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国家が撃った日

作者: 仲村千夏

 2×××年某日。

 呉の朝は、いつも静かだ。

 瀬戸内の海は外洋と違い、荒れることが少ない。湾内に広がる水面は、まるで何事も起きない世界のように穏やかで、その奥に横たわる巨大な艦影だけが、場違いな異物として存在していた。


 私は艦橋の窓から、その船体を見下ろしていた。


 戦艦“日出(ひいづる)


 艦名が正式に発表されたとき、艦内で歓声が上がることはなかった。ただ、誰もが一瞬、言葉を失った。

 古い名だ。あまりにも古く、重すぎる名だった。


 全長二百八十メートルを超える船体。排水量十万トン。

 かつての戦艦大和の艦影をなぞるような輪郭を持ちながら、寸法も質量も、すべてが常識の外側にある。


 甲板上に並ぶ三基の巨大な砲塔――五十一センチ三連装砲。

 数字で理解したつもりでも、実物を前にすると脳が拒否する。

 これは武器ではない。

 そう思った瞬間、自分の考えを即座に打ち消した。


 武器だ。

 人を殺すための、国が選んだ道具だ。


 私は戦艦の副長として、この艦に乗り込んでいる。

 だが正直に言えば、今でも自分がこの艦に相応しいのか分からない。


 出航準備は滞りなく進んでいた。

 岸壁では、制服姿の自衛官と作業員が最後の点検を行っている。整然とした動きだ。誰一人として無駄な動作はない。

 だが、その顔に浮かぶ表情は、どこか硬い。


 期待とも、誇りとも、恐怖ともつかない。

 それらが混ざり合った、名前の付けられない感情。


 ――これは船ではない。


 そう思ったのは、何度目だろうか。


 艦内に足を踏み入れた最初の日から、私はずっと同じ違和感を抱えている。

 艦内構造は合理的だ。最新の自動化、AI補助、そして核融合炉による推進。理論上、三十ノットでの巡航が可能だという。

 だが、それらの説明をどれほど重ねても、心の奥で拭えない感覚があった。


 この艦は、戦うために作られたのではない。


 ――示すために作られたのだ。


 何を?

