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当時、私はあの女の子と一緒に幸せに過ごせる世界を守りたいと思い、そのために勇者になろうと決意したのだ。
どうして世界を守るという経緯になったのかは覚えていない。けれど、これだけははっきり言える。勇者を目指したのはヴィナス――おねえちゃんがきっかけだ。
当時の私にとって、あのおねえちゃんとの日々がかけがえのない大切な宝物だった。
全てを忘れても「勇者になりたい」という強い意志だけは残っていた。
その想いを糧に私は突っ走ってこれた。動機を忘れても、その信念だけは決して忘れることはなかった。
「ヴィナス様」
私は顔を上げて、熱のないヴィナスの目を見据えて、はっきりと彼の名を呼んだ。
ヴィナスは突然私の様子が変わったことに少し驚いたようすだったが、すぐに「なんだ?」と無表情に戻る。
ひどいと言って泣き喚いても良かった。どうしてと言って怒鳴っても良かった。……けれど、私はそんなことはしない。
「また花冠を作ってください」
私はヴィナスに満面の笑みを浮かべてた。
懐かしさと切なさが混じり、泣き笑いのような表情になっていたかもしれない。けれど、そこには紛れもなく純粋な嬉しさもこもっていた。
『君が喜んでくれるのなら、何度だって作るよ』
おねえちゃんが初めて花冠を作ってくれた時に私の喜ぶ笑顔を見て、そう言った。
…………あれは、ヴィナスだったんだ。
幼き私たちは、自己紹介をしなかった。だから、お互い何者かを知ることはなかった。
お別れをしたら、もう探すことはできない。そんな頼りなく脆い繋がりだった。だけど、私たちの中では深く強い何かで結ばれていた。
私はいつの間にか記憶を失っていたけど、少しずつ思い出すことができた。
そして、こうしてまた再会することができるなんて思わなかった。
私の言葉を聞いた瞬間、凪いでいたヴィナスの瞳が大きく揺れた。後ろに立っているサラも目を丸くして私を見ていた。
「そんなことがあるはずが……」
サラの掠れた声が静寂の中で小さく響いた。ヴィナスは固まったまま、瞬きを忘れて私を見ていた。
ようやく感情を露わにしてくれた。冷静沈着王子を崩せた。
「短い間でしたが、ヴィナス様の婚約者になれて幸せでした」
私は完璧な所作で丁寧にヴィナスに頭を下げた。
不思議なものだ。別れが惜しいなんて。……それほど、私はヴィナスを尊敬して、憧れて、好意を寄せていた。
ヴィナスとの婚約を最初嫌がっていたとは思えない自分の感情に自分でも驚く。
数秒して、私は頭を上げて「では、これで」とその場に立ち上がり、部屋を出た。ヴィナスは私の方を見なかった。ただ茫然としてソファに座ったままだった。
私は鼻歌を口ずさみながら、軽い足取りで王宮の廊下を歩く。
ヴィナス、今度は私に振り回されて。




