかなかに人付き合いのツボを心得ている。


 気にはなっていたがドローンやロボットの類は少なくて、この店の中にはまったくない。看板娘が昼間からジョッキに注がれた酒を飛び回りながら運んでいた。

 出された串焼きと、昼間から米で作った酒。南部は米の名産地ということで、一歩外に出たら田園風景が広がっているらしい。

 なるほど、アマツが隠居後にここに暮らした訳が少しわかる気がする。


 俺たちは顔合わせを祝って乾杯をした。


「で、カナデ殿。日本からの迎えが来るまで、手前どもの別邸を使ってくだされ。……ただ、一つだけ厄介な先客がおりましてな」


 ゴウキは口についたタレを拭きながら、急に声を潜めた。


「我が妹、『アジル』をご存知かな? 巷では『バセンの出戻り姫』などと呼ばれておりますが」

「……いや、知らないな」


 俺が首を横に振ると、ゴウキは苦い顔で串焼きをつついた。


「そうでしたか。実は今は病気療養中ということで、隠居の身ですから。……あやつ、本来なら今頃は帝都の宮殿で、皇太子妃……いや、皇后陛下になっておるはずだったのです」

「皇后?」

「ええ。現皇帝フウガ陛下とは婚約寸前でした。陛下は今でも独り身を貫いておられますが、それは『アジルが戻るのを待っているからだ』という噂がまことしやかに囁かれているほどです」


 なるほど。皇帝の純愛、か。失恋してすぐの身には人の幸せなどまぶしくてどうでもいい話だ。

 だが、ゴウキの表情は晴れない。


「ところが数年前、隠居していたアマツ爺様が急に帝都へ乗り込んで、アジルを無理やりバセンへ連れ帰ってしまわれた。理由は不明。ただ、その道中で『暴徒』に襲撃されて……爺様は亡くなり、アジルも深手を負った」

「……深手?」

「ええ。命は取り留めましたが、それ以来、あやつは変わってしまった。帝都の華やかな社交界には戻らず、別邸に引きこもっております。……カナデ殿、貴殿はナノマシン技術に明るいと聞いております。もし機会があれば、あやつの相談相手になってやってくだされ」


 ゴウキは言葉を濁した。

 妹が皇帝の想い人ともなると、いろいろと言えない事情があるのだろう。


(数年前の事故、か……)


 ふと、先ほど見た街の景色が脳裏をよぎる。

 数年前の大規模停電ブラックアウト。そして、同時期に起きたアマツの死とアジルの負傷。

 偶然にしては、時期が重なりすぎている気がした。

 そして何よりアマツの死には、加里奈先輩の反応からして、多分に教会も言えない事情がいろいろありそうだ。


(……面倒な案件だな)