 国の意思を。

 覚悟を。

 そして、引き返せないという事実を。


 艦橋後方で、艦長が静かに双眼鏡を下ろした。

 彼は何も言わない。だが、その背中は迷いを感じさせなかった。


 私は敬礼し、定位置に立つ。


「副長、各部署より出航準備完了の報告が上がっています」


「了解」


 声は自分でも驚くほど落ち着いていた。

 感情を外に出す役目ではない。副長とは、そういう立場だ。


 通信士官が控えめに声をかけてくる。


「海外メディアの速報が入っています。……またです」


 私は一瞬、視線を向けるだけで、続きを促した。


「『旧時代の亡霊』『戦艦という時代錯誤』……いつもの論調です」


 艦内に小さな失笑が広がる。

 だが、誰も声を上げて笑わない。


 世界は、この艦を理解していない。

 それでいい。理解される必要はない。


 反物質装甲装置――その存在が公式に認められた瞬間、軍事バランスという言葉は意味を失った。

 撃沈されない艦。

 破壊できない船体。


 その答えとして選ばれたのが、戦艦だった。


 なぜミサイルではないのか。

 なぜ空母ではないのか。


 答えは単純だ。

 見えるからだ。


 戦艦は、隠れない。

 堂々と姿を晒し、問いかける。


 ――それでも来るのか、と。


 汽笛が低く鳴り響いた。

 呉の空気が、わずかに震える。


 岸壁の向こうに、人々の姿が見える。

 敬礼する者、黙って見つめる者、スマートフォンを構える者。


 私はその全てを、正面から受け止める。


 この艦は、まだ何も撃っていない。

 それでも、すでに世界を揺らしている。


 ゆっくりと、しかし確実に、日出は動き始めた。

 呉の海を離れ、外の世界へ向かって。


 私は知っている。

 この航海が「訓練」で終わる保証など、どこにもないことを。


 そして、いつか必ず――この艦は、撃つ。


 そのとき、自分はどんな声で命令を復唱するのか。

 考えないようにしても、その問いは消えなかった。


 静かな瀬戸内の海を背に、

 戦艦《日出》は、ゆっくりと呉を出航した。


 外洋に出た《日出》は、予想以上に静かだった。


 核融合炉が生み出す膨大なエネルギーは、振動という形ではほとんど表に出ない。艦は十万トンの質量を感じさせない滑らかさで海面を切り、速度を上げていった。

 三十ノット。

 数値だけ見れば、駆逐艦や巡洋艦の領域だ。それをこの巨体でやってのけている事実に、改めて背筋が冷える。


 艦内は、奇妙なほど日常的だった。


 当直、点検、訓練、食事。

 どれも見慣れた艦務だ。

 違うのは、天井の高さと通路の幅、そして何より、常にどこかで感じる圧迫感だった。


 艦が大きすぎるのではない。

 背負っているものが重すぎるのだ。


 ブリーフィングルームでは、各部署からの報告が淡々と続いていた。


「主砲自動装填装置、動作良好。単砲射撃・連続射ともに問題なし」

「反物質装甲装置、通常稼働域を維持」

「推進系、出力余裕あり」


 どれも教科書通りの言葉だ。

 だが、その一言一言が、世界の常識を踏み潰していることを、報告している当人たちも理解している。


 休憩時間、士官食堂で部下たちの会話が耳に入った。


「海外じゃ、また“亡霊”扱いですよ」

「そりゃそうだろ。戦艦なんて、博物館行きの存在だ」

「博物館に入らないサイズですけどね」


 乾いた笑い。

 誰も声を荒らげない。

 怒る価値すら、感じていないのだ。


 世界の反応は、ほぼ一様だった。


 ――日本は過去に戻った。

 ――大艦巨砲主義の復活。

 ――時代錯誤の象徴。


 それらの見出しが、艦内モニターに流れる。

 私はそれを見て、否定もしなかった。


 間違ってはいない。

 過去に戻ったのではない。過去を連れてきたのだ。


 戦艦という形をした、問いを。


 なぜ戦艦なのか――その答えを、私は説明できる立場にある。


 反物質装甲装置。

 あらゆる運動エネルギーと爆発エネルギーを相殺し、理論上、通常兵器による破壊を不可能にする防御機構。


 それが完成した瞬間、軍事の前提は崩れた。


 「沈まない艦」が存在するなら、それは最も“目立つ”形であるべきだった。


 隠れる必要がない。

 逃げる必要もない。


 戦艦は、逃げない。


 それが、この艦に課された役割だった。


 訓練航海の名目で、《日出》は複数の海域を巡った。

 レーダー、ソナー、通信、全てが監視されている。

 世界中の衛星が、この艦を追っているのは明白だった。


 それでも、艦長は一切の針路変更をしなかった。


 正面から進む。

 それが、この艦の外交だった。


 ある夜、艦橋で当直についていたとき、通信士官が声を落として報告した。


「副長、中国海軍の艦隊行動が活発化しています。威力偵察と見られます」


 私は黙って頷いた。

 予想されていた動きだ。


 世界は、この艦を笑いながら、同時に恐れている。

 そして恐れは、必ず確認という行動を生む。


 艦内に、目に見えない緊張が広がっていく。

 誰も口にしないが、全員が理解していた。


 これは訓練で終わらないかもしれない。


 砲塔区画を巡視したとき、私は一瞬、足を止めた。


 五十一センチ砲。

 その装填機構が、静かに待機している。


 発射されれば、砲弾は数分で二百キロ先に到達する。

 命中精度は、もはや偶然の域ではない。


 ――これを、撃つ日が来る。


 その事実が、胸の奥に沈殿する。


 私は軍人だ。

 命令を疑問なく遂行する訓練を受けてきた。


 だが、この艦は違う。

 この艦が撃つということは、世界が一つ、前提を失うということだ。


 夜、艦橋の照明が落とされ、暗闇に包まれる。

 窓の向こうには、何もない海が広がっていた。


 艦長が、ぽつりと呟いた。


「副長。世界は、まだ我々を試しているな」


「……はい」


 それ以上、言葉は要らなかった。


 試されているのは、艦ではない。

 この国の覚悟だ。


 そして、その覚悟の先にあるものを、

 私たちは、まだ知らない。


 《日出》は静かに進み続ける。

 嘲笑と監視と恐怖の視線を、一身に浴びながら。


 この航海が、最後の平穏であることを、

 誰もが薄々感じていた。


 戦艦日出は、坊津岬沖の定点を外れずにいた。


 中国艦隊は依然として進路を変えない。

 こちらの存在を確認したうえで、なお踏み込んでくる。


 艦橋に、低い電子音が響いた。


「……来ました」


 通信士の声がわずかに震える。


 私は即座に理解した。

 現場判断の段階は、終わったのだと。


「国家安全保障会議、緊急決定事項。内閣総理大臣名にて、通達」


 艦内が、静まり返る。


 モニターに映し出された文面は、簡潔だった。


『当該中国艦隊の行動は、我が国の安全に対する明白かつ差し迫った脅威と認定する。外交的手段は尽くされ、警告は十分に行われた。よって、必要最小限の武力行使を承認する』


