94 レグネル・ケーレス 十八歳
「エルヴィお嬢様の様子がおかしいんです」
庭で走りこんでいるエルヴィを屋敷の中から窓越しで眺めながら、俺の隣で心配そうにローズはそう口にした。
「エルがおかしいなんていつものことだろ」
「それはそうですけど……、最近は特段おかしいんです。殿下に呼び出され、王宮から戻ってきた次の日ぐらいから人が変わったようです。毎日、ブツブツと呟きながら分厚い本を読み漁って、訓練場にもいかなくなってしまわれて……。その代わりに、家での体力作りが増えましたが……」
「……ヴィナスと喧嘩でもしたんじゃないか」
俺は適当なことを言った。もちろん、ローザは納得いっていないようだったが。
……ヴィナスがエルヴィと婚約を解消したことは俺は知っている。
貴族議会のみが知る極秘情報だ。公になっていないし、絶対に口外してはならない。
俺はヴィナスから直接その話を聞かされた。
最初聞いた時は、憤りを抱き、ヴィナスを殴ろうかと思った。ヴィナスの胸倉を掴むまではした。……が、俺にはあいつを殴れなかった。
冷徹で高貴な仮面が剥がれた瞬間を初めて見た。ヴィナスの瞳には感情を押し込んだ悲嘆を感じ、彼の唇は血が滲むほど噛みしめられており、苦痛と悔しさが伝わってきた。
責めることなどできなかった。
光を失ったヴィナスの目を見て、俺は何も言えなかった。
「……本当にどうしちゃったのかしら、お嬢様」
ローズは独り言を呟きながら、廊下掃除を再開し始めた。
まだ俺は汗をかきながら全力で走り込んでいるエルヴィを見ていた。
エルヴィがヴィナスに婚約破棄されてから少しして知ったことがある。
貴族議会でエルヴィが言い伝えの少女と言う発表をされる予定だった。それがなくなったのだ。
勇者になっていれば、間違いなく発表されていただろう。だが、それはもうヴィナスが阻止した。だが、エルヴィは実力で王宮騎士団に入ってしまった。
それがまずかった。さらに、最後の決め手が、第一王子の婚約者だということ。
第二貴族でありながら、ヴィナスと婚約した。本来ならあり得ない話だ。新たな時代を切り開く先駆者のように世間には映る。
言い伝えの少女だと公表されれば、エルヴィの人生は潰れる可能性がある。そして、同じオレンジ色の瞳を持つ祖先について知るだろう。
彼の存在については、いつかは知ることになる。……だが、まだ早い。
ヴィナスはエルヴィの自由な人生を守ろうとしたのだ。自分の想いを犠牲にした。たいした男だ。
エルヴィはきっとヴィナスの考えに気付いていない。
……それなのに、なぜ彼女は怒りも悲しみも見せないんだ?
ローズの言う通り、本当に人が変わったようだ。
あの日――エルヴィがヴィナスに呼び出された日、いつもと変わらない様子で家に帰ってきた。しかし、次の日からは様子が変だった。
まるで勇者試験前のエルヴィに戻ったようだ。
エルヴィの澄んだ瞳からは静かな熱意を感じた。迷いのない目標を見据えたその様子に俺は何も言えなかった。
こうして、黙って妹を見守ることしかできない。
エルヴィとヴィナスにとって良い未来が来ることを願っている。