 俺は酒を流し込みながら、これ以上深入りはしないと決めた。今の俺に、他人の心の闇を照らす余裕などない。

 しかしこの体、高性能すぎて何杯飲んでも全然酔わない。

 酔いたい日もあるというのに、困ったもんだ。


 食堂を出た俺たちは、電気自動車のタクシーを拾い、高台にある高級住宅街へと向かった。

 モーターの静かな駆動音だけが響く車内から外を見ると、街灯の整備された区画と、そうでない区画の差が激しいのが見て取れる。


 ジーマ家の別邸は、海を見下ろす絶好のロケーションにあった。白亜の壁に、青いドーム屋根。手入れされた庭園。


「アジル、お客様をお連れしたぞ」


 ゴウキの案内で通されたリビングには、ソファに座って本を読む一人の少女がいた。

 俺たちの気配に気づき、彼女はゆっくりと立ち上がり、こちらを向いた。


 息を呑むほど美しい少女だった。

 濡れたような黒髪、透き通るような白い肌。人形のように整った顔立ち。

 彼女がまとっているのは、この地域の気候にはあまり合わなさそうな長袖のワンピースだ。

 歩き方も優雅そのもの。怪我をしていると聞いていたが、五体満足に見える。


「……あら、お兄様。野暮な客を連れてきたのですか? ここは見世物小屋ではないと言ったはずですが」


 開口一番、放たれたのは氷の矢だった。

 鈴を転がすような美声だが、その響きには猛毒が含まれている。


「アジル、無礼だぞ。この方はカナデ殿だ。加里奈様からの紹介で、日本へ行くまでの間、ここに滞在していただく」

「加里奈曾お祖母様の? ……ふん、どうせ『可哀想なアジルを慰めておやり』とでも言われたのでしょう。迷惑ですわ」


 アジルは俺を一瞥もしないまま、冷淡に言い放った。


「私のことは放っておいてくださる? 空気のように、存在しないものとして扱ってくれれば結構です。どうせ私も、あなたになんて興味ありませんから」


 ……なるほど。典型的な「悪役令嬢」ってやつか。

 彼女は自分を守るために、全身に棘を生やしている。

 本来ならこんな素敵な悪役令嬢、興味津々であっただろう。しかしやはりシズクがいなくなった心の隙間は大きかったようだ。大好物であるはずの悪役令嬢にピントが合わないまま挨拶は終わってしまった。


 二日が経過した。

 俺は客室を与えられた。竜宮城ではドローンやロボットが大活躍して、食事をはじめ身の回りの世話はほぼ自動化されていたが、地上では意外にも自分たちで手を動かすことが多いようだ。


 俺は特にすることもないので、屋敷内をぶらぶら見学してまわっている。

 かつてのアマツの書斎には様々な本や、アマツがつけていた日記などがあり、アジルの許可をもらって中へと入る。


 アマツの晩年の写真がいくつか飾られていた。

 晩年といってもマター技術とナノマシンで不老長寿の身であったアマツは、俺の記憶にある若い青年の姿そのままであった。年相応に見せようとして似合わぬひげなどを生やしているが、童顔であるのであまり似合ってはいない。

 いくつか家族と写っている写真もあり、ゴウキやアジルの子供の頃に一緒に撮った写真もいくつか飾られていた。


「この頃から黒髪の美少女だったのか」


 アジルの子供時代の写真を見て、きっとこの頃は素直でかわいらしい娘さんだったんだろうとつくづく思うのであった。


 朝食、昼食、夕食。

 身の安全のために外出を制限されている俺は、ほぼこの屋敷で食べることになる。

 食事を作ってくれるのは、アジルの乳母でもある老齢の侍女、ハナだ。彼女はアジルの好みと栄養を完璧に把握している。


 竜宮城で散々お世話になった調理ロボットはあるにはあるが、まったくもって活動していない。

 朝食の時にアジルに聞いてみたのだが、誰もが忙しくて手が足らないときには稼働させているが、1年のうちに数日程度らしい。

 これは中流家庭でも家庭によって月に数度など頻度の違いはあるが考え方は同じようで、大陸人は食に対して貪欲で妥協をしないので、どんないい材料を放り込んでも同じ味のものしか出してこない調理ロボットは、俺の感覚でいうファーストフードみたいなもののようだ。


 三日目の夕方。キッチンに立っていたのはハナではなく、アジル本人だった。


「……何を見ているのです?」


 俺が入口で立ち尽くしていると、エプロン姿のアジルが包丁を持ったまま振り返った。

 普段の洒落たワンピース姿とは違う、家庭的な装い。美人なので何を着ても似合う。竜宮城ではみんな同じ作務衣を着ていたのでこの時代には着飾ったりしないのかと思っていたが、いろいろあるじゃないか、服。