 続いて、別回線が開く。


「こちら、海上自衛隊司令部」


 声の主は、最高司令官だった。


「戦艦日出艦長。政府決定を受け、当司令部より正式に命令する」


 一拍。


「――主砲使用を許可する。目標は、中国海軍威力偵察空母。手段、戦艦日出の判断に委ねる」


 私は、無意識に拳を握っていた。


 これは、単なる戦闘ではない。

 国家が、世界に示す意思そのものだ。


 艦長は一瞬だけ目を閉じ、そして開いた。


「了解」


 その声には、迷いがなかった。


「戦艦日出、命令を受領」


 艦長は艦橋を見渡す。


「これより本艦は、政府および海上自衛隊司令部の命令に基づき、武力行使を実施する」


 私は副長として、一歩前に出る。


「副長、各部署状況を報告します。主砲管制、異常なし。反物質装甲装置、全周安定稼働。核融合炉、出力余裕あり。全砲、即応可能」


 完璧だった。


 まるでこの瞬間のために、存在していたかのように。


「なぜ戦艦なのか」


 かつて、誰かがそう言った。


 その答えが、今ここにある。


 撃たれることを恐れず、逃げず、隠れず、国家の責任を一身に引き受けて撃つ兵器。


 それが、戦艦だ。


 外交回線が最終的に切断された。


 中国側の返答は、すでに記録されている。


「やれるものなら、やってみろ」


 世界中が、この瞬間を見ている。


 艦長が、短く命じた。


「主砲使用を具申」


「具申します」


 私は即答した。


「政府および司令部命令に基づき、主砲使用は妥当。目標の排除は、必要最小限の武力行使として成立します」


「よし」


 艦長は、決断した。


「戦艦日出、主砲使用」


 艦橋の空気が、張り詰める。


「二番砲塔、中間砲。単発」


 九門のうち、たった一門。


 だが、それで十分だ。


「照準固定」


「装填完了」


 自動装填装置が、淡々と仕事をこなす。

 人の感情など、一切介在しない。


「発射準備完了」


 私は、息を止めた。


「撃て」


 その瞬間、

 世界が、音を失った。


 51cm砲弾は、咆哮すら置き去りにして飛翔する。

 ロケット推進により加速し、弾道を自ら修正しながら、二百キロ先へ。


 それは、落下ではない。


 裁定だった。


 数分後、観測映像が艦橋に映し出される。


 中国空母。

 中央部に、一直線の閃光。


 次の瞬間――艦体が、構造を保ったまま真っ二つに割れた。


 爆沈ではない。

 粉砕でもない。


 切断。


 巨大な艦が、理解する間もなく沈んでいく。


 艦橋に、誰一人として声を発する者はいなかった。


 私は、ただ思った。


 ――これは、個人の意思ではない。

 ――艦の判断でもない。


 国家が、撃ったのだ。


 そして世界は、再び理解することになる。


 戦艦とは、過去の遺物ではない。

 最終的に、責任を引き受けるための存在なのだと。


 戦艦日出は、進路を保ったまま、次の命令を待っていた。


 砲撃後、戦艦日出はその場を離れなかった。


 沈没していく中国空母を背に、進路も速力も変えず、ただ海上に存在し続ける。

 それが、政府と司令部から与えられた最後の命令だった。


「現場海域に留まり、状況を監視せよ」


 逃げない。

 隠れない。


 戦艦とは、そういう存在だ。


 世界は即座に反応した。


 各国政府からの声明が、次々と回線を埋めていく。


 「深い懸念」

 「重大な関心」

 「事態を注視」


 どれも、責任を負わない言葉ばかりだった。


 ただ一つ、はっきりしていたことがある。


 ――どの国も、日本を非難しなかった。


 外交記録に残る事実は単純だ。

 警告は十二回。

 外交確認は六回。

 最後通告は、公式に世界へ公開された。


 そして撃ったのは、一発だけ。


 過剰でもなければ、曖昧でもない。

 誰が見ても、必要最小限だった。


 私は艦橋を離れ、夜の甲板に出た。


 風は冷たく、海は驚くほど静かだった。

 昼間の出来事が、嘘のように。


 巨大な艦影が、月明かりに浮かび上がる。


 十万トン。

 51cm砲。

 反物質装甲。


 世界最強の兵器。


 だが、触れてみると分かる。

 鋼鉄は、ただの鋼鉄だ。


 この艦を“怪物”にしたのは、技術ではない。

 撃つと決めた、人間の意思だ。


 艦長が、甲板に現れた。


「眠れんか」


「はい」


 それ以上の言葉は、いらなかった。


「……副長」


 艦長は、海を見つめたまま言った。


「これで、溝は決定的だな」


「はい」


 日中関係は、元には戻らないだろう。

 だがそれは、今日始まったことではない。


 今日、終わっただけだ。


「だが」


 艦長は続ける。


「次に同じことをしようとする者は、必ず躊躇う」


 私は頷いた。


 51cm砲の威力ではない。

 反物質装甲でもない。


 撃つ覚悟があることを、世界に示した。

 それが、最大の抑止だ。


 通信士から連絡が入る。


「司令部より。

 戦艦日出の行動は、国際法上正当と確認されました」


 責任は、艦には降りてこなかった。


 それでも――背負うものが、消えたわけではない。


 私は、もう一度海を見た。


 あの空母にも、乗員がいた。

 家族がいた。

 それは、事実だ。


 戦艦は、感情を持たない。

 だが、乗っている我々は、違う。


 だからこそ、戦艦は必要なのかもしれない。


 軽々しく撃てないように。

 撃ったあと、眠れなくなるように。


 遠くで、日付が変わる。


 新しい一日が始まる。

 だが、世界はもう、同じではない。


 戦艦日出は、静かに航行を続ける。


 逃げず、隠れず、ただそこに在り続ける。


 それが、この艦に与えられた役目だからだ。


 私は、敬礼し、艦橋へ戻った。


 ――次の命令が下るまで。

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