「いや、珍しいなと思って」

「たまには私が作らないと、ハナたちが休まらないでしょう?」


 なるほど、今日は彼女たちをアジルがもてなす日なのか。


「へえ……。何か手伝おうか?」


 その気もないのに言ってみたが、即座に拒絶された。


「邪魔になります。とはいえその心意気は認めますので、せめてそこで私を褒めてやる気を出す手伝いでもしていなさい」

「褒めて伸びるタイプなのね」


 相変わらずの毒舌だが、少しは会話が成立するようになっただけ進歩か。

 俺は言われた通り、後ろから彼女の作業を眺めることにした。

 実を言うと、部屋で一人きりでいるとシズクのことばかり考えてしまう。こうして誰かの気配を感じられるだけでもありがたい。


 アジルは器用に大きな魚を捌いていた。

 トントン、とリズム良く包丁が動く。手つきは手慣れている。


 だが、俺は見逃さなかった。

 硬い骨を断ち切ろうと、彼女が左手で魚を押さえつけ、グッと力を込めた瞬間。


 ――ピクリ。


 彼女の左肘から手首にかけての筋肉の動きが、ほんの一瞬だけ「遅延」した。

 人間なら、力を入れる瞬間に筋肉が収縮し、腱が浮き出る。だが、彼女の左腕は、皮膚の下で何かが駆動音もなくスライドしたような、生物的ではない挙動を見せた。

 そして彼女の眉間に、隠しきれない痛みが走る。


(……なるほど。そういうことか)


 アジルの左ひじから先の腕と、右ひざから下の足は義手と義足だ。

 竜宮城でナノマシン医療の進化を調べていた際に、義肢技術関連も確認していたが、ここまでの精巧な技術はなかなか見つけられなかった。

 教会で施術したものはすべて残されているはずなので、アジルの施術は教会関係者ではない闇の腕利き技師に頼んで作ってもらったのだろう。


「……器用なものだな」


 俺が声をかけると、アジルは痛みを隠すようにフンと鼻を鳴らした。


「これくらい帝国淑女なら当たり前です」


 強がり。だが、その強がりこそが彼女を支えている。


 夕食の時間になった。

 ハナをはじめとする三人の使用人たちも、テーブルの末席に座った。

 そう、これはアジルが日頃の感謝を込めて主催する、定期的な夕食会なのだ。


 それぞれのテーブルに、アジル自身が給仕して回る。

 当然、俺のところにも。

 スパイスをふんだんに使って油で揚げた魚とサラダ、そして魚のアラからしっかり出汁を取ったスープ。

 見た目にも香りも美味しい、素晴らしい料理だ。


 配膳が終わると、全員で三女神に対して感謝を述べ、食事会が始まった。

 普段はツンケンしているアジルも、この場ではホスト役に徹し、使用人たちとの会話を楽しんでいる。

 おかげで俺も気まずい思いをせずに済んでいる。いや、そうなるように彼女が気を遣っているのだ。

 やはりただの我儘な悪役令嬢ではない。気遣いのできる、素敵な貴婦人なのだ。


 スープを一口飲むと、とても深い味がして懐かしい感覚が蘇った。

 これを味噌汁にしたらもっといいのだろうが……いや待てよ、この時代の日本に味噌はあるのだろうか?


「ものすごく美味しい。懐かしいふるさとを感じる」


 俺が思わず呟くと、アジルが反応した。


「奏の故郷は日本なのかしら?」

「ええ、日本です。もう長い間帰っていないので今どうなっているかもわかりませんけれど、このスープを飲んだら故郷の祖母が作ってくれた懐かしいスープを思い出してしまいました」


 そのほかの料理もとても美味しく、使用人とアジルの会話も弾んでいてとてもいい雰囲気だ。

 だが、アジルの目は笑っていない。しっかりと全体を見渡し、接客をしている。

 まだ若いのに、しっかりとした統率者だ。


 すると、若い使用人の一人、ミナが俺に話を振ってきた。

 そういえば今、俺は絶世のイケメンの姿をしているのを忘れていた。


「奏さんは独身なのですか? 彼女とかはいないんですか?」


 竜宮城ではシズクががっちりガードしていたので、あまりこの手の話は聞かれたこともなかったが、年頃の娘さんなら気になっても仕方ない。

 しかしこれも悪魔の質問だ。「いる」と答えてもしらけるし、「別れたばかり」と答えてもいらぬ詮索をされてしまう。

 あと一週間ほどしか滞在しないイケメンなど、一夜の恋をするには最適な相手であろう。しかしシズクを失った寂しさを引きずっている俺には、そんな気分になれない。


「……日本に待ってくれている人がいますので」

「まあ、うらやましい方ですこと」


 ここから根掘り葉掘り聞かれるかもしれない。あまり乗り気でもないなと思っていた時、すかさずアジルからフォローが入った。


「そういえば奏。あなたは竜宮城ではどんな研究をしていたの?」


 普段の冷淡さからは想像もできない、見事な助け船だ。

 その場をしらけさせず、しかし俺の体に興味津々な使用人たちも飽きさせず、答えたくないと遠回しに言った俺の意図を汲み取って、さらりと話題を変えてくれたのだ。

 なかなかできることではない。やはり皇帝はこの人を妃としたいだろうなと思わせるだけの、機転と知性を感じる。


「ナノマシンを使った置換治療とか言っても、なかなかわかりにくいですよね」

「奏は曾祖母の信頼の厚い素晴らしい研究者と聞いております」


 今までの経験上、合コンでこんな話を出しても誰も興味を持ってくれなかったが、使用人の娘さんたちは目を輝かせて聞いてくれている。これがイケメン効果というヤツか。

 しばらくナノマシン置換治療について、できるだけわかりやすく説明をして、食事会はお開きとなった。


 俺は手を合わせてご馳走様を告げると、使用人たちと片付けを始めた。


「あとは我々でやりますので、お嬢様へお茶を持っていってください」


 ハナからお盆に乗せたお茶とお茶菓子を渡されたので、それを持ってテーブルへと戻った。

 アジルにお茶とお茶菓子を渡し、自分も向かいの椅子に座る。

 ハナ以外の使用人は退室し、この場には俺とアジル、そして控えているハナの三人だけとなった。


 アジルは珍しく、少し楽しげな顔をしていた。


「このお菓子、今話題のなの」


 ぱっと見バームクーヘンみたいな感じのしっとり系の菓子だ。

 確かにここ数日食べた菓子はカリっと揚げていたりクッキーのような硬い菓子ばかりなので、この手のしっとり系は珍しいのだろう。


「ほどよく甘さ控えめだから小麦の甘味が感じられる。太陽の味ってこんな感じなのかな?」

「まあ、素敵な表現」


 悪役令嬢の仮面を被っていないアジルとの会話は最高だし、笑顔もとても素敵だった。確かにこの娘なら皇帝くらいころりと落とせるだろう。

 それなのに人前に出ることをやめたのは、完璧主義者すぎて義手や義足を気にしてのことだろうか?

 しかしおかしい、このレベルの義手や義足は普通には見分けがつかないし、スポーツ選手とかでない限り普通に生活するには十分すぎる機能を持っているはずだ。


(彼女が帝都にもどらない理由はなんだろう?)


 だがしかし、アジルにも聞かれたくないことはあるだろう。

 本来こんな素敵な娘さんなのに敢えて棘を出して威嚇していたのは踏み入るなというサインでもあるし、今日は機嫌もよさそうなので楽しい一日で終わらせてあげたい。

 何より俺自身、この食事中はシズクのことを思い出さずに済んだくらいに満喫していたのだ。

 アジルのもてなし力に感謝。


「アジル、今日は本当にありがとう。とても素敵な夕食でした」

「どういたしまして、おやすみなさい、奏」


 部屋に戻り備え付けの風呂へと入る。

 体を洗い流し浴槽へと入る前に一応マター管を確認する。


「マターは来ているがお湯を沸かす以上の出力は取れないな」


 アジルの左腕のことを考えていた。

 あれほど素晴らしい義手を作れる技師であれば接続を失敗することもないはずだが、しかしアジルの左腕には多少の違和感がありそうなぎこちなさを時折見せていた。

 三日間居て初めて気付いたというのは研究者としての観察能力を問われるところで反省しなければならない。

 しかし何か助けて欲しいと言われたわけでもないのに相手が隠したがっていることをドヤ顔で暴くほどみっともないことはない、それにプライドの高いアジルには逆効果だろう。


 お湯に浸かりながら天井を見上げていた。

 研究室の無機質な天井とは違い、ここは風呂場の天井ですら細工に凝った作りになっている。

 思えば病室とか研究室とか極限状態とか、そういうのと無縁な場所にいるのは何年振りだろうか?

 ベッドに入り目を閉じると今日の夕食が意外と自分には楽しくて心地よかったのだと気付いてしまった。

 シズクのいないベッドにももう慣れなければいけないし、日本につけばおそらくまた無機質な毎日なのだろう。そう思うとここの残り数日は今日のように過ごしたいと思いながら眠りについたのだ。

 もう夢なのかもとか、目覚めないのかもという不安もない、夢の中ではまだこの時代のアレコレが再生されてはいるが以前ほど多くもない。

 深い眠りの淵に落ちていく。


 いつもとは違う、何かの録画再生のような夢をみた。


「アジル、皇后になるにふさわしい力をお前に譲りたい」


 そういうとアジルを連れ出してどこかへ移動して、この建物ではないどこか、管理者権限でしか開かない秘密の扉。

 中には今はこの周辺のマター増殖炉としてしか活用されていない、青と金で彩られた鎧に身を纏った風のドラゴン。


 アジルをコックピットに乗せて管理者権限にてアジルの右足と風のドラゴンの生体情報をリンクさせドラゴンを起動した。

 アジルの周囲にはドラゴンから発せられるマターが一気にまとわりつき、そして金色の光に包まれていく。

 アジルの体が一気に分析され、そしてマターに置き換わり再構築されているのだ。


(なんだこの光景は?)


 数分の後、髪の毛は金色になり肌はより透き通るような白になり、目が赤くなっているアジルの姿があった。


「これで、お前は不老長寿の体を手に入れた。もう一つこの世を管理する絶大な権限をお前に託す」


 そういうとアマツは自分の左手の平を光剣で切り落としアジルの左手の平に重ねてマターを発動させた。

 だがしかし、そこで異常が発生したのだ。

 アマツの遺伝子とアジルの遺伝子には共通性が多いのでゴリ押しできると踏んだアマツの誤算、それはシャイナの認証セキュリティの発動であった。


「神殺しの毒!」


 見る見るうちにアジルの左腕に毒が回っていく。

 慌ててアマツは自分の光剣でアジルの左腕を切り落とすが浸食は止まらない。

 アマツはとっさに気付いたのだ。神殺しの毒は、騎士の回復力を利用して一気に体を蝕んでいくのだと。

 今現在、自分自身の体もその超絶な回復力の勢いで毒に侵されていく。


 慌ててアマツは風のドラゴンとアジルとのリンクを切断するためにアジルの右足も切り落とし、アジルを抱きかかえて扉を抜け、建物の外へと出たところで力尽きた。

 そこに待機していたのは使用人のハナ。


「なんてことだ」


 気が付けば朝だった。

 爽快な気分で寝たはずが夢のせいでモヤモヤした朝となってしまった。


「昨日アマツの部屋で見た何かがトリガーだったんだな」


 しかし今の俺ではなんともしてあげることはできない。

 アジルからこの件について相談されるほどの信頼はあと数日で得られようもないし、もし相談されたとてこの内容であれば俺の対処できる範囲を超えてしまっている。

 とりあえず着替えて朝食を食べることにした。


 すでにアジルが朝食を食べていた。


「アジル、おはよう。昨日は楽しかったのでぐっすり眠れたよ、ありがとう」

「奏、よく眠れたみたいでよかったわ。おはよう」


 アジルもご機嫌よさそうである。

 棘がなくなったというのは信頼されたというわけではなく、ちゃんと距離感がつかめる人間だということを確認したにすぎない。

 ここから何年もかけてそれを信頼にまで昇華させないとおそらく夢の中のような重要な機密は共有されない。


 これ以上は踏み込まない、踏み込めない。

 そう言い聞かせて日本からの迎えをただ待つのみである。

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